17.0話 少人数会議
「それは……、なんともすまん事をした……」
「いえ、我々も気付いていなかった事ですので……」
どこぞの倉庫との往復2回目、蓼園 肇は優の嗅覚が破壊されている事を知り、詫びた。どこか愛嬌を感じさせる顔が歪んでいた。
主治医・島井の言う通り、誰も気付いていなかった『仕方の無い事』だったが、総帥と言う男は、「儂のせいで、優くんに辛い思いをさせてしまった」と本気で落ち込む様を見せた。これは優への心酔を実証させるエピソードとも謂えよう。
「早期の発見に至り、良かったと考えるべきかと。他にも何かあるのか、検討するべきです」
秘書・一ノ瀬 遥の提案を主治医は即座に受け入れた。
姉と兄は会議が始まるとVIPルームを辞し、伊藤は定時を随分とオーバーし、帰宅した。何かと忙しい総帥及び、その秘書も既にここを立ち去った。
そして、会議に足を運んだのは、たった1人、渡辺だった。院長は院内に不在。看護部長は日中、何かと忙しいのである。
結局、主治医の島井と専属看護師の山崎 祐香、脳外科医・渡辺の3名だけの寂しい会議となった。3人は優の眠るベッドの足元側で輪になり陣取った。3人が3人とも、優の為にと配置された丸椅子に腰掛けている。
この広い部屋のそこかしこにその簡素な椅子が置いてあるのだ。
「えっと……。それじゃ、味覚と尿意、便意は回復したってことですか? もう何があっても驚かないって思ってたけど、まだまだ驚かせてくれるんですね。もう、流石としか言いようがないですよねぇ」
「尿意、便意に関しては推測の域を出てませんがね。味覚に関しては間違いなく、『味がしない』と」
尿意と便意に関しては『ありません』と言われたわけでは無く、島井の言葉は正しい。だが、間違いなく今朝、過呼吸から回復すると『しっこ』と声を上げたのである。味覚回復の経緯から、その後に回復した……、推測の域を出ないが、可能性は高いだろう。
「うーん。味覚の回復って、前例ありましたっけ?」
「……どうでしたかね?」
「あたしは知りませんよー? 禁煙したらご飯が美味しいとか聞きますけどねー」
裕香の挙げた例は、実際にある事例……だが、それとこれとは話が違う。
「まぁ、後で調べてみますよ。それとは別件でどうにも過呼吸がタイミング的に怪しいですよねぇ。機能の回復と何か因果関係があるのかも? 島井先生、夜とかどうせ暇でしょ? 専属が残してくれてるカルテにしっかりと目を通しておいて下さいね。何か見付かるかもですよ?」
「暇は余計です。まぁ、調べておくとするよ」
「そですね。そうして下さい。他に後遺症の出現しそうな物……。右側の触覚は?」
「ありますよー。支えてあげたら反応しますから」
後ろから、声を掛けずに支えると、振り向く時がある。これは触れられたと云う感触があるからに他ならない。裕香はこの事を言っている。
「視覚も聴力も問題ないんですよね? あー! もう! 僕も起きてる優ちゃんと話してみたいなぁ! こんな美少女、滅多に見れないよ!」
「渡辺先生、なんか変態っぽいですよー」
そう言いながらも裕香は笑っている。渡辺のキャラとして定着しているのだろう。生真面目な肩書に思える脳外科医と言う職業と、この緩めのキャラクターのギャップがいいらしい。院内でもナースたちに人気がある渡辺さんなのである。
「僕は可愛い子を可愛いって言えるタイプだからねぇ。どこかのむっつり先生よりいいでしょ?」
「それよりも他にも問題はあります」
「あ。先生、スルーした」
「卓越したスルースキルだねぇ」
この島井いじりは、渡辺の特徴の1つとなっている……が、2人はそこまで付き合いが長いワケではない。優の緊急手術までは、救急救命室の島井と、外来中心の渡辺の接点は無かったのだ。
少しずつ島井を理解していき、エスカレートし、現在に至っている。
「リハビリに必要と思われる平行棒など、大型の機材を使ってもらう事が出来ません。まさか階段で運び入れるわけにも……」
一般的なイメージのリハビリの事を言っている。リハビリテーションの意味とは広義だ。今回の島井の言ったリハビリとは生活リハビリ以外の物を言っている。そして、それを他の2名は理解している。
「……先生に真面目に進言……ですが……」
いきなり雰囲気が変わった。いつも浮かべている張り付いているような笑みは消え失せ、眼鏡の奥の目は真剣そのものとなった。
島井が体を乗り出した。
裕香は隠すように笑った。渡辺がまたも島井をいじろうとしているとでも思ったのかも知れない。それだけの事を渡辺は今まで幾度となくやり遂げている。
「そろそろ優くんの死亡届を提出し、何らかの工作をしたほうがいいかもですよ。総帥殿の力をお借りすれば、新たに戸籍を作り上げる事も可能でしょ? 無戸籍者への救済措置も行われていますから」
裕香が口をあんぐりと開け、渡辺の顔を見詰めている。相当に予想外だったらしい。
一方の島井は苦虫を噛み締めた……と、表現出来るほど、渋い顔をしている。渡辺はそんな島井に更に畳み掛ける。貴方の考えなどお見通しだ……、とばかりに饒舌だ。ポロポロと言葉が溢れ出す。元々だが。
「島井先生は優ちゃんを社会復帰させてあげたいんですよね? リハビリに困ったり、本気で後遺症を探してあげたり……。それ以前に、その気が無ければ、『再構築』を公表してますしおすし」
「……おすし?」
「そこは気にしないで下さい。でも、本気で社会復帰させてあげたいのなら、そこまでの必要があると思いますよぉ。ただ、これだけは忘れてあげないで下さいね。優ちゃんが、それを望んでいるか。ここを切り離してあげちゃダメです。優ちゃんの立場だとしたら、思うことはいっぱいあると思いますよぉ? だから、何にしても優ちゃんの言葉を引き出してあげなきゃです。僕にはその自信があるんですけどねぇ。明日から外来休みだけど、毎日のようにお邪魔させて頂きますね」
話している内にいつもの軽薄に見える笑みが浮かんでいたが、その言葉は島井の心に深く突き刺さったようだ。島井の眉間には深い皺が刻まれている。
きっと、島井には罪滅ぼしをしたいが為に、最終目標として社会復帰させたい。そんな気持ちが奥底に息づいている。
年下のこの脳外科医は、そんな島井の横暴を見抜き、自制を促したのである。患者の想いを蔑ろにしてはならない……と。
「……そうですね。ですが、リハビリは継続しますよ。優さんは生きている。生きている以上は人間らしく生きる権利がある。本人がそれを望んだ時、きっと力になってくれるはずです」
「それなら問題ないです。自分の為、じゃなければ、ですね」
渡辺は能天気にヘラヘラを笑ってみせたのであった。
それから10分ほどで優は目を醒ました。
10時間以上眠ったかと思えば、1時間弱で目を醒ます。専属たちは振り回されている……が、裕香もどこか楽しそうだ。眠ったままの美少女を看護し続けるよりも、起きた子を相手にするほうが、よほど健全だからだろう。
「しっこ――」
……いきなりである。
よっしゃ! そんな態度を隠さなかった渡辺も肩透かしを喰らってしまった……が、生理現象は仕方がない。
裕香の介助により、車椅子に移乗させ、ご不浄に移動する最中だった。
「じぶんで――いい――?」
首だけ振り返り、裕香を見上げた。
「先生! いい……ですよね……?」
裕香は、その希望を叶えてあげたい。そう思ってしまったのだろう。現に、今までリハビリパンツの上げ下げをしてあげる必要も無く、見守りだけで排泄動作を行なっている。やや不安定感は否めないが、相手は年頃の子だ。羞恥心の軽減を図ってあげたい。そんな気持ちが生じてしまったと推測する。
「まだ早い気はするけど……、いいでしょう。させてあげて下さい」
「ありがとうございますっ!」
明らかに軽くなった足取りでお手洗いに消えていった裕香と車椅子上の優を送ると「大丈夫ですかねぇ? 甘すぎるんじゃないです?」と、渡辺の指摘があったが、島井はこれをスルーした。
裕香がトイレから出てくると、そのドアの前で待機した。
その直後だった。
ドン! ……と言う物音と共に「いたっ――!」と優の声がトイレの中から僅かに響いた。
弾かれたようにトイレのドアを開放すると、呆然と座り込んだ優の姿があったのだった。
裕香は「……大丈夫?」とゆっくりと声を掛けた。すると丸くなっていた目は通常へと戻り「――だいじょうぶ」と、はっきりと伝えたのだった。
……無事で何より。




