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13.0話 入浴へ

 


 ―――12月29日(木)



 この日、朝10時に伊藤は職場であるVIPルームに入った。勤務開始時間より、随分と早い。早すぎるほどだ。

 趣味である温泉巡りもMMOも放置中らしい。それよりも優の事が気になって仕方がないのだろう。MMOは起動した。起動したが、手に付かなかった。その為、昨夜は何年かぶりに日付が変わる前には就寝した。


 ただ今、VIPルームで定時には早すぎる申し送りの最中である。もちろん、見守りを要する優の側で、だ。その優は、またも眠っている。覚醒以降、実に毎日20時間以上、眠っているのだ。現在は右側臥位でクッションに囲まれ、気持ちよさそうに眠っている。


「また過呼吸ですよ……。驚きました。でも、伊藤さんに言われた通りに落ち着いて対応出来ましたよ」


(へぇ……。成長してるんか)


 出会った頃の恵は茶髪の割にオドオドとしており、頼りなかった。崩壊期真っ只中の優を前にし、怯えていた様子さえ見せていた。茶髪は、そんな内面の弱さの裏返しだろうと思い、採用されたばかりですぐに離脱するだろう、なんて事まで思っていた。


 ところが、そんな外見(そとみ)の弱さから受けた印象を覆し、優の再構築を乗り切ってしまった。今では五十嵐 恵への見方は当初とはまるで違う。

 誠心誠意、患者に尽くす事の出来るナースだ……と。


 時折、見せる看護師としてどうなのか? ……と、言った姿は若いからだと理解している。経験を重ねていけば、この茶髪のナースは化けていくだろうと思えて仕方がない。


(んな事、絶対言わんけど)


 伊藤は褒めない。褒めるのは上司の仕事だと思っている。褒めて伸ばすも腐して伸ばすも問わない。上司が相手に合わせ、勝手にすればいい。その為に多くの給与を与えられているのだ。


 そんなドライな考えを持つ伊藤だが、ポーカーフェイスと言う訳ではない。どちらかと言えば、感情に表情が左右されるタイプだ。


「優さん、今朝のヨーグルトは美味しいって食べてくれたんですよ!」


 伊藤の表情に安心感を得たのか、徐々に興奮の度合いを増していく。恵も感じているのだ。決して人を褒めない伊藤の自分を見る表情が変わっていっている事に。

 だが、そんな伊藤の表情が変わってしまった。何とも訝しげだ。目まで細まってしまった。


「さっき、味覚障害って……」


 たしかに報告の初期、恵は言ったのだ。優が『味がしない』と言った、と。


「……そうなんですよ。優さんは一晩寝て、味覚が戻っちゃったんです!」


「なんだそりゃ? そんな非常識な……」


 伊藤の言葉は途中で消えていった。優に『非常識』と云う言葉は通用しない。その非常識さと相変わらずの恵の説明下手に「ふぅ」と小さな溜息を付いてしまった。


「そんな事、私に怒られても……」


 何かを勘違いしたのか、恵が上目遣いで伊藤の様子を伺った。恵は、なかなか整った顔立ちをしている。外見に気を配れるタイプであり、化粧でもすればさぞかし綺麗なお姉さんに変貌を遂げるだろうと思う。だが、彼女はこのVIPルームに詰める時には一切の化粧を排除している。必要がないのである。


「味覚の回復……か。ええこっちゃ……なんだろうな」


 思わず目を逸らしてしまった。結婚に一切の興味がない、三十路過ぎの男だが、女性への興味がない訳ではない。無ければ優の看護に躊躇いなど生じない。


「それで……。これからの食事はどうするんだ?」


 これは大きな問題だ。病院食は無理だ。なかなか食べられるものを提供しており、入院患者にも好評だが、優の覚醒は秘密にされている。院内の自室で寝泊まりを続ける島井はカップ麺や、院内のコンビニの弁当で済ませてしまっている。


「あー! 今日は看護部長の手料理の予定です! それとご家族への依頼と、栄養科に看護部長がついに島井先生の食事をお願いしちゃったそうです!」


「はは」と思わず、笑声が零れてしまった。島井の粗食も寝泊まりも院内で大きな噂になっている。奥さんに捨てられ、息子に匙を投げられ、死にかけの患者に自身の存在意義を見出した可哀想な先生……。簡単に纏めるとこんな感じの噂だ。以前から時折、看護部長に引っ張られ、食堂に姿を見せる島井の姿は看護師の間でも話題になっている。


「先生の不摂生が役に立つ時が来るとか」


 恵も伊藤に釣られ、苦笑いを見せる。医者の不養生、ここに極まれり……、それを自身で体現していた島井が役に立ったのでは、こんな反応にもなってしまうだろう。


「それで、尿意は?」


 伊藤の次の問い掛けに、恵は困ったように首を横に振った。


「眠ってる時の失禁だけじゃないと思うんです。きっと起きている時にも……。だから尿意は無いんだと……」


 愛嬌のある顔を顰めてみせたのは、これからも陰部洗浄をする事になる伊藤だ。こればっかりは、仕方が無いとは解っていても抵抗感が拭えない。恵も伊藤のその葛藤は理解しており、「「……………………」」と、不思議な沈黙の時間が訪れてしまった。


「……なんにしても、当分は過呼吸注意か」


「……あれ?」


「……?」


 恵が鼻をヒクヒクを蠢かし始めた。伊藤も釣られ、嗅覚の活動を活性化させ始めた。途端に感じる(かぐわ)しい香りに思わず、伊藤は眉根を寄せた。どう考え、どう否定しようが、優にお通じがあったに違いない香りだった。


「……任せていい?」


 先輩として、何とも情けない言葉を漏らしてしまった。そんな伊藤に明るく「いいですよ! 元々、伊藤さんは始業前です!」と笑ってみせる後輩に安堵した……が、何やら思い付いたらしい。


「……風呂、入って貰う?」


「あ! それいいですね! 何ヶ月も清拭だけですから!」



 すぐにPHSを取り出し、島井に連絡を入れると島井は睡眠中だった。眠そうながらもVIPルームに到着し、入浴許可を出したのであった。


「……起こしちゃっていいんですかね?」


「眠ったまま入浴できる環境はVIPルームにないからねぇ……。持ち込める物でもないし……」


 起こそうとは思う。思うが、今朝、突然起こした過呼吸が脳裏を過ぎり、恵は実行できないでいた。


「風呂、もう貯まりますよー!」


 案外、遠くにある浴室のドアから顔を覗かせた伊藤が声を張り上げた。しかし、声は掛けられない。いつまでも眠らせてあげたいほどの心地よい寝顔をこの少女は浮かべているのである。

 島井も同様だ。困ったように眉間に深くはない皺が浮かんでいる。


「……ったく! 何やってんすか!」


 一向に動かない医師と同僚に文句を言いつつ、伊藤は小走りに駆け寄ってきた。小太りだが、動けるタイプなのかも知れない。


「便汚染してるんすよ。可哀想じゃないっすか」


「あ、あぁ……そうだね」


「わかってます……! 解ってるんですけど……!」


 伊藤は2人にジト目を送ると、優の肩に触れた。そして、「お嬢さん? たまには起きて下さい!」と軽く揺すった。何故だか、緊張感が高まる。寝過ぎだ。多少、起きて貰っても問題ない……かは、不明だ。前例が無い。


「――んぅ?」


「お。起きた」


 優は声を掛けた伊藤と目が合い、黒目がちな瞳をパチクリさせている。


「……島井先生。私の姫は禁止したのに、伊藤さんのお嬢さんは禁止しないんですか?」


 恵の『姫』呼ばわりは、優が混乱する様子を見せた為、即座に禁止された。この件について、『お嬢さん』も禁止するべきだ……との、抗議は納得の出来るものだが、実にタイミングが悪い。島井は先ほど、優を起こせない側に立っていたのだ。


「そんな事になってたんですか。姫って呼ばないとは思っていたんですけど」


 伊藤は、優が躰を起こすフォローをしながら、2人に向け合点がいったとばかりに流し見た。優は声を発した伊藤をじっと見ていたが、端座位を取ると顔を顰めた。オムツ内には便があるのだ。気持ち悪いのだろう。


「じゃあ、俺もきちんと優さんって呼びますよ。その方がいいんですよね?」


「そうだね。そうして下さい」


「優さん?」


 声を掛けると、すぐに澄んだ瞳が伊藤を捉えた。


「気持ち悪い?」


 言葉はゆっくり、可能な限り短く……だ。試行錯誤すればいい。この美しく愛らしい少女は意思疎通可能だ。後は最適なやり方を見付けるだけなのだ。


「きもち――なに――?」


「気持ち……悪い……?」


 どうにも伊藤は、小首を傾げられるとダメらしい。少し、照れ笑いしながら言い直した。


「――はい」


 伊藤の顔は納得顔だ。得心したらしく、「風呂……入る?」と質問を重ねていく。


「――いいん――ですか――?」


 伊藤が微笑んだ。その柔らかい表情は何とも、この男にしては珍しいものだ。


「しっかりしてますよ。自分が患者だって解ってます。んで、遠慮までしてます」


「――ゆっくり」


 あれ? ……と、伊藤は優に目を戻した。優から目線を外し、並んでいる島井と恵を見ての発言だった。明らかに優に話したものではないのだが、優は反応してしまった。

 伊藤は、しっかりと目を合わせ、首を横に振って見せ「敬語……いらない……」と、優しい声音で語り掛けた。


「――うん」


 安心したように、言葉を崩した。ふわりとした微笑みを湛えて……。


「……………………」


 伊藤は言葉を失ってしまった。優の柔らかな笑みにやられてしまったのである。


「――――?」


 かと思えば、少女は不思議そうな顔をしてみせた。


「――なん――だっけ――?」


 その可憐な声に我に返ると、「おふろ」と、少しぶっきらぼうに繰り返した。照れ隠しなのかも知れない。


「――いいの?」


 VIPルームが和んでいく。ほんの少し前の会話は忘れてしまっているものの、言葉は崩したままだ。その崩した口調は外見相応であり、何とも微笑ましく感じたのだろう。


「いいですよ? さぁ……」


 伊藤の差し出した手を、ほんの数秒、躊躇いを見せた後、受け入れた。やはり、自身の状態はある程度、理解しているようだ……と、伊藤は感心した。

 その斜め後方では島井がしきりに観察する医師の目を優に向けている。必要な情報が得られ、どこか満足そうにもしている。


 恵は、既に動き出している。

 コネクティングルームに引っ込み、そこから車椅子を引っ張り出してきた。浴室のドアまで、20mはあり、とてもそこまで歩けない。

 それでも伊藤が手を引き、歩き始めた理由。それさえもリハビリとなる事を看護師である恵は、当然ながら理解しているのだ。


 右足を引きずりつつ、一生懸命に4mほど進み、そこで力尽き、車椅子に座らされた。座らされると、そのまま恵と共に、浴室へと消えていったのである。



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[気になる点] 1日4時間しか起きてられないのに、ヨーグルト一杯では栄養価が足りない。監視の下、滴下も必要。
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