9.0話 家人への連絡
「優さん? お腹は空いていないですか?」
島井のゆったりとした言葉に、少女は小首を傾げた。
3度目の目覚めから、1時間は経過した。
鼻腔から伸びていた管は既に抜かれている。優の消化器官に問題は見付かっていない。現に、今まで鼻腔のカテーテルを通し、総合栄養剤を注入していたのだ。
自己抜去してしまえば、胃の噴門にある逆止弁を傷付け、逆流性食道炎など、要らぬものを患う可能性がある。医師、看護師による正常な抜去は、経口摂取を開始していない今、尚早にも思われたが、優の判断力に疑問を持った為の対応だった。
因みに嚥下障害については、さほど心配はしていない。いつ頃からか、優の痰の吸引は必要なくなっている。つまり、自然と唾液も嚥下出来ているのである。
1時間の間、ただただぼんやりと、何をするでもなく、ベッドに腰掛けた端座位と呼ばれる姿勢のまま、周囲の様子を探っている。左手は体が倒れないようにする為だろう、ベッド上に置かれている。時折、違和感を感じるのか、周囲に目を配りつつ、右手と、長毛の絨毯に届いていない右足をプラプラと揺すっていた。話し掛けても、今のように発言者の顔を見詰め、小首を傾げるばかりだ。その傾げる方向は、いつも左だ。憂の左脳は、事故により、大きく損壊していた為、川谷の執刀により、損壊部位を除去された。
つまり、左右の頭の重さが違う。だからこそ、バランスを取ろうと左に小首を傾げるのでは? こう言った人物も島井だった。
夜勤明けの山崎 裕香は帰宅した。随分と後ろ髪を引かれていた様子だが、鈴木看護部長が追い払った。追い払ったと言えども、『これからは、何度でも目覚めてくれますよ? 倒れてしまっては優さんの姿を見られなくなってしまいます』と、慈愛の表情で諭したのだが、裕香としては追い出されたようなものだろう。
「――おなか――なに?」
久々の反応に恵の瞳が輝いた。
正直、何を考えているのか、何も考えていないのか不明だった。30分ほど前には『尿意があれば教えて』に対し、時間を十分に使い、『――はい』と答えたのだ。コミュニケーションは可能なはずだ。だが、自身が『姫』と呼ぶ、絶世の美少女は、喉を抑えると言葉を放った人物を見上げ、小首を傾げるばかりだった。
それさえも神秘的……と、思った恵は相当に毒されている。自覚もあった。思わず走り寄り、声を掛けたくなったが、そこは堪えた。大勢では話し掛けないほうが良い。島井も鈴木も口を揃えたのだ。なので、残念ながら島井の言葉に反応を示した以上、応対を続けるのは島井の役目であり、恵はこれを理解している。
島井はしゃがみ、優に目線を合わせる。物優しい柔和な瞳は彼女への思い入れを感じさせるほどだ。この思い入れの理由については、今後、語る機会があるだろう。
「空いていませんか……?」
島井は探る。安易なコミュニケーションの方法を。
思い出す。今までどうすれば、この少女と意思疎通出来たのかを。
すると、1つの結論に至った。
「おなか……空いた……?」
過呼吸の時だった。彼女を落ち着けるために、ゆっくりと、短い単語で、途切れ途切れに語り掛けたはずだ。自然に途切れさせた。呼吸をゆっくりと途切れ途切れにさせる事で、そんな呼吸を意識させようと。
憂の可愛いらしい、白い紅葉の右手が薄い腹に移動した。
それを見て確信した。島井の柔和な顔が一層、綻ぶ。
「――すこし? ――あれ?」
憂の右手がまたも喉へと移動した。
何故、今まで口を開かなかったのか?
続いて、こちらの考察に入ろうとした時、恵に邪魔された。
「先生。予定通り、五分粥でいいですか?」
嬉々として、問い掛ける恵に「あ、あぁ……。お願いします」と返答すると、恵は勢い良く、コネクティングルームへと駆けていった。優の目覚めは……、と言うよりも優の再構築は極秘だ。まさか、栄養科に粥の用意をして貰うワケにはいかない。外から米を運び入れ、コネクティングルームで調理するのである。他にも、プリンやヨーグルトなど、嚥下し易く、消化器に優しいものが用意されている。
「あ――。あーー」と甲高く可愛らしい澄んだ声に、隣室に消えた恵から目を戻すと、すぐに優は声を噤んだ。
(なるほど……)
どうやら、声の違和感からか、観察されている事が嫌なのか、可能な限り、声を出さないようにしていたらしい。
恵がコネクティングルームから戻ると、その茶髪のナースに伝えた。
「ご家族に覚醒をお伝えしようと思います。優さんは自身の性別や容姿の変化に気付いていない。大きな衝撃を受けるかも知れません。ご家族の許可を取っておきたい」
こうして、非番の者を除いた知る者が再び招集されたのである。
……そうは言ってみたものの、非番の者を除くとなると更に少人数だ。
現在、このVIPルームには、優の執刀医の1人であり、島井を中心とした緊急オペのフォローに回っていた院長・川谷 光康と、元・救急救命チームリーダーであり、現在は優の主治医である島井 祐司、天才脳外科医と勇名を馳せた院長の愛弟子である渡辺 智貴、慈愛の表情で看護師を取り仕切る鈴木 慈子と、チャラく見える外見とは裏腹に患者と真剣に向き合う五十嵐 恵。
以上の5名がVIPルームに集結した。
「聞いただけの話ですけど、そんな状態なら自己の状況を認識させてあげた時に、どんな行動に出るか想像も付かないですねぇ。だから島井先生の意見に賛成です。家族を忘れてなければいいんですけどねぇ」と渡辺が自身の意見を述べた。
その時間、18時を過ぎて20分ほど。みんな何かと忙しい。島井を含めた専属たちのような自由度は持ち合わせていないのである。
優が再び、眠りに落ち、1時間ほど経過している。
その間、優はベッド上、オーバーテーブルを使い、五分粥を食した。ジャッジアップされたベッドを背もたれに、無表情に食す優は何とも儚い印象を与えた。恵に至っては薄く涙の膜をその瞳に張っていたほどだ。
尿に関しては1時間おきに声を掛けていた。声を掛けていたが、いずれも首を横に振った。声掛けに関しては、ゆっくりと、短く、途切れ途切れに……。これを徹底すると、優は首を縦なり、横なりに振っていた。言葉は極力、発していないように見えた。やはり、違和感がそうさせているのだろうと島井は考えている。
ここまで、島井も恵も不用意な質問は投げかけていない。ただ、優を観察していただけだ。記憶に関し、情報が足りない。バスケットボールに反応を示した以上、完全に記憶を失っていると云う事はない。名前を呼ぶと反応も示す。
だが、色々と、問い掛けてはみたいが、家人への許可を取ってから……。そう判断したのだ。
判断力、自己認識能力の欠落は顕著だ。自身が小さくなっている事に違和感は感じているようだが、完全な認識には至っていない。声についてもその様子を垣間見せる。脳にダメージを受けていない人間ならば、すでに自身の変化に気付いている事だろう。
よって、性転換の事実を知った時、何が起きるか予測が付かないのだ。
「問題ない。いつまでもこのままと言う訳には行かない。ご家族に連絡を」
渡辺に続いて、その師匠も許可を下した。
これで満場一致となった。緊急カンファレンスの結果、家族への通達は決議された。どの道、いずれ面会に来るであろう家族に隠し続ける事は出来ない。家族への面会謝絶は取り消されて久しい。土日になると、眠る優の様子を見に来ているのである。
「時間が悪いんですけどねぇ……。今、夕飯の支度中じゃないんですかね? 島井先生が独断で決めちゃわないから……」
そんな渡辺の言葉に島井は軽く渋面を浮かべただけで、スルーしたのだった。




