25.0話 優が優でなくなった時
島井の行動は迅速だった。
この元・救急救命チームリーダーは緊急事態への対応に於いて、院内で群を抜いている。
島井が到着した時には、既にオペ用の道具を取り揃えていた。空いているオペ室からカートごと拝借したのである。
優は……と言えば、島井がカートを押し、駆け付けた時には多量の血液を失い、朦朧としていた。しかし、力を籠め握り続けていた伊藤の手が離されると、出血はほぼ収まっていると言う通常では考えられない事が起きていた。
島井の到着を見届けると、伊藤のフォローを行なっていた剛は呆然と立ち尽くした。
……姉は、蒼白となった顔を覆い、小刻みに震え続けていた。
伊藤の声で我に返った恵の行動もまた迅速だった。
島井への報告を終えるや否や、PHSで院長と看護部長に連絡を。そして、看護部長から裕香へと伝わり、冬にも関わらず、裕香は汗を掻きつつ、VIPルームに飛び込んできた。全力で駆けてきたに違いない。
裕香は島井と共に救急救命詰めだった。島井のオペに際し、これほど打ってつけの人物は居ない。
恵の行動はそれだけでは終わらない。3件の内線を済ませると、0型の血液確保へと動き出したのだった。優の血液型は元々、日本人に最も多いA型だったが、事故後の緊急オペの際、血液は多量に入れ替えられ、0型へと変化してしまっている。
それはともかく、専属看護師たちと島井の働きにより、優は無事、一命を取り留めた。
だが、切り傷と刺し傷が混在した優の右手首。切り傷は、もちろん完治はしているはずは無いが、僅かに塞がろうとしており、その縫合には苦労した。
「申し訳ありません……。この傷跡は深く残ってしまうでしょう……」とオペ後の談だった。
無事、未遂に終わった優の自殺行為だが、当然ながら、多くの影響をもたらした。
先ずは優。
……優は拘束された。右手首の刺傷は深く、骨まで達していた。
そもそも、自殺の原因が現時点で不明の上、理解力、見当識、それらに難を抱える優が傷口を触り、悪化させる恐れがあったからだ。
続いて専属看護師……。VIPルームに詰めていた伊藤と五十嵐の両名の落ち込み様は凄まじかった。伊藤は『僕の責任です……』と深く項垂れ、辞表さえ出すかも知れない……。そんな状態へと陥った。
恵も似たようなモノだ。自分からは口を開かなくなった。裕香がいくら慰めても、首を横に振るばかりだった。
島井は冷静さを保っていた。不測の事態には滅法強い。長く務めた救急救命ドクターとしての経験がそうさせていたのだろう。
島井はここに来て、ようやく無痛の可能性を疑い始めた。とは言え、意識の無い優に痛み刺激を与えてみるなどと言う、鬼畜じみた真似を出来るほどの感性は持ち合わせていない。これに関しては、棚上げにせざるを得なかった。
因みに、この日の内に、痛覚の検査は行われ、無痛症との診断を受けている。
それよりも……。鈴木看護部長がVIPルームに持ってきた情報は、そこに詰める全員に焦燥感を与えた。
それは院内の看護師たちの噂。
VIPルームで崩壊を続けていた少年に、ついにお迎えの時が訪れたのだ……と。
これはオペ室からカートを持ち出す島井の姿が目撃されての事だった。
火急を要した優の行為への対応。
当然、島井にそこまでの配慮をする余力は無かった。人目を偲び、持ち出そうとすれば、どれだけの時間が必要になったか、想像も付かない。その間に、助かる命も助からなくなってしまった可能性もある。島井のこの時の判断は正しい。
―――結果、愚かな行為に及んだ優には、拘束以上に大きな代償が必要となった。
島井の緊急オペが終わった頃には、院長の川谷から連絡を受け取った総帥・蓼園 肇が、秘書と蓼園商会取締役の1人である父・迅を伴い、エレベータの隠しコマンドを利用した裏口から……では無く、正面切って来訪した。それは何とも厳めしい、沈痛な面持ちであった。全てを見越しての事だったに違いない。
そのすぐ後には、蓼園商会が迎えの車を寄こし、母・幸が到着。こちらも正面玄関を通ってきた。
そこで総帥は改めて、1つの提案を行なった。
今がその時ではあるまいか?
儂は優くんの平穏を第一に考え、行動すると約束しよう。書面を交えても良い。その場合は契約となり、儂を縛り付けるだろう。
優くんの躰は人類の宝である。だが、儂はそんな事よりも優くんを1人の人間として思い、全力で守ろう。全てから解放すると誓おう。それが儂の……いや、私の贖罪だ。
彼が、外の世界を望まぬのなら、私はこの部屋を優くんの暮らしやすい環境へと変えて見せよう。
外の世界を望むのならば、優くんが優くんであった事を隠蔽する為の出来る限りの事をしよう。犯罪行為も厭わない。私が平穏な生活を与えて見せよう。
……ご両親にとっては苦渋となる選択だと云う事は、重々承知している。
だが、優くんを『立花 優』のままにしておく事は危険なのだ。優くんの生存を知られれば優くんに危険が迫る。この病院内で『崩壊期』は有名だから……な。
だからこそ、亡くなった事にせねばならんのだ。
今を逃しては、いずれ彼の生存は知れ渡り、不幸を招くだろう。
分かって欲しい……。
そう言い、深く頭を下げる総帥に……両親は項垂れつつも、同意の意思を示したのだった。
この当日には通夜。翌日、5日には、家族葬が執り行われた。
遺体は、純白の上質な布に包まれたまま、焼き場に入れられた。誰1人として、部外の者はその中を確認出来ていない。激しく痛んだ遺体であり、家族さえも最後の顔見せを憚った……。そんな体で焼かれた。
あとに残ったものは、遺骨では無く、ほとんど灰と化していた。骨壺には、その灰と僅かな遺骨が詰められた。
……そして、納骨堂に収められた。
その家族の様子は、特に姉と兄に深い悲しみが見受けられ、お坊さんが感化されたほどであったと言う。
その頃、時を同じくし、病院の最上階。VIPルームには、意識を失っている『篠本 憂』が総帥の乗るリムジンにて搬入された。
これにより、『立花 優』は崩壊を続け、亡くなってしまったものと院内で認知された。更には、『篠本 憂』が総帥の見付けてきた総帥から両親への贈り物……と。そう密かに院内で噂され始めたのである。
また、この日、総帥・蓼園 肇は蓼園商会会長職を辞した。優の家族に立てた誓いを実行する為だった。1人の普通の少女を守るには、蓼園商会会長職の肩書きは重すぎた。
世間一般にとっては、電撃的な辞任だった。その為、多くの報道陣が押し寄せた。
この時の記者会見は、この男に同情的な会見となった。
『引責……と、言う事になるのでしょうが……、その必要は無いのでは? 貴方は後部座席に乗っていただけです。しかも少年は歩道橋から落下……。車列が避けられるはずも無く、ご家族から訴えられてもいない……。それなのに何故?』
マスコミにも、この男の黒い噂は広がっている。それでも、彼は擁護される立場にあった。
しかし、蓼園 肇は、こう言って退けた。
『これはケジメなんです。人を人と思わぬ人で無かった私に優くんは身を持って、人と云うものを教えてくれた。人に戻った私は俗物に成り下がった。今はもう単なる人間なんです』と……。




