16.0話 回復していく機能と見付かる障害
―――12月30日(金)
「尿意も便意も無かったと推測しているのですが……」
「へぇ……。今日は自分でトイレって言ったんですか」
状況を伝えてくれた島井に反応したのは優の姉・愛である。
時間は12時を過ぎた頃。今から1時間ほど前に姉が弟を引っ張り、このVIPルームを訪ねてきた。今日から年末年始の休みだと愛は言っていた。何でも蓼園関連グループの会社に勤めているそうだ。
剛は大学3年生らしい。伊藤とひと頻り、会話を交えていた。なかなか馬が合うらしく、まずまず話が合っていたようだ。何でも同じソーシャルゲーム……、ソシャゲをしているらしい。しかし、このVIPルームはスマホ禁止だ。電源を落とさせられており、専属看護師に至っては持ち込み禁止だ。職員ロッカー内で寂しく過ごしている事だろう。
「いえ、トイレじゃなくって、『おしっこ』って言われました。少しもオブラートに包んでくれないんすから……」
「まぁ、元々、男の子なんですから……」と、剛は苦笑いをしてみせた。島井の観察する視線に気付いているのかいないのかこの兄は判らない。姉は気付いている。気付いているのだろうが、目的まで察しているかは不明であった。
「あぁ……。その事ですが、優さんは、女の子となってしまったことを考えないようにしている節が散見されています。伊藤くんの前でも、リハビリパンツを下ろしました。もちろん、赤くはなっていたらしいですがね。これは例え、男性のままであろうとも恥ずかしいので、何とも言えません。トイレに座った理由もおそらくは、立ったままでは危険と認識しているからでしょう」
「でも、変な気は起こしていないんですよね? それなら問題ないんじゃないですか?」
「……そうですね。VIPルームに入院されている間は問題ありません。問題となるのは、ここから退院された後の話です」
「いいんですよ。それで……」
姉は、朗らかにそう言うと声も無く笑った。
「はーい。出来ましたよー」
この最上階には、もう1名居たらしい。簡単なキッチンのあるコネクティングルームに潜んでいたのは看護部長の鈴木だった。彼女は深めの皿を手に、豪華なVIPルームに似つかわしくない簡素なベッドまで運んできた。
伊藤の手により、ぼんやりと真正面を眺めていた優にオーバーテーブルを用意すると、そのテーブルに小さな深皿をそっと置いた。
「おぉ――」
「どうぞ。召し上がれ。適温まで冷蔵庫で冷ましておりますので心配は要りませんよ?」
前半は優へ。後半は家人に向けての言葉だ。かなり短いショートヘアの女性だが、その瞳は相変わらず、慈愛に満ちている。この世には憎むべき者など居ない。そんな世間知らずのお嬢様さえ、彷彿とさせる瞳なのである。
「いただき――ます――」
きちんと手を合わせ、動植物の命を摘み取る『食事』前の挨拶を丁寧に行う優を前に、VIPルームの雰囲気がより一層、和んだ。
この『いただきます』には諸説あるが、『あなたの命を頂きます』が、子どもの教育を行なう上で最も適しているかも知れない。
それはともかく。
「良い教育をなさってますね……」
看護部長は、その優しい瞳をますます細めた。その瞳を瞼で覆ってしまうほどだ。看護部長の言葉を気にする素振りも見られたが、空腹だったらしい。すぐに右手でスプーンを掴み上げ……、落とした。
「あ――。ごめん――なさい――」
そして、しょぼくれる。すぐに忘れてしまうのは脳の半壊の後遺症である。鈴木はスプーンを拾い上げると、コネクティングルームに駆けていった。齢60前、まもなく定年の女性である。案外、元気だ。いや、60ほどなら当然なのか……?
そんな看護部長の後ろ姿を何やら複雑な表情で見送る4名と、さも申し訳なさそうに俯く、優なのであった。
鈴木看護部長が小走りで戻ってくると、食事が再開……、と言うか、再スタートされた。
今度は鈴木により、左手に持たされた。使う手はこちらですよ……、そんな感じだろう。優も理解したのか、看護部長特製の卵雑炊を左手のスプーンで掬うと、そっと小さな口に含んだ。
んぐんぐ。そんな感じで一生懸命に咀嚼する。いや、一生懸命と云う訳では無いのかも知れない。とにかく一生懸命に見えるのである。
咀嚼を初めて数秒……。優の口角が上がった。口内の雑炊をこくりと嚥下すると、看護部長を見上げ、「――おいしい――です。ありがと――」と儚げに笑ってみせた。
百戦錬磨の看護部長の時が、瞼の瞬き2回分ほど止まった。見惚れてしまったのだろう。慈愛の表情も崩れていたが、それを取り繕うと「いいえ。お口に合って……良かった……」と呟くように語ったのだった。
それから優は、一心不乱。見事な集中力で完食してみせた。よほど美味しかったのか、空になった深皿を寂しそうに眺めた。かなり少なめに盛られていた為だろう。
「島井先生? おかわり、大丈夫ですか?」
問われた島井は、伊藤に目線を投げた。彼にはそれだけで伝わるという信頼感を感じさせた。
「はい。大丈夫ですよ。裕香も文句言わないでしょ」
―――解説の必要があるようだ。
今、優に1番必要な物は何と言っても栄養だ。痩せ細っている。それは誰の目にも明らかだ。
しかし、急な食事量の上昇には、嘔吐など不測の事態を招く恐れが生じる。24時間の看護体制を構築しており、嘔吐による誤嚥時の対応は可能だ。問題はそこではなく、その場合に発生する、保清に関して、だ。
嘔吐した場合、必要となるのは看護師の手であり、ひと手間を増やす事になるのである―――
「そう言ってくれて助かるよ。看護部長? お願いします」
「はい」
深皿を「失礼……しますね……」と回収し、コネクティングルームに駆ける鈴木の足取りは嬉々としていたのであった。
その後ろ姿を寂しそうに追うと両手を合わせた……が、すぐに愛が妨害した。ご馳走様をしようとしたのだ。
「おかわり……いいってさ」
こう告げられた優が、えびす顔だった事は語るまでもないだろう。
「えぇ……。実はこの食事の提供に少々、苦労しておりまして……」
「じゃあ、作ってきますね! 優ちゃん、私の料理も喜んで食べてくれるかな?」
「何言ってんだよ。看護部長さんと違って、姉貴は優の好きなもん知ってんだから喜ぶもんを作りゃいいじゃねぇか」
「あ……。うん。そうだったね……」
それから1時間足らずで山崎 裕香が到着すると、図ったようなタイミングでお土産と思しきコーヒーを持参した総帥が到着した。コーヒーメーカー付きだった。それから、伊藤と総帥、傍らの女性……、彼女は秘書らしい。名を一ノ瀬 遥と言った。
その3名で地下と最上階をエレベータで往復した。何でもワゴン車で乗り付けたらしく、大量の優の為の物資が積まれていた。その大量の物資を下ろし終えると、『また行ってくるぞ!』と退散していった。
……総帥、自らの力仕事……だった。手伝おうと名乗り出た愛も剛も、『ご家族の手を煩わせる訳には参りません。ご理解下さいませ』と秘書に恭しくお断りされたのであった。
荷物の大半は、椅子だった。しかも簡素な丸椅子である。これでVIPルームを満たし、優の行動範囲を広げる事で自発的行動を促そう……と云う、島井の発案である。
椅子ならば院内に多量にある……が、優の覚醒は極秘にされており、院内の物を使用する訳には行かなかったのである。
また総帥サイドも同様だ。総帥とこの秘書1名だけが優の『再構築』を知っているのである。だからこそ、雑用とも言える搬送作業を買って出たのだ。
「いい香り……」
「あぁ。ミル器なんか、初めて使ったよ。コーヒーってこんな香りのいい物だったんだな」
優の家人2名は若干の現実逃避中である。この蓼園市のドンとも異名を持つ、蓼園 肇と、その懐刀と揶揄される一ノ瀬 遥が力仕事。自分たちは優の傍でのんびり。現状から目を背けたくなっても致し方ないのかも知れない。
「パナマ産っすよ。その最高級品じゃないっすかね? 詳しくないっすけど、めっちゃ高いはずっすよ。ブルマン以上っす」
若干、崩れてきた口調で注釈を入れたのは伊藤だ。彼も夜勤明けで力仕事をしていたが、定時が近くなっても動きは無い。まだ到着するはずの総帥からの応援物資を搬入する予定なのだろう。
「半端ないよなぁ……。総帥さん、悪くねーってのに。歩道橋から落ちてきたんだぞ? 車列に……。運転してた人が人身事故に扱われたんだっけか?」
今のは姉に向けた弟の言葉だったが、伊藤は興味津々だ。しっかりと聞き耳を立てている。いや、島井も裕香も興味ありげだ。看護部長の鈴木は最上階を既に辞した。彼女は忙しい身の上なのである。
「それで示談も何も、おれ……僕ら、立花家にとっては、同乗してただけの総帥さんはもちろん、運転手さんも悪くないって言ってたんですけど、総帥さんが『それでは儂の気が収まらん!!』って……。お金はあくまで突っぱねたんですけど、会長直々の指名で親父が取締役まで超異例の大出世。この入院費だって、全部総帥さん持ちで……。なんか申し訳ないんですよね」
言葉遣いが切り替わった。島井や看護師たちの興味に気がついたのだろう。
「足長おじさんみたいだね。短いけど」
「口を慎んで下さい。私はまだあの方が恐ろしい」
ほとほと困った、と云った顔で島井が愚痴を零すと曖昧な笑みが溢れた。大体、みんなそんな思いなのだろう。
……短いとか言ってのけたのは裕香さんである……が、そこは関係ない。
「お。OKみたいっすよ。皆さん、ブラックでいいっすか?」
伊藤が立ち上がった。コーヒーメーカーが止まったらしい。ブラックが嫌そうな者も何人も居たらしいが、普通に生活していたら滅多にお目にかかれないだろうレベルの高級豆。とりあえず、ブラックで……と、全員が同意したのだった。
VIPルーム備え付けの深い木目の幾らするか不明なキャビネット……と、呼ぶにはおこがましい代物から出てきた、これまた高そうなコーヒーカップに注がれ、その芳醇な香りが広いVIPルームを満たしていく。
優のオーバーテーブルにも、そのコーヒーカップ……、マイセンとは明らかに違う、代物……、何とか焼と云った風情の国産品らしき焼き物がそっと置かれた。
「優ちゃん? 嗅いでみて? すっごいよ」
姉が饒舌にその受け取ったカップの醸し出す香りを優にも、と促した。
優は小首を傾げ、それを理解すると、伊藤の指示通り、左手で取っ手をつまみ、鼻先を寄せた。持ち上げてはいない。賢い判断だろう。きっと零すに違いない。
スンスンと小ぶりだが形の良い鼻を蠢かす……と、小首を傾げた。
「優ちゃん?」
姉の表情が陰る。嫌な予感を感じたのだろう。
「わかん――ない――」
島井の眉間に1本の縦皺がはっきりと浮かんだのだった。




