14.0話 パニックのち放心
「ごめん――ね?」
VIPルーム付随の浴室、その脱衣所は広い。無駄と思えるほどに、広大なVIPルームの脱衣所。とは言え、わざわざ狭く作る必要性は無く、相応な一室なのだろう。
そこで、恵によって、患者衣の前ボタンを外されている優は、伺うような上目遣いで恵に謝った。
恵は既にナース服の下……、ズボンの裾をまくり上げ、入浴介助用のエプロンを装着し、ナースシューズも靴下も脱ぎ散らかし、CRUCS……、あの穴が沢山空いた、ゴム製のサンダルみたいなアレだ。アレを履いている。最近では種類が多種に渡っているようだが、恵が履いた物は至ってシンプルな物だ。華美な装飾など必要意義が無い。因みにクルックスは商品名では無く、会社名なのだが、どうでも良い。豆知識の域を出ない。
……脱線した。話を戻そう。
恵も柔らかな眼差しを少女に向けている。優の言葉と態度から察するに、お風呂に女性看護師の手により、入れて貰う直前だと言う状況を理解している。これが何とも嬉しいのだ。
患者衣のボタンを外し終わると、脱がしに掛かる。脱衣時には、麻痺の無い側優先の基本通り、左手を先に、後から軽微と推測する麻痺のある右腕を抜いていった。軽微と推測したのは、やはり主治医の島井だ。今でこそスプーンでさえ、まともに扱えないが、筋力が付けば、それなりに使える麻痺側になるだろうと云う話だった。
上半身を裸にされても、恥ずかしそうな様子は見えない。小首を傾げ、恵を見つめるのみだ。島井の推測通り、自身の予想通り、この元少年は気付いていないのだろう。肋も浮いた痩せっぽちの身体だが、その胸の先には確かに男性のものとは違う、ぽっちが息づいていることに。
「立つよ……?」
少女の小さく白い手を、肩に誘導し、恵は優の腰を引き寄せた。立位が成立する。恵はしゃがんだまま、優は、そのしゃがんだ恵の肩を支えにして立った形だ。
この方法ならば、恵は手を自由に扱える。時折、使われる介助方法の1つである。その自由になる両手を使い、オムツを外していく。周囲に何とも謂えない匂いが立ち込めるが、恵は嫌な顔1つ見せない。上手に隠している。汚物の処理など、看護師の基本中の基本の1つなのである。
オムツを外すと流石に、優の頬に朱が差した。けれども匂いを気にした様子を見せていない。そのまま、便をオムツ内に封印していく。これは、少し経てば伊藤が回収してくれるはずだ。汚物用のゴミ箱もあるが、優への介助優先と云う事なのだろう。
(いい子……)
自身にも匂いは届いているだろうが、優も嫌な顔は見せていない。
これを介助に当たる自分への配慮と捉えた恵は、ゆっくりと立ち上がると同時に、両手引き歩行に切り替え、そっと、浴室へと移動を始めたのだった。
完全バリアフリーの浴室内。優の誘導は容易かった。足の震えはあるものの、支えられている安心感からか、なかなかスムーズな足運びを見せてくれたのだ。
「……座るね?」
介助用の入浴チェアーに座らせるとホッとひと息。何せ、久々の手引き歩行だったのだ。事故から目覚めまで、そんな機会は1度も無かった。多少、緊張してしまうのも無理はないだろう。どちらかと言えば、緊張しない島井や伊藤が特殊な側なのである。
恵はシャワーを40℃、適温になるまで、自身の手で受け止めた。適温になると足下から徐々に上に上げていった。末端から中枢へ。これも看介護の基本だ。
そして、腰の辺りを流し始めると、当然、優の可愛らしいお尻を汚していた汚物が流れ始める。どことなく恥ずかしそうにしていた優も、それを見てしまったらしい。
……そして、視線が下がった。
「――――?」
ちょこんと座り、羞恥から閉じていた足をチラリと開いた。
「――あれ?」
恵は当然、この様子を観察している。浴室のドアの向こうには、島井と伊藤の気配も感じる。
「――えぇ?」
ついに開いた。パカリと。足を。
「――えぇぇぇぇ!?」
そこまで大きな声は出なかったものの、よく通る声は広い浴室の音響効果もあり、響き渡った。
「――なんで!?」
ほんのりと赤かった顔が一瞬で真っ赤に染まった。天狗も真っ青になるほどの瞬間湯沸かし器状態だった。
『はっきりと事実を告げて下さい』
前日の夜、島井に指示させた通り、目の前に回り込むとしゃがみ込み、目線の高さを合わせた。
「よく聞いて?」
澄んだ黒曜石のような、大きく潤んだ瞳が茶髪のナースを捉える。動揺の為か、今にも泣き出そうなその瞳に囚われる錯覚を振り払い、一語々々、聞き漏らす事の無いよう、慎重に口を開いた。
「優、さんは……、女の、子……」
小首を傾げた。キョトンと呆ける。
そのまま、かれこれ5分は経過しただろうか?
優の新しいが故に美しい眼球が再び、そろりそろりと下に下がっていった。
……確認したのだろう。
1分ほど、視点はそのまま固定され、今度は一気に戻ってきた。
「うぇ――?」
「うぇ?」
「え――?」
「…………噛んだんだね」
外の医師も先輩看護師もツッコミは不要だと、心の中でツッコミを入れた事だろう。律儀に言い直した優も意外と冷静なのかも知れない……と、思った瞬間だった。
「ひゃあああぁぁぁぁぁぁ!!!」
陰部を隠そうとしたのか、両手は両足の間に潜っていった。
逃げ出そうとしたのか、両下肢に力を入れ、入浴用のチェアから崩れ落ちる。すんでのところで、優の小さな体をキャッチすると、そのままギュッと抱き締めた。
落ち着いて?
動揺しないで?
そんなありったけの想いを籠めて。
「あぁぁ――!! うぅぅ!!」
……とは言え、無理がある。当分の間、恵の腕の中でバタバタと藻掻き続けていたのだった。
「ぁああ!! うぅぅぅ!!」
まるで思考回路が焼き付いたかのように、言葉もなく、獣のように叫んでいた……。
「……落ち着いた?」
優は、しばらく藻掻くと大人しくなった。肩で呼吸を繰り返している。半年に渡る意識不明から目覚め3日目だ。その3日間もほとんど眠っていた。疲れてしまったのだろう。
「――はい。――ごめん――なさい」
目一杯、絶叫したにも関わらず、声はまるで枯れていなかった。
小鳥の囀りのような、甲高く可愛らしい声に安心感を得た。脱衣所の2人もそうであろう。しかし、またしても丁寧な言葉遣いが飛び出してきた。性別の事に触れたくない恵は、話を逸らすべく「敬語……いらないよ?」と、話し掛けてみた。
すると、固まった。全身、微動だにせず優は硬直してしまった。おかしな反応に心配にはなったものの、おかしな姿勢のまま、優を抱えていた恵はそっと、床に下ろした。
(冷たいよ? ごめんね……)
そんな事を思いながら、下ろすと……、そのまま固まっている。どこを見ているかも判らない。焦点など無いのかも知れない。
優の姿勢は、横座り……、女性らしい座り方となってしまっていた。右に倒れそうな体を支えたままの恵は、軽いとは言えども全体重を支える必要は無くなったが、相変わらず姿勢が悪い。
1分……。
2分……。
3分……。
そのまま時間が経過していった。
(腰……! 腰が痛い……!)
そろそろピンチになりかけた頃、ようやく優に焦点が生まれた。
「――そう――だった――」
何とものんびりした少女に、複雑な笑みを見せると、「さ、洗っちゃうよ? 立てる?」と、普通に話した。すぐに「――ゆっくり」とダメ出しを食らい、閉口してしまう。
(忍耐……! 怒ったらダメ……!)
「……立つよ?」
またも、小首を傾げる。恵は1つ、大きな深呼吸を入れた。メンタル回復作業なのかも知れない。
「――うん」
20秒ほどで返事をしてくれた。
(慣れないと……。これがこの子のペース……)
そんな事を考えながら、立ち上がって貰った。引っこ抜くように、だ。椅子に座って貰うと手を腰に当て「んー!」と伸ばした。限界が近付いた時に使う腰は何とも痛いのである。
斯くして、ようやく洗体を開始した恵なのだった。
因みに、優は洗われる間、思考を放棄したかのように、目をまん丸にし、硬直していたのだった。もちろん理由はある。先に陰部を洗浄したからである。その時は「ひゃあー!!」と悲鳴を上げ……、この状態に陥ったのだった。




