4.0話 目覚め
―――12月26日(月)
仮眠を取っていた。
コンコン
NSに似つかわしくない、豪華なドアがノックされたらしい。
反射のように飛び起きると、白い包布に包まれた布団が、大腿の上で折り重なった。
看護師生活4年目の恵は、夜勤中の仮眠に於いて、小さな物音に反応する事が出来る。
これは恵が特殊なのでは無い。数年の経験あれば、ほとんどの者が可能。強引な表現をすると職業病だ。
ドアノブが音も無く回り、深みのある焦茶色のドアが遠ざかっていった。
特殊な加工のスイングドアがVIPルーム側に開かれたのだ。
(……え??)
理解が及ばず、頭上に疑問符を並べた。
(なに? なんで??)
確認も忘れ、開かれたドアのあった縦長の長方形の空間を凝視する。
NSの簡素なベッドからは壁が邪魔になり、姫が眠り続けるはずの、これまた簡素なベッドは見えない。
ふと我に返ると布団を撥ね退け、体の向きを変え、ベッドから足を降ろす。
(確認しないと!!)
慌てふためき立ち上がる。
……その時だった。
スッ……と、痛々しいほどに白い手が開け放たれたドアの壁側、鍵受け付近を掴むと、その直後、遅れて純白の患者衣の肩部分と頭部が覗く。そのまま、ひょっこりと顔を出しキョロキョロとNS内部を窺う。怖ろしいほどの美貌の少女だ。
(姫!?)
少女は恵を見付ける。
視線がぶつかる。
少女は恵を見詰めるとにっこりと笑い、全身を素早くNSに滑り込ませた。
真っ白な裾の短い、ワンピース衣服。それに負けない白い肌。
足音1つ無く歩み寄り、恵の真正面に立つと、小首を傾げた。
肩の上で切り揃えられた、細く柔らかい淡い栗色の髪の毛がさらりと流れた。
不思議そうに、恵を見上げている。
「ひっ!」
『姫! 目が覚めたんだね!』
そう言いかけ、言葉を飲み込む。
激しい違和感を感じた。
ゾゾゾゾッと全身の皮膚が粟立ち、悪寒が走り抜ける。
目の前の少女の姿を観察する。
純白の太腿が半分以上露出した、肩幅の合わない患者衣を身に纏っている。
子供用のワンピースの患者衣より安楽であろうと、成人女性用セパレートの上だけを着せていた。上下別のセパレートタイプは看護に不向きな為、話し合い、こう決めた。
問題ない。
新雪のように白い肌は、ごく淡いピンク色に彩られている。
ずっと眠っていた体を急に動かせば紅潮もするだろう。
問題ない。
クリッとした大きな瞳は不思議そうに恵を見上げたままだ。
そもそも目覚めている姿を見た事が無い。
違和感の正体に気が付いた。
(姫じゃない!!)
窶れていたはずの頬がふっくらとしている。
白いながらも健康的な腕が、白い患者衣の裾から伸びている。
成人用のセパレートタイプの上だけ羽織っている為、露出の激しい太腿はさっきまでの細く頼りないそれでは無かった。
何より、崩壊時、元々の黒髪は全て抜け落ちた。再生の後、新た生え代わった淡い栗色の髪は、鋏を入れた事が無い。赤ちゃんのそれと同じだ。姫の髪の伸びは早く、頭頂部の髪さえ耳に届こうとしていたはずだ。
眼前の少女は、日本人形のように眉のラインで前髪が作られており、下ろした髪は肩で切り揃えられている。
(誰!? 幽霊!?)
後退ると、すぐ後ろのベッドに足を取られ、座り込んでしまった。
少女は足音無く、軽い足取りで近づいてくる。
……かと思えば、一瞬で距離を詰められた。
顔と顔が触れんばかりに。
「っっ!?」
恵はガバリと体を起こす。
ドクドクと激しく打つ自分の鼓動をうるさく感じた。
呼吸を忘れ、周囲を見回す。
少女の姿は無い。
隣室への木目美しいドアは、いつもの通りに閉じられている。
何も変わらない、そこはいつものNSだった。
「はぁぁぁぁ……」
肺に溜まった空気を長く吐き出す。
跳び起きる直前。美しい少女の顔が視界いっぱいに広がった瞬間、多量の空気を飲み込んでいたらしい。
すぅぅぅ……
はぁぁぁ……
そのまま深く呼吸を繰り返し、鼓動を落ち着けていく。
未だ、幾ばくか鼓動は速いが、思考を取り戻した。
(夢かぁ……。幽霊なんて縁起でもない……)
さっきの姫の姿を思い出す。
その姿は以前より、長い眠りから醒め、健康体を取り戻した未来の姿を想い描いたものだったはずではないか。
ピピピピピ――!!
突然、喧ましく床頭台の目覚まし時計が騒ぎ出す。
恵は慌てて目覚まし時計の上部を叩いた。
【5:50】
設定時間通りに、電子音を発しただけだった。
(はぁぁ……。もう。何なの……)
不意を突いたアラームに、またも心拍数が跳ね上がった。
「踏んだり蹴ったり」
平静を装い、口に出してみる。
心臓が再び暴れると、今度は不安がよぎった。
「姫……」
大丈夫かな? 覗いてみよう……、不安を打ち消そうと、言葉を続けようとした時だった。
ピンコーン!
ピンコーン!
「次は何!?」
上擦った、悲鳴のような声を発した。
床頭台の時計のアラームでは無い。デスクの上の内線でも無い。
即座に重厚なドアを確認する。
ドアの横で赤いランプが点滅している。優の意識が戻らない以上、緊急事態を知らせる為だけの警報だったはずだ。
警報は入院4ヵ月目、再生期の中ほど以降、一度も発されていない。それだけ容体は安定していたのだ。
警報が発されるのは現在、NCが押された場合か生体情報監視装置が対象者の異状を捉えた時だ。NCのボタンは、元々あったキングサイズのベッドの四つ角や、現在、使われていないトイレや風呂場などに埋め込まれている。機能は生かされているが押される事は有り得ない。
つまり生体情報監視装置が異状を訴えている。指先のパルスオキシメーターが外れたか、或いは血中酸素飽和濃度が低下したか、脈拍が異常数値を示したか。
恵はナースシューズを履く暇も惜しみ、白いソックスのまま駆け出す。白い床に滑る足元がもどかしい。『ピンコーン』と鳴り響く警報は、胸を焦らす。
体勢を崩しつつ、ドアノブに縋り付く。ノブを回しドアを押し開く。
「姫っっ!!」
声を上げ、ドアを開けた勢いのまま、中央のベッドに向け、駆ける。
部屋はオレンジ色の柔らかい間接照明のみで薄暗いままだ。
蛍光灯を点け忘れたがどうでもいい。
NSの赤いランプは点滅を繰り返し、それに合わせるように警報音を発し続けている。
通常はランプの下のボタンを押し、その電子音とランプの点滅を止めるのだが、それさえも忘れていた。
簡素なベッドの付近まで駆け寄ると、そこで足を緩め……、ベッドサイドで魂が抜けたように立ち止まった。
生体情報監視装置は、ピピピピ――と、小さな電子音を奏で、モニターには【|Information Not Ready《情報受信不可》】と、表示されている。
開け放たれたドアの向こうでは、近くの生体情報監視装置の電子音をかき消すかのように、ピンコーンと電子音を鳴らし続ける。
恵にその音は届かなかった。
視界がぼやける。
その姿を見たいのに。
「ひめぇ……」
なんとか言葉を絞り出す。
頬を温かい雫が濡らす。
恵は、それを袖で拭う。
視界が鮮明になり、お姫さまの可憐な姿を再び捉える。
お姫様は体を起こしていた。
口は、ぽかんと開かれ、大きな瞳を見開き、恵を見上げている。
左手のパルスオキシメーターは小さな指先から外れ、手首に巻かれた脱落防止のストラップから、ぶら下がっていた。
姫の表情が、怯えたように……、段々と曇っていく。
大丈夫。怖くないよ……と、ゆっくり近寄り、その小さな体を壊してしまわないよう、そっと柔らかく抱き締める。
恵は耳元で「おはよ」と囁いた。
姫は大人しく抱き寄せられたままでいる。
ガン! ガン! ガン!
激しいノックが響く。
NS直通の開け放たれたままのドアでは無く、廊下側のサイドスライド式のドアが開く。
―――VIPルームには5つのドアがある。1つはNS直通。鍵は掛けられるが、現在、不要な為、その鍵は使用されていない。
NSへのドアの遠い向かい側には、VIPルームの主の関係者が使用できる部屋へと続くドアがある。そこにはVIPルームには到底、及ばないが寛ぐスペースと共にキッチンがある。所謂、コネクティングルームだ。
コネクティングルームの中、VIPルームへのドアの反対側には、コネクティングルームを使用する関係者用のお手洗いと浴室。4つのベッドが置かれた部屋へと続くドアがある。
コネクティングルーム及び、その奥の部屋からは、VIPルームを経由しなければ廊下に出られない。
コネクティングルームへのドアは、廊下に面する分厚い壁の側だ。
反対側の視界の開けた窓に近い場所にある、3つ目のドアはお手洗いに通じている。その隣には4つ目。浴室へのドアだ。
VIPルームの残る1つのドアが今回、開いたドアである。廊下へのそのドアは、入室するにあたり、カードキーと網膜認証が必要な構造だ。
つまり、VIPルームの出入りはVIPルームのサイドスライドドアか、NSの同じサイドスライドドアからのみ可能である。カードキーと網膜認証の必要な、そのドアは分厚く容易く破れるものではない。
その分厚いドアに合わせ当然、壁も分厚い。破ろうとすれば警報を発し、院内常駐の警備が駆け付ける。
万全なセキュリティを持つ病室。それがこの蓼園総合病院の最上階のVIPルームだ。
スキャンダルを起こした政治家や企業の重役などが、何故か急に体調を崩し、入院することがある。
そんな時に使われる豪華な部屋なのである―――
カードキーを持ち、網膜を登録している者は限られていた。
スライドドアから入室したのは優の主治医である島井だった。
恵は頼れる医師に、顔を巡らせる。
「どうしました? 何が起きました?」
部屋の中央に早足で近づきつつ、恵にそう声をかける。
姫を胸に抱く看護師の姿を訝しんだ様子だった。
恵が先生に状況の報告をしようとした時、不意に腕に重みが掛かる。
姫はカクンと首を後ろに反らす。
慌てて視線を戻した。
姫は恵の腕の中で気を失い、再度、眠りに就いたのだった。