19.0話 まだら記憶
―――12月31日(土)
ついにDr.渡辺は起きている憂との顔合わせに成功した。その瞬間はそれはもう大喜びだった。
この日、早い時間……。8時前に渡辺は到着した。専属看護師と島井……。憂と顔を合わせた者たちの、どこか活き活きとした表情に居ても立っても居られなくなったのである。
だが、残念ながら到着から数時間、目を覚まさなかった。
それもその筈、昨夜は4時頃にも目覚め、そんな時間から再度、リハビリを開始したのである。それは体内時計の崩壊と状況把握能力の欠如を示しているんじゃないか……と、語ったのは島井ではなく、この渡辺だった。
ようやく11時前に目覚めた憂に、早速! ……と、質問しようとした渡辺は黙らされた。水分補給と食事が先……との事だった。正に正論であり、渡辺は憂の食事風景をのんびりと眺めていたのだ。いや、最初は少し苛ついた様子を見せていたが、幸せそうにコーンフレークを食す憂を前に毒気を抜かれてしまったのだった。
「ごちそうさま――でした――」
母の教育の賜物だろうか? きちんと両手を合わせ、食事の終わりを告げた憂に喜々とし、渡辺が問い掛けた。
「美味し……かった……?」
島井の話に拠れば、憂は自身が患者である事を理解していると云う。だからこそ、睡眠中にわざわざ白衣を引っ張り出した。私は医師ですよ……と主張する為である。
「はい――。おいし――かった――です」
2人を見守る主治医と専属の裕香の口元が緩む。またもや敬語が出現してしまった。敬語を使うとそれでなくともテンポの悪いの憂のテンポが更に遅くなってしまうのである。
「敬語……要らないよ?」
渡辺もそれを感じたようだ。この脳外科医は島井よりも頭の回転速度は勝っているのかも知れない。しかし、経験値では島井が圧倒しているとフォローしておきたい。
彼は、ボールペンとメモ帳を取り出すと、【敬語は無しで!】と、医師の割には丁寧な楷書で書き込み、それを憂に見せ付けた。すると、憂は興味を示し覗き込む……が、すぐに端正な顔を翳らせた。小さな手を伸ばし、そのメモ帳を「――かして?」と受け取った。断る理由など無く、「どうぞ」と手渡した。敬語は消え失せている。渡辺の言葉で思い出したらしい。
「――よめない」
「……え? あれ? 島井先生?」
「文字が読めない……のか? 憂さん? 全て……読めない?」
島井の問いに顔を向けるとふるふると横に振った。否定だ。全てではないと告げた。
「どれが……読める?」
「んぅ――?」
どうにもテンポが悪い。渡辺の質問は聞き取れなかったらしい。憂の澄んだ眼差しは渡辺に移ったまま。そのまま、小首を傾げ固まってしまった。
「憂ちゃん? どれが……読める?」
「これ――。わ、し、で――」
「なるほど。ありがとう」
「……漢字が読めないんだ」
裕香の悲しげな声に「逆だよ? 平仮名はしっかりと理解出来る。良い事と思うべきだよぉー?」と間延びした語尾を使用し、渡辺はポシティブな考えを披露した。脳の状態から考えると喜ばしいと思えるのかも知れない。
「ちょっと……ごめんね」
再び、メモ帳を手に取ると全てを平仮名で【けいご、いらない】と次のページに記入し、手渡した。手渡された少女は、軽く目を通すと「わかった――。ありがと――」と、柔らかく微笑んだ。
「反応早かったですね。文字のほうが理解しやすいのかな?」と裕香が分析すると「その可能性は大いにあるね」と島井は同意する。そして、この2人の時には渡辺の島井いじりが始まる。何故かは不明だ。
「それを調べる為にわざわざ大晦日にこうやって来てるんじゃないですかー。島井先生にお任せしてたら何ヶ月かかるか分かったもんじゃないですよぉ。本人の意思の尊重は大切ですけど、行動全部を任せてたらいつまで経っても問題点が浮き彫りに出来ないんですからね。緊急時には神対応するのに、じっくり考える時間があるとダメなんだからー。それとも女の子相手だからダメなんですか? よく結婚出来ましたよねぇ?」
「……年上には問題なく話せるんだよ。私の話はともかく、君のマシンガンのようなトークに優さんが困惑してるよ」
優の目は発言者に注がれる。誰かが話す度にそれは移ろう。会話を理解しようと眉根を寄せ、頑張っている。だが、理解には至っていないらしい。
渡辺は島井いじりから、再度、優に向き直った……タイミングでインターフォンが鳴った。来客があったらしい。隼の如き反応速度を見せ、裕香が駆けていったのだった。因みに足は遅い。どちらかと言えば鈍くさい部類に入りそうである。
「この漢字……読める……?」
渡辺によるテストは続く。この広い病室に優の母と姉を迎えても変わりない。
優に見せられた文字は【立花 優】。優にとって、過去1番使い慣れた文字に違いない。その漢字三文字を見せられた優は少し不満の様子を示した。それを感じ取った渡辺は「ごめんね。テスト……しないと」と、言外に様々な探りを籠めたひと言を伝えた。
「――わかった」
優のその言葉を聞くと島井と渡辺の視線が交錯した。優はやはり、自身の状態を把握している。それを感じさせた。
「あらためて……これは……?」
メモ帳を覗き込み、考える素振りも見せず「たちばな――ゆう――」と回答した。漢字表記でも良かったかもしれない。
「そうだね。自分の……名前だね……」
渡辺が頬を緩め、呟くように語り書けると、反応早くコクリと頷いた。何やら法則でもあるのかもしれない。
「他に……漢字……分かる?」
「『みゆき』とか分からないかしら? 家族の漢字なら憶えていてもおかしくないと思うんですけどぉ……」
母のひと言を受けると脳外科医は、「どの字ですかねぇ?」と遣り取りと交えた。
因みにこの母は、自身の名前の漢字を「幸薄いの幸です」と、幸薄く無さそうな顔で答えていた。
「えっと……この字は……わかる?」
メモ帳の1ページに小さく【幸】と書き込まれた。それを見た優の眉尻が下がってしまった。顔を見ればどうなのかはっきりと分かる。分かりませんと書いてあるかのようだった。
「あらあら……。ちょっと寂しいわね……」
口調は至って平然としている。母は表情もニコニコと変わらない。
島井の家人の観察は続いている。家族を見る度に島井は、可能性を探り始める。優の精神面はいまいち読み取れない。表になかなか出てこない。その為に渡辺に任せている。
通常、男子が女子と変化したならば、精神面の揺らぎは相当な物だろう。しかし、障がいに覆い隠されてしまっている。感情を見せない訳ではない。感情失禁するほどに感情はお押っ広げになっている。それなのに、掴みにくい。何を考えているのか判断が付かないのだ。
もしも精神面が不安定であれば、そこに家族のネグレクトなど加わった場合、危険度は一気に増大する。退院という島井にとっての最終目標へと到達するには家族の協力は不可欠だ。その為に観察を続ける。
……この母もまた、分かり易く捉え難い。
「じゃあ、愛はどうかしら? 私の場合は『母さん』ってみんな呼んでるから印象が弱いのかもー? 愛なら私も父さんもそう呼んでるし……。あ、愛情の愛ですよ?」
……そして実験だ。優の記憶を探っていく。
結論を述べると優は家族の漢字を1人足りとも憶えていなかった。憶えている漢字を問い掛けても出てこなかった。これは優のフォローをしておきたい。例え、憶えている漢字が存在していたとしても、それを言葉で……、しかも出の悪い言葉で説明など、し辛いはずだ。
それに気付かないほど、ここの医師は無能では無い。
ペンを渡し、知っている漢字を書いてもらうと、それは明らかになった。
……追記しておこう。右手では、筆圧が弱く、ミミズが這うよりも酷い文字となった。その為、左手で書いてもらった。右手よりはマシと云った状態だったが、判別は可能だった。
明らかになったのは『まだら記憶』。
自身の名前の文字など、明らかに印象が強かったであろう文字は記憶に残っていたが、それ以外の物は不安定そのものだ。
例えば『月』『日』は憶えていたが『年』は抜けていた。『一』『千』は書けるが『百』も『万』も消えていた。
脳外科医・渡辺 智貴は文字の記憶に法則性は、ほとんど無いと結論付けた。
続いて行なった算数では足す、引く、掛ける、割る……。加減乗除。四則演算の全てを時間は掛かったがこなしてしまった。
掛け算九九も淀むことなく答えたのだった。
……性転換した事を理解しているか……については渡辺も保留とした。
渡辺も島井も理解していないはずは無い……とは思っているが、余りに本人に気にするそぶりが見られないのである。




