2.0話 崩壊期
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―――12月25日(日)
「あー! かったるいよー! もう仕事行く時間だー……」
茶髪のやや派手な印象の女性が、壁に掛かる丸時計を確認した後、愚痴を零した。
クリスマスの日曜に……と、愚痴に追い打ちを掛け、よっこいしょと言わんばかりに気だるげに立ち上がり、いそいそと着替えを始める。
年齢は見た目相応の24歳。
チャラチャラした外見とは裏腹に、白衣に身を包むと、その雰囲気を一変させる不思議な女性だ。
前の職場では持ち前の根性と責任感から、医師はもちろん、全員が先輩である同僚の看護師からも信頼を得ていた。
もっとも、残念な事に人見知りする性格であり、言葉数が少なく、怖い看護師と思われる節もあった。
五十嵐 恵。半年前ほど前には、外科胃腸科の大きな看板を立てる開業医の下に勤めていた。
大きく書かれた外科胃腸科の下には、ひっそりと消化器科肛門科と表示されていた。
看板のそれとは逆に、待合には痔の苦痛に耐えられなくなり、羞恥心をかなぐり捨て、藁にも縋る想いで受診する患者が犇めき合っていた。
それはさておき。
現在、茶髪のナース、五十嵐 恵は別の大病院に籍を置いている。
今年の6月、最初の週に蓼園総合病院から、蓼園市周辺の医療施設に一斉にメールが送信された。
内容は至って単純な物だった。要約すると『年齢不問。信頼できる看護師を紹介して欲しい』といったものだった。
採用条件の記載もあった。その報酬額は一般の看護師の報酬を遥かに上回っていた。しかも蓼園総合病院裏手の高層マンションの一室を無料で貸し出すと言う。剛毅な事である。
メールを受け取った医療施設側としては、この急な依頼を『院内最高のナースを差し出せ』と、受け取った所もあった事だろう。
―――蓼園総合病院は、今や人口80万人を抱える蓼園市の中核を成す大病院だ。いや、それどころか親元である蓼園グループは消しゴムから航空機までをコンセプトに――航空機の製造は開発段階だが――、あらゆる製品の企画から販売までを手掛ける、今や日本全土に知れ渡った巨大グループである。
十数年前からは、企画製造販売に留まらず、多方面にその手を拡げている。
その大病院は10数年前に設立された。市の運営ではなく、蓼園グループ傘下の医療法人である。
30年前に本社を何の変哲も無い町に移した蓼園商会は、この町に根を張り、グループ各社ごと着実に地域に根付いた。
10年前には町は蓼園市と名前を変えた。
近い将来、政令指定都市入りを果たすであろうと言われる、目下、急成長中の都市。それが蓼園市だ―――
その蓼園の名前を冠する大病院からの依頼だ。受け手としては脅迫と受け止め、また或いは太いパイプを作る大チャンスと捉えた。
―――6月初旬。五十嵐 恵は、その日の内に受験者として指名された。恵の勤めていた病院は後者、チャンスと受け取った側であると、彼女は信じている。前者側であったとすれば、採用された今、態の良いお払い箱の様相を呈してしまう。
依頼メールから僅か3日後に採用試験は開催された。会場には、様々な医療施設から50名を超える看護師が集められていた。
恵は勤務シフトの都合で染め直す暇もなく、茶髪のまま試験へと突入した。そして先輩たちの好意で、いつもより多く仮眠を取らせて貰ったものの、夜勤明けだった。勤務シフトの調整が付かなかったのだ。
恵は、別段、仕事に不満は無かった。だが破格の条件を出汁に信頼できる看護師を集め、その中から採用するという。これに採用されれば蓼園市を代表する看護師と云う事になる。そんな状況に小さな向上心と、それなりの自尊心と虚栄心が刺激された。
10時から1次試験として、常識問題と2種類の性格診断テストが行われた。
11時には休憩となり13時には1次試験の合否が発表された。そんな異例の早さに目を丸くした。
恵は合否が記載された紙を封筒に戻すと、指示に従い隣の部屋に移動する。そこは50名以上が楽に座れた大きな会議室の半分以下の広さしかなかった。それでも通常の会議室並みの広さはあった。
隣室に移った受験者の人数に動揺した事を鮮明に覚えている。わずか10名足らずとなっていたのだ。
常識問題で不合格となる受験者は、ほとんど居ないだろう。だとすれば、あの2種類の性格診断テスト。あれに8割以上の受験者が涙を呑んだことになる。どうやらよっぽど性格にこだわった試験らしい。
2次は先程の大きな会議室を使い、面接試験が行われた。個人面接だった。
面接官は5名。蓼園総合病院の院長である川谷を中心に、左側に島井、右側には看護部長である優し気な雰囲気の女性……、現在の直属の上司に当たる、鈴木が座っていたのを覚えている。
両サイドに座る男女は名前どころか顔も覚えていない。今、思い出すと、この2人は性格分析か何かのスペシャリストじゃなかったんじゃ? ……と、邪推してしまう。
質問は数多く、そのほとんどが両端の2名によって行われた。2人は全くの無表情だった。序盤は、わざと怒らせるような質問をしてきた。しかも、それは言葉遊びを交え、何度も繰り返された。イライラを隠せなくなった頃、本来の質問に入っていったような気がする。けれども何を問われたかは何故だか余り覚えていない。
「当方で業務上、得た情報を一切他言しないと誓えますか?」
「もちろんです」
当たり前だ。当時、恵が住んでたアパートのお隣さんが痔核に苦しんでいるなんて、口が裂けても言わない。いや、言えない。
「亡くなった方が幸せだと思われる患者を前にした時、それでも医療に携わる看護師として対応できますか?」
「えっ……。えっと……」
これには詰まってしまった。思わず目線を下げてしまった。
そんな恵に看護部長から助け船が出された。
「質問の仕方を変えましょう。宜しいでしょうか?」
ちらりと、隣の面接官に目線を送り、確認する。その面接官は頷き、了承の意を示した。
看護部長は長年、数多くの患者と向き合ってきたであろう、その慈愛の瞳で見詰めてきた。
「それでは……。そう……ですね……。こう言い換えましょう。現代医療に於いて、生命を辛うじて繋ぎ止めている患者さんを前にした時、貴女は全力で看護する事が……、出来ますね?」
それは質問では無く、確認だった。
「はい!」
恵は迷わず返事した。
そんな看護師としての後輩である自分に笑顔を向ける。そのままの表情で向き直り、「これで宜しいですか?」と、隣の面接官に確認した。その面接官は今度はゆっくりと再び頷き、口元を微かに綻ばせた……気がした。
すっごく、いい人! 上司にしたい女性、一気にトップだよ! ……と、思った事は鮮明に覚えている。
覚えていた面接での正確なやり取りは、この程度だった。
それから、僅か2日後。
速達で合否発表があり、鈴木看護部長は、直接の上司となったのだった―――
「はぁ……面倒だなぁ……。時間、長いんだよね」
着替え終わった恵が更に愚痴ると、着替える様子を無言でしっかりと見ていた男が問い掛ける。恵は気にする様子すら無い。そう言う関係なのだ。
「24時間勤務だっけ? よくやるよ」
男は恵の彼氏だ。イブに合わせ、独り暮らしの彼女の家に泊まり込んだのだった。
「そうでもないよ? 仕事行くまでが面倒なだけ。仕事始めたら1勤務が長い方が楽じゃない?」
「……そんなもんか?」
「私から見たら、毎日毎日出勤するほうが面倒だよ」
「……あぁ……。そうかも……。いや、やっぱりわかんね」
五十嵐 恵の勤務は丸1日だ。今日の14時まで最上階には山崎 佑香が詰めている。13時から14時までの1時間は佑香と時間がかぶる。その1時間を使い、必要事項の申し送り。看護師同士の情報交換を行っている。
明日には、伊藤が13時に出勤してくる。山崎→五十嵐→伊藤→山崎……と、各自25時間詰めでローテーションを回している。その僅か3名だけが蓼園総合病院最上階の看護師である。
月曜日、木曜日の13時には3人集まるようにしている。もちろん、1人は休日である。誰から始めた訳でもない。この3人だけが、あのサバイバルのような環境から生き残った。
―――『再構築』と『再構築期』
優の主治医である島井が名付けた。入院直後から6ヵ月間を指す。再構築期は、更に3つに分けられた。
緊急手術の数日後から、優の以前の体は崩壊を始めた。
ゆっくりと末端から腐っていき、じっくりと筋肉と脂肪が崩れ落ちた。2ヵ月後には粘液を通し、体の各所から骨が覗き、胴体に至っては蠢く臓器が透け見えた。
徐々に体が崩れていった、この2ヵ月間を崩壊期と呼ぶ。
この崩壊期に多くの看護師たちが心を折られ、他の部署に転属を上申し、或いは辞めていった。そんな中、6月初旬に急遽、採用されたのが恵と、崩壊期の終結間際で辞めてしまった男性・高山だった。
今でこそ崩壊期と維持期、そして再生期に分けられているが、当時は壊れ続け、いずれは臨終すると推測されていた。
(丁度、高山さんが辞めた頃に崩壊期が終わったんですよ。奇蹟が起きたんです……)
歳の離れた同期の40近いその男性に、現状を伝えられればと強く思う。だが、それは出来ない。優の再構築については、極秘にされている。
『……ごめん……ごめん、なさい。……僕には……、もう無理だ……』
力無く必死に涙を堪えた表情で高山は呟いた。深く沈んだ、その声を……、表情を今でも鮮明に思い出す。今の優を一見するだけで彼は救われる事だろう。彼は、島井や看護部長らの転属の勧めを振り払い、辞めてしまった。
その頃には、最上階に所属する看護師は、たった3名に減っていた。この3名が今現在、優の専属看護師なっている。
蓼園総合病院内の数多い看護師の中でも適正を持つ者は少なかった。20名が最上階へ一時的に連れてこられ、淘汰された。
高山が抜け、外部からの2度目の募集が検討された……が、募集はすぐに中止となった。優の身体の崩壊が収まったのだ。
その後の粘膜のような膜に包まれていた期間を維持期と呼ぶ。およそ1ヵ月間をかけ、折れ曲がった――或いは粉砕された――骨が融け、小さく再生していった。
砕けた部位や、おそらく脳が不要と判断した箇所が融け、縮まった骨格は女性としての再生への準備期間と言えた。
更に3ヵ月弱。崩壊期を逆再生するように、体は大きく姿を変え、再生されていった。
その3ヵ月弱の期間を再生期と呼ぶ。
つまり、優の再生期以降を知る看護師は、看護部長と専属の3名だけである―――
「そーれーよーりー」
↑~↑~↑~↑~。以前に流行った妙なイントネーションの恵は、不服そうな顔をしている。
「スマホ持ち込み禁止なんだよ。仕方ないのは解るんだけどね」
「だよなぁ。スマホ無いと暇だろ? めぐのとこって外線も禁止だよな? 一体、どんなお偉いさんが入院してんだ?」
彼氏が何気なく聞いてきた。そこは機密に掛かる部分だ。当然、守秘義務に抵触している。
「そんなに電話できないの寂しい? ちょっと嬉しいかも」
「あのなぁ……。まぁ、否定しねーけど」
黒のショートブーツに足を通しながら、ほくそ笑む。話題の転換に成功したと思ったが、すぐに真顔に戻った。
「……なんか嬉しそうなんだよなぁ。そのVIPって男じゃねーだろな」
(……うー。話逸らせてない……)
「言えないんだって。黙秘権を発動します! ま、大事な人よ。色んな意味で」
茶目っ気たっぷりに笑顔を向ける。
ブーツを履き終えると立ち上がり、見送りの為、すぐ後ろに立つ彼氏に振り向くと、1歩近づき、唇を重ねた。
「いってきま!」
「ああ。いってら」
「やっぱり嬉しそうじゃねーか。仕事、そんな楽しいもんか? まぁ、いいけど」
彼氏の言葉を無視し、玄関を出ると、そのまま歩き出す。如何にもその足取りは軽そうだ。
彼氏がマンションの廊下に顔を出すと、膝上の短いスカートを翻し、軽い足取りの彼女の背中に声を掛けた。
「どこがかったるいんだよ……?」
恵は振り返る。彼氏と目が合うと、満面の笑顔で手を振り駆け出した。
「あいつって……あんなだったかな?」
2人が出会った7月は、どこか思い詰めた表情をしていたはずだった。
街中で見付けた、そんな恵が気になり、声を掛けた事から交際が始まったのだ。