ブラック・ハイ
1
夜みたいに暗い朝があることを、子どもの頃の俺は知らなかった。できれば知らずにいられたら良かった。
起床時間は五時。もちろんキツいけど、起きなきゃもっとキツいことになるって、大人になった自分は知ってしまったから、布団を蹴飛ばしベッドから出る。
パジャマを脱ぎ捨てよれよれのスーツに身を包み、とにかく電車に飛び乗る。
超早朝の電車は空いている。てか俺しか乗ってねえし。シートに寝そべったっていいくらい。かといって調子にのって寝そべるとそのまま寝落ちし乗りこしてしまうこともあるから危険。通勤ラッシュとは無縁、といえば聞こえはいいよな、口が裂けても言いたくないけど。
電車を降りると外はまだ真っ暗だ。これから冬にむかうにつれ、朝の闇はますます深くなっていくだろう。街灯のともる歩道を歩いていると、自分が今から出勤するんじゃなくて退勤するんじゃないかという妄想にとりつかれるが、暗闇の中に明かりのともる窓が見えてきて、それこそが俺の勤める株式会社オキノ食品の社屋の窓であり、光に集う虫のように、俺はその建物に吸いこまれていく。
事務所の入口の壁にうっすらと残る影のような跡は、太古の昔ここにタイムカードが置いてあった証だという。常務が「誤って」壊してしまった後、そこにそれが置かれることは永遠になかったと、神話でも語るように言ったのは、入社十年になる島崎課長だった。
電気がついているということはもうすでに出勤してるやつがいるということで、というかそいつ、事務主任の田中さんは、どうやら会社に住んでいるらしい。わけがわからない。でもここではわけがわからないことが多すぎて、そんなこと誰も気にしちゃいない。
「おはようございます」
「……おう」
田中主任はPCから目と手を離さずに答える。
油でべたりとした髪に目がいく。風呂に何日入っていないのだろう。事務所のフロア全体に臭気が漂っているため、田中主任にとって幸いなことに一人ひとりの匂いはわかりにくい。
「谷澤、悪い知らせだ」
「え、やめてください」
「今日、油、欠品出てる」
「げ」
「今日は荒れるな」
株式会社オキノ食品は、レストランや居酒屋などの飲食店や、企業や専門学校の社員食堂に食材を納品する食品卸商社で、中でも食用油は主力商品である。今日だって、揚げ物をする店にはすべからく一斗缶に入りし食用油が運ばれるはずだったのだ。
「昼には入ってくるから、お前らが運べばいいだろ?」
「俺らは営業職ですよ」
俺は今日いくつの一斗缶を営業車に乗せて運ぶことになるんだろう、そしてどのくらい怒鳴りつけられるんだろう。入社して二年の間に、今までの人生で怒鳴られた回数を軽く超えるどころか数百倍の怒声を浴びている気がする。さらにそれと同じだけ頭も下げている。社会がこんなにも怒りにあふれた場所とは、知らなかった。
「営業はなんでも屋なんだようちでは。油がほしけりゃ油田まで行ってとってこいよ」
そう放言する田中主任の頭の油が油田を想起させ、おっとここから油供給できるじゃんという考えが一瞬よぎる。疲れている。そもそも田中主任が発注も担当してるんだから、これは田中主任のミスのはずなのだが、この人ときたら一切悪びれない。そんなミス、この会社や田中主任にとってはミスのうちにも入らないのだろうけど、新人の俺にかなりのダメージだぜ。
「勘弁して下さいよ……」
完全にやる気をそがれ、ふらふらとパソコンのある席に座る。在庫管理ができておらず品切れが多発し、誤配送も日常茶飯事、そのたびにクレームの嵐、これがこの会社のいつものパターンだ。入社して二年目に入り、見慣れた光景になってきてはいるものの、だからといって平気でいられるかといえば話は別で。
俺の担当得意先は食材のストックを持てない都心の店が多い。前日の深夜にファックスやメールで入った注文を、ランチが始まる前の午前中に得意先に配達しなければならない。今時ネット通販で翌日配達なんて当り前、学生の頃は早く送ってこいよくらいに思っていたけど、いざ自分が供給側の立場になったら、その無謀さにおののく。そんなの物理的に無理でしょ? 世の中一体どういうシステムで動いてるんだ? おそらく二十四時間で昼夜交代制とかそういうしっかりした体制のもと、世の中はまわっているのだろう。それが大人の世界なのだ。ここの場合、朝に入力された伝票を見て配送員が出庫し配達するのだが、田中主任一人で伝票入力をこなすのは到底無理なため、営業がサポートすることになっている。他の事務員が早朝出勤するシステムにしてくれればいいのに、事務員にそのための手当てを出す余裕はこの会社にはない。善意で出勤してくれるなんてことは当り前だがない。俺だって手当もないのに朝早いのなんて嫌でしかないけど、クレームやトラブルはもっと嫌だ。矢面に立たなければならないのは当然営業だから、しぶしぶみんな早朝からの出勤に耐えているのだ。特に俺は新人だし、うるさい得意先が多いから、ほぼ一番乗りに出てこざるを得ない。
時に判読不能な手書きの注文書を解読し、ミスのないように伝票を出し、配送員の質問に答え、トラックを送りだす。せっかく営業をして注文をとっても、商品が届かなければ意味が無い。入社間もない頃、やっと取ってきた注文を、伝票まで出したのに配達してもらえなかったことがあり、なぜかと問うたら「そんな商品運んだことがないからミス伝票だと判断した」と偏屈な配送員に言われたことがある。ミスが多すぎて正しいものもミスと判断するミス。そんなバカなと思ったけれど、そういうことが当り前に起こる会社なのだ。だから朝の伝票入力作業と配送員へのサポートは俺の営業活動の生命線でもある。
パソコンに向かい伝票を打ち込んでいると、ぼつぼつと社員が出勤してくる。営業が十数名、事務員が四人、会社から一キロほど離れたところにある配送センターに勤務する配送員が二十名程度と、小さな会社である。
朝九時になると脳味噌まで脂肪に支配されているに違いない肥満夫妻の社長と常務がゾウのようにのっそりと現れ、長い長い朝礼が始まる。一代目が築いた富を食い尽くし会社を崩壊させるために生まれたのだと思われる二代目社長の演説は、テレビやなんかで聞きかじった時事問題に触れることに始まり、売上の低迷を景気と社員のせいにすることに終わる。
「近頃落ち着きがなく学力の低い子どもが増えているのは、食生活の貧しさからくるものであります。それを改善するのが食文化を支える私たちの使命と心得て働いてもらいたい」と言った口で、「なぜ売り上げが上がらないのか、それは君たちが怠け者で、能力不足だからである。もっと頑張るように」と言ったりするからたまらない。人の能力を向上させる食文化を支える会社に勤めているにもかかわらず、なぜ我々は能力が低いのか、栄養足りてないのかという話だ。それにここにいるやつはみーんな知っているんだぜ、あんたらの高校生の息子が引きこもりで、手当たり次第むさぼり食って、両親そっくりのデブに育ってるのを。そいつが食べてるのもこの会社が取り扱ってるような食品なんじゃねえのか。
すでに三時間くらい働いてぐったりしている身体にこの演説は堪える。俺の耳は社長の声をノイズと判断、シャットアウトののち自問自答タイムに入る。
なぜ、俺は今ここにいるのか。禅問答のようだが、単純に新卒でこの会社に就職してしまったからである。私立の高校行って、私立の四大入って、普通に就職する予定だったのに、就職活動でびっくりするぐらい入社試験に落ちた時は焦った。こんな挫折初めてだったし、悔しいというか驚きの方が大きかった。え、自分は社会に必要とされていない系の人間なの? マジかよ、って一瞬思ったけど、サークルの友だちや恋人の愛子をはじめ、自分の周りの人間も割と落ちまくっていて、若者全般が必要とされてないということなのかな? と首をかしげながら活動を続けて、やっと採用をもらったこの会社に、行かない理由なんてどこにもなかった。俺はさ、普通に就職して普通に結婚して普通に子供つくって、家買って年を重ねてみたいな生活を送るって、心に決めていたから。就職活動は普通じゃなくておっかしーな? くらいは思ったけど、働きだしたら気を取り直してこれからは普通の人生がリスタートだって思ってた、にもかかわらず。あれ? 食生活そんなに貧しかったのかな俺。
「谷澤くんの数字は下がりっぱなしです!」
自分の名前を呼ばれて我に返る。気付けば人を非難することにおいては誰もよりも秀でた才能を持つ常務のつるしあげタイムが始まっていた。
ハイッ! それには、理由があるのです! と、心の中の学生の俺が挙手をする。
ある時、かなり大きな数字が自分の営業数字にくっついてることに気付いた。
「島崎課長、なんですかこれは」
「ああこれはね、この間退職した人の担当店」
「? 引き継ぎしてもらってないですけど」
「大丈夫! 来月閉店する店だから、特に引き継ぎ事項がないからね!」
いやにさわやかに課長に言われ、へーと一瞬納得したが、違う、やられただまされた詐欺だ! とすぐに気付いた。
営業数字っていうのは、昨年対比がモノをいう。「サクタイ○パーセント」っていう、あれですよ。昨年計上された売り上げが今年無ければ、それが取引停止によるものであろうが、閉店によるものであろうが、等しくマイナス要因になるってこと。毎月百万円の売り上げがあった店が閉店したら、他で百万円作らないと昨年対比が百%にはならないってこと。来月閉店するならその店の数字は再来月から早速マイナスになる。そんな数字を入社してまだ一年もたたない新人につけるなんて、詐欺でなくてなんだというのだ。でもこの会社ではそんな陥れ合いが常態化している。島崎課長も人当たりはいいもののかなりゲスで、でもこのくらいゲスくないとやっていけないんだと、俺は早々に悟った。
あの時つけられたあの店の数字が、俺の営業数字の足をずっと引っ張っている。というようなことを、学生気分の抜けていなかった俺が、間違いは訂正すべしとばかりに意気揚々と説明したところ、「言い訳だ」「屁理屈だ」「新規開拓で補完せよ」「努力が足りない」と一蹴どころか二蹴三蹴のボコボコに蹴り倒された。「みんなの足を引っ張らないで頂戴!」と言われて、あれっ、数字が俺の脚を引っ張ってるんじゃなくて、俺がみんなの足を引っ張ってるのか、こりゃ一本取られましたね、とボコボコの精神で思ったものだった。
「谷澤君、聞いてるの? 何とか言ったらどうなの!」
鼻にかかったかん高い常務の声が事務所に響き、俺は盛大な舌打ちをする、心の中で。
「……すみません。頑張ります」
いかにも反省している風を装って神妙に俺は言う。これがここでの正解だ。つまり、社長や常務の発言に反論しないこと、本当の正しさが正解ではないのだ。
「常務っ! 谷澤には俺から言って、しっかりやらせますんで!」
やたら大きなダミ声がフロアに響く。磐田部長だ。冗談みたいにいかついヤクザのような風体の磐田部長は、社長の右腕とされていて、社長と常務への太鼓持ちがほれぼれするほどうまく、大きな声と威圧感で部下を圧倒し、部長まで昇りつめた人物である。勤続年数も一番長い。
ちなみに今の発言に意味はない。ただ単に話を切り上げたかっただけ、そして自分が営業を統率しているということを社長と常務にアピールしたかっただけ、つまり茶番である。トップ二人を除く全員がそのことを理解していた。
「磐田部長、頼りにしてるんだから。お願いしますよ」
常務の鼻息荒い言葉を受けて、部長が俺に向かって拳を振り上げどやすふりをする。朝礼が長引くほどみんなの疲労はたまるので、こんなつまらないことを指摘されてるんじゃねえ、という意味である。「スミマセン」と口パクで言って、頭を下げる。それで終わりだ。部長もこの会社の理不尽さがわかっているから、本気で怒っているわけではない、だからといって、何とかしてくれるわけでもない。ここでは、あらゆる理不尽に自分で対応しなければならないのだ。
磐田部長はとにかく社内の誰からも恐れられていて、同期だった高城という男も、磐田部長のモラハラが辞める原因になった。服装が気に入らない、挨拶の仕方が気に入らない、そこにいることが気に入らない、一度目をつけられると何をしても怒鳴られる。多分ネクタイの柄が派手だったことが目をつけられる原因だったと思われる高城が辞めてからは、他にちょうどいいのがいなかったのか俺もターゲットになり、一時は朝礼で助けてくれるどころか社長や常務の言葉に加担して俺を追い詰めるゲームに凝っている時もあったくらいだから、今日みたいなのはむしろ庇ってくれてありがたいことなのだ。
俺が晴れてターゲットを解除されたのは、とある冷凍食品の試食会の後のこと。
残った冷凍食品を片っ端から平らげている俺の様子を見て、磐田部長は大声で笑った。
「お前は食べるのがほんとに好きなんだな」
「は、ハイ」
「お前はどんくさいけど、食い意地だけは一人前だな。よし、全部食べろ!」
「ハイイイ!」
それ以降、あの怒鳴り倒された日々は何だったのだろうと思うくらい、部長は俺に優しくなった。あのままいびられ続けていたら俺も高城みたく退職していただろう。いや、いっそその方が良かったのかもしれないのだけれど。部長が優しくなったことで、俺は辞めるタイミングを失ったともいえる。
食いっぷりが評価されているだけに、出されたものは食うしかなく、おかげでこの会社に入ってから八キロも太ってしまった。
「えー、今日は、油の欠品が出ています。それぞれ得意先のフォローにまわってください。今日も一日、頑張っていきましょう」
朝礼を締めくくる島崎課長の言葉で、まだ今日が終わっていないどころか、始まったばかりであることを思い知らされる十時十五分、まだまだ一日は長い。
2
「疲れた……」
予想通り、油の欠品のおかげで一日中携帯は鳴りっぱなし、得意先に油を運んでは怒鳴られっぱなし、重い一斗缶をさんざん運んだため、腕もバキバキに痛い。
普段なら営業に出た後そこらへんに車を止めて数時間昼寝をすることも多いが、今日はそれどころじゃなかった。臨時配達とそのついでのような営業を終えて帰ってきた会社の駐車場で、ハンドルに顔を突っ伏し、いっそこのままここで寝てしまいたい気分になる。
日中、事務所から穏やかでない電話もあった。
「もしもし、谷澤君? あのね、王食品から追加注文が来てるんだけど」
事務員の佐々木の声はいつになく暗かった。
王食品といえば、俺の担当先の中では大きな、中華料理のチェーン店を展開する得意先だ。めったに無理をいってくることはないが、仕入担当者がいつもしかつめらしくて苦手なのだ。ここで恩を売っておいたら、取引も増えるかもしれない。
「ごめん、昼便で持って行ってもらっていいかな。北島さんの昼便でそっちのコースまわるでしょう? 帰り道で良いから寄ってもらいたい。手配してもらえないですか?」
なるたけ丁寧にお願いしたつもりが、電話口で悲鳴のような声が響いた。
「今日はただでさえ油のことでみんな大変なのに、北島さんが、かわいそうじゃないの!」
仕事でヒステリックになるなよ! と思うが、そう返せばこちらも同じ穴のむじななので、冷静を努める。極めてクールに、社会人なんだから、と自分に言い聞かせて。
「あのね、王さんとこ、数字大きいでしょう。たまには無理聞いてあげたいので、お願いします。北島さんは運ぶのが仕事だし、僕は売るのが仕事だし、佐々木さんはそれを手配するのが仕事、それぞれの役割をこなさなきゃ」
「新人のくせに偉そうなこと言ってんじゃないわよ!」
ガチャン、と電話が切れた。腹の底からこみあげてくるものがある。確かに最後の言葉は余計だったかもしれない。でもこれは、本来なら営業を通さずに処理してもいい案件だ。磐田部長や、島崎課長の担当先なら、何の断りもなく粛々と追加配達の処理が取られたであろう。それはつまり、担当が俺だから、何か文句の一つを言ってやろうと思って電話してきたのだ。その佐々木の薄汚れた精神に、俺は苛立ったのだ。
しばらくして気持ちを落ち着けてから、北島さんの携帯に電話を入れると「おう、事務所から連絡来てる。まかせろい」と返事が返ってきた。北島さんは腕がめっちゃ太くて筋肉ムキムキのかっこいいベテラントラック運転手なんだよ、俺は尊敬しているんだぜ? そりゃ配送員の中には、急な追加配達を嫌がったり、そもそも荷物が多いこと自体を嫌がったりするという本末転倒なやつもいるけど、北島さんは仕事と割り切って、多少の無理は受けてくれる人なんだよ。かっこいい男だよ。それを佐々木はわかってんのかよ。
そもそも佐々木とは入社当初から相性が悪いのだ。
入社して間もない頃、先輩の成田さんから引き継いだ得意先の居酒屋に行ったら、取引を停止されていたことがあった。
「お前んとこの会社に用なんてねえんだよ」
ともすれば同じ年くらいにも見える若い料理人に冷たく言い放たれ、店を出たあとわけもわからずに成田さんに電話すると話し中で、事務所に電話すると、佐々木が出た。
「あらあ? ほんと、ここ一ヶ月くらい注文ないね」
パソコンを叩きながら佐々木は答える。声の様子から、佐々木の口元は笑っているのだということがわかって、俺はイラっとし、思わず口走った。
「それってひどくないですか。ダメになった取引先を黙って渡すなんて」
「引き継がれた時点でキミの責任。ちゃんと『数字』見て、お勉強しましょうねえ」
今度ははっきりと鼻で笑われたのがわかって、思わず携帯を床にたたきつけたかったけど、それで携帯が壊れると次の瞬間からもっとまずいことになるので、堪えた。きっとこの会社にいると、性格が悪くなっていくのだろう。だって佐々木はまだ二十歳そこらだ。髪だってみつあみで、眼鏡をかけていて、決して美人ではないけれどおぼこい田舎者っぽい感じがいいなって、入社した当初は思っていたのに。たとえ年下であろうと先輩なのだからと、敬意を払って話してきたのに。その後も向こうは俺を完全に見下した態度でくるし、俺もなるべく関わり合いにならないように気をつけていたのだ。
取引停止を食らったことについて、成田さんにも改めて何があったのか訪ねたが「いや、別に何もなかったと思うけどな?」と返ってくるだけだった。成田さんは少なくとも本心からそう言っているように聞こえた。それは成田さんにとっては真実なのかもしれない。知らぬうちに粗相をし、不愉快にさせ、取引を止められる、けれどもその理由は本人には全く分からない。そのくらい鈍感でないと、この仕事はやっていけないのではないか。とにかくその店の「数字」も、俺の営業数字のマイナス要因になってしまった。引き継いでから一年。やっとその店の過去売り上げは昨年対比には現れない数字になった。取引先リストからも消える。いつの間にか、取引していたこと自体を誰もが忘れてしまうだろう。
コンコン、車の窓を叩いたのは、当の本人の成田さんだった。
「お疲れ、何してんの」
「成田さんのことを、思い出していました……」
「やらしい想像すんなよ」
「してませんよ」
「なあ、今日飲みに行こうぜ」
「え、大丈夫ですか仕事」
「こんな酷使されつくした腕でペンも持てねえしパソコンも叩けねえよ。今日くらい早く帰ってもバチあたらねえだろ」
「その腕でビールジョッキはもちあげられる、と」
「おう、じゃああとでな」
「いや、行きません」
「なんだよ」
「俺は怒ってるんですよ」
「ああ? 何言ってんの?」
「とにかく今日は行きません」
ふうんじゃあまたなと、俺が何に怒っているのか聞くわけでもなくあっさりと言って、成田さんは事務所に戻っていった。単に今日は、仕上げてしまわないといけない会議の資料があったから断っただけで、成田さんに対して本気で怒っているわけではないのだけど、ちょっとあっさりしすぎてやいないか。成田さんは俺より三つ上で、年も近いから一番話しやすいし冗談も通じる先輩だ。というか、先輩らしい先輩は他にいない。磐田部長と、島崎課長の他に数人ベテランのおっさんがいる下に、何人か「新人」のおっさんがいて、成田さんがいて、俺がいる。
他の企業で働いたことがないからわからないけれどという枕詞はいらないだろう、この会社の離職率は異常に高い。長い人で一年くらい、短くて数カ月、そのくらいのスパンでみんな辞めていく。中には数日で辞めるなんて人もいる。
入社当初五人いた俺の同期も、順々に辞めていった。選考中には誰も気がつかなかった。いや、「ちょっとこの社長、何言ってるかわからないな」とか「常務って社長の妻なの? やばくない?」とか「ヤクザみたいな部長がいる……」とか、各々思う所はあったのだが、みんなとにかく就職活動に苦しみ、やっとのことで採用してもらったのだからという思いがあったのだ。入社して一週間もたたぬうちに、「この会社はヤバイ」ということで同期の意見は一致した。最初に辞めたのは倉本という男子で、入社してすぐの五月、ゴールデンウィークが終わった直後に来なくなった。会社のポストに保険証やら社員証やらがまとめてつっこまれていたらしい。次は一番学歴の高かった間宮という女子で、その次は……もう忘れた。俺の分析の限りでは、辞めたのは自己評価が高い者順だ。最後まで残った俺は自己評価が低いのか。否定はしない。朝礼で社長に「お前たちのように無能では、他の会社ではやっていけるはずがない」と言われれば、ああ確かに他の会社には受からなかったもんな、そうかもしれないなと思う。
ただ単に食いしん坊だからというのもある。社内を歩けば食べ物に当たる、というくらいその辺に食品があるし、サンプルを持って帰れるから、食べるに困らない。食品メーカーの展示会で試食をしまくり、そのあとの会議で満腹のあまり居眠りをして部長に怒鳴られ、やっぱり俺はクズなのだ、この会社がお似合いだと納得したりもする。
どんどん人が辞めていく反面、この会社にはどんどん人が入ってもくる。会社が酷いだけに、そこに集まってくる人もさもありなん、類は友を呼びまくっている。「新人」のおじさんが、次から次に現れては消えていき、覚えていられない。入社当初に同行したその手の輩は、売れてもないのに売れたと嘘の報告をしてみたり、見積もりを依頼されたのにパソコンが使えなくて見積もりを出せなかったり、得意先に入った瞬間怒鳴られたなんてこともあったっけ。見るからにくたびれた中年の「新人」が自己紹介するたびに、ここは墓場だなと思う。様々な場所で働くことに失敗した人たちが、流れ流れてたどり着く場所なのだ。
学生時代のバイトあるあるに、バイトが辞めても補充がなく、残った者でシフトをまわすのが大変だという話がよくあったけど、ここはそういうことには無縁だ。「社員をゴミクズ扱いする割には、さみしがりやなんだようちの社長って」と言ったのは成田さんで、そうか人を辞めるがままにしておけば、この会社は瞬く間に社長と常務二人きりの会社になってしまうだろう。だだっぴろい事務所で、ぽつんと二台ある机に巨漢の二人が向き合って座る様子を想像するとちょっとシュールだ。
こんな状態で会社が潰れないのが不思議だったが、先代から取引のある大きな得意先がいくつかあり、それを部長はじめベテラン社員が担当して何とか大きな売り上げを保っているからだということが日を追うにつれてわかるようになった。
磐田部長も生え抜きではなく、昔は大きな企業のしがない平社員だったらしい。この小さな会社だからこそ、部長にまでのし上がることができたのだということを、部長自身もわかっているのかもしれない。磐田部長も外ではぺこぺこやってるんだと思うと、ここで働く者はみんな大して変わらない類友なのだと、少し心安らかにもなるのだった。もちろんそんなことを表に出したら殴られること請け合いなので、こっそりと思うにとどめておくのだけれども。
会議資料の作成は長引いていた。メーカー各社の売り上げを抽出するのに手間がかかった。
「俺も今日はもう帰るから、お前も帰れよ」
田中主任が言った。田中主任、家あるんだ! という驚きを顔に出す元気もなく、伸びをしながら立ちあがる。
会社を出て振り向くと、事務所明かりが消えた。電気がついていない事務所を初めて見た。
資料は完成まであと少しのところまできている。帰ったら寝てしまうだろうから、駅のホームでパソコンをあける。昼間はまだ暑さを感じるくらいだが、九月の夜は肌寒い。おかげで目が冴えた。細かい数字の羅列に眉をしかめていると、「よお」と声がした。
見上げると、駅近くの居酒屋の店長が立っていた。カウンターだけの小さな個人店だが、近所のよしみでか、うちから食材を仕入れてくれていて、俺の担当店ではあるのだが、あまりに近すぎて疎遠になるみたいな、小さい店すぎて目に見えないみたいな、というか今まで存在忘れてましたすみませんみたいな、とにかく訪問をサボっている店だった。
「うわっ、あ、あ、御無沙汰しております!」
そう言うしかなかった。
「あんまり来ないから辞めたと思ったけど」
「す、す、すみません!」
店長は笑いながら言った。
「お前ンとこみんなすぐ辞めるだろ? 頑張ってんだな。まあ、たまには顔出せよ」
そう言って、店長は缶コーヒーを差し出した。
「あ、ありがとうござ、アツッ、アツッ」
俺が無様に缶コーヒーを手のひらで踊らせているのを尻目に、店長は入ってきた電車に颯爽と乗りこんだ。さすが料理人は多少の熱さに耐えられる分厚い指の皮をお持ちなのだ、と、変なことに感心している場合ではない。俺は缶コーヒーを一旦かばんに入れると立ちあがって、去っていく電車にむかって一礼する。
ちゃんと営業に行かなければと思わないでもないが、てか、なんていう店だっけ? と思っている時点で、行ける可能性は低いな、残念ながら。それくらい、取引額の少ない店なのだ。
ベテラン社員が大型店を担当し、下っ端社員があとの無数の細かい店を担当するため、俺や成田さんみたいに最下層社員は担当件数が多くて手が回っていない。料理人はプライドの高い職人も多いし、小さい店は手がかかるのに売り上げは少ない。成田さんが俺に渡した先も、きっとそういう得意先の一つだったんだろう。
店長のくれた缶コーヒーはブラックで、寝不足の胃にはきつく、俺は駅のトイレで少し吐いてしまった。
3
「ヨロシクッオネガイシマッス!」
また「新人」が入った。
朝礼で挨拶をしたその人、野中さんは、大柄で頭を角刈りにしていて、目がギョロッとして、誰に似てるのか、あああれだ。
「ちょい人相良くした西郷隆盛」
隣でボソと成田さんが言って、ああ、それ俺が言いたかったのにとちょっと悔しい。
今月三人目の新人である。ようこそ墓場へ、と俺は心の中でつぶやく。
新人のうち一人はすでに欠勤が続いて一週間がたつ。おそらくそれの交代要員だな。こういうときばっかり仕事が早いのはどういうことなんだろうこの会社は。
欠勤している新人は、挨拶もままならない小さなおじさんで、速攻磐田部長の餌食になっていたから、挨拶ができるだけ野中さんはまだ期待できる。いや挨拶くらいで人を評価するなんてどんだけレベル低いんだよという話はおいといて。
「好きな食べ物は、焼肉と寿司です!」
え? 自己紹介で好きな食べ物言っちゃう? 俺の期待を早速裏切り、野中さんは続ける。
「好きな焼肉の部位はミノ、好きなチェーン店は、『焼肉ジャンジャカ』です!」
場の空気が凍る。そこは、うちが取引している大型焼肉チェーン店「ジュウジュウ軒」とライバル会社なんだよ。「ジュウジュウ軒」担当の磐田部長の顔色が変わるのが見なくともわかる。ゲエホゲホと成田さんは咳をするが、明らかに不自然で絶対吹き出し笑いをごまかしてる。俺は顎を引き下を向いてもらい笑いをこらえる。
「野中さん、ミノが好きなのはわかりました。ええと、野中さんはうちの課でこれから動いてもらう予定なので、どうぞよろしく」
「オネガイシマッス!」
島崎課長、ナイス危機回避! てか、島崎課長の課ということはうちの課か。さっきの期待を完全撤回する、これは嫌な予感がするぞ。
「期待の新人、現る」
成田さんがまた横でボソとつぶやいた。確実に別の意味での期待である。
「谷澤、ごめんよ」
「な、なんですか」
朝礼後、めずらしく田中主任が謝ってきたので逆に身構える。手には乾物の入った大きいビニル袋を持っている。干ししいたけ……?
「ああっそれは!」
それは毎年この時期になると市内のホテルのバイキングで炊き込みご飯用に使われる、フリーズドライ松茸ではないか!
「なんでか倉庫じゃなくてこっちに届いてたんだよー」
田中主任が目配せした先には、「マツタケ」と書かれた大きな段ボールがある。
「いつ配達予定ですか?」
「今日の朝便」
ただいまの時刻は十時五十分、確認するまでもなく北島さんの朝便は出ている。
「……追いかけます」
言うが早いか田中主任の手から袋をとって、俺は出発しようとする。
「あっ、野中さんも連れてってやってー」
野中さんに何やら話をしていた島崎課長が言う。絶対厄介払いだ。すぐ人に押しつけやがって。
「ヨロシクオネガイシマッス!」
野中さんはお辞儀した。礼儀正しいのはよろしい。
「すぐ行きますので、そこの段ボール持ってついてきて下さい!」
「谷澤センパイかっこいー」
ヒュイと口笛を吹く成田さんを横目でねめつけて事務所を出た。
駐車場に移動する間にも一件別の電話が入っておたおたしている俺を見て、野中さんが「東部ホテルですよね? あの辺土地勘あります」と言ってくれたのでハンドルをまかせることにする。お、もしかしてこの人できる人なのか? と俺の萎んだ期待は再び膨らむのだが、「営業とか初めてで不安で」と言うので、車の運転はうまいなら配達に回ってもいいのにと言ったら「腰が悪いんですよお」と言う。前の仕事は腰を悪くして辞めたらしい。「だから長時間の運転もちょっとムリです」と付け足した。「でも、今までは力仕事ばっかりやってたんで、パソコンはできなくて」とか、「じっと座ってデスクワークとかも腰があれで無理なんですよね」とかそんな感じで、すべてにおいて言い訳が用意されている。やっぱり期待薄だ。けれど、どこか憎めない、不思議な人だった。
「あれ? ここどこですかね?」
野中さんが首をかしげる。
「え? あ、ちょっと、さっき曲がりました? だめですよ、こっちの道に入っちゃ」
「わー、すみません、僕ちょっとばかし方向音痴なんですよね」
北島さんに連絡をとる傍ら、ケチャップが欠品していることに対応する電話にもしばしかかりきりで、道を見ていなかった。こっちの道に入ると一方通行で、目的地までぐるっとまわらないといけないのだ。なんだよ、この辺詳しいんじゃなかったのかよ。
ナビをして目的地に着くと、オキノ食品と書かれたトラックはすでに着いていて、北島さんは煙草をふかしながら佇んでいた。
「北島さ――ん!」
俺は車を止めるや否や飛び出して、北島さんにかけよる。もうそれは運命の人にかけよるみたいに。俺の背後には花が飛んでいたと思う。
「お疲れお疲れ。てかおせーよ。煙草一箱空にしそうになったぜ」
伝票とフリーズドライ松茸五パックを受け取った北島さんは、豪快に笑った。
「いつものことながらバカナ主任はやってくれるなあ」
「こっちのミスで……しかも遅くなって、すみません」
「お前のせいじゃないだろ。谷澤がんばってるじゃん」
「ありがとうございます」
仕事のできる北島さんにそんなこと言われたら、キュンとしてしまう。
「今日カモメのケチャップもないんだろ」
「そうです、だからハイントのに変えてもらって」
「そっちの方が原価高いのに」
「そうなんです! 大損ですよ」
こうやって北島さんと普通に会話できるまで時間がかかった。北島さんは厳しい人だから、最初は「商品も知らねえ営業なんか話になんねえ」とか言われて話もほとんどしてくれなかった。今もおそらく俺の隣の野中さんには目もくれていない。商品の勉強をして、迷惑かけないように早朝から出勤するようになって、やっと認めてくれたと思えるようになった。今日みたいにはこんな風に協力して仕事を成し遂げられるまでになって、俺は妙に感動していた。
結局その日は一日野中さんと一緒に担当得意先をまわることになった。仕方がないので昼食もおごる。年上におごるなんて変だなと思ったけど、野中さんは「アリガタクイタダキマッス!」とためらいもなく受け入れる。
焼肉定食を頬張りながら、野中さんは言った。
「僕ね、妻と八歳の娘がいるんですよ」
「じゃあ頑張らないと」
「んー……腰いわしちゃったからなー……。ま、妻ももうすぐ働くし!」
ニカと、歯をむき出して野中さんは笑った。ニラが歯についている。
野中さんと喋っていると、どうも居心地が悪い。年上なのに超低姿勢だからか。佐々木なんかと比べたら全然良いことなのに、そこはかとない違和感がある。
「でも僕ね、頑張ります…。僕なんてずっと年上なのに、全然今まで仕事してこなかったんだなあって、谷澤君のこと見てわかったから……」
「いや、はあ……」
「だからッ! よろしくお願いしますね!」
そう言われると、毒気が抜けてしまう。
あれ? そういえば、恋人におごることはあっても、同性におごるのは初めてかもしれない、財布を出しながら気付いた。
そうか、俺は今までの人生、先輩でいることより後輩でいることの方が多かったのだ。今までそんな風に自分を見たことはなかったが、つくづくそうだ。中学の時に入ったサッカー部は途中で辞めたから先輩とよばれることはなかったし、高校のときのホッケー部も、自分の下には部員が入ってこなかった。大学のときの飲み会サークルは留年した先輩とずっとつるんでたから、自分が一番上な感じはしなかったな。今ちょっと謎が解けましたよ。俺は年上に可愛がられるタイプなんですよ。今の職場で、嫌々ながらもなぜかしっくりきているのは、俺が一番後輩格だからか。
だとするとこの人は……。鼻歌を歌いながら運転する野中さんを盗み見る。年は四十三歳だとさっき聞いたけど、俺にとっての初めての後輩になるのかもしれない。
「どうかしました? お腹でも痛いんですか?」
「いえ、別に……」
良く分からない質問に曖昧に答え、俺は目をそらして外を見る。やっぱりこんな変な後輩は嫌だ。
帰りは特に迷うことなく、スムースに会社にたどり着いた。
事務所に帰ると、一階の入口のところで佐々木がうずくまっている。
「佐々木さん、どうしたんですか」
「北島さんが」
顔をあげた佐々木は悲壮な顔をしている。
事故ったのか、と嫌な予想をする。年に数回、トラック運転手は大なり小なりの交通事故を起こす。劣悪な労働環境下で、事故を起こさないのが不思議なくらいだ。
「う、う、うわああああ」
佐々木は顔を覆った。女子が、いや人がこんな風に泣いているのを初めて見た。恋人の愛子だってこんな風に感情を露わにしたところを俺に見せたことはない。それだけで、目の前のクソ女にギャップ萌えしてしまう俺は単純だ。
「いや、ちょっとほんとどうしたの」
僕らがまごまごしていると、ちょうど煙草を吸いに外に出てきた成田さんが言った。
「北島が消えた」
「え」
「華麗なる失踪だよ」
「北島さんが? 午前中に会ったけど?」
「集金の金額が合わないことに気付いて常務が電話入れたら、話してる途中に電話切れて、そのあとは着拒。調べてみたら大分前からちょろまかしてたみたいだぜえ」
「ちょろまかすって一体いくらくらいなんですか……」
「二百万」
「ワアオ」
俺の隣で野中さんがアメリカンな反応をする。
二百万もの金額を、着服してもすぐにはわからないものなのか、と俺は唖然とする。
佐々木はうずくまって泣いている。俺たち男子三人はそれを尻目に特に慰めたりはせずにおもむろに煙草を取り出す。それは佐々木の日ごろの行いのせいだろう。しかし、俺だって泣きそうだ。北島さんが好きだったのに。
「使えるやつだったのにな」
「北島さんに代わるトラック運転手はいませんっ!」
俺は思わず声を荒らげた。
「それがな、いるんだよ。来週には誰か違うやつが入ってくる。そいつがだめならまた次だ。運が良ければそいつが北島のやってた仕事まるまる、なんの問題もなくやってのけるんだ。それが仕事ってもんだよ。
でも、金は戻ってこない。北島さんの信用も」
「悲しいっす」
しばらくすると後輩の事務員がやってきて佐々木を抱えるようにして事務所に入って行った。俺たちは煙草をふかしつづける。吐き出す煙と一緒に、魂が抜けていくような気分だ。
「佐々木は北島とできてたしな」
成田さんが言い捨てた。
「え」
「佐々木が一方的に熱上げてたんだけどな」
なんだよあいつらできてたのかよ。あほくさ。一気に気持ちが白けていく。魂も白けた気持ちも、煙になって出ていくようでいて、心の底には釈然としない気持ちが澱のようにたまっているのだった。
「北島さん、来てるぜ」
数日後、営業から帰ると成田さんがささやいた。
「ええッ、みつかったんですか」
「おう、別れた妻子のところに転がり込んだみたいだけど、そっちまで会社から連絡いって、観念したみたい」
「はー」
「通報するかどうかってとこまでいってたからなー」
「通報してなかったんですか」
この会社はどこまでもわきが甘い。そんなことだからちょろまかされるんじゃないか。
「北島さんはまあ良くやってた方だから、ためらったんじゃないか、社長も」
「どうなるんすか」
「金さえ返ってくりゃ会社としては良いんだろ」
成田さんはそれだけ言うと、パソコンにむきあった。
会社の金を盗んで消える人は、これまでにもいた。月に数回現金集金日があり、営業や配送員が得意先から直接売上金を集める。その日を狙って、年に数人はそのままとんずらするのだ。この会社にとっては、交通事故と同じくらい特に珍しいことでもないのだという。嫌な話だが、結局はそんな人しか雇えないということだ。それにしても今回は額が大きいし、北島さんが会社に果たしてきた役割も大きい。
東部ホテルの前で最後に会った時、俺は北島さんとの連携プレイに酔いしれていて。でもよく考えてみるとあれはただのミスフォローであり、売り上げにつながるようなものでもなかった。その程度のことで喜んでいた自分が恥ずかしい。それにその間だって、北島さんは会社と俺たちをだまし続けていたんだ。
そんなことを思いながらロッカールームに行く途中で、社長室から出てきた北島さんとばったり遭遇してしまった。北島さんは俺を一瞥すると、何も言わずに去ろうとする。
「北島さん」
去っていく後姿に声をかけた。振り向かない北島さんの背中は、以前より小さくなってしまったようだ。
「俺、北島さんの仕事ぶり、尊敬してました。だから、だから、残念です」
北島さんは振り返り、にやっと笑った後、苦虫を噛潰したような表情を浮かべた。
「しょうがねえだろ、疲れてたんだよ」
ここにいる人はみんな疲れている、疲れて、疲れ果てて、何も考えられなくなって……それで、こうなるってことか? 疲れてたらなんでも許されると思うなよ。
「……お疲れさまでした!」
俺は深く頭を下げて、北島さんを送った。敬意を表すためじゃない、もう北島さんを見たくなかった。
佐々木はしばらく落ち込んだ様子で仕事をしていた。電話の受け答えにも生気がなかった。そりゃそうか、自分の恋人と思ってたやつが会社の金持って逃げた挙句に元妻んとこに逃げてたなんてな。馬鹿な女だな、と思うけど、笑えなかった。北島さんになついていたという意味では、俺だって同じだ。
北島さんの後に入った配送員は、最初こそミスが目立ったものの、すぐに慣れてそつなく仕事をするようになった。成田さんの言う通り、代わりなんていくらでもいるのだ。
そして佐々木はあっという間に意地悪な事務員に戻った。それどころかより一層パワーアップしたように思える。噂に聞くところによると、別の配送のやつと付き合い始めたらしい。あんなにわめいてた割に、切り替え早すぎだろ。
佐々木より、俺の方がずっと引きずっている。車の運転中、道行く他のトラックから無造作に出ている腕に北島さんの面影をみつけては、もしや北島さんではないかと思って確認してしまう。今も北島さんがどこかで豪快に笑いながら、あの太い腕でトラックを運転しているように思えてならないのだった。
4
土曜日の朝の社内は、普段より空気がいいような気がする。基本的に土曜日は社長も常務も出勤してこず、社員も交代で休みが取れることになっているが、トラブルが起こると結局呼び出されることになるため、トラブルを事前に回避する意味もこめて、午前中は毎週出勤するのが定例となってしまっている。とにかく信じられないトラブルが、この会社では頻繁に起こるのだ。焼鳥屋に豚肉を運んで、とんかつ屋に砂ずりを運んでしまうようなことが、比喩ではなくあった。冷凍海老フライ一本が足りないがために、一時間かけて営業が後追い配達に行くことだって。
磐田部長レベルになると堂々と休んでいるが、島崎課長は案外出勤している事が多い。磐田部長の得意先でトラブルが起これば出勤している者が全力でフォローしてくれるが(田中主任が配達に出たりするからそれはそれで見ものだ)、島崎課長の場合は俺ら同様呼び出されるのだなあと、ちょっとしたところに社内のヒエラルヒーを感じたりする。
伝票処理をした後も、ずるずると午後まで働いてしまうことも少なくないが、今日は早く切り上げるつもりでキビキビと仕事を片付ける。欠品などのトラブルもなさそうだった。
「俺は、今日はこれで」
「おお、珍しいねえ。デート?」
通常出勤の成田さんが言う。
「野暮用です」
図星をつかれて顔に出ていないか心配になりながら、会社をあとにする。
久々に、恋人の愛子と会うのだった。学生時代から付き合っている愛子は、俺同様就職活動がうまくいかなかった結果、大学院に進んだ。生活環境が変わって会う回数は少なくなってはいるが、ずっと付き合いは続いている。
今日は都心の駅で待ち合わせ、流行りの映画を見て、夕食は得意先を予約していた。掘りごたつの、個室の店。もちろん俺のおごりだ。最初は彼女も遠慮していたが、今では当り前みたいにおごられるので、それもちょっとなあと思わないでもない。
「いつもお世話になっております」とホール長に挨拶入れつつ、個室に案内され、さて掘りごたつに足をつっこみ、熱燗と刺身でしっぽり……なんだか俺もおっさん、いや大人になったんだなーこれが学生との違いかなーなんてうそぶいていたら、愛子が急に不快な表情を浮かべた。
「ごめん、ちょっと……」
「なになに? トイレなら出て右側だよん」
おどけて勝手知ったる得意先の情報を披露する俺は、仕事ができるサラリーマンに見えるだろうか。
「そうじゃなくて、あの、谷澤クン、足、臭いかも」
「えっ、うそ、ごめん」
「別にいいんだけど。もし気付いてなかったらと思って」
もちろん気付いてなどいない。慌てて掘りごたつにつっこんでいた足を引っこめ正座をする。
「いや、ほんと、ごめんな」
盛り上がっていた気持ちが一気に下降する。しかし、俺は朝から働いていたんだぜともどこかで思う。
「あ、そういえば、ネット見たよ」
「あー……」
愛子が話題を変えてくれるが、俺は内心、その話かそれはちょっと、と思う。
就活応援サイトの、就職した先輩たちの声というページに、俺が掲載されたのだ。学生の頃俺も見たことがあるサイトで、株式会社オキノ食品の「先輩」の声も掲載されいてた。「大きな得意先をまかせてもらえるやりがいのある仕事です」って、ニコニコ笑ってる男性社員の写真とともに書かれてあった。でもあの手のサイトっていうのは会社が金出して記事作らせてるわけでさ、良く見えるように編集されてるのは当り前だってことに具体的に気付いたのは自分がそのサイトのインタビューを受けるってことになったその時で、おいおいこれかよって思ったな。写真撮られて、なんか座右の銘みたいなのを筆ペンで書かされて、あとは全部適当な創作だよ。びっくりする。
いやしかし「大きな得意先をまかせてもらえるやりがいのある仕事です」っていうのは、嘘ではないんだ。
入社して数週間の研修が終わって、そのサイトに掲載されていた「先輩」と同行があった。俺は何となく有名人と働いているみたいでドキドキしたんだけれども、先輩は終始表情固く、自分の担当先を「引き継ぎ」しはじめた。「東部ホテル」や、そういえば今日のこの店もそうだ。
「こんなに渡しちゃって大丈夫っすかね? これから先輩どの辺まわるんすか?」
って思わず聞いたら、意味深に笑って「俺は来月もういねえよ」って言われた話、これ落語か何かみたいじゃね? あはは、とか何とか言って、おもしろおかしく愛子に話したつもりだが、愛子の顔はひきつっていた。その後も、店側がサービスで出してくれたデザートに「すごいんだね、谷澤君」と笑顔を見せてくれた時を除いては、会話がうまくかみ合わず、俺の空笑いばかりが個室に響いていた。
店を出て、たまりかねて俺は煙草を取り出す。
「タバコなんて吸ってたっけ」
「あ、あー最近ちょっと」
煙草を吸う人はなんだかんだで休憩に行けるからいいなーと思って軽い気持ちで吸い始めたが、全くうまいと思えないこれが、なぜかもう手放すことができない必需品になっていた。
「歩きタバコ……」
聞こえないふりをして、火をつける。
「谷澤君、変だよ。というか働き出してからずっと変」
たまりかねた様子で愛子は言ったが、俺の心にはもう響かない。就活に失敗して、大学院に逃げ込んだお前に言われたくねえよ、そっちはまだ学生で、親の金でぬくぬく生活できるんだろうが、俺は自分の家賃も食費も携帯代もデート代も、全部自分で稼いで払うしかねえんだよ。
遠い、と思った。あんなに近くにいて、価値観を共有しあっていたのに。そして愛子も同じことを思っているのは明らかだった。
ふと感情がふりきれ、吸い始めた煙草を道端に投げ捨てた。
「ちょっと」
愛子が俺のスーツの袖を引っ張る。
「ああ?」
思ったより怖い声が出て、愛子が息をのむのがわかった。
「……吸い殻、道端に捨てないで」
愛子が絞り出すように言った。
「あ、ああ、ごめんごめん」
今の怖い声は違うんですよーという意味も込めて、俺は殊更優しい声を出しながら吸い殻をとりあえず拾ったが、俺が日常的に吸い殻をその辺に捨てている事が、そしてこれからも捨てるのであろうことが、察しの良い愛子にはわかってしまっただろう。
気まずい空気の中、携帯の着信音が鳴り響く。ベートーベンの「運命」は、ワア今の気分にぴったりの曲。得意先の焼鳥屋「鳥鹿児」の店長からだ。俺は愛子に「ゴメン」と声をかけて電話に出た。
「あ、はい、オキノ食品の谷澤ですう。どもっ、お世話になっております」
「よっ谷澤ちゃん、出てくれると思ったわ。月曜日の注文で追加したいんだけど、黒七味って在庫してるん?」
「えーと、ありますあります」
「ほんのこって、それ一つ、荷物に入れといて」
「かっしこまりまりましたー!」
「まり多いよっ! 酔っ払ってんじゃねえよ。ほんならねえ」
「ありがとうございまあす!」
こんな時間に電話をかけてくる非常識な客が、今日はありがたかった。今は、正しくて美しい恋人と向き合うことより、マナーのかけらもない自己中心的な客と話すことの方が、俺の心を平らかにしてくれる。
「……変わったよね」
電話を切った俺に、愛子は冷たく言い放った。確かに、八キロも肥え、煙草をふかし、身体からは異臭のする俺は、もう学生時代の俺ではないのかもしれない。
「だって働いてんだもん」
そう言えば就職活動に失敗した愛子には言い返せないということがわかっていて、意地悪な俺は茶目っ気たっぷりにそう返す。
こんなに眠くて、疲れてて、次から次へと電話がかかってきて、何がマナーだよ、そんな美しい生活は、俺の世界のどこにもないんだよ。俺は靴ひもを直すふりをしてしゃがみこみ、自分の足の匂いを確認した。確かにくせえ。鼻がもげそうになる異臭だ。ショックを受けながらも、今の自分を表すのはまさしくこの臭いなのだと、俺は妙に合点がいくのだった。
「谷澤ちゃーん、おやっとさあ」
週明け早々の「鳥鹿児」からの電話で、土曜日の夜のできごとが脳裏に浮かび苦い気分になる。あの夜、うちに泊ればいいと言っているのに、愛子は頑なに拒否し、帰って行った。そのために掃除だってしたのに、クソと思いながら日曜日は不貞寝して過ごした。
今日の朝便で、ご注文の黒七味は到着しているはずだ。
「黒七味さー」
「どげんですか」
エセ鹿児島弁を挟んでみる。
「高いよ、あれ、一本千百円って」
ちょっと値をのせすぎたかと少し後悔するも、迷惑料をのせただけだぜとも思う。
「あースンマセン」
「でも、うんまかね、あれ。店では使えないけど、ちょっと知り合いに配りたいから、二ケース個人買いできる?」
「もちろんです。ありがとうございます。現金払いになりますが大丈夫ですか?」
「おうおう。次営業に来るとき頼むわ」
「え、今日行っちゃっていいですか?」
「商売上手だねー。今日はランチタイムの後、時間空いてるから寄ってよ。サンプルいろいろ持ってきてなあ」
「もちろんです。よろしくお願いいたします!」
「鳥鹿児」の店主は、昼も夜も土日祝日も関係なく電話をかけてくる迷惑な人ではあるが、それでもきさくで付き合いやすい種類の人ではあった。料理人には、いつ行っても不機嫌で業者を邪険に扱う人も少なくないから、「鳥鹿児」のように気軽に訪問できる店があるのはありがたかった。メインの鶏肉は鹿児島出身の店長が故郷から取り寄せているが、他の副食材はすべてうちで揃えてくれている。競合がいないから利益ものせやすく、利益率が良いので、俺にとっては大得意様ともいえるかもしれない。
そういえば愛子を連れて行ったこともあったな。あの晩電話の後「あの店の店主だよ、ジャッキーチェンに似てて、訛りに味のある店長」とか言って笑わせてやれば、あの場もなごんだかもしれないのに。もう連れて行くことはないんだろうか、と思うと、やっぱり寂しい。どこかで仲直りしないといけない。
もんもんとしながら営業に出て、昼飯何にしようかな、と思って財布を見ると、中身はほとんど空だった。ATMに下ろしに行って愕然とする。残高が千円を切っていた。給料日まであと五日ある。入社二年目の安月給での一人暮らしはいつもギリギリ、貯金なんてもってのほか、その上、今月は駐車違反の罰金を支払ったのも痛かった。人におごっている場合ではないではないか。愛子はおろか野中さんにまでおごってしまったことを激しく後悔する。
今日の昼食はなしかよ。それどころかあと五日間、どうやって過ごすんだ。この会社にいれば、食うに困らないと思っていたけど、身を粉にして働いているのに、飯を食べる金に困るなんて。初めてのことに、俺はすっかり動揺していた。
千百円が十二本で一ケース。二ケースだから二万六千四百円。「鳥鹿児」できっちり受け取って、俺は集金袋に大事に入れる。通常は掛けで月末振込にしているが、こういった個人買いの場合は現金でもらうことになっているのだ。
俺の担当店は都心の店が多いから、現金払いはほとんどないにもかかわらず、集金のたびにちょっと緊張する。今日は自分の金がないからなおさら、集金で集まってくるお金が尊く思えた。
帰り道、うどん屋の前で立ち止まる。出汁の良い匂いに体が吸い寄せられる。入ってしまおうか、今日集金したお金をちょいと借りたらいいんじゃないか、そんな誘惑にとらわれる。いや、だめだ、帰ったら冷凍うどんのサンプルくらいあるだろう。俺はぐっと踏みとどまり、会社に向かった。
事務所に戻ると、デスクの上に交通費の仮払い金二千五百円ほどが返ってきていた。これでしばらく何とかなる。とはいえ五日間これでもつかといえばそれは難しい。集金処理を済ませ、現金をボックスに入れていると、残っていた佐々木が言った。
「あ、谷澤君、計算ちゃんとした? ダイジョーブ?」
なんでこいつはいちいち嫌味なんだろう。そう思いながらも「大丈夫だと思います」と返事をすると、「なーんか谷澤君って頼りないから、心配しちゃうー」と返してきて、俺はお前が女じゃなければ殴ってるうーと思いながらも無視して席に戻ったがくすくすと後ろで笑っている声が聞こえてマジで噴火寸前だった。
席に着いてから、「鳥鹿児」の現金を入れ忘れていたことに気付く。佐々木はまだ集金ボックス近くのパソコンで仕事をしている。また揶揄されるのかと辟易していると、部長が「谷澤―お前、俺が在庫してる黒七味知らんか?」と尋ねてきた。
「え、今日二ケース出庫しちゃいました」
ゴン、とげんこが飛ぶ。
「って!」
「あれは俺が『ミサワうどん』のために在庫してあるやつだろうが。使うなら許可取れよ」
お前の私物じゃなくて会社の商品だろ、ととっさに思うが、確かにそれで欠品してしまったら『ミサワうどん』に迷惑がかかる。そうか忘れていた。
「申し訳ありませんでしたっ!」
「気をつけろよ。で、決まったのか?」
「え?」
「商品を決めてきたのか? って言ってんだよ」
その商品が継続的に得意先に利用してもらえるかどうかが決まったのか、ということを尋ねられていると理解するのに一瞬かかった。
「い、いやーコストが合わなかったみたいで……」
「お前はバカか。黒七味が欲しいっていうんなら、今香辛料に迷ってるんだろうが、向こうさんはよ。これを機会にいろいろ香辛料案内しろよ。せっかくのチャンスだろうが。黒七味だけ持って行ってダメでしたアハハじゃねえよ」
いや、笑ってませんけどと思ったけど、確かにその通りだ。
「すみません。勉強になります」
素直に謝ると、チッと忌々しげに舌打ちをして部長は帰って行った。くすくすと、佐々木が笑っている。結局笑われてんじゃねえかよ。
「あれ、殴りたかっただけだぞ」
成田さんが横から言った。
「え? マジですか?」
「おお、お前が帰ってくる前、社長に売り上げのことえらい言われて、めちゃくちゃ機嫌悪かったから、部長。お前も運がないねえ」
俺は頭をさする。あーくっそ。何だよ。ひでえな。
「かわいそうな谷澤君には、僕の香辛料サンプルセットをあげよう」
島崎課長が袋を取り出して言った。課長のデスクの抽斗の中にはあらゆるサンプルがストックされている。島崎課長は以前はチェーンの居酒屋で働いていたらしく、商品の知識も社内一だし、他の人とは違って調理経験があるから、提案型営業も得意だ。どこどこの店のシェフが、島崎課長にメニュー開発を相談する……みたいなこともあるらしい。なんだかんだで仕事が好きでやってるように見えるところが、いかに手を抜くかを第一に考えている成田さんと違うところだなあとも思う。自分はどっちだろうか、もらったサンプルの粒コショウを手のひらでころがしながら思う。
グウ、と腹が鳴って、昼食を食べ損ねたのを思いだす。階下に降りてサンプルが入っている冷凍庫を覗くと、冷凍うどんはあったが出汁はなかった。あまりの空腹に、俺は給湯室で冷凍うどんをゆで、出汁のないままむさぼり食う。無味だ。働いた結果、ありついたのはこんな粗末な食事なのか。
デスクに戻ると、「鳥鹿児」の現金が入った封筒と、サンプルの袋が出したままにしてあった。一瞬迷ったが、俺はそれらをひっつかむと乱暴な手つきでカバンにつっこんだ。
5
朝礼中、社長が最近定着しだしたハロウィン商戦について熱弁している最中に携帯が鳴った。大げさで深刻な着信音に、一斉に向けられる白い視線を感じながら、俺はこそこそと朝礼の輪から抜け出す。「ラポム」と着信画面に表示されている。うわ、偏屈な洋食屋のシェフだぜ。色々と食材にこだわっているように見せかけて、デザートは冷凍食品のケーキを使っているようなところが信用ならない。それを売ってるのは俺だけど。
「はい、オキノ食品谷澤ですう!」
「おいお前ンとこのチーズケーキ」
噂をすれば冷凍ケーキの話か。
「賞味期限切れてんだけど」
「マジすか」
「マジすかじゃねえだろ、お前にはプロとしての自覚がないのか」
「スススススミマセン」
「スミマセンじゃねえよ。どうすんの」
どうすんのって言われてももう納品してしまったものはしょうがねえだろ、なんて言えないわけで、俺が絶句していると、シェフは続ける。
「来いよ」
「え」
「今すぐ、商品持ってこいって言ってんだよ」
「あの、今すぐといっても少なくとも一時間はかかってしまいますが……」
「いいから来い!!」
「わかりましたアッ!」
今日の予定は白紙だ。とにかく超特急で商品を持って行かなければ。
「お、谷澤、もう行くのか。張り切ってるな」
トイレから出てきた磐田部長に声をかけられる。朝礼抜けてトイレで一服するか寝ていたに違いない。
「クレームです」
「きばってこい!」
バシ、と背中を叩かれる。
「痛ッ!」
殴りたかっただけだな、俺は背中をさすりながら駐車場へ向かった。
倉庫に寄って商品をピックアップしながら、ああ、「ラポム」の配送は、ちょっと前まで北島さんがやってくれていたんだと思いだす。北島さんなら、賞味期限が切れている事くらいすぐに気がついて教えてくれただろうに。そんなことを悔やんでもしょうがない。
高速を飛ばし店の近くに着いたものの、今度はコインパーキングが見つからない。刻一刻と時間は過ぎる。十一時のランチタイムに突入したら、訪問どころじゃなくなる。とにかく行かなければ。とにかく、とにかく。混乱した俺は、少しの間だから大丈夫と自分に無理くりいい聞かせ、路上駐車して店に向かう。
「ラポム」のシェフはカンカンだった。俺は頭をずっと下げ続けた。何の言い訳もない。何か口をはさめば余計火に油を注ぐことはわかりきっている。
「今度やったら、取引停止すっからな」
「本当に申し訳ありませんでした!」
店を出て車に向かう。ウィンカーに黄色い紙がはさまっているのが遠くから見えて、俺は車と自分との距離が永遠に縮まらないことを願った。時計を見ると三十分足らずしか経っていない。ほんのちょっとくらい、見逃してくれたっていいじゃないか。
「ハーッ…」
思いっきりボンネットにつっぷす。先日に引き続き、今度は一万八千円の出費だ。先日支払った分は、試食会の後急に腹が痛くなって路駐してコンビニのトイレに駆け込んだ時の、一瞬の隙にやられたものだった。車のシートを糞尿まみれにするのと、罰金を払うのと、どちらのコストを優先するべきだったか。このままいけば免停も視野に入ってくる。免許における点数はたまるとアウトな地獄のスタンプカードだ。
夕方、帰社して注文履歴を見ると、件のチーズケーキの注文は「ラポム」からほとんどきていなかった。なんだよ、あんまり売れてないんじゃねえのかよ。あのシェフがこれをグランドメニューに入れるから在庫しろって言うから、おされる形で在庫にしたのだった。ほとんど注文がきていないなら、回転しないうちに賞味期限が切れるのも当然だ。
「この商品、賞味期限短いんだな。この一店舗のためだけじゃ、在庫できないんじゃない?」
俺の報告を受け、島崎課長は冷静に分析する。直属の上司が磐田部長じゃなくて良かったとミスるたび思う。
「そうかも、しれません……」
「積極的に商品決めてくるのはいいことだけど、もうちょっと考えような」
「すみませんでした……」
昼間に得意先に謝った時よりもずっと心のこもったスミマセンが口からもれた。
車には、倉庫から引き揚げてきた賞味期限切れのチーズケーキが大量にのっている。事務員を始め何人かにこっそりと持って帰ってもらう。即席ケーキ屋「谷澤商店」のオープンである。
野中さんは「娘が喜ぶッス!」と言い、成田さんは「賞味期限と、消費期限は違うのにな~」と歌うように言いながら、それぞれ一箱ずつ持って帰ってくれる。
配るだけ配り終えても残ってしまったケーキをのせて、俺はドライブに出る。社内で捨てて上にバレるとまずいことを踏まえ、「責任を持って」処分するようにと課長からお達しがあった。
俺も一箱開けてほおばる。ホール一個分。胸やけはしそうだが、それ自体が傷んでいるわけではない。先月金がなくて飢えていた時にこれがあれば毎日食えたのに。愛子に持って行くか、とも思うが、また情けない姿を見せるだけだと思うと俺のなけなしのプライドがうずいた。
ごみ箱が外に出ているコンビニをみつけ、車を止め、一、二箱のケーキをゴミ箱に押し込む。そそくさと車に戻り、次のコンビニを探す。コンビニからコンビニへ、俺はケーキを捨てて回る。ゴミ箱にはすべからく「家庭用のごみを捨てないでください」と書いてある。俺のやっている事は、迷惑行為に他ならない。犯罪とだって言えるかもしれない。
食品を売る仕事をしていて、食品を捨てなければならないというのは、どういう事態なのだろう。世界には飢えている人がたくさんいます。愛子が今大学院で学んでいるのは貧困問題だ。でもおまえの彼氏は、仕事でポカして食品を大量廃棄している。俺だって、卒論はインドネシアの食文化について書いて、貧富の差によって表れる食文化の差について考えもした。愛子が大学院で学問を究めるというのなら、俺は食文化の道を究めるぞ、この道をひたすらまっすぐ歩いて行くぞと、就職が決まった時思った。それがこのざまだ。
ケーキを一箱捨てるたびに、自分の中の大事なものが一つ失われていくような気がした。
小一時間かけて十軒くらいのコンビニをまわり、ケーキを捨てきった。
働き出して、何を得た? 得るどころか失われていくばかりじゃないか。
大人になるっていうのはそういうことなのかよ。俺はもうまっすぐには歩けない。
やりきれない気持ちを持て余したまま、俺は車を走らせた。
疲労困憊して帰宅する。部屋は散らかり放題で、一日中締め切っているから嫌な臭いがする。いつもは気にする余裕もないが、今日は変に鼻につく。ベッドには夏物と冬物の衣料がごっちゃになり積み重なり、脱ぎ捨てた服は異臭の発生源の一つだろう。先日愛子が来ると思って少しは片づけたつもりが、散らかるのはあっという間だ。流しにはもちろん食器やインスタント麺のカップが積み重なっている。それらのすべてから目をそむけたくてテレビをつけると、見覚えのある男の顔がアップで映し出されたので、頭の中までが整理不能に陥っているのかと混乱した。
「センパイ?」
紫色のだっさいジャージに身をつつみ、手元を作業着のような上着で隠されて両脇を警察官に抱えられてフラッシュを浴びまくっているその男がいつの時代の先輩なのか、映像に圧倒されてすぐには思い出せない。でもそれは絶対に俺の「先輩」だった。
ふと先輩がカメラに向かって、困り笑いをしたように見えた。
ああ、藤雅先輩だ。
高校時代のホッケー部の。風貌が似ていたのもあって親近感を持たれたのか、先輩には可愛がってもらった。人数の少ない弱小ホッケー部が、グラウンドで練習できるようになったのも、先輩が奔走してくれたおかげだった。ホッケーの試合を一緒に見に行ったときには、いつも飲み物をおごってくれたんだよ。良く考えたら同じ高校生で、そんなにお金もなかっただろうに。
自分にとっての「先輩」の初体験は他でもない藤雅先輩だ。
でもなんで? なんなの? みんな俺の藤雅先輩をどうしちゃったの??
捕まっているのが先輩なのは火を見るよりあきらかなのに、俺には先輩が被害者のように見えた。みんなでよってたかって、先輩をどこにつれていこうとしているんだ、あんな鉄の鎖をつけて、フラッシュを浴びせかけて。
画面下に流れたテロップには「殺人の疑い」と書かれていた。さつじんのうたがい。重罪じゃねえか!
心臓がドウンドウンと音を立てる。冷蔵庫から発泡酒を取り出し一気に飲んだ。煙草を取り出し火をつける。テレビを見ると、ニュースはもう終わって、深夜のお笑い番組が始まっていた。
見間違いだったんじゃないだろうか。俺は疲れ過ぎて幻覚まで見てしまっているのかも。
携帯を取り出し、検索エンジンで先輩の名前を検索しようとするまでもなく、トップニュースのところに先輩の写真がのっていた。
十月十二日、警察は藤雅孝容疑者(二十四)を、殺人の容疑で逮捕した。藤雅容疑者は、市内の民家に侵入、住人の川村陽子さん(三十)を刺し、騒ぎを聞きつけた近所の男性も刺した。川村さんは搬送先の病院で死亡が確認された。男性は意識不明の重体―――。
俺は頭を抱えた。そんなはずは、と思うと同時に、何かひっかかることがあった。その何かをうまくつかめないまま、俺は眠りに落ちた――。
6
携帯を家に忘れて、取りに帰ってみると画面に「着信86件」とあり、嘘だろ!? と思ったはなから着信音が鳴り響き、出ようとしてもなぜか出られない、というところで俺は目覚めた。なんだ夢か、良かったと思ったが、ベッドから落ちた携帯は鳴り続けている。事務所からだった。
「今どこ?」
田中さんの焦った声。全然良くないぞこれは。
「すみません寝てました。何時です?」
「うっわ。もうすぐ七時だよ。『ラポム』の注文書に『ロービ』って手書きで書いてるけど何?」
早口で田中さんはまくしたてる。
「……ローストビーフのことじゃないですか……?」
「ねえよそんなもん」
「わかってます。連絡しときます」
「ったく。早く来いよ」
そう言って電話はガチャンと切れた。料理人なんだからローストビーフくらい作れよ! と、キれている場合ではない。昨日着替えずに寝落ちしたのを幸いなことに、俺は言葉通り着の身着のまま、家を飛び出した。
商品がみつからないと言ってパニックになって怒鳴りつける配送員や、伝票を待たずにさっさと出発してしまう配送員への対応に追われ、朝起きるのはキツイが起きないともっとキツイという自分の格言をかみしめつつ、ブラックコーヒーを胃に流し込んで朝の仕事をなんとかこなす。朝礼で社長が言及するまで、先輩の事件のことを意識する間もなかった。
「このような残忍な事件が散見されるのはゆゆしき事態であり、人々の食生活に偏りがあるからに違いない。いまこそ食を大事にするときである。年末に向け、どの飲食店も忙しくなっていく今こそ、売り時、書きいれ時。売り逃すことなく、数字を作っていくように」
能力低下も殺人事件も、何でもかんでも食生活と会社の売り上げに繋げていくワンパターン話芸はいつものことだが、今日はより一層癪にさわる。
「こわあい」と、佐々木がわざとらしく口だけ動かすのが見えた。何が、「こわあい」だ。どうせ自分には無関係と思ってんだろう、俺が殺してこっち側に引っ張り込んでやろうか。俺の藤雅先輩は、佐々木にすら見下される存在になってしまった。それどころか先輩は一瞬にして、世間の憎悪を一身に背負うアイコンになったのだ。
顔を少し上げると、めずらしく成田さんが常務の標的になっている。たまたま常務が出た電話が、成田さんの得意先からのクレームだったらしい。商品が届くのが遅いとか、品切れが多いとか、そういう内容だった。でもそれって、成田さんのせいじゃないよな。「こんなに恥ずかしい思いをしたのは初めてです!」と常務は言う。いや、恥ずかしいとかいう問題じゃないでしょう、というか俺が常務だったら生きてるだけで恥ずかしいけどな、って成田さんも言いそうだなと思って成田さんの方を見たら、うつむいて少し震えていた。まさか泣いてる? と動揺したが、良く見ると笑いをこらえてるみたいで、安心はするのだけど、曲がりなりにも怒られて笑うとか、俺はなかなか、そんな風にはなれない。
腹の虫が大合唱するため、俺は車をコインパーキングに停める。ラジオのニュースでは先輩の事件の続報が流れる。重体だった男性が先ほど病院で息を引き取った、と堅い声でニュースキャスターは言った。動機や当時の状況も明らかになってきていて、職場でトラブルがあり、上司への恨みから、「殺すしかない」と思い至ったと供述しているらしい。上司の家まで行ったものの、そこには妻しかおらず、騒がれそうになったため刺した。たまたま家に押し入る姿を見かけ、後を追ってきた近所の人も口封じのため刺し、血まみれになって逃走しているところを捕まったらしい。
そして、妻は妊娠中だった、とニュースは報じた。それは、とても良くない。控えめに言って最悪だ。
朝からコーヒーを飲んだ以外は何も食べていないのに、吐きたい。今吐いたら、真っ黒でドロドロの液体が出てくる気がする。
何やってんだよ、先輩。一番殺さないといけないやつを殺さずに、無関係の人を巻き込んで、これで先輩の人生はもうオシマイだ。不謹慎とわかっていて、俺はそう思ってしまう。きっとブラックな会社だったんだろう、酷使されて、それで上司に恨みを持ったんだ。全然、わかる、俺だって働いているから、わかるよ。でもな。
携帯が鳴った。知らない番号だったが、もしかしたら先輩かもしれないと思って電話に出てから、先輩が電話をかけられる状況にないという当り前のことに気付く。そしたら新規の取引先か、とも思ったが、何のことはない、かけてきたのは高校時代の同級生だった。三年間クラスがいっしょだった割に、特に仲が良いわけでも悪いわけでもない、微妙な間柄の。
「おお、久しぶりじゃん」
俺は何でもない風を装って言う。
「ニュース見たかよ」
やっぱりその話題か、予想通りすぎて少しげんなりする。
「見たよ」
「お前部活いっしょだっただろ」
「うん、良い先輩だったのに」
「……そうか?」
「なんだよ」
「いや、別に」
「なんかあるなら言えよ」
「いや、さ、あれ、お前のとこのホッケー部がグラウンドの使用許可を取ったことあったじゃん」
「ああ、あれは先輩が頑張ってくれて」
「うーん、まあそうとも言えるんだけど。あのとき、芝のグラウンドの使用頻度一番高かったのがサッカー部でさ、直談判しにきたのよ、あの人。それはいいんだけどさ、俺もサッカー部だったからそんとき部室にいてさ、見たんだけど。なんか、工具? バールみたいなの持って部室入ってきて」
「なんだよそれ」
そんな話は知らない。それが本当なら、大問題になっていたはずじゃないか。
「いや『なんですかそれは』って聞いたら『別に』とかいって。でも手でこう、片手で持ってもう片方の手にそれを打ちつけてんの、パン、パンって。なんか異様でさ。その場にいたみんな凍りついちゃってさ、うちの部長もビビっちゃって。だからすんなりグラウンド使用権が手に入ったってわけだよ」
全然知らなかった。
そのあとも数人の同級生からの電話があった。考えてみれば、俺の学年でホッケー部だったのは俺だけだったから、手っ取り早かったんだろう。どの電話でも、先輩への評価は芳しくなかった。俺だって部活とその延長だけで付き合ってきたようなものだから、先輩のこと「知ってる」なんて言えない。いや、そうじゃない、知らないふりをしてきただけなのかもしれない。この会社に入社する前、「なんか変だな?」と思ったのを見過ごしたみたいに。
確かに、先輩には時に激しやすく、自分の衝動を抑えられないような一面があった。学食で一緒に並んでいた時、かしましい女子たちに横入りをされたときは大声で咎めた。グラウンドの使用時間を守らない部に対しても、すぐさま文句を言っていた。試合に負けた時、相手の反則が判定されなかったのが悔しくてスティックを折ってしまったこともある。ホッケー部でも後輩への指導が厳しすぎて、俺以外の部員は全員辞めてしまった。だからあの高校のホッケー部は俺の代で廃部になった。
先輩が、何故みんな辞めていくのだろうというような苦悩を吐露した時、何の気なしに、「もうちょっと優しく指導すれば、みんなもわかってくれるんじゃないですか」と言ったら、「何で俺ができないやつのレベルに合わせないといけないんだよ」と言って、ゴールをガンと蹴った。俺はそれ以上何も言えなかった。
先輩が高校を先に卒業してからは会うことはなかったが、電話はよくかかってきた。先輩は浪人していて、予備校の教師が偉そうでムカつくとか、女子に無視されるとか、その手の愚痴をくどくどと言うので、自分も受験生の身分だったこともあり、だんだんうっとおしくなっていったのだ。先輩、そんなことより勉強に集中しましょうよ、そっちのが大事でしょう、合格して見返してやりましょうよ、それとなく言いながら、生返事をするようになっていった。
最後に電話があったとき、先輩は泣いていた。予備校をクビになったという。
「俺はどうしてうまくやれないんだろう」
クビになった理由は言わず、鼻をずるずるすすりながら、ひたすら自責の言葉を並べた。
「先輩、人は変われます。大丈夫です」
俺は誠心誠意の言葉をかけたつもりだった。それっきり電話はかかってこなかった。
今も連絡を取り合う仲だったなら、一緒に飲みに行って、お互いの職場のブラックぶりを語り合って、憂さはらして、先輩もなんとか精神を保てたんじゃないか。
いや、そもそも、自分から電話をしたことは一度もないな。
俺はなんだかんだで、あの人を切り捨てたんじゃないのか。
「プハー! うめえ」
成田さんが、ビールのジョッキをガンと机に置いた。谷澤ちゃんいつも以上に辛気臭いな、というか臭えな、今日こそは飲むぞ、と半ば引きずられるようにして飲みにやってきた。居酒屋についてみたら島崎課長もいたので少し驚く。課長は結婚していて子どももいるので、飲み会に参加するイメージがあまりない。
週の半ばの水曜日でも、そこそこにぎわっているこの居酒屋は、うちの会社とは取引がない。会社から近いので、誰かが営業をかけているはずだが、取引は成立していない。きっとうちの会社の評判の悪さはこの界隈にとどろいているんだろう。得意先じゃないからこそ周りを気にせず会社の愚痴も垂れ流せる、オキノ食品社員にとっては居心地のいい居酒屋ではあった。そうか、悪評を広めているのは他でもない俺たちか。
ちょっと前に店長が缶コーヒーをおごってくれたあの居酒屋に行ったほうがいいのではないかという考えが一瞬頭をよぎったが、それ以降結局顔を出せておらず、気まずくてやめた。
「ほんと辞めてえよ。辞めてえ」
一言目には辞めたい、二言目にも辞めたいしか出てこないのが、我々の飲み会であり、俺も同調する。
「マジ辞めたいっす」
「いや、谷澤は辞めないと思うね」
成田さんが不敵な笑みを浮かべる。
「なんでですか」
「もう二年目も後半だろ。一年が一つの区切りなの。それ超えると、結構辞めない」
「やなジンクスだな」
「社長も常務も谷澤のこと気に入ってるしね」
島崎課長が焼酎のお湯割りをすすりながら言った。
「は? どこが?」
「そういえば、どこがだろう……?」
自分で言っておいて首をかしげるのは失礼じゃありませんか課長。
「お前、後輩肌だからじゃね? すぐペコペコするし」
成田さんが言った。おお、自分でも思っていたことを言い当てられたな。
「ああ見えて社長もショックなんだよ。去年とった新人が谷澤以外全員辞めちゃって。だから残った谷澤がよりいっそう可愛く思えるんじゃない?」
そういえば今年は営業の新卒採用がなかった。入ってきたのは大人しそうな事務員の女子一人で、佐々木と常務の双方からいびられていて可哀想だ。
「新卒とっても結局辞めちゃうからさ。中途でも同じっちゃ同じだけど。成田の代も二人だったけど、成田しか残んなかったし。でも、不況でしょ、ずっと。谷澤の年もどこも採用しぶい中で、雇用を生み出したいって社長も思ったんだと思うんだよ。だから五人採ったんでしょう。あの人なりに、思う所はあるんだよ、きっと」
脳味噌まで脂肪だと思っていたが、あの社長だって、まっすぐに道を歩きたいと思っているのだ。
「しかし谷澤もすぐ辞めると思ったけどなー。最初か細かったし。でも太って、貫録出たよ。普通にしてても臭ってくるし、オキノ食品らしさ出てきたと思う」
「課長、全っ然嬉しくないです」
「だろうね。ただまあ、健康体でいる限りは何かしら働かなくちゃいけないことは確かだからなあ」
さすが島崎課長は悟りを開いている。今日だってめっちゃ配達行かされてたのに、すごい。俺もいつか、こんな風になれるんだろうか。いや、なりたいか?
「昨日の殺人事件の近く、今日走ったんですよ。マスコミ来てすごいことなってた」
するめをくちゃくちゃさせながら、成田さんが言う。
「まあ、死刑だろうね」
まるで明日は晴れだろうねというくらいの声色で、課長は言った。
「上司を殺したくなるっていうのはわかるような気が」
「え、殺さないでよ」
「島崎課長じゃないですよ。社長とか、常務とか見てたら、ほんと殺したくなりますもん」
「今日成田君は常務に叱られてたしねえ」
「俺のせいでもないのに酷いでしょあれは。殺してえ」
「でもなんか、あの容疑者、谷澤に似てない?」
急に話の矛先を向けられて、俺は大仰に首を振る。
「な、なんでですか! 似てないですよ!」
「そっかなー。背格好とか似てるけどなー」
島崎課長は首をかしげる。
「あの人知り合いなんですよ」という言葉が喉まで出て引っ込む。
最後に先輩を見たのは、大学生のときだ。地元にできた新しい酒屋で先輩は働いていた。客がいるにも関わらず、そこの店長らしきおっさんが先輩を大声で怒鳴りつけるのを、俺は見たのだ。不愉快だったが、先輩が怒られることには不自然さはなかった。先輩、仕事、できないんだろうな、と思った。正義感が強く人の失敗は許さない割に、自分自身も決して要領よく何かをこなせるタイプではなかった。
あの電話以来だったので、とりあえず生きている姿を見てほっとしたが、声はかけられなかった。
声をかけようか迷ったその時の気持ちに、今の気持ちは似ている。久しぶりに見かけた先輩への親しみの気持ちと、もう関わり合いになるべきではないという直感と。先輩のヤバさを見て見ぬふりしながら、やっぱり俺は先輩を見放したのだ。
「よし、お前これ飲めよ」
成田さんがいつの間にか注文していたのは、コールタールのように真っ黒な液体だった。
「これ、なんですか。ものすごい黒いですけど」
「ブラック・ハイだよ」
「ハイボール?」
「飲んでみ飲んでみ」
成田さんは得意のニヤニヤ顔でグラスを俺に押し付けた。ニヤニヤばっかりで表現に芸がないんだけど実際ニヤニヤしてんだからそれ以上言いようがない。
「どう?」
「……キツイッス」
度数の高い酒であることはわかった。喉を通る時、じゅっと喉の焼ける音が聞こえるような気がするくらいに。同時にすごく甘い。喉が焼けるのは甘くて焼けているのかもしれない。甘いから、キツイとわかっていても、ついグラスに口を運んでしまう。悪魔の飲み物だこれは。
「これね、ウィスキーと、アルコールの入ったサイダーを割ってあるんだけど、色づけにエスプレッソと、黒蜜がはいってんの。だから苦くて甘―いんだよ」
「ひどい味ですね」
「うまいだろ。くせになるんだぜ」
ニヤニヤニヤとそう言うと、成田さんは自分のグラスを飲み干した。
俺もだんだんペースが速くなってくる。口に入れるとウッと思うのに、喉を通りすぎると舌が再びその味を求めてしまう。だんだん愉快になってくる、酔いがまわっている証拠だ。
そうだ、これは仕事と同じだ。嫌だ嫌だと思いつつ、やっているうちになんだか止まらなくなっていく。止まれなくなっていく。酔っ払いみたいに、大きな声を出して、笑って、ハイになる。
ああ、酔ってしまったら、俺はもっともっとまっすぐに歩けなくなってしまうじゃないか、そんなことを思いながら、俺は机につっぷした。
7
ハロウィンと、そのあとすぐに始まるクリスマス商戦、そしてお正月商戦に向けて、仕事の忙しさは増し、帰宅時間はどんどん遅くなり、終電で帰れないことも週に何度か出てきた。さっさと帰りがちな成田さんですら、遅くまで残っているのを見て「お、この感じ、そろそろ年末だな」と島崎課長は妙にうれしそうだ。終電がなくなった時は、会社の近くに住む成田さんに泊めてもらったり、営業車で帰ったりしている。車で帰るとキツいのが朝で、出勤途中に居眠りをしそうになることもしばしばあった。
最近は身体から発せられる異臭に加え、咳にも悩まされるようになっていた。風邪かなと最初は思っていたのだけれど、いつまでたっても咳だけがひかないのだった。
テレビやラジオのニュースで報道されることは数日もすればなくなったが、インターネット上では先輩の事件はまだまだ話題に上り続けていた。俺は仕事中にもせっせと検索しては情報を集めた。そんなことだから終電で帰れないのだとわかっていながら。
某掲示板に書かれていた「うっわ同じ高校だった。あん時からヤバくて有名。ついにやったな」という言葉に勝手に胸が痛んだ。これ書いたやつ出てこいよ、お前は先輩の何を知ってるんだよと、胸倉をつかんでやりたかった。
「通ってた予備校で、暴力沙汰起こして辞めさせられてた。教師に殴りかかって。教師もむかつくやつだったから、内心喝采だったけど、あの目はヤバイと思う」
という書き込みからは、あのときの電話はこれのことか、今更になってわかった。
たまに先輩を誉めたたえるようなコメントがあったりもして、空恐ろしさを感じると同時に、「ちょっとかっこよくない? あたし好み」なんていうコメントを見つけた時は、なんとなく誇らしくなってしまった自分がいた。
毎日眺めているうちに、先輩への批判や非難や、あてのはずれた賞賛すら自分へのそれのように錯覚してくる。ということは、あれをやったのは俺か? 違う。違うけれども、無関係とは、どうしても思えないのだった。
「谷澤、野中さんのこと、頼みたいんだけど」
課長が俺の肩を叩いた。ちょうどネットサーフィン真っ最中だったので、俺はやたらとビクッとなる。「藤雅容疑者の勤め先は有名なブラック会社」という書き込みを見つけたところだった。
「は?」
ウィンドウの×ボタンを即座に押して、振り返りながらゴホゴホと咳をする。
「野中さんの得意先、一緒に回ってフォローしてやってよ。まわりきれてないみたいだし、ちょっとクレームもあってさ」
「はああ? 俺の仕事はどうなるんすか」
ゴホゴホゴホゴホ、特に意にそぐわないことが起こると咳のスイッチが押されるようになっていると思う。品切れとか、遅配とか誤配とか、トラブルが起こるたびに咳は出る。
「このままいくと、年末配送が思いやられるよ。手の空いてるときでいいからさー」
そんな片手間でできる仕事なら、終電で帰れないなんてことないだろうが! なんてことはもちろん島崎課長だってわかっているはずで、課長も結構な時間残業をしているのを俺は知っている。こんな時期であることに加えて課長は近々新規にオープンする店を抱えているのだ。新規オープンは得意先もピリピリしているし、軌道に乗せるまでの今が大事な時期であるということは言われなくてもわかる。
島崎課長はゲスと言えど、自分の苦労をわざわざこれ見よがしに主張したりはしないのだ。成田さんなどはすぐに「おーい俺のすばらしい仕事ぶりを見てよ。過労死レベルだぜ」みたいに言ってくるけど。
「ヨロシクッオネガイシマッス!」
野中さんはやたら元気よく言った。元気さは彼の美点だ。いまだに年下の俺に敬語半分だし。
しかしパソコンに向かってタイピングをする様子を良く見ると、人差し指で一つずつキーを押さえている。パチ、パチ、と将棋でもさしているのかというくらいの間隔で、考え考えキーボードに指を置く。
だめだこいつ、本当にパソコンできないやつだ。その姿を見て俺はまた発作的にゴホゴホと咳をする。
結局断り切れずに、野中さんと週に何度か同行することになってしまった。
ひとつだけ良かったといえるのは、野中さんのことにかかずらわることで藤雅先輩を忘れることができることだった。まるで新しい恋人かよ。先輩を検索するのをやめる代わりに、野中さんの仕事のフォローにひたすらまわる日々が始まった。
「どうしよう……見積もりを持って行かないといけないのに、全然できてないんですよ……」
「と、とりあえず今日は俺がやります」
「アリガトウゴザイマッス!」
「取り寄せ商品の発注ってどうやったらいいんですかね……?」
「えーと、というかこの商品はすでに在庫していてこれ以上発注したら怒られます」
「アリガトウゴザイマッス!」
「会議のためにメーカーの売上出しとくように部長に言われたんですけど、やり方がイマイチわからなくて」
「と、とりあえず今日は僕が」
「アリガトウゴザイマッス!」
「腰が痛くてお休みシマース。今日取ってるアポどうしましょう?」
「とりあえず俺が、って、俺が行っていいのか?」
資料一枚作るのも、コピー一枚とるのも、野中さんがやると確実に人の倍時間がかかった。本来ならやり方を教えないといけないということはわかっていても、俺には先輩的スキルがない上に余裕も一切なかった。
しまいに成田さんがおもしろがって俺の耳元で「谷澤さんッ、アリガトウゴザイマッス!」と言ってきたときには、殴りかかりたくなるくらい荒んでいた。俺の殺気に気付いたのか、成田さんは「あんまりムキになんなよ、適当にやれよ」と言う。ニヤニヤと笑いながら。ニヤニヤ、ニヤニヤ、成田さんは笑っている。笑っているのに、俺はちっとも愉快じゃない。腹立ちまぎれに野中さんがミスコピーした資料を(裏表印刷を上下逆でやってのけるところが野中さんクオリティだ)ぐしゃぐしゃに丸めてゴミ箱に捨てた。
「野中さん、また間違ってる!」
朝から野中さんの伝票ミスが目立つ。冷凍うどんを冷凍ソバと打ち出したり、食塩一パックなのに一ケースと打ったり。小さな居酒屋に食塩がケースで届き、店長が激怒する姿が目に浮かぶようだ。
間違った伝票のまますでにトラックが出てしまっていたので、ついに俺の堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減しっかりしてください!」
「スミマセン!」
それを聞きつけた磐田部長が言った。
「おうおう、お前も偉くなったもんだな」
俺はむくれて返事をしない。そんなことを俺に言いながら磐田部長は野中さんのことは完全にムシしてるじゃないか。社内の誰もが野中さんに関わるべからずと思っているのが俺にはわかっているんだぞ。
「谷澤君、二番に『ラポム』さん」
佐々木が電話の着信を伝える。乱暴に受話器を取るとシェフがデミグラスソースのサンプルをいくつか持ってきてほしいと鷹揚な声で言った。洋食屋なんだからデミくらい自分ところで以下略、と思ったが、承諾して電話を切る。そっち方面に行く予定があるから今日持って行くかと思う。賞味期限切れ事件があってから、あのシェフの態度はますます大きくなっている。ローストビーフがないと伝えた時も電話口でえらい憤慨していたし。顔を思い浮かべるだけで気分が悪くなった。
物置でサンプルの物色をしているところに、佐々木がやってきた。
「ちょっと、野中さんどうなってんの」
佐々木が迷惑そうに、おろした髪をかきあげる。あ、こいつ、いつの間にみつあみやめたんだろう。気付かなかったな。ちょっと色っぽいじゃん。
「経費の精算の仕方、何回教えても間違うからこっちでもう一回計算しないといけなくて二度手間なんだけど」
あの人は計算もできないのか。
「それでミスったままこの間提出しちゃって、常務にめちゃ怒られたんだから」
佐々木はこう見えて常務には可愛がられている。同類だからな。たまに怒られるくらいいいんじゃねえの。
「そんなこと俺に言われても」
「谷澤君の後輩でしょ! 後輩のミスは先輩の責任っ!」
ガンッ。
その辺にあった一斗缶を俺は蹴っていた。佐々木がビクッと体を震わすのを無視して俺は言った。
「佐々木センパイよお、お前が俺のミスに責任とったことがあったか? 自分のうっ憤晴らすために俺を利用してんじゃねえよ」
「な、何よ、谷澤君のくせに生意気ッ」
ハイハイ、人をけなす語彙力も大変陳腐。俺は佐々木との距離を詰め、陳腐な言葉を返す。
「黙れよブス。犯すぞ」
佐々木の顔が真っ赤になる。
「っ! 常務にいいつけてやるから!」
逃げるように去る佐々木を見て、腹の底から笑いがこみあげてくるような、妙な充実感を俺は覚えていた。
「ラポム」に行く用事を作ったおかげで、今日は野中さんと別行動できることになった。ゴホゴホと咳をしながら、車を運転する。今日はしっかり駐車場に車を止め、トランクからサンプルを出そうとした時、奥にきらりと何かが光るのが見えた。
俺はおもむろにそれを手にとって、「ラポム」に向かう。
「失礼しまっす! お世話になります!」
「おお。……おお?」
シェフの顔が怪訝な表情に変わるのが判った。
俺は、手にお好み焼きをひっくり返す「ヘラ」を持っていた。
「なんだよ、それは」
「え? 別に、なんでもないですけど?」
俺はそう言って、段ボール箱の中からデミグラスソースの缶をとりだし、厨房の台に並べる。俺が缶を取り出すとき、シェフが一瞬身じろぎするのがわかって、俺は笑いをこらえた。
「左端がハイントの、真ん中がエムエムエー食品の、右のがカモメのデミです」
説明しながら俺は手元のヘラを自分の手にパン、パンとお好み焼きを返すみたいに打ち付ける。シェフの顔が引きつるのがわかる。それでも俺は素知らぬふりをして、話を続けた。
言葉にこそしないが、シェフがひいているのは明らかだった。俺はますます笑いをこらえる。別に何をするわけでもないのに、完全ビビってやんの。
ハイントのデミ十缶注文を受け、俺はにやけながら駐車場に向かった。いつもならなかなか注文を出さないのに、今日はすんなり出たな、これからもあの店ではあんな風にふるまってやろうか。
先輩もグラウンドの許可を取りに行く時、きっとこんな感じだったのだ。危害を加えるつもりはなくて(実際に何もしていないし)、ちょっと相手をビビらせるために、あんなことをしたのだろう。
携帯を見ると、知らない番号からの着信履歴があった。誰だ? そういえば昨日くらいにまた先輩の事件がニュースでとりあげられていたから、それに触発されて古い同級生がかけてきたのかもしれない。まあいいや、無視しておこう。
もう笑いはこらえられない、それどころか俺はスキップしたい気分になっていた。
このままいつか俺は、超えてはいけない一線を笑いながらこえるだろう。成田先輩みたいにニヤニヤと、佐々木みたいにクスクスと、北島さんみたいに豪快に、野中さんみたいにこびへつらうように、先輩みたいに困ったように。みんな顔には笑みを浮かべながら、行ってはいけないところに行こうとする、行ってしまう。
8
妙なテンションで営業に回る。自分の周りをうろちょろする野中さんの存在がなかったのもよかったのか注文も思ったよりぽんぽん取れて、新規開拓していた店はあともうひと押しすれば取引してくれそうだった。上々の営業結果だった。こんな楽しく仕事をするのは久しぶりかもしれない。
車の中でパンをむさぼり食っていて、ふと眠気を感じ、その辺でちょっと寝るか、と思ったところに、携帯が鳴る。磐田部長だ、嫌な予感しかない。
「おいお前」
最初の一声で怒っているのがわかる。眠気がスッと冷める。
「『ネギボウズ』の大将に、頼まれてた商品あったんじゃねえのか」
「あっ!」
そういえば一週間ほど前に居酒屋「ネギボウズ」を訪問した際、キャビアの缶づめを頼まれていた。在庫していないから取り寄せる、と返事をして、宴会に使うから今日までに届けてほしいって……。
「手配したのか」
「……」
「したのかって聞いてんだよ」
「してません。すみません」
すっかり忘れていた。さっきの着信は、もしかしたらその件での電話だったのかもしれない。
「ドアホ!」
「申し訳ありません!!」
「なんとかして、届けろよ」
「わっかりました!」
「今すぐにだぞ」
そう言って電話はブツッと切れた。「ネギボウズ」は、元は磐田部長の得意先だった。部長がよく飲みに行っていた店で、大将と意気投合して取引が始まったらしい。カウンター十席ほどの小さな居酒屋だから、磐田部長が担当するには小さく、島崎課長に担当が渡り、半年ほど前に俺が引き継ぐことになったのだ。
さすが磐田部長と意気投合するだけあって、大将もひとくせもふたくせもある人で、訪問しなければ機嫌を損ねるし、在庫にない商品をみつけてこいと言ってくるし、ややこしい得意先だった。「対応にはくれぐれも気をつけるように」と島崎課長に念を押されていたにもかかわらず、やってしまった。
そもそも先日訪問した日は野中さんと一緒に行動していて、「ネギボウズ」でも「外においてあるカモがネギしょった置物は何処で売っているのか」とかどうでもいいことを聞き始め、大将の機嫌を損ねやしないかと俺をひやひやさせ、そのあとに訪問した野中さんの担当先のてんぷら屋では見積もりの表記ミスを料理長にこってりしぼられ、帰ってから見積もりの訂正をつきっきりでやって、しかも間違ったせいで今までより安い値段で油を入れないといけなくなったことが磐田部長にばれてさらに怒られて。それで忘れてしまった。
言い訳だ、言い訳だとはわかっているけれども、やるせない。
ともかくキャビアを届けなければならない。こんな時には、「業務用マーケット」である。「♪いつでも誰でも、プロの味。業務用マーケット♪」というCMソングでお馴染みの、業務用食材を広く市販する店で、どうしても在庫が揃わないときなどは俺たちも買いに行く、いろんな意味で「プロ」御用達の店だった。
はたして、キャビアの缶詰もそこにあった。これを経費で落とすとなったらまた佐々木に嫌味を言われるだろうと思うと気落ちしつつ、領収書を取り、駐車場に向かっていると、喫煙コーナーで見慣れた顔が煙草を吸っているのが見えた。
「成田さん」
「よーお」
成田さんはご機嫌に片手をあげる。
「何か欠品出たんですか?」
「いやあ? 昼寝だよ、昼寝。ここ駐車無料だし、結構穴場なんだぜ」
「そうですか、俺は、シクったんでこれから配達です」
「明日でいいんじゃん? ちょっと茶でも行かね?」
成田さんはぷらぷらと駐車場まで着いてくる。
「磐田部長と懇意にしてる店なんで。行かないと殺されます」
「つくづく運がないねー」
「ラッキーボウイの成田さんとは違いますから」
俺は咳をしながら、車のキーを差し込む。成田さんの得意先には「ラッキーボウイ」というハンバーグ屋があって、たまに磐田部長が「おいラッキーボウイ」と呼んでいる。きっと言霊ってあるんだ。「ラッキーボウイ」と呼ばれるうちに、成田さんは幸運な男になったのだ。俺はしょせん「ネギボウズ」だ。
「谷澤あ、そろそろ逃げるのか」
急に成田さんが真顔でたずねた。俺は黙ってしまう。「辞めるのか」ということを言いたかったのだとすぐにわかったが、「逃げるのか」というのはあまりに短絡的過ぎる言葉ではないか。俺が辞めるとしても、北島さんみたいに会社の金を持ち逃げするわけじゃない。
「成田さんは?」
「俺は、逃げられねえな」
業務用マーケットのギラギラ光るライトを背に浴びてか、成田先輩は後光が指すようにやたらかっこよく見えた。いや、かっこつけてないで逃げましょうよ!
もしかしたら、普段はあのニヤニヤ笑いで隠しているだけで、実は一番自尊心が低いのは成田さんなのかもな、真顔の成田さんを見てふと思う。俺は結局何も言えずに車に乗り込んで、エンジンをかけた。
車を走らせ始めてすぐに、眠気の波が押し寄せてきた。
どうしたものか、日差しが暖かすぎる。ラジオをつけた。こんな時に限って、メロウな音楽が流れてくる。
「死んでもあなたのことを愛し続けるわ」
ねっとりとした声色で、歌手は歌う。誰だよ昼間にこんな暗い歌リクエストしたやつは。
次の角を曲がったら、ちょっと車を止めて眠ろう、もう少し、あと少しだ、ちょっと眠って、また動けばいいんだ。
ああ、でもまあ、もう死んでもいいかもしれないな、誰かを殺してしまう前に。あるいは死んだら、逃げられる。
ドン。
一瞬気を失ったが、目の前に白い風船が現れたので、度肝を抜かれた。エアバックだ。マジか。よろよろと降りて乗っていた営業車を見るとボンネットの部分が半分くらいひしゃげていた。
「逃げたい」
はっきりとそう思った。けれども、逃げるための車は白い煙を吐いて使い物になりそうにない。俺が車を見て言葉を失っていると、怒声が飛んだ。
「お前、そっちじゃなくてこっちだろ」
声の方を見ると、前を走っていたトラックから人が降りてきていた。トラックの後ろは少しへこんでいる。俺が当てたのか。
「も、も、申し訳ありませんでした!」
慌てて謝ると、わかったから警察呼んで、と言われた。そうか交通事故を起こしたら警察を呼ばなくてはいけないんだ。警察のお世話になるなんて、俺もいよいよ先輩の仲間入りか。「あの―事故起こしちゃいまして」としどろもどろに伝えると、警察は慣れた様子で「けが人はありませんか?」と聞いた。けが人? 誰かを轢いたわけではないので、大丈夫ですと答える。警察はすぐに来るとのことだった。とにかくシステムがわからない。煙を吐いている営業車が気になって、ちらちら見ながら電話を終えると、運転手が言った。
「普通な、けがはないかとか聞くもんだろ、自分の車ばっかり見やがって」
「すみません、けがはないですか?」
「ものすごい速度でつっこんでくるから、首いてえよ。ま、あとで病院行くから」
「本当に、申し訳ありませんでした!」
深く頭を垂れる俺を見て、手練れっぽいトラック運転手はやれやれと言った風に首に手を当てながらひねる。
その通りだ。事故をしたら、まず相手のことを気遣うのが当り前のことだろう。でも俺は「逃げたい」とか車壊しちゃってどうしようとか、そういうことしか思い浮かばなかった。それどころか、もし車が動いて、逃げられる状況にあったら、逃げなかったとは言い切れない。それって怖くないか?
「居眠り?」
「多分……」
よくわからなかった。とにかく一瞬のことで、でもその一瞬で取り返しのつかないことをしてしまったのは確かだった。
「警察には居眠りって言うなよ。最近厳しいから、免許取り上げられるぞ」
運転手は煙草を取り出しながら言った。
警察が来て慌ただしく現場検証やら事情聴取やらが行われた。事故原因を聞かれ、言葉に詰まった俺に、警察官は「わき見……かな?」と言ってくれて、俺は慌てて頷いた。それで良かったんだろうか。
俺の乗っていた営業車は、どこからともなく現れたカーキャリアが運んで行った。
「途中まで乗っていくか?」
取り残された俺が呆然としているのを見かねて、トラック運転手が声をかけてくれたのだ。相手のトラックは運転できるくらいの被害で、あとで修理に出すらしい。
「え、いや、そんな、ご迷惑かけるんで、申し訳ないです」
「もうすでに十分迷惑だからいいよ。途中まで乗って行きな」
結局お言葉に甘えて俺は助手席に乗り込み、ひざの上にキャビアの缶をちょんと乗せる。このキャビア一缶のために、犠牲になったものは大きい。
「久々やられたわー」
首をかしげながら運転手は笑う。運転しながらもさっきから何度もかしげていて、気になるみたいだった。俺のせいだ。
「本当に申し訳ありませんでした」
「仕事忙しいの?」
「いや、まあ……」
「俺も昔やったからな。でも交通事故はほんと、下手したら相手の人生も自分の人生もめちゃくちゃにするから。気をつけろよ。疲れてるとか言い訳にならないから」
「……はい……」
運転手は噴き出す。
「てかなんなの、なんで俺が励ましてんの。お前なんなの」
それは俺が後輩肌だからです、と言おうかと思ったけどこんなときに不謹慎だしうまく説明できる気がしなかった。
こんなに親切な人を、俺は傷つけてしまったのだ。しかも、あろうことか逃げたいとすら思った。俺は自分が怖い。こんなことは初めてだった。
キャビア一缶、配達を終えて電車で事務所に帰ると、磐田部長が鬼の形相で詰め寄ってきた。
「ドアホウめ!」
ゴン、とげんこを振り落とされる。
「いっ! 申し訳ありませんでした!」
痛みをこらえて頭を下げると、
「謝るのだけ一人前になりやがって!」
と捨て台詞をはいて、煙草を吸いに出てしまった。食べるのに加え、謝るのも一人前になりました、とお茶らけてみる元気もない。コソッと島崎課長が「心配して早く帰ってきたんだよ、磐田部長」とささやいた。申し訳なかった。
「谷澤さん! おつかれさまっす!」
野中さんがニカッと笑う。
「ドンマイっす。俺も、やったことあるっす!」
何の慰めにもならない。そもそも、俺がシクったのはお前のせいだ。俺が黙っていると、野中さんはニコニコしながら続けた。
「ところで谷澤さん、帰ってくるの待ってたんですよ。チョット教えてほしいことがあるんすけど……」
ゴホゴホゴホゴホ! 思い切り咳こんで俺は体を折り曲げる。咳をしすぎて背中が痛い。
殺される。俺は、このままだとこの人畜無害な笑顔に殺される。
自分の仕事だけでも手いっぱいで、トラブルも多くて、毎日眠くて、足は臭くて、咳は止まらず、毎日クタクタで、フラフラになって、事故って、それでこの人の笑顔にまで付き合っていたら、俺は殺されてしまう。
もしくは、このままいけば俺がこの人を殺してしまう。
殺すか殺されるかだって、先輩も思ったのかもしれない。このまま上司にこきつかわれていたら、殺される、だから先に殺さなければならない。その思考に至った過程が、俺には容易に想像がついた。
先輩のいるところに、僕はもうすぐたどり着いてしまう。そしたらみんな言うんだ、「ついにやった」って。
ふと横目に見た窓ガラスに映る自分が、少し前まで検索しては眺めていたあの顔、昔良く似ていると言われた先輩の顔そのものに、見えた。
9
年内最終配送日、注文がパンクして、配送センターだけでは荷物が運びきれず、営業も駆り出されている。
毎年恒例のことで、社内はちょっとお祭りのような空気だ。磐田部長もジーパンで出勤し、三トントラックに荷物を満杯にして颯爽と配達に出ていった。ジーパンの上司たちとはうらはらに、俺や成田さんや野中さんの下っ端軍団はスーツで来ている。スーツ姿の営業マンが配達に駆り出されているというアピールで、ちょっとくらいモタついたり遅配しても、営業さんだからしょうがないと同情を買う作戦なのだ。
俺はお馴染み野中さんとペアを組まされた。この度の事故により地獄のスタンプカードはついにいっぱいとなり、免許停止となったため運転は野中さんにまかせる。横で「やっぱり長時間運転すると腰がムズムズするなあ」とか言ってるけど、おいおい、さっきから「腰がちょっと」とか言って車で待機しやがって、一人で車と得意先を往復して、数えきれないほどの油を運んでるのは俺だぜ? そんなことを考えているとまた咳が止まらない。
事故のあと、俺はこってりと社長に絞られ常務に嫌味を言われ、佐々木から揶揄され、成田さんをはじめとする他の営業部員から憐みの笑みをおくられた。営業部や配送の人間にとっては、車での交通事故は誰もが心当たりのあることのようだった。田中主任は、昔営業車で川に落ちたことがあると、まるで良い思い出を懐かしむみたいに言った。
車が全損したこともあり、ボーナスは全額カットされた。罰金も払わないといけない。何よりあのあとトラックの運転手が「むちうち」の診断を受けたということが、俺をますます落ち込ませた。これは物損事故じゃなくて、人身事故なのだ。もし相手が自転車に乗っている人だったりそれどころか歩行者だったりしたら……したら? 俺の人生は、先輩と同じように罪なき人を巻き込んだ挙句に、終わっていただろう。
今日が終われば年末年始は三日間の休みがある。うちの会社にしては、良心的な措置だ。ただし磐田部長が担当しているような超大型得意先については年末年始も配達があり、田中主任は出勤、配達は外注するらしい。もう休んでしまえばいいのに、「二十四時間三百六十五日営業が当り前の社会です!」と、自分は休むくせに社長は今朝の朝礼で言っていた。
田中主任は川に突っ込んだ事故がきっかけで、営業から事務員に転身したらしい。さらに田中主任は大きな借金をして、それを社長に肩代わりしてもらった恩があるから、会社に対してあそこまで忠実なのだ、という噂もセットで成田さんから聞いたのだけれど、本当なのかは謎だ。
免停講習に行った後、しばらくすると検察庁からの出頭命令があった。ついに逮捕かとビビりながら行ってみると、まるで面接を受けるみたいに当時の状況を聞かれて、反省の言葉を述べて、それでお終いだった。それでいいの? もっと俺を裁いてくれよ、適切な罰を与えてくれよと、俺はどこかで思えてならないのだ。
できれば車の運転をもうしたくない、いや、するべきではない、というのは甘えなのだろうか。早朝出勤、長時間の朝礼や会議、客からの罵倒に無理な要求、クレーム、品切れ、金欠、体調不良、事故。働いていたらいくらでもクソみたいなことは起こって、どこからどこまでを自分は甘えずに耐えなければならないんだろう。
「このへんなんですよ、あの事件」
地図を見ながら、つぶやくように俺は言う。
「ええ?」
「ほら、十月くらいに、上司の妻を殺害したってやつ……」
「ああ、埼玉の方でなんかあったやつですか?」
野中さんは最近起こった別の事件を指して言った。
「いや、そうじゃなくて、ほんとこの近所の五キロもいかないとこであったんですよ」
「わー、すみません、覚えてないっす」
「そうですか」
似たような陰惨な事件は、毎日世界のどこかで起こっているから、みんな日々それらを消化するのに忙しい。ひどいことは起こり過ぎて、一つ一つのことをいつまでも覚えていることはできない。日々アップデート、上書き保存。
俺だって、今のまま毎日を送っていれば、じきに先輩のことを忘れてしまうだろう。
そして俺はいつか先輩のように何か取り返しのつかないことをやってしまうかもしれない。もうすでにいくつかのことはやってしまっている。誰かに止めてほしくても、止めてはくれない。会社の理不尽と同じく、自分自身の理不尽にだって、対応しなければならないのは結局自分だ。
汗でぐっしょり濡れたシャツが今度は冷え始めて寒い。スーツ作戦は動きにくいだけで効果はほとんどなかった。来年はジーパンにポロシャツが正解だ。来年? 来年末も、ここに俺はいるのか?
なんだかわからないけど、いまだ、と思った。
「野中さん」
「はい、なんでしょう」
野中さんは鼻歌でも歌いだしそうな陽気な声で答えた。
「俺、ここで降ります」
「え」
「逃げます。俺」
「……わかりました」
一瞬虚を突かれた顔をしたのち、引き締まった表情で、野中さんは言う。
密かに作りため、会社のパソコンに保存していた引き継ぎ書のファイルのありかを伝えて、俺は言った。
「あとのことは、まかせます」
「了解しました」
「野中さんも、自分で決めて、ちゃんと逃げてくださいね」
「……そうですね」
野中さんはおそらく俺の仕事を引き継がされて、このあときっとボロボロになる。申し訳ないけれど、そこから逃げるかどうか決めるのは野中さん自身の問題だ。
それに、このまま俺と一緒にいても、きっと俺は野中さんを殺すだろう。もしくは野中さんが俺を殺すだろう。
野中さんは車を路肩に止め、ドアのロックを開けた。
通勤バックの中身を無造作に確認する。財布や家の鍵、パソコンなどの貴重品は持って出ていた。事務所にも私物はあるが、これからの俺の人生に必要な物は何もないと思った。ただ、あそこに集まる人たちの顔をもう見ることがないことについては、少しばかり寂しい気がした。でも、仕方がない。
「あ」
カバンの内ポケットに封筒を見つけて取り出した俺は、野中さんに渡す。
「これは、僕からの餞別です。困った時に使ってください」
封筒の中には黒七味と交換した二万六千円とそれを証明する受け取り伝票が入っている。すっかり忘れていた。
「え? え?」
野中さんが戸惑った反応をするのを尻目に、俺はトラックからするりと降りた。中身を確認して、野中さんは何かを悟ったようだった。
「じゃあ」
僕が言うと
「じゃあ」
野中さんはチャキ、と敬礼をした。
一瞥して、僕は走りだす。走り出してから、あまり土地勘のない場所だということを思い出す。この辺は成田さんの管轄エリアで、そしてこの町で、先輩と、先輩に殺された人たちは人生を失った。
俺はまだ、失いたくない。往生際が悪いかもしれないけど。だから、逃げることにする。
何かに蹴つまづいて、バランスを崩す。思うように走れない。ホッケー部では一番早かった。「お前、はええよ」と言った先輩の笑顔を思い出す。テレビに向けたいびつな笑顔ではなく、それが俺の知る先輩の本当の笑顔だ。
世界が事件のことを忘れても、俺は忘れない、気の毒な妻も、生まれてくるはずだった子どもも、巻き添えにされた男性も、残された夫も、極刑になるかもしれない先輩のことも、そして先輩の本当の笑顔も。
これから先、車を運転しないとすれば、俺にはこの足しかない。運動不足がたたっているが、きっとすぐに取り戻す。すっかり贅肉のついた身体も、走っているうちに引き締まっていくだろう。そういえば、咳はさっきからもう出ていない。通りかかったコンビニのゴミ箱に、胸ポケットに入っていた煙草とライターを捨てる。
とにかく俺は、逃げるんだ。
徐々に速度を上げて、俺は見知らぬ町を走り抜けた。
〈了〉