7.0話 バスケボールを目指して
「――――おはよう?」
少女はそれだけ言うと小首を傾げたままでいる。足を伸ばしたまま、上半身だけ起こしている。長座位と呼ばれる姿勢だ。
そんな少女は2人の男性の視線に晒されている。
2人は目を覚ました優の姿を、初めてじっくりと見ることができた。
眠り続けていた時の儚い印象とは異なり、窶れてはいるものの、何処か活発な印象を受ける。ついに開かれたその瞳は大きく黒目がちだ。いや、目は実際には大きくない。顔が小さい為に大きくみえるのだろう。眠ったままだった美しく儚い美少女は、目を覚ますと可愛らしく快活な美少女へと変貌を遂げた。
その活動的な印象を与える瞳は、島井を捉えたまま離さない。
島井も伊藤もじっと優の動向を窺っていた。島井は先ほどまで声を掛けていたが、それは医師としての声掛けだった。いざ、少女を前にして何を切り出せばいいか分からなくなってしまった。下手に声を掛け間違えると先ほどの過呼吸を再度、誘発する可能性もある。それも躊躇わせる要因の1つだ。
伊藤も同じく声を掛けられないでいた。伊藤の場合は得も知れぬ高揚感で言葉を失ってしまっていたのだった。
そのまま、どのくらいの時間が経過しただろうか。
沈黙を破ったのは意外にも優だった。
いつの間にか傾げていた首は、元に戻っている。
「――ありがとう」
鈴の音のような可愛らしい声だった。柔らかく微笑む美少女の姿に、この場の男性2人は困り顔から優しいものに変化する。だが優の表情はすぐに驚いたものに変わってしまう。
細く白い喉に小さな可愛い手を当て言った。
「――――あれ?」
また小首を傾げる。無理もない。眠って起きたら自分の声が高く変化していたのだ。誰でも戸惑う事だろう。
暫しの沈黙を挟み、また可愛い声で呟く。
「――まぁ――いいや」
違和感を感じた様子だが、即座に排除してしまったようだ。
「……いいのか?」
伊藤がそう呟いた。気持ちは解りすぎる。
その言葉に優が固まる。伊藤を見詰め続ける。
そこからまたしばらく無言の時間が流れる。
伊藤が優の視線に耐えられなくなり、目を逸らした。
それを見たのか、はたまた何か思う事があったのか、タイミング良く優が動き出した。右手の第一指を除く4本の指を、白く薄い毛布の右端に差し入れる。親指と他の指で毛布を挟み、その毛布を除けようと右腕を動かす。しかし、毛布はスルリと優の右手から逃れ、ほとんど同じ場所に戻ってしまった。
「――――あれ?」
その小さな掌を精一杯に開き、じっと見詰め、首を傾げる。
優の挙動を目の当たりにし、島井がようやく口を開いた。
「力。……入らない?」
意外と早く反応する。こくりとしっかり大きく頷いたのだ。
「理解力に問題は無いのか……?」
誰に言うでも無く、島井は呟く。今、彼の頭の中は様々な推測、仮説、希望や懸念に支配されている事だろう。
少女は端正な顔を島井に向け、不満そうに口を尖らせる。
それも束の間、すぐに顔を背け、小さな声で「――まぁいいや」と呟いた。
素の表情に戻り、周囲をゆっくり見渡す。
「――ひろい?」
またも小首を傾げ、沈黙する。頭を倒す方向は必ず左だ。どうやら癖のようである。事故以前からの癖なのかは2人には分からない。伊藤に至っては何度も小首を傾げる優の姿を見て苦笑いしている。
「――――ここ――どこ?」
キョロキョロと見回しながら言う。せわしないその動きは小動物を連想させる。
「病院だよ」
島井が返答した。伊藤は遣り取りを観察するポジションを選んだらしい。優のベッド、足元側に佇んだままでいる。
返答を聞いても少女は周囲の観察を止めない。しきりに右へ左へ。天井へ、床へとあちこち見回す。納得していないようだ。
「後ろを見てみるといい。納得できるはずだよ」
優は視線を島井に向けて動きを止める。その口は小さく開いている。
左に小首を傾げる。
「――なに?」
なるほど……と、2回3回と首を縦に振る。主治医は何かを理解したらしい。
「後ろ」
優の背後を指差し、ゆっくりと短く言い直す。
優はそれを聞くと、右手を自身のお尻の後ろに突き、後ろを振り返ろうとしてバランスを崩す。
「おっと」
島井が左腕一本で小さな躰を支え、助け起こしてあげた。
すると今度は左手をお尻の後ろに突こうとして動きを止めた。
左手を自分の目の前に移動させ、人差し指の先の小さな機械をまじまじと凝視している。
「あぁ。邪魔だね。取ってあげよう」
島井は優の白く小さな左手を、同じく自分の左手で優しく包む。更に右手を優の左手首のストラップに伸ばし、動きを止めた。
優の足元に佇んだままだった伊藤が動いた為だ。優の左側、島井の逆側を歩き、ベッドの斜め後方に位置する生体情報モニタの前に立つ。体を軽く屈め、画面に直接、触る。タッチパネル式のようだ。タッチを数回、繰り返すと「OKです」と島井に向け右手の第一指と第二指で円を作り、島井に知らせた。
忘れてたよ。ごめん。ありがとうと意味を込め、右手を少し上げ伊藤に謝意を示す。
伊藤は生体情報監視装置の警報機能を切ったのである。彼はいえいえとばかりに首を横に振った。
島井は優の左手の脱落防止のストラップのマジックテープをバリッと剥がし、指先のパルスオキシメーターと一緒に取り外し、そのセットを伊藤に手渡す。伊藤は受け取ると生体情報モニターの台に置いた。
直後に伊藤は何を思ったのかNSへのドアへ歩いていった。
優は小さな機器とストラップが外された、何も無い左の掌を見詰めたまま眉をハの字に困惑の表情を浮かべている。
「どうかしたかい?」
島井が問いかける。今更、その自身の掌の小ささに驚いたのだろうかと思う。優は首を傾げ幾分の間の後に言った。
「――なん――だっけ?」
違ったようだ。どうやらこの子は自身の変化に気付いていないようだ。いや、気にしていないだけかも知れない。最初は声に違和感を感じた様子だったが、既にその様子は最初の『まぁいいや』と共に消失している。
言葉通り、何をしようとしていたのか忘れてしまったのだろう。
はは……と、笑いながら島井が助け船を出す。口調はゆっくり、単語を少なくだ。
「どこ? だよね? 後ろだよ」
優はしばらくの思考する。右手をベッドに突こうとし、島井が制する。
「左手で」
ほんの少し前に右手を突こうとし、倒れかけた事も忘れているようだ。左手と聞き、従順に言われた通り、左手を支えにようやく振り返る。躰が倒れないよう島井はそっと支えた。
優が振り向いた先には生体情報監視装置、そのモニターである生体情報モニター。現在、使用されていない為に少し離れた場所に置いてある人工呼吸器、補助循環装置と言った医療機器が並んでいる。それらはVIPルームからの撤去も考慮されたが脳の状態を考慮し、そのまま残してあった物たちだ。
それらをしばらく眺め、満足したのか体を正面に戻す。
「――びょういん?」
納得できないといった様子だ。部屋が広く華美すぎる為かも知れない。
「そう。病院なんだよ」
このVIPルームを短い単語でどう説明しようか……と、悩む。
そんな時、伊藤がNSから戻ってきた。黒基調のオフィスチェアを引っ張ってきている。
「先生。長くなりそうなんで座りましょう」
島井は自分が少女の傍らでしゃがみ込んでいる事に気付いた。
立ち上がると若干、足の痺れを感じる。
「そうだね」
爽やかな笑顔を向け同意する。そして、元々、伊藤が持ち込んでいた椅子を引き寄せ、優の傍らに座る。ベッドの反対側では、今、自身が持ち込んだ椅子に腰掛ける伊藤が居た。
さて、ゆっくりVIPルームの説明を始めよう。長くなるぞ。そう思った時だった。優が俯き呟く。それは小さな呟きであったが彼女に集中していた2人には、はっきり聞こえた。声が高く、よく通る所為もあるだろう。
「――そっか」
――――。
「――ボク――じこって――」
俯き、キュッと小さな両手で白い毛布を握り締める。巻き込まれた毛布が皺を作った。
優の傍に座る島井と伊藤はそれぞれ真剣な表情だ。一挙手一投足も見逃すまい……と、瞬きさえも忘れ、観察する。
今晩、寝言から始まり、跳び起き、過呼吸を起こした理由。過呼吸――過換気症候群は身体的な要因で起きる事は基本的に無い。心臓や呼吸器の問題で発症する似た症状のものがあり、そちらは頻呼吸だ。頻呼吸の場合、血中酸素飽和濃度は低下する。優の血中酸素飽和濃度は上昇した。つまり起床直後の呼吸異常は頻呼吸では無く過呼吸と言う事になる。
脳が原因とも考えられるが可能性は低いだろう。優は脳の半分ほどを物理的に失った。何が起きても不思議では無い状態である。だが、再構築を経て脳は僅かながら再生を始めている。今朝、渡辺が軽い調子で語った『僕が自分の脳を治せるとしたら……、大事な箇所から治しますからね』は案外、説得力のある話だ。
多くを破壊されながらも今、こうして優は普通に……、とはまでいかないが会話さえ可能な状態だ。日々の観察で身体機能に大きな問題は見つかっていない。右腕……いや、右下肢もかも知れないが、軽い麻痺が残っている様子がある程度である。脳が生命維持活動機能を優先し、修復したのでは推し量るのは容易だ。それならば、生命維持に絶対必要な呼吸動作に障害を残すとは考え辛い。
今回の過呼吸の要因は、一般的な要因でほぼ間違いないだろう。過呼吸の一般的な要因とは精神的要因だ。強い不安、緊張……、そして『恐怖』。
優は直前の夢の中で事故を直接的に目撃したのではないか?
それが精神的外傷となり、過呼吸を誘発したのではないか?
だとすると事故の記憶は危険だ。過呼吸が収まった直後の沈黙の時間を思い出す。だが、事故の記憶から目を避けさせる事も出来ない。
2人は優が事故の記憶をどう呑み込むか、固唾を呑んで見守る。
優はゆっくりと顔を上げる。不安げな表情でぼんやりと視線を泳がす。やがて優の眼差しは左前方の、とある一点に固定された。
島井も伊藤もその視線を追う。そこにはソファーが鎮座している。そのソファーの座面には、バスケットシューズとバスケットボールが並んでいた。
目線を手元に戻すと左手で毛布を掴み、跳ね退ける。優の白く細い足が露わになるが、変化に気付くことなく、左手を支えに左に体の向きを緩慢な動作で旋回させる。
同時に伊藤は立ち上がり、座ったばかりのオフィスチェアを2mほどベッドから離す。
少女は左足から順番に両方の足をベッドから降ろしていく。履かされていた紙オムツがちらりと覗くが、それも気にしていないようだ。
伊藤から少し遅れて島井も立ち上がり、ベッドの足元側から回り込んでいた。迅速な行動だった。そのまま少しの間しゃがみ、ベッドの端にS字フックでぶら下げられた、少量の淡黄色の液体の入ったバッグをフックから外し、フローリングの床に降ろした。
そのバックの上部からはチューブが伸びており、優の履く紙オムツの中に繋がっている。
所謂、膀胱留置カテーテルと畜尿バッグだ。よく見ると優の右大腿には1枚の長細いサージカルテープが貼ってあり、カテーテルにたわみを作っているようだった。
優は一瞬、その管に気を取られかけたが「――まぁ、いいや」と無視する事に決めたようだった。目線をソファーに戻す。島井は右に伊藤が左に、少女を囲む。美少女は軽く目を瞠り、驚いた様子を見せる……が、2人はその様子に気付かなかった。目配せし合っていたからである。立ち上がり歩こうとしているのは明らかだ。だが歩けるのか、立てるのかさえ不明瞭だ。右下肢もまた弱い可能性も十分にある。
少女の足は床に届いていない。前傾姿勢で両手をベッドの端に突き、体を前にずらして足を床に付けると、前傾のまま立ち上がろうと力を込めた。
「――――あれ?」
立ち上がれない。無理も無い。7ヵ月半ぶりなのだ。いや、体が小さく再生してからは初めてか。伊藤が左手を島井が右手を手に取る。開いた手をそれぞれ、二の腕、脇の下に近い部分に差し入れると、伊藤が「せぇの」と声を掛けた。
瞬間、2人は繋いだ手を優の前方、やや下向きに軽く引っ張る。ふわっとお尻が浮く瞬間に合わせ、脇を支える。伊藤が右手で左の二の腕を、島井が左手で右の二の腕を。繋いでいた手を離すと、フォローは要しているものの、自身で立位の保持をしてみせた。
「――せいこう」と小さく言葉を零し、頭だけでこくりと礼をする。
立ち上がりに成功したが、その足はぷるぷると小刻みに震えている。
それでも、その瞳はバスケボールを見据えている。
毎日毎日、拘縮……、廃用症候群により、体が固まってしまわないよう、専属看護師と島井の手によって関節は動かされていた。それでも筋力は、どうにもならない。
「取ってきましょうか?」
「いや、やりたいようにさせてあげよう」
小声での遣り取りは優の頭上を越えて行われた。優の背は低い。破壊された骨が融け、そこから修復された分、骨格そのものが縮まったのでは……と、仮説を立てたのは島井だった。
現在の優の身長は中学3年生女子の平均身長を遥かに下回る137cmである。仰向けで眠っている時に測定した為、正確ではないが、それは誤差の範疇だろう。
優は頭上での遣り取りを気にする様子も無く、ソファーに向けて、ほんの少し右足を踏み出す。ソファーまで10mと少しだろうか。伊藤は美少女の真剣な凛とした表情に息を呑む。
左足を踏み出そうとしてバランスを崩す。右膝がかくりと落ちたのだ。咄嗟に島井が左手に力を込め支える。
それだけでバランスは立て直されたが、島井は右手も支えようと躰の前面に回っている。伊藤は右手を離さぬまま、その大きな体で回り込んでいた。
優は体を捩る。上腕に据えられていた島井の左手が、バランスを崩した拍子に腋下にすっかり入ってしまっていた。
島井は苦笑し、左手で優の右手首を下から軽く掴み、肘で脇の下を支持する形に切り替えた。島井は170cmほどの為、丁度良い様子だ。
歩行のアドバイスをしようかとも思ったが任せてみる事にした。
優は右足を真っ直ぐに……、膝に力を入れ、左足を右足の隣まで進める。彼女の表情は真剣なものから必死なものに変わっている。
続いて、右足を少し踏み出す。そしてまた左足を右足まで進める。それを震える足で繰り返していく。
島井も伊藤も目を瞠った。島井の左腕を杖の代わりとしたニ動作歩行を教えてもいないのに、見事にやってみせたのだ。事故前の優は小柄ながらも身体能力は抜群だったと聞いていたが、即座に自身の状態を把握し、適応してみせるとは思わなかった。単に本能がそうさせただけかも知れなかったが、それは現時点では思い付かなかった些末な事だった。
1mほど歩みを進めた時、伊藤は左側を支える手を離した。必要ないとの判断だ。伊藤は素早く畜尿バッグを拾うと優の左斜め前方に控える。優の顔を確認すると心が痛んだ。歯をきつく喰い縛り、ただ1点を睨み、顔をほんのり赤く染めていた。歩みを10cm、また10cmと進めていく。
縋るように小さな左手が伊藤に向け伸ばされる。彼はその手を優しく掴む。
3mほど進んだだろうか。
優に異変が生じた。「――うぅ」と言う嗚咽と共に必死な表情は崩れ、大粒の汗を流し、頬は涙で濡れている。絶望に染まったかのような表情だ。
だが、その歩みは止まらない。両下肢の間は拡がり、足の震えは全身に波及している。呼吸は、はぁ…はぁ…と荒れている。
島井は既に介助姿勢を変え右手で右腕を支え、腰に左手を回し、軽い体重をフォローしている。
嗚咽を発し始めて、尚、1mほど進んだだろうか。
その時、ついに優の両膝が崩れ落ちた。島井も伊藤も咄嗟に躰を支え、ゆっくりと床に座らせる。足が拡がったまま、ぺたんと座り込んだ姿勢は俗に言う女の子座りである。
「ぅわぁぁぁ――!」
嗚咽は慟哭へと変わり、上半身を前に倒し、小さな体を更に小さく折り畳む。
「うえぇぇえっぇぇぇぇ」
彼女はバスケボールに向かっていた。ではバスケができない事への慟哭かと思うがそれは推測の域を出ない。島井がどう声を掛けようかと思案していた時、伊藤が動いた。
優の上半身を起こし、右腕を少女の左脇から右脇まで回すとひょいと軽く立たせる。後ろにバランスを崩す少女の膝下に左腕を差し込むと全身を抱え上げた。お姫様抱っこである。
170cm台、70kgを超えるであろう伊藤に抱えられた優は、その小ささが強調される。
突然の事に優は固まり、目を丸くしている。慟哭もあっさり放棄してしまった。
伊藤は、さほど気にせずソファーに向けて歩み始める。
ソファーに到達すると、抱えた瞬間と同じくひょいと優をソファーに座らせる。念願のバスケボールが隣にある形だ。実際に伊藤にとっては軽い動作なのだろう。
しばらく優は唖然としていたが、やがておずおずとバスケボールに手を伸ばす。
右手側に置かれたバスケボールは掴み損ね、ころころと転がっていった。
伊藤はそれを拾い上げると優の膝に乗せる。
「――――でか」
優はそのボールに驚きながらも――実際は優が小さくなっている――愛おしそうに抱き締める。
濡れた頬を拭おうともせず、その端正な顔に可憐な花を開かせたのだった。
やがて、疲れたと言わんばかりに、そのソファーに体を横たえ、眠ってしまったのだった。