8.0話 意思疎通
この話から、1話辺りの文字数を減らします。
読み応えと言う意味では若干、下がるかと思いますが、時間に囚われにくくなると思います。
本編は……、今更ですので、いつもの文字数で突き進みます。
お目汚し、失礼しました。
下記より本文です。
↓
―――12月28日(水)
五十嵐 恵はNSで電子カルテをじっくりと確認していた。すると、kot(+)軟便、中量の記載を見付けた。
「ゆかさん、お通じあったんですね。眠ったままですか?」
「そうなんだよぉ。なんであたしの時は起きてくれないのよー」
ぷくっと頬を膨らませる。
年齢を考えて下さい……と、心でツッコミを入れるが口にはしない。
ちなみに優の排便ペースは現在、2日に1度だ。稀に狂う事はあるが大体、そのペースを保っている。
「便意、無いんですかねー? 便意無くても生命活動には問題ないって事なんですかねー? でも、それってある意味、大問題ですよね?」
「そぉだねー。生命活動には問題なくても社会活動には問題ありだよ。あー。うんちの処理してる時に刺激で起きると思ったんだけどなー。それくらい、いくらでもやったげるから、あたしもお話ししてみたいなー。起きてる優ちゃん、可愛かった?」
「はい。それはもう。思わず抱き着いちゃうくらいに……」
恵はその時の事を思い出し、俯いた。あの時、抱き着いたのは確かに伊藤の言う通り、軽率な行動だった。深海よりも深く反省している。
「羨ましいなぁ。恵も伊藤さんも。伊藤さんの時なんか、随分と長い間、起きてたんだって」
それを聞き、目の色が変わった恵は「詳しくお願いします」と身を乗り出す。
「もちろん。長い話になっちゃうよ」
ちらりと背後のVIPルームへの豪華なドアを一瞥する。ドアの向こうの中央には愛しい姫君が眠っている。
その姫は2人の申し送りの際の応援に入ってくれた看護部長に見守られている。
電子カルテシステムが導入されたPCのモニターの片隅に小さく【12:08】と表示されている。
専属の勤務開始時刻は13時だ。それより1時間も早い事になる。恵は自宅マンションでは落ち着かず、早く来てしまっていた。起きている優を見たい一心での行動だった。
勤務先である、この病院に到着したのはもっと前だった。余りに早く来てしまった為、時間を潰そうと訪れた院内コンビニで時計を見た時は11時35分だった。早過ぎる出勤は迷惑をかける事がままある。しばらくコンビニで時間を潰していると看護部長に見付かってしまい、そのまま、恵は更衣室に連れていかれ今に至る。看護部長の休憩は12時からだったはずだが、申し送り中の見守りを買って出てくれたのである。本来は12時に休憩に入り13時に見守りの為、この最上階のNSに来てくれる予定であった。
さぁ、その時の話を聞こう、伝えようとしたタイミングだった。
「ごめんなさい。お手洗いいいかしら? 休憩前にこちらに詰めてしまったものですから……」と、慈愛の看護部長は珍しく苦笑いを浮かべ、NSとVIPルームを繋ぐ豪華なドアを開き、顔を覗かせた。
「はーい! 恵? 優ちゃんの傍で話そ?」
看護部長は、そのままNSのトイレに向けて入室し、入れ替わりで2人が優の部屋へと「失礼します」と言う言葉と共に入室した。
「……あれ?」
先に入室した裕香が簡素なベッド上、異変を察知した。
「優ちゃん……起きてる……?」
薄暗く広大な部屋の中央、確かに優は小さな躰を起こしていた。
「本当だ!」
「わわっ! ちょっと恵! そっとだよ!」
裕香に言われ、駆け出した足を緩め、歩みに切り替わった。流石に2度目をやらかすわけにはいかない。止めてくれた先輩に感謝しつつ、恵はゆっくりと優に近付いていく。
「あ! 姫! ダメ!!」
「え? ……あ!」
2人は突然の声に黒目がちな目を丸め、驚き固まっている優を取り押さえた。
……優は、オムツの股ぐりから伸びる尿管を小さな左手で握り締め、引き抜こうと奮闘していたのである。
「……ふむ。自己抜去しようと、ですか……。抜けなくて良かったですね」
直ちに優の行動は島井に報告され、彼は慌ててVIPルームに駆け付けたのだった。
自己抜去。バルーンカテーテルの先端には、その名称が示す通り、風船があり、そのバルーンを膀胱内で膨らませる事により、留置しているのである。無理に引き抜けば、当然、膀胱、尿道と傷付ける事となる。
「……申し訳ありません。私が席を外したばっかりに……」
素直に謝罪する看護部長の姿に「いえ、起きた事は仕方ありません」と、島井は寛容な姿勢を見せた。
島井は看護師たちに頭が上がらない。この看護部長も崩壊期から再生期にかけ、身を粉にし、優を診てきた1人だ。崩壊期の序盤はそれなりにナースの姿があったが、崩壊期の中盤以降、どうにも人手が足りず、何度も何度も直接的な看護に当たった。
そんな看護師たちの奮闘を、共に当たった島井は目の当たりにしている。
「……尿管を外しましょう。貴女方には、更なる負担を掛ける事になり得ますが……」
「いいえー。今は暇なくらいですよー」と島井に返事した上で「自尿はあるんですかねー?」と裕香が問い掛けると、「その前に尿意も……」と恵が補足した。
看護師として、当たり前の疑問である……が、順序が逆になるかも知れない。
自尿とは自分で排尿する事が出来るのか……だ。閉塞を起こしている場合にはこの自尿が無くなり、導尿により、排尿する事となる。
その自尿に対し、尿意は『排尿したい』と言う感覚だ。これが無ければ、尿失禁に繋がる。
つまり、尿意があっても自尿が無ければ、排泄は行なう事が出来ない。
自尿があれども、尿意が無ければ、同様に他者の手が必要になるのだ。
よって、恵の言った『その前に』は、必要が無い。
「自尿はあるでしょう。優さんの尿路に問題は見られません。これだけの期間、尿管留置しながら炎症の1つもありません」
島井の言葉は、尿路を検査した事を意味するが、医師としての医療行為である。
「じゃあ、やっぱり尿意があるか……ですね」
恵は胸を張った様子を一切見せていない。看護師として、当然の知識だ。実際にバルーンを扱っていた経験もあるだろう。
「島井先生! 気にしなくて大丈夫ですよ! 尿意が無くて失敗しちゃっても、キレイにしてあげますから!」
4人の中心では、優はぼんやりと天井を眺め続けている。重度の認知症患者のようにも見える姿だった。
自己抜去しようとしていた所を取り押さえられたが、さして抵抗する事も無く、横になりそのままの姿勢だ。
「姫? 少し寄りますよ?」
ベッドの横に立つ恵がお尻と背中の下に両手を差し入れた。
「せーの」
「――ひめ?」
優が不思議そうに声を発したタイミングと恵が自身に引き寄せたタイミングは同じだった。『せーの』と声にしたのは、『動かしますよ』と同義だ。
ベッドに端に引き寄せられた優は、声を上げる暇も無かったようだ。驚き、目を丸くしている。周囲の医療に携わる4名がその様子に微笑んだ。
島井の手は動いている。ラテックスグローブを装着中だ。自ら尿管を除去するつもりらしい。
大人用の患者衣上衣の下部がはだけられ、バリ……と、オムツのテープが剥がれても一切の反応を示さない。驚いたままだ。それでも時々、きちんと瞬きはしている。
オムツを開かれ、パットがめくられ、無毛の幼い陰部を露出されてもそのままだった。
島井は空の小さな針の付いていない注射器を、カテーテルの二股部分に差し込み、ゆっくりとシリンジを引く。次第に注射器内が液体で満たされた。この液体で風船を膨らませていたのである。
「少し、痛いかもしれませんよ?」
全く動きの無い優に、そうゆっくりと声を掛けると、ゆっくりとカテーテルを引き抜いていった。優はピクリと反応を示すと、それに伴い、驚き顔は消失し、また無表情となった。そのまま延々と飽きること無く天井を見上げている。
いつの間にかゴム手袋を装備していた恵が、尿道口を消毒すると、またもピクリと体を小さく跳ねさせたがそれだけだった。
そのまま、陰部にパッドが押し当てられ、オムツを持って封印されたのだった。
「姫? おしっこ、したくなったら教えて下さいね……」
「んぅ――?」
ようやく、恵に目を向ける。そして、じっと見詰め続けた。
その一向にブレない瞳は赤子のように澄み渡っており、恵の頬が赤く染まった。
「優さん?」
「――――?」
言葉に反応を示し、ベッドの逆サイド、裕香を捉え、またもや固定された。頬を染めた恵とは異なり、彼女の顔は喜びに包まれた。
「おしっこ……、あったら教えてね?」
恵と同じ言葉を掛けた。優は小首を傾げ……、またも動かなくなった。
「聞き取れていない……?」
呟いた島井の目は観察者の目だ。優の一挙手一投足を見逃すまいとしているようだ。それがこの子の症状の把握する第一歩だと謂わんばかりに。
「――どうして?」
小首を戻し、優が声を発すると「キレイな声……」と裕香の賞賛の言葉が零れ落ちた。
思わず発してしまったひと言だろう。その呟きも捉えたらしく、またも小首を傾げてしまった。
「いや、理解が遅いのか」
島井の呟きが続くと、優は島井に目を向けた。すぐに観察していた島井と視線が交わり、即座に逸してしまった。逸したのは島井だ。優では無い。優は例によって、穴を開けそうなほど、島井を見詰めている。
「センセ? 独り言はヤメたほうがいいみたいですね」と、裕香は苦笑いをして見せた。島井の顔は赤く染まっている。相手は痩せているものの、美少女過ぎた。
その美少女はまた裕香の声に反応を示す。裕香は目が合うと「優さん?」と微笑み掛けた。
「――?」
……振り出しに戻る。優はまたも小首を傾げてしまった。
「お手洗い……。連れて行ってあげるから」
再び、時間が止まったように、裕香を捉えたまま固まった。
「――なんで?」
長く、そのようなやり取りは続いた。最終的に最後まで1人が目を合わせ、一から話すことで、尿意を感じたら教える。これに理解を示したのだった。
更にこの後、優は鼻に入れられた管を気にし始め、触りだした。
主治医・島井は、この行動に尿管同様、危険と判断。早期の抜去へと、経口摂取開始を決定したのだった。




