15.0話 総帥の懺悔
入浴後、優は行動を開始した。特に女性化への動揺は感じさせない。ただただ、数メートル歩いては恵が背後で押してくれている車椅子に座り休憩、その動作を繰り返している。
もちろん、独歩など危険な事はさせていない。恵が優の着衣と頭髪を乾かしている間に、伊藤が人目を盗み集めてきた、普通の杖やら、四点杖やら、補助具を試用している。歩行補助のグッズについてはここでは言及しない。割愛させて頂く。伊藤も流石に大きなセフティアームなどは持ってこられなかったらしい。
現在、試用しているのは、杖の先が4つに分かれた4点支持杖のようである。割と優に合うのか、軽く支えるだけで歩行している。表情も最初の歩行と違い、余力を感じさせる。
「――ん――しょ――」
右足を10cmほど運び、その右足まで杖を進め、最後に左足を……。
教えた訳ではない。杖を渡せば、自身で試行錯誤し始めるのだ。この少女は、ぼんやりしているように見え、案外思考し、行動している。
それが島井の結論であり、優のやりたいようにやらせている理由である。
優は、ひたすら歩みを続ける。それが、この状況を払拭する近道だ、とばかりに。3名の医師、看護師は直向きな優を暖かく見守り、必要時フォローを続けている。したい質問が山ほどあるが、残念ながら全て棚上げ状態である。
そんな中、ピンポーンとインターフォンが鳴り響いた。即座に反応してみせたのは伊藤だ。歯を食いしばり歩行を繰り返す優をフォローし、一緒に歩いている島井も、車椅子を押している恵も対応に動けるはずがない。
「ご家族ですかね?」
「どうだろう? 最上階までの隠しコマンドを知る人なら、廊下まではフリーパスだからね」
「先生? そろそろ私たちにも教えてくれてもいいんじゃないですかね?」
「……うん、そうだね。今更、君たちが、おっと……、開いたよ」
誰が来たのか。そんな事を話していると、NSとVIPルームを隔てるドアが再度、開いた。その間、憂は会話を何とか聞き取ってやろうと、足を止め両者を見上げていたが、聞き取れなかったようである。
「島井くん!! 優くんが……、おぉ!! もう歩き始めているのか!!」
「失礼致します」
現れた人物はスーツ姿の2人組だった。どこにでも居そうなオジサンだが、1度、見ると忘れられない。そんな、どこか強烈な印象を与える男と、その男より、背の高い、慇懃な態度の女性だ。
「総帥。お久しぶりです」
言いながら、島井は優に腰掛けるよう、目で訴える……が、島井の視線を追ったのか、それとも野太い声に反応したのか、振り返ろうとしてバランスを崩し、ポスリと車椅子に座る形となった。
その間に、少し腹の出た男は、ずんずんとVIPルームを突き進んできた。
「そうだな! 海外に出ておった! 君から連絡を受け居ても立ってもおられず、帰ってきてしまった! そんな事より、優くん!!」
車椅子に座る優に回り込み、ドカリと長毛の絨毯に直接座り込み、胡座をかいた。何となく愛嬌のある顔立ちをしているこの男。実は多岐に渡る事業を展開する蓼園グループ総本山。蓼園商会の会長であり、『総帥』と呼ばれる男である。相当な大物なのだ。
「――こんにちは――」
トーンの高い声だった。このVIPルームの者たちにとっては聞き慣れてきた声だが、総帥と、傍らに張り付く女性には、初めてだ。
総帥はその声音にゆっくりと口角を上げ、女性は驚きに満ちた表情で優を見詰めた。
「――だれ?」
この男を知らない者は、この街にそうは居ない。だが、男は心底楽しそうな笑みを見せ、「総帥……。そう呼んでくれればいい」と自己の紹介を済ませた。
「――ゆっくり」
心底楽しそうに話した総帥とは裏腹に、優は心底、困った顔を見せた。芸能人の描かれた困り眉ではない、天然の困り眉だ。
「総帥。理解は時間が掛かりますが、問題はありません。ゆっくりと、途切れ途切れに語り掛けてあげると、優さんと意思疎通可能です」
「ほう。そうかそうか! ゆっくり途切れ途切れだな! 相分かった! 素晴らしいな! 意思疎通1つに関門が待ち受けておるとは! 正に神の子ではないか!」
総帥は再構築を見てきた。自らの車列の事故。どうにもならない事故だった。しかし、蓼園 肇は、自らの責任だと目を背ける事を善しとしなかった。最初は、対外的なアピールだったが、その気持ちは次第に変化していった。崩壊していく優を辛そうに見詰めた。傍観者の立場に成り切ることは叶わなかった。そして、総帥は奇跡を見た。事故り、ボロボロとなった優は少年の体を捨て去り、天使に生まれ変わった……。そう、半ば本気で信じるようになった。
―――信奉。
こう言い換える事も出来るだろう。
「優くん……? はじめまして……。総帥だ」
優は小首を傾げた。思考のサインなのだろう。すぐに男はそう理解した。
待つ。
総帥が嫌う待つと云う行為。それを眼前に輝く少女に捧げるかのように、待った。総帥の傍らの女性の目が優から総帥へ移ろう。ポーカーフェイスであり、その感情は窺い知れない。
「――そうすい――? はじめまして――」
優が初対面の挨拶を済ませた時、総帥と名乗った男の顔付きが変わっていた。無表情の中、どこか優しさを湛えた……、そんな観音さまのような顔をしていた。
「……済まん……。事故の……責任は……儂にある……」
胡座のまま、深く頭を下げた。
総帥は事故当時、4台の車の3台目、黒塗りのリムジンに乗車していた。タイミング良く、空から降ってきた優を車列は避けられるはずも無かった。男はハンドルさえ、握っていなかった。しかし、頭を下げた。一切の責任は長である自分にある……と、謂わんばかりの態度だった。
そんな総帥に倣ったのか、女性も絨毯に座り、正座の姿勢から頭を下げた。相変わらず、感情は窺えない。読み取らせないようにしているのか、元々なのか、判断は付かない。
「――あたま――あげて!」
胡座の総帥はともかく、女性は完全無欠の土下座だ。年長者たちの唐突の謝罪に狼狽したかのように、立ち上がろうとし、再び車椅子に腰が落ちた。まだ、準備無しには立ち上がれない。立ち上がるほどの筋力も無ければ、右の麻痺も邪魔をしているのだろう。
「事故は……儂が……起こした」
言われた通りに頭を上げ、再び、そう告げる。年上の謝罪に動揺し、その理由を理解出来なかった。そんな判断なのかも知れない。ごく僅かな接触時間でそこまで優を理解したのだろう。
島井も伊藤も恵も驚きを隠せていない。この男には悪評が付きまとっている。しかし、今現在見せる姿は真摯に、自らが罪と思う事項に対しての贖罪だ。誠心誠意、この少女となった少年に向き合っている。
「――じこ」
その言葉を聞き、島井の観察者としての目が動いた。過呼吸やパニック、様々な状況をシミュレートしているのだろう。
「――――?」
……考え込んだ。小難しげな表情に、無表情、少し泣きそうな様子を見せたかと思えば、達観したように……、次々に表情を変えつつ、実に10分ほど、首を傾げては元に戻し……と、繰り返した。
「――なんだっけ?」
長考の末、出てきた言葉に、医療関係者は慌てた。
彼らは再生期の頃の総帥を見てきた。それは熱心な信者のような姿だった。だが、怒らせると何をしでかすか解らない男と云う認識は拭い切れていない。
「ははは!! 時期尚早だったようだな! これから何度も足を運ばせて貰う! 何か必要な物はあるか!?」
この提案に島井は遠慮をしなかった。遠慮など要らない。それだけの財も権力も持ち合わせている。遠慮すれば、不興を買うだけと云う事は理解している。
島井は次々と優に必要となりそうな物を挙げていき、女性は全てをメモしたのだった。
「そうすい――ばいばい――」
「おー! 優くん! ばいばい!!」
ブンブンと手を振り回し、総帥は辞した。滞在時間、1時間と半分ほど。多忙を極める男にとって、貴重な時間を優と過ごす為だけにつぎ込んだ。信奉は真実のようであると言えよう。
総帥は去ると、憂の目がしょぼくれ始めた。顔一面で眠気を訴え始めたのである。
「優さん? トイレ……行こ?」
――――。
「――ない――ですよ?」
恵は思わず苦笑いだ。指摘すれば敬語は崩れる。しかしまた時間が経過すると、敬語付きに戻ってしまう。繰り返し、指摘していく必要があるのだろう。
「――わかった」
その敬語を取り払い『一応、トイレに行っておきましょう?』と伝えた後の返事がこれだった。
……因みに恵の終業時間は過ぎている。予期せぬ来訪者でオーバーしてしまった。帰るとは言いづらい上に、優と少しでも接していたい気持ちがあったのだろう。
そして、優はこれから男性看護師である伊藤の看護の下、過ごすこととなる。その為に、トイレ誘導を行った後、帰ろうとしているのだ。
もちろん、トイレ内で見守り付きだ。
羞恥に顔を染め、入浴後より、パンツタイプのオムツ……、リハビリパンツへと変更された優が、恵の前でソレを下げた時、判明した。
尿と、少量の便を失禁していたのである。
「――ごめん――なさい――」
優は泣いて謝った。
「だいじょうぶ……ですよ……」と、優しく処理した恵に泣きながら「ありがとう」と伝えると、優にとって、衝撃のひと言が恵の口から聞かされた。
「これから……伊藤さん……。拒否しないで……ね?」
こうして、直後の昼寝の最中だった……。
恵が帰宅した後、伊藤担当時に於ける2度目の過呼吸、通算3度目の過呼吸を発症したのである。




