24.0話 鮮やかな赤
――うぅ――。
あと――ちょっと――。
――なのに――。
――とどかな――い。
優は必死に手を伸ばす……が、もう数センチ、そんな僅かな距離に手が届かない。
やや低めの出窓であり、健常者ならば手を付き、自身の体を持ち上げれば簡単に腰掛けられる……。そんな代物だ。
だが、今の優には自分の体を持ち上げるだけの力が無い。
その為、上半身を乗せ、ペタリと身体を力無くうつ伏せてしまったのだった。
その姿を見て、伊藤が動いた事に優は気付いた。
――あ。
――いとう――さん――。
きづいて――?
――。
――たすかる――。
でも――。
また――めいわく――。
――ごめん――なさい――。
――。
――あれ?
伊藤が立ち止り、姉たちの居る方向に、小太りな体を向けてしまっていた。
――――――。
はなし――したい――よね――。
――。
ふつうに――。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
姉ちゃん――も――。
ボクと――はなす――より――。
――――――。
なに――やっても――。
おそくて――。
――めいわく――ばっかり――。
優は目を伏せた。伏せたところに良い香りを放っていそうな、フルーツバスケットが置いてあった。
リンゴにメロン、八朔のような大きめの柑橘にバナナ……。旬の物から、そうでない果物まで、山盛りされている。
――おいし――そう――。
――――でも――。
におい――ないと――。
におい――あった――まえ――。
――?
――もっと――おいし――かった――。
いまは――びみょう――。
嗅覚の無い食事は、彼女にとって味気ないものだったらしい。しっかりと噛み、舌全体で味わえば、味はしてくる。その味をしっかりと噛み締めているのだ。
……それは、残念ながら事故以前より劣ってしまっている。
再び姉を見てみた。続いて、兄に目線が移る。
話など聞いてはいない。そもそも優には聞き取れない速度で2人は話している。
優は視力に問題が無い。むしろ良く見える部類に入るレベルだ。
姉を見る。兄を見る。
「―――――――――! ――――――――――――――、―――――――――――!!」
優の姉兄は、深刻な顔に切り替わっていた。何やら、兄の口調まで荒くなってきている。
――――姉ちゃん。
――――兄ちゃん。
やっぱり――。
めいわく――だよ――――ね――?
フルーツバスケットに目を戻すと、その傍にそれがあった。
――どうぞ――。
――ごりよう――ください――?
正常な判断など出来ていない。思い込んでしまったら、なかなか抜け出せないのが現在の優だ。延々とリハビリ的な行動を繰り返すのは、必死だから……と言うよりは、この時はまだ、まともな判断が出来ていない為だった。
優は果物ナイフを右手に取った。未だ姉と兄の話は続き、伊藤は2人を観察し続けている。恵は信じれない物を見るかのように、姉を凝視していた。そんな優の様子に気付く者は居ない。
――めいわく――だから――。
――いなく――なろう――。
いたい――かな――?
その刃を左手首に押し当て、スゥ……と引いてみたが、右手の力が無さ過ぎた。薄皮何枚か切れた程度だ。
――こっち――?
左手に持ち替える。運悪く、スムーズに持ち替えてしまった。
今度は右手首にペティナイフを押し当て、グッと……力を込め、引いた。
すると、赤い線が白く細い右手首に生じた。
――んぅ?
もう1度、ググッと押し当て、引いてみた。赤い血が多くは無い……が、確かに流れた。
――いたく――ない。
もう1度……。
ツイ……と、新雪の肌を深い赤が伝った。
――あか――きれい――。
……優は感動に打ち震えている。恍惚としており、その赤に魅入られた吸血鬼を彷彿とさせた。新しい玩具を見付けたように無邪気な笑みを浮かべた。
ふいに恵が優を見ようと顔の向きを変えた……が、今度は顔をやや紅潮させ、姉の意見に噛み付く兄へと視線が移ろう。優の姿は確認出来なかったようだ。何故ならば、優への視線の途上には、伊藤がおり、その小太りの陰にすっぽりと隠れてしまっているからだ。
――ち。
――もっと――もっと――。
右手を窓台に置いた。
美しい彫刻が成された果物ナイフを振り上げた。もはや綺麗な真っ赤の事しか、頭の中には無い。
――もっと――もっと――もっと――――!!
なんら躊躇する事は無い。恐怖心さえ微塵に感じさせない。
……数多い後遺症の中に埋没してしまっていた。この時の優は痛覚を失っていた。この事実に病院関係者は勘付いていない。
そのナイフが振り下ろされた。
大きな物音など、生じなかった。このVIPルーム備え付けの果物ナイフは、鋭利な代物だった。力の無い優の行為だが、その細い手首に突き立ってしまった。
――もっと――出る――?
ナイフを抜くと、心臓の鼓動に合わせたように血飛沫が優の白い患者衣を赤く染め上げた。
伊藤が振り向いた。決して大きくなかった物音を耳が拾ったのだ。
「あはははは――!!」
伊藤の目が見開かれた。振り向いた視線の先には赤。一瞬、理解が追い付かなかった。
ソファーの3名の内、兄と恵は唐突な狂った笑声を聞き、弾かれたように腰を上げた。姉は振り返った。
3名が見詰め、1名がようやく動き出した時……。
優は「――すごい――!」と赤を宿したナイフを細く頼りのない首に強く当て、グイ……と引いたのだった。
「あはははは――!」
狂い笑う優の左手を伊藤の丸っこい手が捕らえる。厚い手の平が傷付く事を恐れず、ナイフを取り上げると、そのナイフを投げ捨てた。直後、優を押し倒すと「五十嵐っ!! ドクターをっっ!!」と、怒鳴りつけた。
動きはそこで終わらない。
「やぁぁぁぁ――!!」と悲鳴を上げ、馬乗りとなった伊藤を押し退けようと暴れる少女の右手首を左手で強く握り、右手を喉元に回した。
一見、少女に殺意を抱き、実行してみせたような構図だが、実態は正反対だ。
伊藤は少女の命を救う為、圧迫止血を開始したのである。
その吹き出る鮮やかな赤を少しでも減らしたい。
「ぃやだ――! やめて――!」と懇願する優の意に反し、島井は到着するまでの間、時には「剛さん! シーツを!」などと指示を出しつつ、延々と少女を取り押さえていたのだった。
ようやく投稿出来ました。
書きたかった部分の1つです。
本編に於いて、姉が妹を1人にする時、やたら怯えていましたが、こう云う経緯があったからです。




