3.0話 クリスマスプレゼント
――――12月25(日)
うつ伏せで寝転がる茶髪の看護師・五十嵐 恵は、仮眠用の簡素なベッドの枕元に、伊藤が置いていったと思しき青年漫画誌を放り投げる。両手を突き、体を起こすとベッドに座った。勤務中は髪を後ろで1つに束ねている。
床頭台にぽつりと置かれた、アラーム付のデジタル時計には【23:30】と表示されている。
横目で時刻を確認すると、所在無く足を挙げ、ブラブラと揺すってみた。
しばらくぼんやりとその動作を続けると、再びちらりと時計に目線だけ向ける。
【23:33】
恵はそれなりの時間、軽い足の運動をしたつもりだったが、当てが外れたらしい。大きく息を吸い込み……、「はぁぁぁ…………」と、吐き出す。
彼女は端的に表現すると退屈だった。暇を持て余している。
次の巡室は0時。仮眠を取ろうにも、彼女には心許ない時間だった。人によっては喜んで仮眠を貪る者も居るだろう。しかし彼女は短い時間、眠ると余計に眠くなる性質なのである。
「ふぁ……」
大きく開いた口を隠す事無く、だらしなく欠伸する。
(暇だー。いい加減、何とかしなきゃだね)
白いナースシューズに両足を納め、よいしょと立ち上がる。
デスクの前に立つと腰を屈め、マウスを操作する。表示されたままの電子カルテを閉じると、PC備え付けのカードゲームを起動してみた。
(ネット環境導入……。無理かなぁ……? 無理だよね)
せっかく起動したゲームを閉じ、13時の申し送りの様子を思い返した。この単純なゲームもいい加減、飽きが来ている。
暇を持て余している恵は、昼の裕香からの申し送りを回想してみた。
―――恵は、始業時間の30分前には最上階にNS――因みにNsだとナースの略となる――に詰めていた。恵だけではない。佑香も伊藤も30分前には到着し、申し送りを始める。
NSのインターホンを鳴らし、分厚いサイドスライド式のドアが開いた瞬間、佑香が駆け寄ってきた。
「ねぇ! 聞いて聞いて! 10時の時にねー。ほら、あの子って赤ちゃん肌でしょ? 気持ち良くて、ついついさわさわしてたの。そしたらね。『んっ……』って。声、初めて聴いたよ! そんな反応、今まで無かったのに!」
顔を赤く染め、恵と同じく後ろで1つに束ねた黒髪を揺らす。明らかに興奮していた。だが、その黒髪は恵とは異なり、至る所で跳ねてしまっている。
佑香が声を聴いたのは、実は初めてでは無い。優が担ぎ込まれた日、呻き声を聴いている。先ほどの初めては、女の子としての優の声を……だったのかも知れない。
「ゆかさんっ! 一体、どこを触ったんですか!?」
山崎 佑香はユウカだ。最初の頃は、何度も『ゆうかだよ』と訂正されていたが、今では慣れたのか諦めたのか不明だが何も言われない。それはそれで恵にとって寂しくもあったのだが、今は関係の無い事だ。
佑香は目を泳がせた後、目線を右上に向ける。
「え。えーっと……。太腿を……」
そんな先輩に恵はジト目を向ける。
(絶対、嘘だ……)
(ホントに人間って嘘付く時、ホントに右上目線なんだ……。新発見……)
人は嘘を付く時、右上に目線を送る。過去にネットで仕入れた情報である。右上は創造。左上は回想。そんな事が書いてあった気がする。思い出しただけで新発見では無い。
嘘を付いても太腿とは、何とも際どい。優の胸はお世辞にも膨らんでいるとは言えない。
痩せ過ぎているからだろうか?
幼いからだろうか?
答えは未来にあるはずである。
嘘を付いても太腿。胸を省くと――趣味にもよるが――お尻か、その前の秘密の花……もとい、臀部か陰部となる。恵は、お尻である事を密かに祈った。
「そんな顔してもさ! 恵だって陰洗の時とか、触るでしょ!」
陰部洗浄。略語として陰洗。陰部の汚れを取り除き、皮膚や粘膜を清潔に保つ事で細菌感染を防ぐ。立派な看・介護の行為である。
先輩Nsは、恵が余りの言葉に硬直したのを良いことに、畳み掛けてきた。
「恵だってお尻の間も! つるつるな場所も! さわさわしてるはずだよ!!」
「それはナースとしての行為っ!」
思わず敬語を忘れ、正面から見据えた。
(つまりそんなところを陰洗でも無く、ふにふにしたの? 変態なの!? ロリコンなの!?)
裕香の言葉は『さわさわ』だったはずだ。上位変換し、心の中で罵倒される裕香は少々不憫……でも無いかもしれない。
(ご家族にバレたら訴えられるかもですよ……)
「むしろ、私がバラすかも?」
しばらくの睨み合いの間の思考が、口から零れ落ちた。
その呟きを耳聡く捕らえた上、正確無比に恵の言葉の真意を捉える。
三十路前の先輩は真っ直ぐ後輩の瞳を見詰め、呟きに小声で返した。
「……あの。お尻ですよ。ホントは。ふにふにも。冗談です。お尻。洗った後に。ちょっと。触って。みただけです。すべすべで。気持ちいいから」
何故、丁寧語?
何故、途切れ途切れ?
おでこを叩きたい衝動に駆られた恵だったが、佑香が『10時の時』と言った事を思い出した。
カルテを見ると、10時の巡室記録はkot(+)と表示されている。お通じがあったらしい。
(本当っぽいなぁ……)
苦笑する恵に何を勘違いしたのか「信じてくれないなら辞めてやるー!」と佑香は、のたうちまわっている。
(いや、辞めると困る。ホントに困るよ。人、足りない)
優に反応が出てきた今日この頃。今更、辞める訳が無いのを理解した上、心の中でツッコミを入れてしまった。
「はいはーい。信じてますよー。でも、お尻も意味なく触っちゃ駄目ですよー」
痩せぎすの体の割に小ぶりで真っ白の可愛らしいお尻は、それなりに丸く陰洗時に触れるとプルンと揺れるのだ。
恵も、思わず触ってしまった衝動を理解できる。理解できるが口には出さなかった。要らぬツッコミは要らないらしい。
「ところでね」
デスクの傍の簡素だが高機能の椅子に腰かける。
あからさまに話を変えた佑香だったが、喜び同調する。
患者さんへのセクハラ話は精神衛生上、悪影響だ。
「何ですか?」
「クリスマスプレゼント」
佑香は即座に言葉を続けた。用意していた言葉だったのかも知れない。
佑香に彼氏は居ない。それを恵は知りつつ、意地悪な笑みを浮かべた。
「ゆかさんは彼氏から貰って下さい」
「居ないよぉぉぉ!!! 知ってる癖にぃぃ!!!」
間髪入れず返される本気の叫びに、恵の口角がヒクヒクと引き攣った。
恵はいいよね……などと、ブツブツと恨みがましく呟いている。
佑香は彼氏不在歴が長い。救急救命室に詰めていた頃は、毎日が忙しく休日でも呼び出される事もあり、それどころでは無かった。転属された先には目下、崩壊の真っ最中の優。とてもそんな気分になれなかった。再構築期を経て安定した現在は、家に帰っても優の事ばかり考えてしまっている。
「そーじゃなくて! 優さんへの!」
「姫へのプレゼントですか?」
恵は優の事をお姫様。姫君と時に形容する。隣室の少女にぴったりだと自負している。
「そ。プレゼント」
「今ね。3個並んでるんだよ。枕元に」
「枕元に?」
「うん。目覚まし時計。愛されてるよね。優ちゃん。あたしは違うもの選んじゃったんだけどね」
佑香は一呼吸置いた後に、言葉を続ける。憂の姿でも想像していたのかも知れない。
「……本当に、……目……。覚まして欲しいよね」
そう言って、小さく俯いた。その瞳は潤んでいた。涙を瞳いっぱいに溜め、今にも決壊しそうだ。
それが彼氏不在の事実を後輩に突きつけられた為か、隣で眠り続けるお姫様を想っての事か。後者の綺麗な涙であって欲しい。
……間違いなく後者であろう。
クリスマスに勤務が当たらなかった伊藤は、ちょっと早いけど……と、枕元にそっと置いた。
その前日、12月24日には姉と兄が語り合い、笑いながら枕元にそっと置いた。
今日の昼前、優の両親が面会に訪れ、驚きながら枕元にそっと置いた。
「じゃ、私は4番煎じですね」
バッグのファスナーを空けると、大切に目覚まし時計を取り出す。
職員用エレベーターは、乗り込む前に持ち物の検査が行われる。最上階までは上がってもくれない。なのに、エレベーターは最上階に稀に停止する。隠しコマンドが存在するらしいが、そのコマンドをこの両名は知らない。
スマホはもちろん、撮影、録音の機能のある物。それに準ずる物は最上階持ち込み禁止だ。
クリスマスプレゼントの可愛らしく飾られたラッピングは、『申し訳ありませんが……』と言いながら、本当に申し訳なさそうな顔をする守衛さんに、その場で剥がれてしまった。
裸のプレゼント―――目覚まし時計をそっとデスクに鎮座させると、佑香の両サイドに並ぶ椅子の1つに、よっこいしょとようやく腰を降ろした。
銀色の鐘が天辺に2つ並び、その間には同じ銀色の小さな槌が左右に開く空洞から伸びている。
設定時間になると、その銀の槌は左右に大きく振れ、銀鐘を叩き、ジリリリと喧ましく、周囲の人間の鼓膜をも震わせるだろう。
見た目の時点で如何にも大きな音がしそうだ。
「恵……。それ……」
佑香の瞳からは、今度こそ涙が零れ落ちた。
「ゆかさん。これで目覚まし時計が4つですね。これなら嫌でも起きますよ」
恵は隣に座る先輩の背中を、彼女が落ち着くまで、そっと撫で続けた―――
(ゆかさんってホントにあの子が大事なんだね)
自身の事に無頓着で他人に対し、一生懸命な先輩Nsを想い、口元が綻んだ。
(私もだけどさっ)
回想を終えると、純白の生地で裁縫された、動き易く、機能性の高いナース服でストレッチを始めた。
しばらく無心で体を動かした後、デスクの卓上時計を見やる。23:58と表示されていた。
『今日中に起きなかったらバチカンで暴れまわってくる』……と、落ち着いた佑香は半分以上、本気な表情で話していた。クリスマスとバチカンの関係性――礼拝が行われ大層、賑わうらしい――を恵は知らない。
(あと2分しかないよ。ゆかさん、アップ完了してるかも)
んーっと、最後に背筋を伸ばすと、デスクの傍に移動した。
(早く起きないと都市が1つ消滅しちゃうかもですよ? お姫様?)
恵はボールペンの付いた赤いバインダーを手に取ると、この部屋に似合わない豪奢で重厚なドアをノックする。最上階に一部屋だけ存在する病室。VIPルームへのNS直通の扉だ。当然、VIPルームからの見た目を重視されている。ステーション側の調和は計算されていない。
ノックへの反応は無い。普段の巡室では最大で10分ほどの誤差があるが、この時は違った。聖夜の奇蹟をどこか期待し、じっと待つ。
デスクの卓上時計は、無機質に0時を示す。
甲斐甲斐しく姫の世話を焼く侍女を装い、重厚な割に軽い力で開く扉を引き開け、ドアをくぐる。
ドアをそっと閉じると両手を軽く臍の前で合わせ、恭しく一礼してみせた。
「姫さま? タイムオーバーでございますよ?」
壁に取り付けられた間接照明が、至る所でオレンジ色の優しい光を灯している。
ドアの横の壁にあるツマミで光量を下げると、続けて傍らのスイッチをONする。
天井に一定間隔で埋め込まれた乳白色の蛍光灯が一斉に光を放つ。
悠に200㎡はあろう、広いVIPルームの中央には、部屋に不似合いな簡素なベッドが1つ置かれている。元々、この部屋に用意されていたキングサイズの高級感溢れるベッドは、その広い部屋の片隅に追いやられている。もちろん、豪華なベッドだけでは無い。背の低い重厚な造りの箪笥や本棚、装飾の美しいティーセットの入ったキャビネット、一瞥するだけで柔らかさが想像できるソファーと対になるテーブル。
歴史ある高級ホテルのロイヤルスイートかと錯覚するVIPルームだが、曲がりなりにも病室である。十分な光を確保する必要がある。豪華な一室に違和感を生じさせるはずの蛍光灯だが、自己主張せず、設計者の苦心が垣間見られている。
恵はベッドに向け、歩を進める。
簡素なベッドの周囲には、様々な計器が並んでいた。
今では使用されていない医療機器がほとんどだったが、急変に備え撤去されていない。鎮座しているだけの存在だ。
その簡素なベッドには、一枚の薄い白い毛布を胸の下まで掛けられた仰向けの少女がいた。両手は毛布から出され、左手の人差し指にはパルスオキシメーターの端子が――左手首にはその脱落防止ストラップが――取り付けられている。そのコードだけが生体情報監視装置に接続され、ピッ、ピッ……と規則正しく電子音を奏でていた。
少女の瞳は閉じられたまま、長い睫毛はその下に扇を形取っている。
4つの目覚まし時計に囲まれ、ベッドで休む姫君は……、未だ眠ったままだった。
「起きて下さいませ。バチカンは今頃、謎の襲撃を受けておりますよ? どのように責任をお取りになられるのですか?」
姫の傍に寄り、腰を屈め、耳元でそう囁く……ではなく、いや、傍に寄り腰は屈めたのだが、囁いてはいない。普通の声量……幾分、普段より少し大きい声で話しかけ、しばらく反応を窺う。
……無反応だ。
ふぅ。と溜息を漏らすと体を起こし、ベッドの頭上のモニターに向き直る。バインダーを持ち替え、ペンを取り出すと表示されている数字を記入していく。
この表示されている情報は時系列で保存されている。わざわざ紙に記入し、電子カルテに入力する一連の動作は様式美である。
木目の美しい床頭台から手動式の血圧計―――電動の血圧計は数あるが、正確を求めるならば、操作に慣れた人の耳だ―――を取り出す。
その動作の中でベッドの下に置かれた、小さな白いスリッパが視界の隅に入った。
佑香が姫に送ったクリスマスプレゼントだ。まずは目覚める事が大事……と目覚まし時計を贈ったのは、優の家族と専属の2人、恵と伊藤だった。
佑香は更にその先を想い、考え、スリッパを選んだのだろう。
離れたソファーの上には、今の姫のサイズに合わせたバスケットシューズとボールがポツンと並んでいる。それぞれ、島井先生と鈴木看護部長からの贈り物だ。
なんだか無性に腹立たしくなった。
「起きろぉ! こら寝坊助!」
「もうすぐ正月だぞ!」
「下々の者に暇も出さんつもりかっ!!」
……未だ、姫と従者の設定を引き攣っている様子だ。
眠る姫君を怒鳴る侍女。
………。
如何なものか。
「いい加減にしろっ!」
「私らじゃ嫌なんかっ!」
「侍女や執事じゃ嫌なんか!?」
伊藤は執事には、ほど遠い容姿をしている。小太り、短髪で愛嬌のある顔立ちをしているものの、ロマンスグレーの老紳士でも、燕尾服の似合うイケメン金髪でもない。
そもそも執事は体への直接の世話はしない。いや、するのか? よく分からない。
「王子様か!? 王子様のチューを待っとんのかっ!」
口元がピクリと動く。何処となく、『お断りだ!』と云った反応に見えたが、怒声への反射か判別出来ない。
前者を想像してみて欲しい。男として育ち、事故で昏睡状態に陥った。唇の感触で目覚めると、目の前には爽やかな笑顔のイケメン王子。
……洒落にならない。
話を戻そう。
優の反応に気を良くした恵は、血圧を測る準備を始める。
血圧計の目盛の根元を操作した後、血圧計と一緒に取り出した聴診器の二股に分かれた両先端をそれぞれの耳にセットし、左肘の内側で脈動を確認する。
そこに聴診器のイヤーチップの逆端にある円形部分を当てる。左の二の腕に腕帯をダイヤフラムごとを巻き込む。
ゴム球の上に付いている排気弁を閉めると、ゴム球で空気を送る。
何回かペコペコすると水銀が目盛の200近くまで急上昇する。
カフはそれに合わせ、優の白く細い二の腕を強く圧迫した。
「んん――」
微かな声と共に、優は優美な眉を顰めた。
柔らかく閉じたままだった瞼に力を込めた。
淡桜色の小さな形の良い唇を噛み締めた。
そして、全身を強張らせる。
力無く開かれていた小さな掌をギュッと握る。
白い毛布の中では使われた事の無い、無垢な足裏の先端の指がキュッと小さく曲がった。
再構築後、初めて全身を以ての反応を示したのだった。
(ごめん! 絞め過ぎちゃった!)
慌ててバルブを大きく開くと、目盛は一気に140ほどに下がる。その瞬間、バルブを絞め直す。
カフから空気が抜け、全身の緊張が解けると優の表情はいつもの安らかな寝顔に戻ってしまった。
この時、恵はイヤーチップが両耳を塞いでいた為、優の微かな声が届かなかった。
水銀の動きに注視していた為、優の初めての反応に気付かなかった。
今度は、締めたバルブを少し開く。水銀は再び、ゆっくりと高度を下げ始める。
目盛が110を下回った頃、 トクン… トクン… と耳を叩き始める。
所謂、コロトコフ音――動脈をカフで締め付けたときに発生する血管音――である。
トクン…
トクン…
徐々にコロトコフ音は、その音量を下げていく。
その命の証明とも謂える、その音は恵の耳に心地良かった。
「108の66……っと。今日は珍しく、いつもより高かったね。どしたの?」
……恵のせいだ。怒鳴り散らした事は遥か、忘却の彼方なのだろう。ついでに言えば、二の腕を締め上げすぎて、全身を強張らせたばかりだ。
「何か言った?」
優の顔を覗き込む。
いつもの美しい少女の寝顔に、頬を染める。
(この小悪魔っ! 私は女だぞっ!)
末恐ろしいよ……と呟き、チェック用紙の空欄を埋めていく。
紙オムツの中の確認は、いつも以上にドギマギしてしまった。
体位交換用の三角クッションなど沢山、贅沢に使用し、右側臥位――右向きの体位――にする。
その安楽そうな姿勢に満足すると、最後に白い毛布を胸まで掛け、パルスオキシメーターを装着する左腕を抜き出すと、白く小さな手の甲にそっと口付けした。
「また参りますね。お姫様……?」
入室したその時と同じに一礼すると、VIPルームからNSへ戻っていった。