森に棲む魔女と、森に迷いこんだ男の子のおはなし
この世界のどこかにある、深い森の中。
その森の奥には、はるか昔から魔女が棲んでいると言われていました。
それ以来、その森には誰も近寄らなくなったそうです――。
*
そんな誰も訪れない森に、冬の季節がやって来ました。森は雪に覆われ、一面の銀世界が広がります。森の奥にぽつんと建つ小さな木造小屋にも、屋根に雪が積もってはゆっくり下へと崩れていいきました。
「へくしっ」
小さなくしゃみをして、少女――マシロはベッドからそっと半身を起こしました。
朝の肌寒さに身を震わせながら、マシロは目を細め、窓から外の景色を眺めます。夜明けと同時に、白い雪が陽光できらきらと輝くのを小屋の窓から眺めるのが、彼女の冬の楽しみでした。
ところが、その日はいつもの雪景色とは異なり、雪の上で小さな人影が倒れていたのです。それに気づいたマシロは、ベッドのそばに立てかけていた魔法の杖を手に、外へと駆け出して行きました。
「た、たいへん!」
小屋の扉を勢いよく開けたマシロは、ブーツで雪を踏み締めながら、人影の元へ駆け寄りました。人影はよく見ると、自分よりも一回り小柄な男の子でした。オレンジ色のジャンパーに、ねずみ色のズボンを着た黒髪の少年は、目を閉じたまま動きません。
「ねえきみ、大丈夫!?」
マシロがそっと男の子を抱き抱えると、雪のように冷たくなっていました。マシロはおろおろしながらも、黒い魔法の杖の先端を少年の頬に向けます。そのまま早口で呪文を唱えると、男の子の身体はふわりと宙に浮き、開けてあった扉から小屋へと入っていきました。
「落ち着いて。きっと、この子は大丈夫だから」
マシロは自分にそう言い聞かせると、男の子に続いて小屋へと戻っていきました。
*
宙に浮かんだ男の子は、マシロが眠っていたベッドの中に音もなく入って行きました。
部屋に戻ったマシロは、魔法の杖を高く掲げ、呪文を早口で唱えます。すると、部屋の暖炉に火が点り、茶を入れていたポットから白い煙が立ち上りました。
さらに、杖の頭にある紫色の真珠が光り輝くと同時に、マシロが纏っていた白いパジャマが、黒いローブへと姿を変えました。腰まで伸びた彼女の白銀色の髪も、寝グセが整えられ、ポニーテールにまとまっています。
「とりあえず、あったかいものを用意しなきゃ……次は、と」
マシロはキッチンへ慌ただしく移動すると、そこにあった野菜とバターへ杖を向けました。
人参やじゃがいもは一口大に、玉ねぎは薄切りに切り分けられ、宙に浮かびました。魔法で熱していたフライパンに野菜とバターを入れて、そのまま炒めていきます。
「えっと、まずはこれで。それから」
「うぅ……」
マシロが次の準備を進めようとした時、ベッドに寝かしていた男の子がゆっくりと目を覚ましました。そのことに気づいたマシロは、ほっと胸を撫で下ろし、ベッドの上の男の子に向かって、朗らかな笑顔を向けます。
「あっ、気がついた! 良かった。待っててね、今おいしいものを……」
「う、うわあ! ま、魔女!」
男の子は驚きと恐怖に満ちた目でマシロを見上げると、ベッドから勢いよく起き上がりました。その様子を見たマシロも、思わず声を上げます。
「だ、ダメだよ! 急に起きちゃ」
「く、来るな。魔女。おれは、おれは……!」
男の子は首を横に振り、声を震えさせます。マシロが男の子へ声をかけようとしたその時、フライパンから赤い炎が燃え上がりました。マシロと男の子は、同時にフライパンへ顔を向けると同時に、目の前の状況に混乱していきます。
「あ。ど、どうしよう。火加減の調整に、失敗しちゃってる!」
「おい魔女、何とかしろよ!」
「何とかって言われても……魔法で何とかするから!」
マシロがフライパンへ魔法の杖をかざすと、炎は少しずつ消えていきました。変わりに、黒い煙が台所一帯に漂っていきます。
「うわ、焦げ臭……ちょっと何やってんだよ、見せろ」
「ま、まだ起きちゃダメだって」
「言ってる場合じゃねえから!」
ベッドから台所へ移動する男の子を止めようと、マシロは台所から足を踏み出します。その後ろで、フライパンから再び炎が吹き出し、台所はしばしの間大騒ぎとなりました。
*
騒ぎが落ち着いたところで、マシロと男の子はテーブル越しに向かい合って座りました。二人の手元には少し焦げたクリームシチューがあり、ほのかに香ばしい匂いが立ち込めます。
気まずい雰囲気の中、マシロは何とか口元に笑みを作り、無表情の男の子へ声をかけました。
「ご、ごめんね。わたし、魔法で料理するのが、ちょっとだけ……いや、結構苦手で。手伝ってくれて助かったよ、ありがとう」
「おれは別に、そんなつもりじゃ……魔女って、想像以上のドジなんだな」
「アハハ……とりあえず、食べようか。お腹すいたでしょ。いただきます」
「……いただきます」
二人は、シチューを口に含みます。あたたかく、蕩けるような甘い味が口の中に広がり、男の子は思わず口走ります。
「おいしい」
「ほんと? 良かった」
マシロが笑顔で応えるそばで、男の子はシチューを口いっぱいに含み、一息に飲み干します。マシロは、そんな少年へ向けて、穏やかな口調で語りかけます。
「言うの遅くなっちゃったけど、わたしはマシロ。きみ、どこから来たの? 名前は?」
「おれは……ヒロ。遠くの町から、来たんだ」
「ヒロくん。どうしてこんな森の中に来たの? もしわたしが見つけてなかったら、今ごろ――」
「その時はその時、どうとでもなれさ」
「そんなこと言っちゃダメだよ、もっと自分を大事にしなきゃ」
「そう言われても……ごちそうさま、結構おいしかったよ」
男の子――ヒロは、シチューをすべて食べ終わると、皿を台所へと持って行こうとします。
「あっ、わたしが持っていくよ。ヒロくんは、ベッドで休んでて」
「いいよ、それぐらい。またさっきみたいなことが起きても、困るからな」
「うぅ……」
マシロがしょんぼりしているそばで、ヒロは皿を台所へ持って行きました。そうして、再びテーブルへ足を戻そうとしたその時、彼は前のめりに倒れ込んでしまいました。
「ヒロくん? ヒロくん!」
少女が自分の名前を呼び続ける声を聞きながら、ヒロは少しずつ意識が遠退いていきました。
*
気がつくと、ヒロは町の大通りに立っていました。きょろきょろ辺りを見回しても、周りには誰もいません。そんなとき、どこからか声が響きます。
――来るな。化け物。どこかへ行け。
――お前は、この町に居てはいけない。
――出ていけ、今すぐに。
老人、若者、男、女の声。声色は違っても、口走る言葉はほとんど同じでした。ヒロは思わずその場から駆け出し、当てもなく走り続けます。そして、彼は声を張り上げ、耳につんざく声に抵抗します。
――やめろ、やめろ。おれは、おれは、おれは!
ヒロがはっと目を見開くと、窓から漏れる夕日に照らされた、オレンジ色の天井が広がっていました。冷たい汗が顔中に流れ、心臓の鼓動が早く脈打つ感覚がはっきりと伝わってきます。
今のは、夢だったのか。ヒロがそう口にするより前に、ベッドのそばに座っていた少女が声を上げました。
「ヒロくん、良かったよぉ! 心配したんだから!」
マシロはヒロの手を握り、涙目で彼の顔を見つめました。こうやって近くで見ると、とても綺麗な顔だな--ふいにそんな思いが沸き上がり、ヒロは目を逸らします。
「ねえ、どうしたの? 急に顔を赤くして。まだ体調が優れないのかな……」
「ち、違っ。これは、その」
「あっ、そうだ。さっき魔法で良い夢が見られる香水を使ったんだけど、どうだった? ヒロくん」
マシロがそう口にするのを聞いて、ヒロは鼻で匂いを吸い込みます。薬草のような匂いに混じって、わずかに焦げた臭いを感じ取り、顔をしかめました。
「……悪いけど、その魔法、絶対失敗してる。良い夢は見られなかったからな」
「ええっ、そんな。ごめんよ、ヒロくん」
「いいよ別に……それから、くん付けはやめてくれ。恥ずかしいし」
「そう言われても。ヒロくん見てたら、何だかかわいいし」
「かわ……っ!?」
マシロの予想だにしなかった言葉に、ヒロの顔は再び上気します。やがて、彼はそのまま布団で頭をすっぽり覆い隠してしまいました。
「ちょっと、ヒロくん。どうして顔を見せてくれないの」
「今は見せたい気分じゃないんだっ。それよりマシロ、一つだけ聞いていいか」
ヒロは布団の中でゆっくりと落ち着きを取り戻し、側にいるマシロへ声をかけます。
「おれが聞いていた魔女は、結構怖いイメージがあったけど、マシロはそうでもなかった。だから、どうしてこんな森の中に居るんだろうって。こんなに優しい魔女なら、町に出ても皆にあたたかく迎えられると思うのに」
ヒロの言葉の後、しばしの静寂が流れました。やがて、マシロは布団の中のヒロへ向かって穏やかな口調で話しかけます。
「ヒロくんにとって、怖い魔女ってどんな感じ?」
「どんなって……魔法で空を飛んだり、怖い薬とか作ったり?」
「うん、それは正解かな。死んだわたしのお母さんやおばあちゃんが、実際そうだったから」
「じゃあ、マシロは?」
「わたしは……そうだなあ、お母さんやおばあちゃんのように、優れた魔法の才能があるわけじゃないけれど。それでも、わたしは魔女が好きだったから、お母さんやおばあちゃんみたいになりたいなって。ヒロくんの言葉は嬉しいけど、町へ出たら、やっぱり皆を怖がらせちゃう。仮にも魔女だし、ね?」
はにかむようにそう告げるマシロの言葉に、ヒロは何も反論しませんでした。
しばらくして、辺りが暗くなって来るのを察したヒロは、布団越しにマシロへと声をかけます。
「マシロ」
「どうしたの、ヒロくん」
魔法の杖を振り、天井のランプに灯りを点すマシロに、ヒロはベッドから半身を起こしました。
マシロは、思わず驚いた表情でその場に立ち尽くします。なぜなら、めくれた布団から覗いたヒロの顔は、人間からオオカミの姿に変わっていたからです。
「驚かせてごめん。おれの親は、オオカミと人間でさ。朝と昼間は人間だけど、夜になるとオオカミの姿になる。それで町でずっと気味悪がられて、親も事故で死んで。どうすれば良いか分からなくて、この森に来た。だから、マシロが迷惑ならおれは」
ヒロがそこまで言ったところで、マシロは彼の小さな身体をそっと抱きしめました。少年が二の句を告げるより先に、少女は優しい声で語りかけます。
「大丈夫だから。わたしは今日、ヒロくんに会えて嬉しかった。お母さんやおばあちゃん以外の人を、知らなかったから。初めてできた、わたしの大切な友達だもの。ヒロくんがどんな姿だろうと関係ない。だから、どこにも行かないで――」
優しくも、どこかかすれるようなマシロの言葉に、ヒロは思わず涙を流しました。そのまま、彼は少女の腕の中で、音も立てずに泣いたのでした。
*
深い夜闇の中、ヒロはふと瞼を開きました。
いつの間にか泣き疲れて眠っていたようで、どれくらいの時間が経ったのかも分かりません。
そんな彼のすぐそばに、月明かりに照らされたマシロの寝顔がありました。ベッドの側で座り込んだまま、小さな寝息を立てる少女の顔に、ヒロはそっと手を伸ばし、柔らかい頬へつんつんと指を当てました。
「あはは、もう、くすぐったいよ……」
マシロが言葉を発し、起こしてしまった、と感じたヒロでしたが、やがてただの寝言だと気がつきます。ほっと安堵の溜息を漏らしながら、彼は自分の顔へそっと手を当てました。
尖った耳、毛深い肌、鋭く育った牙。人間ではない、オオカミの感触を直接感じながらも、ヒロはどこか安心したような気持ちを覚えます。生まれてから今まで、感じたことのない気持ち。それを自覚させてくれた魔女の寝顔を一瞥し、ヒロはとても小さな声でつぶやきました。
「ありがとう、マシロ。おれも、きみのことをずっと大切にするよ――」
やがて、ヒロの瞼はうっすらと閉じて行き、再び眠りの世界へと誘われました。その時、窓の外がわずかに白み、夜明けの訪れを静かに知らせたのでした。
*
二人が木造の小屋に一緒に住み始めて、数年の時が流れました。
朝早くから薪取りに出かけていたヒロが木造小屋へ戻り、台所で朝食の用意を終えたところで、部屋中に声を響かせました。
「おいマシロ、起きろ。いつまで寝てんだ」
ヒロの視線は、ベッドの上で目を細めながらゆっくりと起き上がる魔女の姿に向けられていました。そんな彼女の姿に半ば溜息を吐きながらも、ヒロは穏やかな声をかけます。
「朝飯の用意ができたぞ。冷めないうちに、さっさと食べろ」
「おはよう、ヒロくん。ああ、おいしそうな匂い」
「おはよう。やれやれ、のんきな魔女様だことだ」
ヒロはそう言って、皿に盛りつけたサラダとパンをテーブルに載せていきました。マシロがテーブルの席に着くと、ヒロもまた彼女と向かい合う形で座ります。
「いただきます」
「いただきます」
互いに言い合った後、二人はささやかな朝食を口にします。ある程度口に含んだところで、ヒロはマシロの乱れた白銀色の髪に目を向けて、ぶっきらぼうに言いました。
「マシロ、また寝グセがすごいことになってるぞ」
「後で魔法で直すから、大丈夫大丈夫。ヒロくん、おかわり」
「やれやれ、今日も元気そうで何よりだ」
マシロが皿を差し出すのを前に、ヒロはそれを手に取り、台所へと足を伸ばしました。森で採れる野菜で作られたサラダが大好きな少女に、野菜をひときわ多く盛りつけます。テーブルへ戻ったヒロは、笑顔で皿を受け取るマシロに、淡々と口にします。
「食い終わったら、薪を取りに行くぞ。冬も近いから、頑張って探さないとな」
「はーい」
「食った分だけ身体を動かさないと、太るぞ」
「あんまりそういうことを女の子に言わないの、ヒロくん。それに、わたしは魔女だから、太っても後から何とでもなるし」
「それもそうだ」
やや頬を膨らませながらサラダを口にするマシロを前に、ヒロはここにやって来た日のことをぼんやりと思い返しました。
もしマシロと出会わなかったら。マシロの看病を受けた後、そのままここを出て行っていたら。
どちらを選んでも、きっと今のような幸せは得られなかったでしょう。大切な友達として受け入れてくれてから、ヒロは今なお感謝の気持ちを忘れたことはありません。
ですが彼も、彼女と時間を共にする中でふと思うことがありました。もし友達以上の関係になれたなら、どうなるのだろう。ここ数日、そんな思いが頭を過ぎるのでした。
「マシロ」
「どうしたの、ヒロくん?」
マシロは、皿に残ったプチトマトを口に含みながら、ヒロの顔をしげしげと眺めます。徐々に頬を赤らめながら、ヒロはマシロから視線を逸らしました。
「い、いや、何でもない」
「そう? じゃ、ごちそうさまでした」
マシロは皿をテーブルに置くと、ベッドのそばへ移動し、立てかけてあった魔法の杖を手にします。
杖の頭にある紫色の真珠に触れると同時に、一瞬の間辺りを強い光が覆います。ヒロは思わず瞼を閉じ、再び開くと、そこには黒いローブを纏い、寝グセも整えたマシロの姿がありました。
「これでよし。じゃあ行こうか、ヒロくん……あれ?」
「どうかしたか、マシロ?」
マシロは台所で皿を片付けているヒロの姿をしげしげと眺め、ぽつりと口にします。
「ヒロくん、いつの間にか……わたしより、背、伸びたよね?」
「ああ。いつの間にか、な」
「この前までわたしが勝ってたのに、いつの間に……」
「よし、これでくん付けから晴れて卒業だな。ここまで長かった」
「急にお兄さん風を吹かせるなんて、らしくないぞ、ヒロくん!」
少し頬を膨らませながら、自分の顔をじっと見上げるマシロを前に、ヒロは思わず吹き出しました。マシロもまた、少しの間を置いて笑い出します。
二人は互いに笑顔を向けたまま、小屋の扉へと向かいます。そして、どちらからともなく、互いに手を握りながら、外への第一歩を踏み出しました。
*
この世界のどこかにある、深い森の中。
その森の奥には、小さな心優しい魔女と、オオカミと人の血を受け継いだ男の子が棲んでいました。
そんな二人が、大切な友達から一歩進んだ関係になるのは、まだまだ先のおはなしです――。
―おしまい―