5.0話 カンファレンス
―――12月26日(月)
壁に掛けられたどこにでもありそうな円形の時計。
その針は【6:32】を指している。
先ほど、NSに鈴木看護部長が到着したばかりだ。
これで6名。
到着したばかりの看護部長・鈴木は廊下との境である、スライドドア近くの簡素な丸椅子に座った。
残る椅子は3脚。内、2脚は同じ物だ。黒基調のオフィスチェア。座面と高めの背もたれはクッション性を重視されている。凭れると適度に後ろに倒れ、体重を支え心地良い。
もう1脚は簡素な作りの低い背もたれの付いた椅子だ。PCの前から動かされていない。
その内の機能性の高い1脚。デスク上のPCと簡素な椅子を背に、中央を向き、背もたれを使わず肘掛けに片肘を突き、座っているのが、院長・川谷の後継と謳われる脳外科医である渡辺。
もう1脚、ベッドに近い辺りで、どっかりと腰掛けているのは伊藤。優の専属看護師3名の1人だ。
人数分の椅子が無い故に、代わりにベッドから足を降ろす形で座っているのが山崎 佑香と五十嵐 恵だ。2人も専属看護師である。
あと1人。主治医・島井は立ったままだ。島井は基本的に座らない。立ったままでいる事が多い。
今は此処に居ないが、あと7名、優の再構築を知る者が居る。
まずは両親と兄姉。12月に入り、初めて面会を許された家人たちは、その優の姿に納得しなかった。納得しなかったが故に、変貌の過程を画像で、包み隠さず説明した。そして涙を流した。優の状態を説明すると食い入るように聴いていた。危険性を説き、口止めすると大きく頷いた。これで4名。
続いて、現役時代、天才脳外科医として名を馳せた院長の川谷。
そして、大企業、蓼園商会の会長であり、蓼園グループの事実上のCEO。総帥とも呼ばれる蓼園 肇。
その蓼園の秘書。懐刀である一ノ瀬 遥。
総帥は多忙の合間に最上階へと、足繁く通っている。
対外的な戦略も透け見えたが、それはここでは語る必要はない。
崩壊が終わり、再生が始まった頃、川谷は総帥に口外しないよう依頼した。
だが立場上、1人で最上階に上がる訳には行かなかった。そこで、連れて来られたのが総帥唯一の秘書だった。
儂が唯一、信頼している部下だ。
そう紹介されたのが一ノ瀬 遥だった。
面会謝絶を貫き、両親さえ知らなかった再構築。
ここに居る6名と合わせ、この13名が優の再構築の全貌を知る者たちだ。
「来られる方は全員、揃ったかな?」
島井は周りを見回し、やんわりと話し始める。島井の口調は緊急時と平常時で大きく異なる。
性格も変わるよー……と、以前に話したのは、救急救命チームの一員だった佑香だった。
「それでは五十嵐くん。5時50分の状況説明をお願いします」
自身よりも年長の看護部長が居る為、丁寧な言葉遣いを選んでいるようだ。「はい」と立ち上がったのはもちろん恵である。
恵は具に状況を報告し始めた。
その報告を眠そうな顔で聞いている者がいた。専属の最年長・伊藤。
――伊藤 草太の趣味は温泉巡りだ。
優の専属看護師となってからは、月に1,2回だった温泉旅行が週1回に増加した。
今回も勤務明けで隣県の温泉宿に宿泊し、昨日の夜に帰宅。もう1つの趣味であるMMORPGを4時までプレイして就寝した。11時まで眠る予定だった。
好きな事を好きなだけするのが彼の主義だ。
だがそれには先立つものが必要である。
崩壊期に最上階への異動を打診された時、彼は喜んでそれを受けた。
伊藤は鉄壁のグロ耐性と、強い精神力を持ち合わせている。
救急救命チームの元リーダーである島井を以てして「君は看護師よりも解剖医の方が向いてたのかも知れないね」と言わしめたほどだ。
その言葉に、彼はあっけらかんと「医者なんて忙しい仕事は嫌ですよ。時間は金では買えないんで」と言い放ったくらいだ―――
伊藤は眠いと機嫌を損ね易い。自覚もある。
元々、思ったことをズバズバ言うタイプだが、その言葉が尖ったものに変化してしまうのだ。
―――今朝、6時過ぎ、島井は五十嵐 恵を止め、直々に連絡を回した。
その中で、最後に連絡したのが伊藤だった。
理由は職位的なものでは無く、もっと単純な理由だ。即座に連絡を受け取ってくれる確信のある男だからだ。
伊藤の住むマンションは恵や裕香と、同じマンションだ。専属3名、いずれもそのマンションに生活の拠点を置いている。
病院の裏手にあるマンションは、蓼園の名こそ冠していないものの、蓼園グループの扱う物件だったようだ。
総帥からは多額の支援金が流れている。病院側が看護師が定着しない状況を嘆くと、喜んでそのマンションの部屋を提供してくれた。高価なマンションの割に立地が悪く、なかなか買い手が付かない状態だったそうだ。『阿呆が碌な調査もせずに建てたものが、こんな形で役に立つのは大きな誤算だ』と、ニヤリと口元を歪め、嗤っていた。
元々は伊藤は、この病院から少し離れたアパートで独り暮らしをしていたはずだ。
恵と、今は辞めてしまった高山を採用した時、現在のマンションに引っ越した。中途採用の彼らにだけ、特別待遇を与える事は出来なかった。最上階の看護師たちに無料でマンションへの引っ越しの斡旋を行なった。
『優くんが一時、意識を取り戻したよ』
そこで一旦、言葉を切ると、申し訳なさそうな物言いに変えた。
『今はまた眠っています。今の内に話し合いを開いておきたいのですが……』
島井は伊藤の性格を熟知していた。それは島井の特技の1つと謂えた。
そこそこの付き合いの者でさえ、持ち前の冷静な視点と、優れた洞察力が織り成す観察力で、自然と理解してしまう。
『……今から出勤する事は……出来るかな?』
伊藤は自分の時間を大切にする。この最上階への異動を喜んで受けた理由は、特別手当による給与を増加させる為だ。つまり遊ぶ金欲しさだ。
専属となり懐の温かくなった現在、残業は喜ばない。だからこそ、伺うようにお願いした。
『はい。すぐに行きます』
だが、これも予想通りの答えだった。島井は伊藤もまた、優に特別を感じている1人だと知っていた。
しかし続く言葉に島井は驚いた。目から鱗……である。
『……ようやく覚醒したんですか。俺も嬉しいですよ。優、頑張ってたんで』
島井は再構築を観察し、医学的な見地で診てきた。
如何に、崩壊により迫る死をぎりぎりで食い止めたのか?
何故に外見や性別と言った根本が覆ったのか?
『あいつ、頑張ってたんで』
脳は自ら朽ちた体を破壊し、そして再生させた。
伊藤の言葉は、島井の考察を一変させる事になる。
様々な推論が頭を支配する。
『先生? ……おめでとうございます』
思慮に沈む島井を、感慨に耽っていたと勘違いしたのか、そう伊藤は言った。
『あ、あぁ。ありがとう。けれど、本当に頑張ったのは君たち看護師だよ』
『……ありがとうございます。それでは、すぐに支度しますんで』
『はい。待ってますよ』
それを最後に通話を終えたのだった―――
伊藤は眠気により重い頭を振り、恵の報告を聞いていた。
11時迄、寝る予定が想定外の2時間だ。
先生からの電話を受けた時は、一気に目が覚めた。VIPルームに辿り着いた時にはテンションも上がった。
それが看護部長の到着を待っている間にまた眠くなってしまった。
時折、欠伸を噛み殺している事も許してくれるはずだ。
内心イライラしている。
恵はズバズバ物を言う割に、報告は冗長だ。
もっと簡潔に状況説明できないものかと思う。
思った事はすぐ口を突くが、考えて話す段取りが苦手なタイプなのだろう。
「……と言う訳です。それから優さんは今も隣で眠っています」
五十嵐が報告を終えるや否や切り込む。苛々がそうさせた。
「抱き付いたのは、いくらなんでも軽率じゃないっすかね」
――再構築期後、極秘裏に行われたCT検査。
それまで散々、関わる者を驚かせてきた優だったが、その画像は百戦錬磨の救急救命チームリーダーであった主治医・島井を含め、またも全員を驚かせた。
脳もまた、ごく僅かではあったが、たしかに再生していたのだった。
だが、それはおよそ半分を破壊された脳のごく一部であった。
再生を始めたと言っても、優の脳は成人の容量を遥かに下回っている――
どんな影響があるかも判らない。
覚醒したばかりの優には、そっと接するべきであったと指摘する。
それを「まぁまぁ」……と、柔らかい表情で諌めたのは看護部長だ。
「私も半年以上、一生懸命に看続けた患者さんが初めて目を覚ましたら……ね。同じ行動を取ったかも知れませんよ」
看護部長にそう言われると何も言えず、責め立てるべく続けようとした言葉を呑み込むと、島井が言葉を繋いだ。
「そうですね。僕も思うところはありますが」
そこで一旦、言葉を切り再び繋げる。
「今回わざわざ集まって頂いたのは、これまででは無く、これからを話し合う為です」
看護部長に抑えられ、島井先生にフォローされる。
完全に気勢を削がれた。
この人たちには敵わないな……と、伊藤は大人しく聞き手に回った。
島井は温和で優しい眼差しを、再び周囲に向ける。
「報告から推測すると優さんの感情は、おそらく生きています。自意識を持ち、思考している可能性が高いです」
それだけ言うと渡辺に視線を送った。天才脳外科医と謳われた川谷院長の愛弟子。脳に関するスペシャリストである。
渡辺は優の緊急手術を執刀した1人だ。
院長である川谷は総帥の依頼を無碍に出来ず、救急救命室に愛弟子を送り出したのだった。
島井の視線を受け、渡辺は立ち上がった。
「予てから予想していた、広範の脳挫傷の後遺症の程度が問題だよねぇ。僕たち、医療に携わる者としては、優くんの脳の損傷は生命維持が出来ているだけでも非常識とも言える状態だった。まぁ、脳幹が無事だったからなんだろうねぇ……。でも、これが脳の摘出となると話は別なんだよ? そこは流石、川谷先生ってとこだよね」
更に「まぁ、体の再構築自体が非常識なんだけど」と、付け加えると小さく笑う。
「どのような障害が考えられますか?」
鈴木看護部長が続きを促した。長い期間、看護師として培ってきた知識はそれを知っている。だが、ここには自分より四半世紀以上も若い看護師たちが居る。彼らも当然、知識はあるだろう。しかし、纏めておくに越した事は無いと判断した上での発言だ。しかも、それを脳の専門家から聞く事ができる。滅多にない機会を若く熱意ある専属看護師たちに与えたかった。
渡辺もその意図を察する。
「じゃあ、考えられる障害を挙げてみようか?」
専属看護師3名の真剣な表情を確認し、表情を締めた。
こうして即席の授業が始まる。
「まずは生命活動への障害。自律神経障害だけど、これは排除するよ。今は呼吸も血圧も何も問題ないからねぇ」
一時は生命維持装置を必要とした優だが、それは今や不要だ。
「でも、麻痺の可能性はあるよね。五十嵐さんの報告から察するに麻痺があるにしても軽微なものだと思う」
3人が話に付いてきているか確認する即席講師。
即席の受講生たちは、真っ直ぐ講師の話を一字たりとも聞き逃すまいと、顔を向けていた。
理解できていると判断し説明を続ける。
「次に意識障害だよ。1度は覚醒したけど昏迷状態……、自意識が無く外部刺激に対して、反応する状態から脱した可能性さえ、否定できない。本当の意味で覚醒していたとしても……」
ここで言葉を切った。
ベッドに腰掛ける2人がどうにも怪しい。
渡辺は俯き「うーん。どうしよっか……」と幾ばくか思案した後、顔を上げた。
「裕香ちゃん? それじゃあ、考えられる症状を挙げてみてくれるかな?」
「えっ!? あ! はい! えーっと……」
突然、振られた佑香が狼狽する。そんな佑香に恵が何やら囁いた。
恵は報告や説明は苦手だが、理解は早いらしい。
佑香が恵に囁かれた内容はこうだ。
『脳挫傷とかでの後遺症とかですよ』
それを聞いて質問の意味を理解した。
小難しい話から、いきなり症状と言われ理解が追い付かなかったのだろう。
それなら分かる……とばかりに、佑香の口から言葉がどんどん紡がれ始めた。
「はい。記憶の喪失、混乱などの記憶障害。認知機能障害。それに失語症、失行症、失認症、半側空間無視、構音障害、感情障害……。病識欠如……などです……よね?」
最後は自信が無さそうだった。要は色々と可能性が考えられた。
つまりは……、どんな後遺症があるか判断できないのだ。
「そうだねぇ……。概ね問題ないかな? あまり聞き慣れない言葉もあったけど……。まぁ、詳しい事は某先生にでも聞いてみてね」
突然、優しい物言いから、思わぬ俗語が飛び出した。
渡辺は張り付くような笑みを浮かべている割に、女性看護師から人気がある。
脳外科医と言う堅そうなイメージとのギャップがいいらしい。
「はい。某先生に聞いてみます」
その佑香の言葉に満足そうに頷くと、次の質問を投げ掛ける。
「優さんの脳は左脳を中心に大きく損壊しました。伊藤くん? そこから考えられる可能性の高い障害は何かな?」
「一般的には右片麻痺と言語障害ですね」
即座に伊藤は答えた。
渡邊は再度、大きく頷いた。実に満足そうだ。
「まぁ、僕は早い話、言語障害は間違いなくあると思ってるよ。ただ、左脳を中心というだけでダメージは広範に及ぶから……。でも、脳全体が修復を始めてるんだよね。僕が自分の脳を治せるとしたら……大事な箇所から治すからねぇ。はっきり言って、どんな後遺症が診られるやら……お手上げだよ」
両手を挙げカラカラと笑ってみせ、そのまま黒基調のオフィスチェアに座った。自分の出番は終わったと云う事らしい。
「渡辺くん。ありがとう」
島井は臨時の講師を引き受けてくれた、中年と言うにはまだ早い10歳ほど年下の脳外科医を労った。
そして専属3名に敬語を崩し、「君たちはどうした方が良いと思う?」と、問い掛けた。
我先にと口を開いたのは恵だ。
彼女は汚名返上の機会を窺っていたらしい。
「渡辺先生のお陰で優さんの状態の危うさを認識できました。リスク減少の為に、しばらくは見守りの必要があると思います」
鈴木が嬉しそうな表情をしている。
彼女にとって、蓼園総合病院の看護師全員が子供のようなものなのだろう。
目を細め、恵に微笑みを向けている。
島井が伊藤と佑香に確認の目を向けると、伊藤も佑香も何も言わず頷いた。
「君たちには更に負担を掛ける事になるね。申し訳ない。夜間は私が仮眠時間や小用のフォローに入るよ」
「島井先生? 貴方は優さんが入院してから1度も帰宅していないんじゃありませんか? その上、仕事を増やすつもりですか?」
反論したのは看護部長だ。
「いや……。1度、帰ったんですがね。それに私も救命を離れ、今は彼女の専属と言える状態です。結構、暇なんですよ」
島井は優の事故後、しばらくは救命チームでその手腕を如何無く発揮していたが、川谷の指示で蓼園総合病院の最上階所属となった。
いきなりリーダーが抜け、混乱した救命チームだったが、半年以上、経過した今は流石に落ち着いた様子だ。
「ですが、し「看護部長!!」
尚も食い下がろうとする鈴木を渡辺が制する。
看護部長はナースたちの中で博愛部長、慈愛のナースなどと呼ばれる事もある。
とにかく怒らない。そして優しい表情を常に湛え、適切なアドバイスを送る。ごく稀に、こうやって強い態度を取る事はあるが、それは全て相手を気遣っての事だった。
今、正に島井に食い付いた。これも泊まり込みを続ける島井の体を想っての事だ。
「看護部長? 看護部長の気持ちは解ります。でも、島井先生の気持ちは解りますか? 貴女なら解っているはずです。島井先生の子供は息子1人だけ。しかも独立済みです。優さんは「渡辺くん!」
先生にとって初めての娘みたいな……と続く言葉は、今度は島井に制された。
心なし島井の顔は赤くなってしまった。
渡辺は心底楽しそうに「あはは」と笑い、年長の医師を煽っている。
「それにですね。救命チームリーダーの忙しさって半端ないって聞いてますよ。今更、少々、睡眠時間削ってもあの頃より随分、楽ですよね? 先生?」
その表情は完全にいたずらっ子のそれだ。
「「はぁぁ……」」
大きな溜息が2つ重なった。
「わかりました……。はい。わかりました。ですが私も精一杯、フォローさせて頂きますからね」と、力無く話したのは看護部長だった。
そんな年長者3名の遣り取りを専属看護師3名は生暖かい目で見守っていた。
そうこうして、優の状態が把握できるまではVIPルームに直接、専属看護師が詰める事。
優が覚醒した時、速やかに島井か鈴木に連絡し、2人で対応に当たる事。
声掛けは、ゆっくり丁寧にそっと行なう事。
家人には、まだ知らせない事。
日中は鈴木、夜間は島井がフォローに回る事。
―――渡辺は再構築を知っているが、あくまで脳神経外科所属。優について、脳の専門家として意見しているが、直接は関わっていない―――
近い内に看護師の増員を上申する事。
ただし、これには問題があった。優の再構築については極力、関わる人間の数を減らすよう、院長から指示を受けている。島井もそうするべきだと理解している。
優の崩壊については一時期、院内で大きな話題となった。多くの看護師が音を上げたからである。
しかし、院内で再生について知る者はごく少ない。この話し合いに参加した6名と院長の川谷だけだ。
外部から再構築を知らせず採用するという、伊藤の提案があり検討されたが、お蔵入りとなった。
優の再構築……体の全面的な崩壊と再生。更には脳の修復。これは医学の常識を引っ繰り返す。
表に出れば、優自身に様々な目が向けられる事になるだろう。
現在、再生と脳の修復を知る者は13名。
その内、院内では7名。
人の口に戸は立てられない。
関わる人間は少ない方が安全だ。
再構築を知らせず外部から招聘すれば、それだけ優の情報が漏洩するリスクは増す。
いや、それは院内の人間でも同じだ。
それでもマンパワー不足は否めない。
外部からの招聘では、その人物を把握する事が難しい。
よって、院内の看護師から増員する事になった。
人選は看護部長に一任された。もちろん、看護部長が推薦する人物は島井と面談する事となったのだった。