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 6.0話 夢みる少女

 


 ―――12月26日(月)



(眠い)


 始業時間までしっかり寝た。

 それでも眠い。


 夜勤と思うと、昼寝直後であろうとも、10時間睡眠しようとも眠くなる現象がある。

 それに違いない。


(いくら寝れば気が済むんだ、この人は)


 生体情報監視装置のモニターを確認すると、片隅に小さく【21:06】と表示されている。


 伊藤は今朝のカンファレンスで決定した通り、VIPルームに詰め、優を見守っている。周囲は薄暗い。間接照明の光度を絞っている為だ。

 NSから運び入れた、黒基調のオフィスチェアに深く腰掛け、その優れたリクライニングを堪能している。

 優との距離、およそ5mほど。これ以上は近づきたくなかった。近づくと無性にソワソワしてしまうのだ。


 長い。とにかく時間が経たない。


 想像はしていたが想像以上の苦痛だった。


 室内を明るくしても問題ないだろう。優は目覚めるべきなのだ。

 蛍光灯を灯し、佑香が置いていった雑誌でも読もうかと何度も思った。

 見守りと言っても四六時中、目を離さずにいる訳では無い。すぐに対象者の動向を掴められれば問題ない。

 実際に1度は実行した。


 ……が、すぐに止めてしまった。



 室内を明るくすると、眠る優がはっきりと確認できるのだ。


 優は元々、男性……、いや中学生の少年だった。ボロボロだった。

 しかし、今の姿はそれとは違う。


 年の頃は12,3歳に見える。


 幼く見えようが元が少年であろうが、痩せ細っていようが、目の前で眠るのは信じられないほどの美少女だ。

 無防備な寝顔を直視すると、もたげてくるであろう何かを自制する自信が無かった。事実、恵が置いていった女性誌を読もうと試みたのだが、全く集中出来ず、ちらりちらりとその姿を盗み見てしまった。


(地獄だ……)


 本当に自分が(目の前の子)の看護に当たって良いものかと疑問に思う。


 蓼園総合病院に於いて、身体ケアは患者が若い女性の場合、女性看護師が対応している。―――男性看護師の進出が目立ってきているとは言え、未だ女性主体の職場である為、若い男性患者に男性看護師が……とまではいかないが―――


 排便があれば、陰部洗浄も行う。職務上、その必要がある為だ。自分の代役を立てられない理由も重々承知だ。しかし、頭で理解していても、儚く幼い少女を前にすると罪悪感に苛まれる。


(マジでいつまで寝てんだ?)


 一時的に覚醒してから既に15時間経過している。入院から考えると7ヵ月と21日眠って、たったの1分ほど起きた後、また15時間睡眠だ。


 もしや、またこのまま何日も何ヵ月も眠るのではないか?

 もしかしたら何年単位かも知れない。


 不安だ。そんなに長い期間、この退屈地獄に耐えられそうに無い。


(限度というものが……)


 目を凝らし、少女の顔を覗いてみる。


(やっぱり綺麗だな……)


 (やつ)れながらも、鼻にカテーテルを挿入――鼻から伸びる鼻管栄養法のチューブは幾重かに纏められ、頬にテープで固定されている――されていても、それでも美しい。


 再び罪悪感が沸き起こる。眠気があり、退屈にも溺れ、イライラが募ってくる。それを隠すように無防備に眠る少女に語りかけてみた。


「お嬢さん? そろそろ起きませんかね? 俺、暇で死にそうなんですが。それともあれですか? 色んな意味で拷問にかけてるんですか?」


「んぅ――」


 伊藤は、腰を上げた。

 予想以上の小さくも大きな反応があった。

 現在の眠りは浅いようだ。

 夢を見ているのかも知れない。


「記憶の整理中ですか?」


 今度は小さく……。間違いなく聞き取れないだろう声量で呟く。


 眠っている人には話し掛けない方がいい。

 いや、寝言に返事してはいけないだったか?


 いいネタが出来た。この理由を考える事に時間を使おう……と、腰を降ろした。


 そもそも夢とはなんだろう?

 記憶の整理とも、願望の発現とも言われる。

 外部からの刺激も関係しているとかしないとか。


「ゃ――め――」


 輿に乗る前に思考から戻された。

 右手が動いたように見えた。

 いや。たしかに動いた。


 立ち上がって歩み寄り、3mほどの距離で傍に控え、ポケットからPHSを取り出し、島井に連絡を取る。


 2コールほどで内線が繋がった。


「はい。島井です。何か変化があったかな?」


 島井はいつ寝ているのか判らない。だが、話が早い……と、現状を小声で報告する。


「はい。寝言とそれに伴う体動が見られました」


「わかった。すぐに行く。覚醒しても慌てないようにね」


「そんな……。五十嵐でもあるまいし、大丈夫ですよ」


「そうだね」


 微かな忍び笑いと共に通話が途切れた。





 それから2分と経たない内に島井は到着した。

 島井が宿泊してる部屋は1つ下のフロアにある。その部屋は自身の部屋だ。他にも理事長室、院長室、看護部長室、事務部長室などがある……が、関係の無い話だ。


 シャッタードアが開くと島井はすぐに蛍光灯のスイッチを押す。

 その眩しさに伊藤は目を細めた。


 伊藤に問いかけたところ、その2分間に動きは無かったらしい。


 島井はすぐに少女の横、1mほどに陣取り観察を始める。


「先生。どうですか?」


「うん。わからない」


 島井は即答し、にっこり笑う。

 伊藤は呆れた表情で「まぁ、そうですよね」と呟く。呆れられた年長者は「そう言われても」と側頭部をポリポリ掻いた。

 寝言も体動も島井がVIPルームに急行してから見られない。分からないのは当然だ。


 しばらく無言で観察を続ける。数分後、眠る少女の口角が微かに上がった。


「笑ってる。楽しそうだね。どんな夢を見てるのかな?」


 伊藤はチラリと島井に視線をやった。彼も微笑んでいた。娘を見守る親父そのものである……が、伊藤は流石に口には出さなかった。


 優が微笑んでいたのは短い時間だった。

 すぐに天使のようなその表情は消えてしまった。



 しばらくすると顔を微かに顰めた。


 すぐにどことなく怒った表情を見せる。


 かと思えば、また嬉しそうに口角を上げる。


 コロコロ変わる表情に思わず見惚れた。


「……なんか見てはいけない気がしてきたよ」


 言わないで欲しい。

 激しく同感だ。

 美少女の……。本来は秘密にされるべき寝顔を観察しているのだ。


「言わないで下さい」


 言ってしまった。伊藤も人の事を言えない、思った事が口を突くタイプだ。


「君もか。少し安心したよ」




 こくりと唾を飲み込む小さな音がした。

 優が小さく喉を鳴らしたのだ。


 それを聴いて、ごくりと2人で唾を飲み込む。


 お互いチラリと今の相棒を盗み見る。目が合うと慌てて視線を互いに逸らす。まるで初デートの中学生のように。



「ぁ――っ――」


 小さい声がした。

 そのまま口を開いたまま、優は動きを止めた。


(……大丈夫か?)


 10秒ほど口を開いたまま時間が過ぎる。

 またも優の表情が変わる。

 ギュッと強く目を瞑り、歯をきつく食い縛る。まるで何かがぶつかる直前のように。耐えるように。


 そのまま10秒、20秒と時間が経過する。


 島井が口元に耳を寄せた。


「呼吸してないね。SAT(サット)――血中酸素飽和濃度――に注視」


(えっ?)


 一瞬、朗らかな中年男性が何を言ったか理解できなかった。


 慌ててモニターを見る。そこに表示された僅かな情報の1つ。SPO2を確認する。


【97】


【96】


【95】



 島井は屈めた体を少し起こした。

 心音を聴こうと自身の首に掛かる聴診器に手を伸ばす。




「ぃやだあぁぁぁぁぁ!!!!!」


(!?)


 急な絶叫と同時だった。両手を杖に体を起こす優に、島井の体が跳ねる。

 至近距離だった島井は、唐突に体を起こした優との衝突は免れたものの、その後、思い切り仰け反っている。


(何が!?)


 理解が及ばない。



「あぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」



(!!)

(優さんが目覚めた!)


 島井は優の様子を観察している。冷静そのものだ。



「ひゃ! ひぃ――は、はぁ――あ――くぅ――」



(呼吸が……。なんだ……?)


「過呼吸だね。ゆっくり……吐いて……そっと……吸って」


「はぅぁ、ひっ。ふぁ、ふぅ」


 優は荒く、早く、激しい呼吸の中、混乱した様子で白衣の先生を見詰めている。自身に起こった過呼吸に動揺し、抜け出せない。


「いいかい? 聞いて?」


 島井は諭すように優しく声をかけつつ、優の背中をそっと撫で始めた。


「ひぃぁはぁぅひゃぅ」


 優は、いつの間にか涙を流し、苦しい呼吸を……。激しく吸い、激しく吐く。そんな呼吸を繰り返している。


 ……何も出来ない自分がもどかしい。


「息を……ゆっくり……大きく……吐いて」


 島井の声が届いたのか。優は、ゆっくり長く息を吐き出す。


「ひゅぅぅぅぅぅ」


「いい子だ。すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……だよ。いいね」


「すぅはぁすぅはぁ」


(ダメだ。まだ荒い。普通なら過呼吸は一時的なもの。過呼吸の時間が長くても、落ち着けば身体的後遺症も残らない。優さんの場合は……判らない)


「ゆっくり」


 過呼吸の患者の対処法を思い出す。

 まずは落ち着く事。過呼吸の発症は精神面に起因しているはずだ。過呼吸発症者を前にして対応する者が慌ててはいけない。冷静な島井を見習うべきであると胸に刻む。


「ひゃっ! ふぅ、うぁ!」


 優は、しきりに首を横に振っている。


「大丈夫。すぅ、はぁ、すぅ、はぁ」


「すぅはぁすぅはぁ」


 ゆっくりと浅い呼吸を意識させる事。出来るだけ吐く事に意識を向けされる事。これに尽きる。


「そう。そのまま……ゆっくり……浅く」


「すぅ――。はぁすぅはぁ」


(何か無いか?)


 ペーパーバッグ法は危険だ。血中酸素を下げ過ぎてしまう事がある。現在、医療現場では推奨されていない。死亡例もある。


(待てよ!? 見えるじゃないか! 酸素濃度は!)


 左手の指先のパルスオキシメーターを確認する。外れていない。


「諦めないで。このまま……ゆっくり……浅く」


「すぅ――はぁ。すぅはぁすぅはぁ――ひゃぅ――」


 白い毛布を剥ぎ取る。白く細い大腿が露わになるが、伊藤の目には入らない。白く薄い毛布を素早く3度ほど折り畳み、先生の傍、少女の近くにそっと近づく。


 先生は驚いた表情をしていた。


 過呼吸が起きて以来、初めて伊藤は声を掛ける。


「大丈夫だよ。落ち着いて」


 激しく肩を上下させ、すぅはぁすぅはぁと荒い呼吸を優は繰り返している。

 島井の声掛けのお陰か、荒いものの一定のペースだ。


「すぅはぁふぅはぁ」


 白い毛布の一辺を少女の顔の下半分にそっと押し当てた。


「大丈夫。このまま……すぅ、はぁ、すぅ、はぁ」


 島井は優しく落ち着いた低い声で優に語りかけ続ける。


「すぅはぁすぅはぁ」


 呼吸を妨げては駄目だ。柔らかくそっと当て続ける。


 モニターに表示されている僅かな情報の1つ。SPO2の数値に注視する。


【100】


 荒く深い呼吸を繰り返す過呼吸である。本人の息苦しさとは裏腹に、血中酸素濃度は上昇する。


「そのまま……そう……上手だね」


 島井は声を掛けつつ、チラチラとモニターを見やる。


「すぅはぁすぅはぁ」


 手の中で少女の息遣いを感じる。暖かい。呼吸は相変わらずだ。

 毛布の具合を確認しようと目線を下げる。ふいに優さんと視線がぶつかる。潤んだ大きな瞳に心が躍り、同時に罪悪感が首をもたげる。涙に濡れる少女の口を塞ぐ自身の姿を幻視する。


(襲ってるみたいじゃないか……)


 ふと手の力を緩める。


「そのまま。そう。そのままだ。伊藤くんも」


 名前を出され、我に返った。再び毛布を抑える手に適度に力を込めた。



 そのまま、3人の時間が進む。


 優は口に毛布を押し当てられながらも健気に呼吸を繰り返す。

 島井は、そんな優を励まし続ける。

 伊藤は毛布を押し当てながらモニターの数値を見詰め続ける。


 いくら時間が経っただろうか?

 長い時間に感じたが、短い時間だったのかも知れない。

 モニターの数値が動いた。


【99】


 伊藤は指示を仰ごうと島井を見やる。

「90%で……」と、島井は小声で短く告げた。

 伊藤は、小さく頷き了承の意を示すと再度、モニターを注視する。


 すぅ……。はぁ……。すぅ……。はぁ……。


 いつの間にか優の息遣いは、落ち着いたものに変わっている。

 1度、数値が下がり始めると後は早かった。


 94、93、92、91。


 90。


 伊藤はそっと毛布を落とさないよう、少女の口から下方向に手を下げる。

 重力のまま毛布は手の中に納まった。



 すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……。



 優は呼吸を取り戻していた。涙を流し鼻から管をぶら下げ、呆然と正面……。虚空を見詰めている。

 激しく上下していた肩は、ゆったりとした呼吸に合わせ、微かに上下しているだけだ。


 島井は背中を撫で続けていた手を離し、体の向きを変えると床頭台の上に置いてあったディスポタオルに手を伸ばしながら話す。


「ペーパーバッグ法か。そんな方法もあったね」


 その封を切り、筒状に巻かれた濡れた紙タオルを開くと、丁寧に2回、折り畳む。

 そっと目尻、頬、鼻の下と拭いていく。鼻管栄養用のカテーテルの固定テープは、いつの間にか外れている。「んぅ――」と、優は小さな声を零したのみ。成すがままだ。


「今は推奨されていない。逆に酸欠で意識を失う事もあるからね。過呼吸で重篤な状態に陥ることは、ほぼ有り得ない。むしろ酸欠の方が恐ろしい」


 そのカテーテルと口元の僅かな間には、粘度のやや高い液体が橋を架けていた。

 島井は濡れたタオルを折り返すと口元を優しく(ぬぐ)う。


 酷い有様だった顔は、すっかり綺麗になった。


「なるほど。この子の血中酸素濃度は判るからね。いい判断だったよ」


 剥ぎ取られた白く薄い毛布は、伊藤の手により、既に優の白い足を隠すように掛け直されている。


「いえ。俺には考える時間があったんで……」


 伊藤は謙遜しながらも嬉しそうに頬を掻いた。彼はベッドの足元側に陣取る。


 島井はディスポタオルをごみ箱に捨てると、続けて紙製のサージカルテープを取り出し、カテーテルを小さく巻き、頬に固定し直す。


「よし。綺麗になったよ。あ、もう呼吸は意識しなくていいからね」


 島井の言葉に、優はゆっくりと顔を向け首を傾げる。


「うん。呼吸は正常だね。ごめん。逆に意識させたかな?」


 優は俯き、眉尻を下げ、端正な顔を顰めた。


「――ゆっくり」


 鈴を鳴らしたような高い声が小さく聴こえた。

 それを聴いて伊藤は思い出した。


「先生。ゆっくり、そっと……ですよ」


 僅かな時間の後、島井は自嘲しながら言った。


「あぁ、そうだったね。忘れてたよ」


 小さく呟いた後、あらためて3度目の声掛けを行う。



「おはよう」



 優は顔だけ島井に向け、小首を傾げた。



 そして小さく呟く。





「―――おはよう?」




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