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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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紹介頂いた作品(ファンタジー)

黒百合の姫君



 不死身の黒百合の騎士。


 その騎士を倒せるのは、女神に認められた白百合の騎士か、邪神に呪われた同じ力を持つ黒百合の騎士だけ。だから私は呪われ、黒百合の騎士となる道を選んだ。


 ――これもみな、あの、復讐という獣のせいなんだ。


 静かに歩を進める。目に映る半壊した聖堂は、あの人の現在を表すようだ。嘗て白百合の女神が祀られていた場所にその女神の像はなく、代わりに姉の像がある。


 私の気配を感じ取ったあの人が礼拝用の椅子から立ち上がり、振り返った。


「誰だ、貴様。何をしにここに来た」


 瞳に生気を失い、ただ力を得る為に邪神の僕となったあの人を見据える。深い場所から汲み上げたような優しかったその声は薄れ、今は冷たく凍りついていた。


「…………なぜ黒百合の騎士が、二人もいる」


 野晒しとなった聖堂に、雨の予感を孕んだ風が吹く。私は足の運びを止めた。形は違えど、同じ神に由来する漆黒の鎧を身に纏った二人が対峙する。


 ――これは、呪われた人間たちの物語だ。


「あなたを、殺します」


 どうしようもなく力を欲し、邪神である黒百合の女神から千年の呪いを受けた人間の。自ら呪いに向けて歩き出し、破滅を願った人間の。


 世界に愛と呪いを振りまく、どうしようもない、物語だ。



* * *



 今から十七年前の話だ。私は前世の記憶を持ってこの世界に生まれた。


 前世は酷いものだった。家庭は貧乏であることでもたらされる悲劇で溢れ、愛情があるべき場所に失意や落胆、苛立ちやコンプレックスが潜み、両親の喧嘩は絶えることがなかった。私は幸の薄そうな顔をした貧相な日本人で、小さい頃から苛められ続けてあらゆることに無気力となり、怠惰で、どうしようもない人間だった。


 ――このままではいずれ、人生に食べられるんじゃないだろうか。


 何度もそう思っていた。事実、私は中学卒業前に命を落とした。一人親方で保険に入らず、怪我をして働けなくなった元職人の父が半狂乱となり、公営の自宅に火をつけた。深夜のことで、私は逃げ遅れた。夢も希望もない十五年だった。でも、よかった。ようやくこの鉛で覆われた一生から抜け出せると思うと安堵した。


 ――あ……れ?


 だからこそ次に目を覚ました時、私は私の連続性に戸惑った。死を覚悟して火に巻かれたのに、意識がしっかりとあったのだ。眩くて温かい場所で、生きている。命が助かってしまったのかと鬱屈し、誰かの声に導かれて世界を確かめた。


 肌の白い、西洋風の顔立ちをした美しい人に抱かれていた。


 ――何が、起こっているのだろう。


 困惑と疑惑がない交ぜになった風が心を通り過ぎる。次第に自分が赤ん坊であることに気づき、思考に空白を囲ってしまった。状況を把握するのに随分と時間が掛ったが、輪廻転生という言葉の感触を舌で転がすと、理解は私の色に染まった。


 ゆっくりと視界に映る温かなもの、豊かなもの、幸せなものを認める。あぁと、酷く安堵したことを覚えている。私の今生は貧乏ではなさそうなのだ。同級生に馬鹿にされて悔しい思いをすることも、極端に不自由することも、歯を食い縛って疎外に耐えることも、卑屈になることも、性格が歪むことも、ないのかもしれない。


 私はそのようにして、ユリナリアという中世ヨーロッパ風の世界の、裕福な家の二女として生を受けた。そのことを認め、新たに生き始める。両親に愛され、私も両親を愛した。可愛い服や温かな食事、正しい生活、丁寧な言葉遣いが与えられる。


 ――生きることは、豊かなことだった。


「リ~リちゃん」


 ただその人生の中でも一人、心許せない人間がいた。三歳年上の姉だ。名前をユリカといった。白百合の女神が信仰される世界において白百合のように美しく、朗らかで優しい、愛情に富んだ人間だ。そんな人にどうして心を許せないのか。


 ――あまりにも人間からかけ離れているのだ、この人は。


 私に備わっているものがどうして他の人に備わっていないといえるだろう。人間である限り、欲や嫉妬、自尊心から完全に自由になることは出来ない。それは裕福な人間であっても変わらない筈だ。人は結局、自分から一歩も外に出ることは出来ない。両親や使用人からは僅かだが、しかし確実にそれらを感じ取ることが出来た。


「ねぇ、お姉ちゃんとお散歩しに行かない?」


 それなのにこの人からは、それが感じられないのだ。


 五歳の時に不思議に思った。八歳とは、そのように愚鈍な年だろうか。七歳の時に思った。十歳とは、そのように無邪気な年だろうか。十二歳の時に思った。十五歳とは、そのように無垢を保てる年だろうか。十四歳に到り、ついに悟った。


 ――このユリカという人間は、信用できない。


 どんな人間にも、自分と同じものが宿っていると思えればこそ、安心できる。その醜さやどうしようもなさは私と同じだ。見覚えのある醜悪さだ。しかしまったく異質で清らかな、何を考えているか分からない人間というのは、恐ろしい。


 私は知っている筈だ。前世で見てきた筈だ。善であろうと欲する心さえ、欲望の一つの形に過ぎないということを。聖人君子であろうとする人間は聖人君子という型に自らを落とし込み、それで羨望を集めたいという思いがある。それが人間だ。


 そう、私は知っている。薄気味悪い世界の隣人を。善を発揮し、私を憐れんで見る人間を。彼らは知っているのだろうか。可愛そうと言われる人間の立場を。その言葉は、持っている人間から持っていない人間に放たれる傲慢だ。片腕を亡くした人間は決して同じ立場の人間に可愛そうなどとは言わない。いや、言えない。


「あ、眉間に皺が寄ってるよ。また難しいこと考えてるの? リリちゃんは私と違って頭もいいし、お姉ちゃんの自慢だよ。でも、可愛い顔してるのに勿体ないぞ」


 なのにこの人からはそういったものが感じられない。見えない。いつもニコニコとして人に優しく、清らかだ。何を考えているのか分からない。自分がどんな風に人から見えるのか計算しない。無私で無欲に見える。信仰の、せいなのだろうか。


 こんな人間は信用できない。きっと豊かさがそうさせているんだ。生まれ持った美貌がそうさせているんだ。与えられた人間の傲慢で、世界に無邪気を振りまいているんだ。持っていない人間ではこうはなれない。無私などと、無欲などと。


 ――なのに……なのに……。


「っ……あ、え、えへへ。リリちゃん、怪我はない? 大丈夫だった」

「ど、どうして」


 ある日のことだ。元いた世界で日曜日に当たるその日は、町の人間が教会に集まり、白百合の女神様に祈りを捧げることになっていた。恒例行事として家族と集まりに参加し、その後は友人と近くの草原にピクニックに行くことになっていた。


 友人……前世では同性の集まりは怖かった。彼女らは必ず固まって話す。あの感じは苦手だ。ぞわりとする。しかし今世では似た階層の人間と仲良くなれた。自尊心の在り方を探してそこを引き立てて上げれば、彼女らは私に悪くはしないのだ。


 友人らは一様に裕福で豊かで見目も麗しかった。しかし付き合う人間はしっかりと選んでいた。欲望のかたち。一か月に一度のピクニックは交友の儀式だった。


 その先で事件が起きた。全く不意討ちのように、一匹の狼が現れたのだ。私たちは逃げ惑い、やがて私に狙いを定めた獣が私に追いすがり、焦りに私は躓く。


「あ、ああ、ああああああ」


 恐怖で喉が張り付くことを初めて知った。前世で死を迎えた時は、こうはならなかった。食い殺されて、死ぬのだろう。そう思った。事実、そうなる筈だった。


「リリちゃん、危ない!」


 しかしその場に、姉が突如として現れた。私を庇い左腕に食い付かれる。狼と共に転がる。私は動けないでいる。何だ、何が、目の前で何が起きている。


「ユリカ!? 待ってろ、今助けるぞ!」


 続いて姉の恋人がその場に現れ、剣で狼を苦難の末に一突きにした。姉には直ぐに応急処置が取られたものの、左腕の見える場所には消えないであろう大きな傷が生まれた。左手の感覚も失っているようだ。それなのに姉は私に微笑みかけるのだ。


「っ……あ、え、えへへ。リリちゃん、怪我はない? 大丈夫だった」


 ――しんじ、られなかった。


「ど、どうして」


「え? あ~、あはは。お姉ちゃんにも、分かんない。必死で」

「傷、それ、消えないんじゃ。そもそも、腕、動くの?」


「う~~~ん。今は動かないけど、きっと看てもらえれば大丈夫か」

「大丈夫じゃないよ! なんで、どうして!? どうして庇ったりするの!?」


「お、怒らないでよリリちゃん。お姉ちゃん反省して……ん? してないな」

「あ、あなたは! 昔から、いつも、いつもそうで」


 恋人とピクニックに来ていた姉が偶然にも近くを通りかかり、私を狼から助けたこと。私はどうにかして、その理由に納得をつけたかった。


 私が姉を不審に思っていることを感じ取り、身を呈して守ることでその不審を払拭しようとした? その行為を通じて尊敬を集めようとした? 一生の美談としようとした? いや、違う。それに、それに一体、何の得があるというんだ?


 私はその時まで、どんな人間でも必ず損得を計って行動していると信じていた。現に私がそうだ。損になることはしたくない。出来るだけ得になることをしたい。


 しかし……。


「ごめんね。間抜けなお姉ちゃんで。でも、リリちゃんが無事でよかったよ」


 その時、自らの損得を第一に考えない人間がいることを、知ったのだ。


「ば、ばかぁぁあああ! お姉ちゃんの、お姉ちゃんのばかぁぁあああ!」

「あはは、うん、そうかも。ん? あれ? 今、お姉ちゃんって呼んで……」


「い、今まで、ごめんなさい。ごめんなさい、わたし、わたし」

「あらら、ふふ、リリちゃんは本当は泣き虫さんだったんだね。よしよし」


 以降、姉の左指は半分しか曲がらなくなり、腕もお臍から上にあがらなくなった。前世の世界でも見られた胸の前で手を組み合わす祈りのポーズは出来なくなった。


 それでも変わらず朗らかに、姉は日常を送った。私が消えない傷や左腕の不自由さに負い目を感じていると、却って気を遣ってくる。強い人だ。優しい人だ。


 その姉を通じて私は人生を習った。結局、人は暗闇の中で一人でじっとしていることなど出来ないのだ。そんな世界は寂しすぎるから、悲し過ぎるから。人は暗い中でも火を灯そうとする。その火こそが愛情に他ならない。そういうことを思った。


 ――私は深く姉を尊敬し、出来るだけ倣い、姉を、世界を、愛し始めた。


 曇っていた瞳が晴れる。少し朗らかに笑うようになった。愛情とは多分、何かを眺める時に必要となる、瞳の焦点を合わせるための光だ。真昼の明かりだ。その光のお陰で対象は照明に恵まれ、その特質を申し分なく私たちに開いてくれる。


 ――それがひょっとしたら、姉が見ている世界なのかもしれない。


 姉と過ごす時間が増えるに連れ、姉が愛した恋人とも顔を合わせる機会が多くなる。タクトという名前の、普段は少し頼りないけどいざという時には頼りになる、純朴で優しそうな貴族の三男。三人で出かけることも増えた。姉の不自由を彼が助ける。そっと微笑み合う。彼の人柄も知り、二人のことが世界で一番好きになった。


 だから――


「お姉ちゃん、結婚おめでとう」

「ふふ。有難うね、リリちゃん」


「タクトさんも、おめでとうございます」

「有難う。しかし、リリちゃんもこれからは僕の妹かぁ、感慨深いな」


「ちょっとタクト、リリちゃんは私の妹なんだからね。渡さないわよ」

「おいおい、そういう話をしてるんじゃないだろ?」


「もう、二人とも……あは、あはははは」


「あ~~~もう、リリちゃんに笑われちゃったぁ」

「ははは、君たちは本当に仲がいいね」


 だから二人が結婚して幸せになることを誰よりも望んだ。無私がどういうことなのか、損得を考えずに生きることがどういうことなのか、残念ながら私にはまだ分からない。でもありったけの心で、ありったけの自分で、二人のことを祝福したい。


「二人とも、結婚おめでとう。お幸せに」


 心から白百合の女神様を信仰している訳ではないけれど、その日だけはと祈った。どうか女神様、お似合いの二人を幸せにして下さい。どうかどうか、お願いします。二人がずっと、一緒に、いつまでも、朗らかに笑えていますように……と。


 なのに――


「盗賊だぁぁ! 盗賊が攻め込んできたぞぉぉ!!」


 なのに――


「ユリカァァ!?」

「タクト!?」


 なのに――


「時間がねぇってのにこの女……抵抗しやがって。ん? なんだこの傷は?」

「い、いやぁぁああ!」


 なのに、なのに――


「ったく、傷ものの癖に抵抗しやがって。まぁいい、身に付けてた宝石は上物だ。ほらよ、死体は返してやる。さぁて、ずらかるぞ、お前らぁ!」


 なのに、世界は、無慈悲で覆われている。


「あ、あぁあああああ。ユリカ、ユリカぁぁぁ!?」


 町の聖堂での式の後のことだ。場所を移した野外での披露宴が盗賊に狙われ、襲われた。用心の為に配置されていた警備の隙を掻い潜り、野蛮な風が吹き荒れる。


 ――さっきまで、さっきまであんなに幸せだったのに、どうして? 町が、町があんなに近くにあるのに……どうして? お祈りしたのに、どうして?


 絶叫と怒号が通り過ぎる。両親にテーブルの下に隠されていた私が顔を出した時、世界の全てが変わっていた。華やかだった立食パーティーの場が荒らされ、倒れている人間も何人かいた。恐る恐る、同じようにテーブルの下から外を伺う人たち。


「ユリカァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」


 今日の主役の一人が、叫んでいた。白い白い、美しい人を抱きながら。私にとっての愛そのものを抱きながら。その人は血の涙を流し、愛する人の名を叫んでいた。


 血に濡れて、こと切れている、新婦の名を。


 その他にも泣き崩れている女性が何人もいた。盗賊の一団によって娘たちが浚われる。粗野で邪知で狡猾な、人の間からあぶれた盗賊たち。人を平気で殺して金目の物を奪い、娘を浚う、売り払う。下卑た考えで人の運命を我が物顔で弄ぶ。


 新郎は新婦を必死に守ろうとしたようだった。でも、駄目だった。馬に跨った盗賊の頭領は武器を持たない新朗を簡単に退け、新婦を浚った。だが新婦に大きな傷があると分かると、抵抗していた新婦をその場であっさり殺し宝石だけを奪った。


 本当に、何が起こったのか分からないような一瞬のことだった。手慣れた犯行。大陸のあちこちを転々とし、同じことを繰り返している集団だと後で分かった。


「許さない、許さないぞ。う、うあああ、うあああああ! うあぁあぁああああああああああああああああああああああ! うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 タクトさんは己の無力を嘆き、盗賊への怨嗟を吐き出していた。敬虔な白百合の信徒であった姉を、女神は助けてはくれなかった。悪がはびこる理由。恐らく人間に興味がないのだ、神は。もとの世界でもそうだったし、この世界でも変わらない。


 その日を境にタクトさんは変わってしまった。僅か数日で髪が真っ白になった。白百合の女神への信仰を忘れて、やがて……復讐の為に、生きるようになった。



 * * *



 白百合の騎士の伝説というものが、その世界にはあった。かつて世界には黒百合の女神という魔王に匹敵する存在がいたらしい。世界に怪物を解き放ち、人間の苦しみや悲しみ、恐怖、怨嗟、負の感情を自らの力とする、邪神とされている神が。


 その邪神を破ったのが白百合の騎士だった。


 白百合の女神の加護を受けた騎士は各地の魔物を討伐し、同じように黒百合の女神の加護を受けた黒百合の騎士を退け、やがて神をも、黒百合の女神をも倒した。


 しかし神は簡単には死なない。その存在は長い時間の中で忘れ去られながらも、私たちが暮らすこのユリナリアという世界の何処かで封印されているという話だった。勿論、本気でその話を信じている人間は少ない。単なる御伽話だと……。


 ――しかし本当に、黒百合の女神は存在したのだ。


 その長き封印を解いたのが、タクトさんだった。姉が死んでから、タクトさんは何かに憑かれたように文献を探し回り、黒百合の女神のことを研究していた。


 姉を亡くして私も深い哀しみに捕らわれていたが、義妹としてタクトさんのことが心配だった。様子を伺いに屋敷に足繁く通う内に、邪神の研究をしていることを知る。絶句し、その横顔を眺めた。力を求め、タクトさんはやがて旅立って行った。


「タクトさん、どこに行くんですか?」

「力が欲しいんだ。力が……盗賊どもを壊滅させる力が」


「盗賊なら、王国の騎士団の方たちが討伐に向かってくれています。他にも、随分と被害が出ているようです。だから、タクトさんが力を求めなくたって」


「駄目だよ。奴等はどこからでも湧いてくるんだ。徹底的にやらなくちゃ駄目だ」

「そんなことしても……そんなことしても、お姉ちゃんは喜びません」


「お利口さんだね。リリちゃんは」

「え…………」


「僕は今、正しさなんて必要ないんだ。正しくなくて、いいんだよ」


 思えばあの時から、彼は黒百合の女神に魅入られてしいたのかもしれない。白百合の騎士は女神に認められた者がなり、黒百合の騎士は邪神に魅入られた者がなる。


 大陸の西に人が立ち寄らない陰鬱で険しい山がある。黒百合の咲く山が。全て後になってから分かった話だが、タクトさんはそこに存在する黒百合の女神の祠に赴き、いる筈のない、会える筈のない黒百合の女神と契約を交わし、騎士となった。


 タクトさんが旅立って数ヵ月後、自らを黒百合の騎士と名乗る男が西の地から盗賊を掃討し始めた。黒百合の騎士は正義かのように見えた。そう囁かれた。


 ――だが時を同じくして、その男が村や町の聖堂を破壊し始めた。


 白百合の女神の像を破壊し、抵抗する者は殺された。黒百合の騎士は黒百合の女神から千年の呪いを受け、不老不死で死なず、誰も止めることは出来なかった。


 また、黒百合の騎士は人を惑わす力を持っていた。聖堂を破壊し白百合の女神の支配力が弱まった地で、聖堂を黒百合の女神のものに作り替えさせる。騎士と邪神の連携が図られ、黒百合の女神はその像を通じて人々の意識に介入し、己を信奉させた。白い百合が黒く染まる。教義の違いなど関係ない。人々はただ神を信奉する。


 西から東へ。盗賊を滅ぼしながら聖堂を破壊するという不可思議な行動をとる男を、誰もが不気味がった。討伐隊が組まれても退け、ついに白百合の騎士が誕生し、戦いが行われた。喜ばしいことなのか悲しいことなのか、黒の鎧が勝った。


 そうしている間にも信仰を力とし、黒百合の女神が復活する。大陸に怪物が溢れ、黒百合の聖堂が各地に誕生した。黒百合の女神の像は、姉の姿が(かたど)られていた。


「タクトさん……」


 私はそのようにして世界が変わっていく様子を、ただ眺めることしか出来ないでいた。その中で考える。復讐に取りつかれてしまった、あの人のことを……。


 タクトさんに特別な感情を抱いているとか、そういう訳ではない。あの人は姉の恋人で伴侶で、私の義兄で家族だった。優しい優しい人だった。その人が変わってしまった。利己的であることを恐れずに行動している。正しくなくても良いと。


 ――復讐という名の、獣。


 復讐には、何かしらの正義感を満足させるものがあるのだろうか。数学的能力と同様に、方程式の両辺が満足されない内は、それを止めることが出来ないのか。


 私には、分からない。或いはそれは、いくら信奉しても救ってなどくれず、助けてもくれない、白百合の女神への復讐でもあるのだろうか。私には、分からない。


 ――いや、だけど……。


 ただ一つだけ、分かることがあった。それはこんなタクトさんの姿を、姉が望んでなどいないということだ。タクトさんは生きながらにして亡霊になってしまった。前世の記憶に基づき虚しく動き回る亡霊のように。各地に姉の像を立てて。


 そんなのは、悲しすぎる。そして呪いによってあの人は千年も生き続けなければならないのだ。どんな思いを抱いてあの人が生き続けていくのかと想像すると、堪らなく胸が苦しい。だけど、私にいったい何ができる? 私は、私は……。


 窓から黄昏が部屋に射し込む。空を眺めた。夕刻を過ぎると空は夜に青くなり、緋色を残骸のようにこびり付かせ始める。自分自身に耳を澄ます。そして――


「お姉ちゃん……」


 世界が夕闇に覆われていく中で、私はある決断をした。



* * *



 世界では、怪物と人間の戦いが繰り広げられていた。黒百合の女神と白百合の女神の代理戦争だ。白百合の騎士を失った人間側は圧倒的に不利で、新たな騎士の選出にも時間がかかっているようだった。黒百合の女神は着実に信徒を増やしていく。


 いつしか、私が暮らす地域でも黒百合の女神の信奉が始まっていた。住民自ら白百合の女神の像を壊し、姉の像を――黒百合の女神の像を祀る。当初こそぎこちなかったが、人々は直ぐに黒百合の女神に馴染んだ。前世では種類によっては強烈な匂いがしたが、この世界ではそうでもない。白百合の代わりに、黒百合が咲く。


 そういった環境の変化が、私に決断を促した訳ではないと思う。嘗てのように豊かではないけれど、それでも日々を楽しく生きることは出来る。縁談の話も来ていた。今のような環境でも、死しか出口の見えなかった前世に比べれば恵まれている。


 無私になることは相変わらず難しい。多分それは資質が大きく関係しているんだと思う。一度利己的な“私”に目覚めた自分は、そう簡単に損得の構造からは抜けられない。考えれば、この決断も私の“得”を取るものともいえる。それでも……。


 ――タクトさんを、呪いから解放する。


 生者は決して死者には追いつけない。姉は、もういない。しかし私の中に姉が確かにいるように、あの人の中にも別の姉が息づいているのだろう。孤独の中で対話を交わしているのか、或いは、姉は黙して何も語らないのか、涙しているのか。


 いずれにせよ、一度契約してしまったからには、あの人は後戻りできないのだ。黒百合の騎士は不老不死の体となり、その生きる苦しみと辛さで黒百合の女神に奉仕する。自らの千年の辛苦を黒百合の女神に捧げ、その上で望んだ“力“を得る。


 私はあの人の部屋に時折入室し、黒百合の女神のことを調べていた。


 嘗ての戦争で、白百合の騎士に討たれた黒百合の騎士は幸せだったのかもしれない。力を得て願いを叶えた上で千年の辛苦から解放されたのだから。ただ白百合の騎士に敗れた黒百合の騎士は、黒百合の女神の力により魂に呪いを受けるらしい。


 それがどんなものかは分からない。ただ私が白百合の女神に認められるとも思わず、ならば道は一つしかなかった。利己的であることを恐れるな、恐れるな。


「私を、黒百合の騎士として下さい」


 私は黒百合の花を髪に挿し、黒百合の花を抱いて旅をした。嘗てはお伽話と思われていた、大陸西部にある黒百合の女神の祠に訪れる為だ。道中、黒百合の女神の信徒である私に怪物は襲いかかってこなかった。盗賊にも……襲われなかった。


 辿り着くと祠は黒百合の騎士となることを望んだ者に真なる道を開き、最奥にある神殿のような場所に私を導いた。そこで私は願った。黒百合の騎士となることを。


《我を崇拝する人間の娘よ、お前は騎士となって力を得て、何を望む》


 現実の出来事とは思えなかった。女神が私の声に応じた。姿は見えず、ただ神殿の奥から低い女性の声が響いてきた。自分が思い描いた通りの声に変換されて。


「その力で、黒百合の騎士を殺します」

《黒百合の騎士を、殺す……だと? その為に黒百合の騎士となると》


「はい」

《何故だ?》


「彼を呪いから解放したいからです」


 そこで女神は一拍置くと、とてもとても可笑しそうに笑った。嘲弄と呼ぶに相応しい嗤い。


《その為にお前は千年の辛苦を我に捧げるのだ、分かっているのか?》

「分かっております」


《たった一人の人間を救う為に、お前の千年の辛苦を我に捧げると?》

「えぇ」


《ふ、ふはっはっはっは! 狂っておる、いいぞ人間。狂っておるな。言っておくが自害は出来ぬぞ。そして一度黒百合の騎士となったからには我の命令は絶対となる。また白百合の騎士に敗れた場合、その魂を我は穢して呪う。二度と輝かしい生は送れぬこととなる。苦しみに満ちた人生が生まれ変わる度、永遠に続くのだ》


 永遠。思わず息を呑む。白でも黒でもない虚無に両足が木偶(でく)のようにされた。前世のような苦しみが、生まれてくる度に続くのか。いや、あれなどマシと思える人生は沢山ある。白百合の騎士に敗れた場合、そんな人生を送り続けることになる。


《我を一時でも楽しませた褒美として、今ならまだ撤回出来ることにしてやろう。それで、どうするのだ? お前は? えぇ? 人間よ》


 だが……今更迷いなどなかった。むしろ安堵していた。そんな自分を発見し、狂い始めているのだなと自嘲したい気分に駆られる。事実、笑った。ホッとしていた。あの人が新たな白百合の騎士に討たれる前に、私が決断できてよかったと。


「構いません」


《くるっ、て、おるわ。いいぞ人間。それでこそ人間だ。ではお前に与えよう、力を。恋人を亡くし、狂ったあの憐れな男をも、黒百合の騎士をも殺せる力だ》


 直後、帯状の闇が神殿の奥から伸びてきて私に絡みついた。気付くと私は暗黒の鎧を装着していた。腰には剣が佩かれている。私はそこで人の理から外れ、人間でなくなった。人の間からはみ出る。眠らず、食べず、一切の生理的な機能を失う。


 そんな自分自身を確かめて仄暗く満足した後、その場を後にする。


「そういえば……言うのを忘れていました」

《なんだ?》


「あの人は、私の義兄(あに)なんです」


 去り際にそう言葉を残すと、今までよりもっと楽しそうに女神は嗤った。



* * *



 それから私はあの人を探した。怪物は黒百合の騎士に従順で、巨大な怪鳥の背に跨りあの人の気配を探る。二日ほどで見つかった。最前線より少し西側の、黒百合の咲く小さな村。半壊した聖堂に、あの人がいた。似た鎧を纏ったあの人が。


 村に降り立ち、外套で全身を覆う。顔を隠して野晒しの聖堂に歩を進めた。


 目に映る村の聖堂は、あの人の現在を表すようだった。嘗て白百合の女神が祀られていた場所にその女神の像はなく、代わりに姉の像がある。


 私の気配を感じ取ったあの人が礼拝用の椅子から立ち上がり、振り返った。


「誰だ、貴様。何をしにここに来た」


 瞳に生気を失い、ただ力を得る為に女神の僕となったあの人を見据える。深い場所から汲み上げたような優しかったその声は薄れ、今は冷たく凍りついていた。


「…………なぜ黒百合の騎士が、二人もいる」


 野晒しとなった聖堂に、雨の予感を孕んだ風が吹く。私は足の運びを止めた。形は違えど、同じ女神に由来する漆黒の鎧を身に纏った二人が対峙する。


「あなたを、殺します」


 あの人が剣の柄に指を掛けた。無表情だった。


「どういうことだ」

「あなたを呪いから、解放するんです」


「なに? 貴様、何を言って」


 私はそこで外套を頭から外した。優しい姉が大好きだった、優しいあの人に顔を晒す。水面に雫が落ちて波紋が生まれるように、あの人の感情がゆらめく。


「タクトさん」

「き、君は……どうし」


 その動揺。驚愕を瞳に映した一瞬の隙をつき、私は剣を抜き放って間合いを詰めた。閃光の如き一閃は鎧に孔を穿ち、黒く光る剣があの人を体ごと刺し貫いた。


 真っ赤な血をあの人が吐き出す。時鳥(ほととぎす)のよう。何をどうされても構わない、私はあの人を貫いた形のまま動かなかった。顔を上げると、あの人と目が合う。


「あぁ、そうか……そういう、ことか」


 もう何年も笑みを忘れてしまったかのように、ぎこちなく、あの人が笑った。


 私は何も言わず、あの人が自然に微笑んでいた頃の顔を思い出す。いつもあの人は姉の横で笑っていた。二人の幸せが私の幸せだった。二人が私の人間への信仰を支え、示してくれた。取り戻してくれた。もっと人に優しく、もっと人を大切にと。


「ごめんね、ごめんね……リリちゃん、俺が、弱いばっかりに」

「いいんです。もう、いいんです」


 それ以上は、言葉にならなかった。


「分かっていたんだ。分かっていた、筈なんだ。復讐なんかしても、ユリカは、ユリカは……喜ばないってことを」


「もう、いいんです」


「俺は、愚かで、弱くて……ユリカを失った痛みに、耐えきれなかった。なのに、俺は、黒百合の女神を……ふっかつ、させて、しまい」


「分かっています。だから」


「同じような、悲しみを、多くの人に……与えてしまった。その上、俺だけが、楽になって……ごめんね、ごめん……リリ、ちゃん」


 言い終えると同時にあの人が纏っていた鎧が弾け飛び、闇に消えた。剣から手を離してそっと抱きしめていると、あの人から徐々に体温が失われていくのが分かった。私は動けずにいた。動きたくなかった。空が崩れ、野晒しの聖堂に雨が降る。


 しとしとと、泣くように風景を濡らす。


「おねえ、ちゃん」


 あの人の肩越しに聖堂を見上げる。姉を象った像は、濡れていた。彫られた瞳から滴る雫は、魂の奥から滲み出てくるものに、涙に、よく似ていた。



 * * *



 それから私はあの人の墓を作り、あの人に代わり黒百合の女神の僕となって生きた。


 世界の害悪の中心に、私は二本の足で立っていた。黒百合の女神は怪物を用いて多くの人間を殺した。あの人も多くの人間を自ら手に掛けた。私も同じだ。それは変わらない。私の手は、白百合の女神の信徒の血で濡れている。


《馬鹿め、利己的であることを恐れるでない》


 そう何度も黒百合の女神から言われ、自分自身にも言い聞かせた。


 他の生物の命を奪い、生きている人間たち。自らの為に家畜を囲い、育て、その肉を食らう。養殖すらする。我々はそうやって生きてきた。知能がないとか、交感出来ないからとか様々な理由で蓋をし、一次元下の存在を殺し、食べてきた。


《神が行うのも、まぁそれと似たようなことよ》


 人間の信仰を食らう為に、女神たちは地域の取り合いをする。その為に怪物や僕である騎士を使い、反対の勢力を駆逐する。後から幾らでも、人間は生えてくる。


 白百合の女神を信奉する兵士たちを怪物と共に蹴散らし、呪詛をぶつけられながら像を破壊し、聖堂を作り変え、私は東進した。新たな白百合の騎士とも戦った。


「はあぁああああああああああああああ!」


 女騎士が剣を突き出し、一つの光芒となって突撃を仕掛けて来る。私が引連れた怪物の群れを蹴散らして、金髪の美しい騎士がその場に現れた。実兄である白百合の騎士をあの人に打たれた女。二代目白百合の騎士、サレナとの三度目の戦いだった。


「三度目の正直と言うしな。さぁリリ、決着をつけよう」

「…………えぇ」


 サレナは光そのものだった。貴族として生まれて剣術を学び、自らにやましいところなく、自信に充ち溢れ、こうして今、白百合の騎士として顕在している。


「そこっ!」

「――っ、」


 その突きは稲妻のように美しく、烈しい。白百合の女神の甲冑は月光で縁取られているかのような神聖な気配を彼女に纏わせていた。神々しくさえある。


「自分が世界を守る! さぁ、覚悟しろ!」


 だがサレナは私と違った面で何処か幼く、時に愚直で、何よりよく喋った。彼女は正義という言葉を好んだ。こうして今、剣戟を交わし合っている間も叫んでいる。


「私が、私たちが正義だ。お前たちは間違っている。邪神の騎士よ、滅びろ!」


 死が交錯する戦いの最中、死の影を浴びながら私は呟く。


「正しさなんて」


 いつかあの人が私に言ったことを、静かに思い出しながら。


『お利口さんだね。リリちゃんは』

『え…………』


『僕は今、正しさなんて必要ないんだ。正しくなくて、いいんだよ』


 その言葉の意味が、今なら痛いほどに、よく分かる。


「正しさなんて、いらないの」

「なに?」


 そこでサレナの剣が止んだ。ふんと、人を侮るように鼻を鳴らす。

 それから自信たっぷりに、世界の正義は言った。


「意味不明なことを。あんな薄気味悪い、左腕に傷がついた邪神像を祀っているから、オカしくなるんだ」


 ――え…………………………………………?


 瞬間、私の世界から音という音が消えた。音の凪いだ世界。


 ――今、今、今、今、今、今、今、今………………なんて、言った?


「黒百合に飾られた汚らわしい、醜悪な像だ」


 声に出して尋ねた訳ではないのに、サレナは自信満々に言葉を続けた。


 忘れてしまった感覚。寒気に似たものが足元から膨れ上がり、私の体を小刻みに震わす。気付くと前髪に表情を隠し、拳を作っていた。頭に響くサレナの声。


「いいか、お前との戦いを征した後、私が悪しき像を一つ残らず破壊してやる。人を正しい方向に導いてやらねばな。しかし、何故あの邪神像はあんな低い位置で手を組み合わせているんだ。ははっ、全く訳が分からない。組むなら胸の前で組め」


 それはね、私を庇って、狼に左腕を噛まれたからだよ。


『リ~リちゃん』


 手がお臍より上にね、上がらなくなってしまったの。


 砂浜に立ち、波がひたひたと足を洗うように、いかにも容赦ない人生の波がこの身を洗っているのを感じた。サレナの正しい言葉。正しい理解。正しい正義。


「そういえば、文献に残っている邪神像とは形が違うみたいだな。悪趣味な。どちらも醜悪だが、前の方がまだマシだったんじゃないか? どういう魂胆だ?」


 それはね、あの人が、黒百合の女神に頼んだからだよ。 


『ははっ、リリちゃん』


 どうしてもね、あの人は姉の不在に耐えられなかったの。


「そもそも、お前はどうして黒百合の女神なんかに魅入られてしまったんだ? 心が弱いからあんな邪神に付け込まれるんだ。大体だな――」


 それはね、あの人を、呪いから……。


『お姉ちゃ~ん! タクトさ~ん! 待ってよぉ! もう、待っててばぁ!』


 誰に……誰に褒められなくてもいい。利己的であることを、恐れない。そう自分に言い聞かせている。自分が悪であることは、分かっている。でも後悔なんてしない。きっと人間は選べる選択肢しか選んでいない。私は私のエゴでここにいる。


「ふん、まぁいい」


 それでも、それでも、それでも……


「さっさと戦いを終わらせて、あの趣味の悪い邪神像を破壊して」

「ふ、二人を、」


「む、なんだ?」

「二人を……馬鹿に、するなぁあああああああああああああああああ!」


 黒百合の騎士となり、失ったと思っていた感情が爆発的に身の内で爆ぜる。


 ――お前に、お前に、お前に、お前にぃぃぃ、何が、わかる!?


 目尻に湧いた涙を拭う。知らず顔は微笑んでいた。今から目の前の女を、死の海に浸す歓喜に。


「まったく、訳が分からない。ついに会話すら出来なくなったか。これだから」


 まだ何かアイツはぶつぶつと話していた。多分、今の私なら以前よりもっと上手く戦える。そういう予感がした。力がぐろぐろと、お腹の底で渦巻いている。


 あぁ、そうだ。闇すらも、自分のものだ。だから――


「さぁ、決着をつけ」

「chocolate lily」


 気付けば通じないであろう言葉で何事かを呟いていた。目覚めたばかりの技に名前を付け、口に出していた。珍しくそういう気分だった。だってとても愉快だから。


 白百合がこの力で、チョコレート色に染まる姿を想像するのは。


「なっ!? なんだっ、これは!?」


 鎧から幾条もの黒い帯が伸びる。素晴らしい反射神経でサレナはそれを回避したが、やがて絡めとられてしまった。両足、両手、首にまで黒い帯が巻き付く。


 意の儘に動く帯を操り、頭上に運ばせた。うっとりとした目でその姿を眺める。


「な、なんだ、この攻撃は。離せ、真剣勝負を」

「サレナ」


 必死で体をくねらせ、脱出を試みようとする白いお花。

 私は嗤う。


「な、なんだ?」


 私は言う。


「さようなら」

「え?」


 新たな帯が次々とサレナに巻き付く。全身を覆う。念じると、べちゃっと液体が弾ける音がして、中の人はいなくなった。二人を愚弄する人は滴る血になった。


 ――そうやって徐々に、世界は音もなく逆転する。


 黒百合の女神の聖堂で大陸は覆われた。役目を果たした怪物は世界から姿を消し、白百合の女神は東の祠に封印された。お伽話のように女神と闘うことはなかった。


 その後も私は各地を放浪し、白百合の女神の信仰復活を企む集団があれば、拠点に訪れて皆殺しにした。他にも黒百合の女神の命令に従い、様々なことをなした。


 そういうことを何十年か繰り返すと、白百合の女神の信徒は現れなくなった。百年も経つ頃には歴史が改編された。白百合の女神が邪神となった。黒百合の女神は信仰で力を得て、大陸に住む人間の意識に少しずつ改変をもたらしていった。


 変わらないものは私の呪いと黒百合の花の色。そして、黒百合の女神の聖堂に配置される、姉の姿を象った像の形だけ。世界は黒百合の花で溢れ返る。


 黒百合の女神の繁栄は、あと千年は続くらしい。千年が過ぎると白百合の女神が封印から目覚め、白百合の騎士としての資格あるものを祠に誘う。各地の黒百合の女神の像を破壊させ、信仰を取り戻そうと戦争を仕掛けてくる。怪物らと共に。


 黒と白。名前が変わるだけの同じ営み。科学技術の進展も外部世界からの介入もなく、この大きくて小さな世界はそういうことを繰り返すらしい。人間は神の餌。


 私はその世界でひたすら時間と戦った。食べる喜びも寝る喜びも、異性と触れ合う喜びもない。灰色がひたすら続く毎日。生理機能を奪われているからか、或いは他の要因があるのか、頭の中はいつも霞がかっていた。何かに興味を持つことが出来ない。表情も乏しくなり、感情は減退する。楽しくない。ただただ、ただただ、


 ――苦しい。


 朝と夜。一日を刻む。世界に興味を持てないと一年ですら限りなく長い。何度も何度も姉とあの人と過ごした日々を想起した。私は夢想で遊ぶ。夢想で少し、笑う。


 ――そうだ、二人の、像を……。


 いずれ自分のことを忘れた。二人のことも忘れた。黒百合の女神の声も聞こえない。西の祠の最奥。神殿に一人横たわる。時間の重圧。千年の苦しみ。ただ存在するだけが、こんなにも辛い。私はどうして……。やがて言葉すら、忘れる。












 存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。存在する。












《――、――。―――。―――、――――?》


 ……………………。


《うつけが、言葉を与えてやる。全く、あやつが数十度と転生し、一度は英雄となって朽ちたというのに……お前はただ石となって過ごしたか。怠惰の化身よな》


 あなたは……だれ?


《神よ。黒百合の女神よ。そしてお前は我の忠実な僕であった。お前が求めた力を与える代りに契約したのだ。不老不死となり、千年の苦痛を我に捧げる契約をな》


 力。わたしが、求めたの?


《愚かよのぉ。自分が何を守り、何を救いたかったかすら忘れてしまったか。お前も過去の人間と同じであった……ん? ほぉ、その胸に抱いているものは何だ?》


 胸に、なに、を?


《自身ですら忘れてしまったか。しかとお前が抱いているものだ。何とも無粋な木彫りの像よなぁ。あやつらの姿か。どれ見せてみよ。我が品評してやろう》


 い、や…………。


《我に逆らうつもりか? いいから見せぬか》


 だ、め。これは……。


《ん?》



 とっても、とっても、大事な、もの。



《ふっ――はっはっは! その執念、愚かに見事よ。いいぞ、人間。楽しい、楽しいなぁ。全てを忘れても執念だけは残っていると、傑作だ。あぁ、そうだ。伝え忘れていたことがあったがな、白百合の騎士に討たれるでなくとも、我に千年の辛苦を捧げなかった騎士は契約不履行とし、我によって魂が穢されるぞ》


 え……………………………………どういう、こと?


《つまりはだ、あの男は、あやつは輝かしい生は送れておらぬのだ。苦しみの記憶を引き継ぎ、延々と輪廻を転生する。その呪いを辿って我はあやつの人生を眺め、苦しみを食らっておったのだが……。いや、中々に凄絶な人生だったぞ。黒百合の騎士となって人を殺めた記憶に苦しみ、人を救おうとし、報われず、それでも人の命を健気に守っておったわ。別の世界でな。お前によって苦しみの輪廻の牢獄に捕らわれたことを恨みもせず、むしろ感謝しておった。まったく、くだらぬ》


 わたし、は、わたし、は……。


《記憶がないのに動揺しておるのか? どこまで、どこまで我を楽しませる気だ。はっはっは! いやいやしかし、お前らの苦痛。なかなかに美味かったぞ。よく我を楽しませてくれた。祝福してやろう、人間ども。さぁ、今日で約束の千年だ。呪いから解放してやる。これでお前は自由だ。嬉しかろう? なぁ、我が愛し児よ?》


 じ、ゆ、う?


《まぁしかし、千年も経っているからな》


 え……?


《呪いを解いた途端、お主は死ぬのだが》


 あ……。


 輪郭が薄れ、世界がぼやけ、そこで私はようやく私を取り戻した。ただ依然として記憶はない。苦しくも悲しくもなく、眠るように消える。ようやく、眠れた。


 夢の世界で私は遊ぶ。人間が一日の終わりに眠り、夢を見るように。死に際して私は眠り、一生の夢を見る。千と十七年。私の死に際して夢は、その僅か十七年の残滓によって殆どが彩られていた。名前を思い出せない二人が笑う。私も笑う。


 ――輪郭の無い世界。二人が幸せそうで、私は泣きそうに笑った。


 その光景には、何故か激しく私の心を揺さぶるものがあった。大きな法則の泣き声の中、白い雲が花を超え、深い空が海を超える。不思議と心が満たされる。名前も知らないお二人さん。幸せそうで、よかったです。二人が幸せで、私も幸せです。


 多幸感の海に浸りながら、私は徐々に消えていく。二人の笑顔を見ながら……。

 そして――


「あれ、今、目を開けなかったかな?」

「え? 本当」


 声に導かれて薄ぼんやりと目を開ける。眩しい。自然ではない光に照らされて、私は直ぐに目を閉じた。とても小さな存在として、私は誰かに抱かれていた。


「いや、本当だって。起きたんじゃない?」

「もう、静かにしてよ。もし寝てたらその声で起きちゃうじゃない」


 再び、薄く、目を開く。


「ごめん。でも目を開けたような……あっ、ほらっ!」

「え、あ、本当!」


 ――あれ、なんだろう、おかしい。


 夢の中の人たちが、私の目の前にいた。服装や髪の毛の色は違うけど、細部に多少の違いはあるけど、間違いなく、あの人たちだ。優しそうな男の人と女の人が、私の前に笑顔でいる。誰だっけ……この人たち。涙が出るほどに懐かしい。


 私が懐疑に捉われている間にも、二人は楽しそうに何か話していた。あぁ、いいな。この光景。とても心が安らぐ。嬉しいです。ところで、あなたたちは……。


 瞬間、思い出の風が吹いた。私の存在そのものを、はためかすような。次いで流星雨のように思い出が私の脳内に降り注ぎ、私は存在の瞬きを行う。


 ――どうして、どうして、忘れていたのだろう。


 何が起きているのか分からない。記憶を全て取り戻した。どうしてこの人たちが私を見ているのだ。小さく、頼りない存在。私は、何だ。声が、出ない。呼びたいのに、その名前を。叫びたいのに、その名前を。何故、どうして……声が……。


 ――私は……また、生まれたのか。


 小さな体がふるふると震え、死の間際の女神とのやり取りが思い出される。何故だ、何故。どうしてあの人が笑顔でいられるんだ。だってあの人は私のせいで、永遠の苦しみの輪廻の牢獄に、捕らわれていた筈で。それで……。あ……。


『お前らの苦痛。なかなかに美味かったぞ。よく我を楽しませてくれた。祝福してやろう、人間ども』


 疑念は、頭にこびりついていた筈の明け方の夢のように静かに霧散した。長く苔生していた全ての感情の中で、ある一つのものがひび割れる。産声を上げた。


 気付くと私は、叫ぶように泣いていた。


「あっ、ごめん。え? ひょっとして、なにか痛くしちゃったかな?」

「まったく、生まれたばかりなのよ。慎重に扱わなくちゃダメじゃない」


 違う、違う。そうでは、ないのだ。私は泣きたいから、泣くのだ。再び巡り合えた喜びに。私は叫びたいから、叫ぶのだ。二人の幸せに、立ち合えた喜びに。


 ――大好きなあなたたちと再会できて、声を限りに、泣きたいのだ。


 ベッドに腰掛けている男の人が慌てふためく。上半身を起こしている女の人はたしなめるも、やがて可笑しそうにくすくすと微笑み始める。


「もう、慌てちゃって。今日からお父さんになるのよ。しっかりしてよ」

「そりゃそうだけど。でも、どうしたらいいか分からなくてさ」


 目の前の幸福に声を放つのを止められなかった。その中で考える。この記憶は引き継ぐことが出来るだろうかと。しかし、確かな予感があった。全て忘れてしまうだろうという確かな予感が。ただ、人はひょっとすると皆、こうやって生まれてくるのかもしれない。前世の記憶を引き継ぎながら、それを失うことを定められて。


 いや、それでも構わない。例え前世の記憶が赤子の夢に置き換わってしまうのだとしても。それでも構わない。この感動を忘れてしまったとしても、それでも。


「あ、泣きやんでくれたみたいよ。よかったですねぇ、お父さん」

「本当だ。って、お父さんって、何だかまだ照れるなぁ」


 そうやって二人が微笑みを交換していると、バタバタと慌ただしい音が部屋の外から聞こえてきた。それが次第に近づくと、扉が開かれる音に繋がる。


「オジさん、オバさん! う、うううう、生まれたのか!?」


 その声には聞き覚えがあった。少しだけ高慢そうで、だけど何処かに隙を感じさせる女性の声。まさかと思っている間に、私を抱いた父親が驚愕の声を上げる。


「え? さ、紗怜奈(されな)ちゃん? 高校は?」


 名前を耳にした時、私の意識もまた瞬時に驚愕の色に染まった。前世で因縁のあった二代目の白百合の騎士と、来訪者の名前が同じであったからだ。


 その来訪者は父親の問いかけに、こともなげに答える。


「案ずるな、オジさん。お隣さんの一大事だからと告げて堂々と抜け出してきた。自分は生徒会長だからな。そこら辺はしっかりしているぞ。うむ、問題ない」


 父親が体の向きを変えるも、声の主を見ることは叶わない。だがその名前を聞き間違える筈もなく、やがてその声の主が視界の内に入り込み、私は確信を深めた。


「って、生まれてるじゃないか。どれど……うわ~! ちっちゃくて可愛いな~。このこの、ほっぺぷにぷにだな。ふふ、お母さんに似てきっと美人になるぞ」


「あら、嬉しいこと言ってくれるわね。ふふ、退院したらケーキ作ってあげるね」

「え!? ケーキ! わ~~い! 自分、苺が乗ったのがいい!」


 夫婦の間に割り込んできたその女の子を認め、私はもう笑うしかなかった。どうして彼女がここにいるのか、分からない。でも私は、本当ならそれを何処かで望んでいたのかもしれない。三度もまみえた、女騎士と親しくなることを……。


「それじゃ。せっかく紗怜奈ちゃんも来てくれたし、皆で御挨拶だ」


 そうこうしていると、私は義妹としてではなく娘として父親に抱き直された。

 三人が咲くように微笑む。私の直ぐ傍にいる。


「え~~無事に生まれてきてくれて本当に有難う。僕が君のお父さんの拓人です」

「私があなたのお母さんの百合香よ」


「自分はお隣の紗怜奈お姉ちゃんだぞ」


 二人の名前は分かっていた。分かっていた筈なのに、その名前を泣きそうに聞いている自分がいた。微笑むことで伝えることが出来たら……。


 その時、不意に、視界の内で揺れるものの存在に気付く。目を向けると不思議なものを見つけた。恐らく目の錯覚だろう。そうに違いない。その場に似つかわしくない、一輪の花。病室にあることが、世界によっては不吉ともなる花。


 ――黒く、妖しい、その花。


 幻を眺めるように見つめていると、父親が口を開き私の名前を告げようとした。


 それで、君の名前はね。


 窓際では一輪の黒百合が無骨に微笑むように揺れ、静かに消えて行った。それと同時に強烈な眠気に襲われる。私は私を手放しそうになる。まどろみの輪廻。だがせめて、もう一度。意識が消える前に、もう一度。声を放って泣こうと思う。


 “私“の最期の意識に響こうとする、柔らかな声を聞きながら。世界の最果てで時の流動を望んだ私が、今だけは拒むように、せめてゆっくり進めと願いながら。





「それで、君の名前はね。りりって、いうんだよ」





 命の次、二つ目のプレゼントをしっかりと胸に抱きしめて。

 巡り合えた喜びに、声を放って、私は泣いた。




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― 新着の感想 ―
[一言] 現世は、神の箱庭において、泥臭く滑稽に、だけど真摯に激しく生きた人々が輪廻転生の果てにたどり着く、神々が課したゲームをクリアした末のゴールみたいな設定なのでしょうね 白百合側の騎士も居たのは…
[良い点]  今回はシリアスなためか、美しく、素晴らしい一文が多く見られました。  一点の染みをあえて付けておいたような結末も、この物語らしくて良かったと思っています。 [気になる点]  なんとも言え…
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