その2
翌日、暁雄は、朝から落ち着かなかった。
「俺はもう昨日までの俺じゃない。」
この世界には魔法が実在した。
そのことを知る者はごく僅かであり、自分はその少数派に含まれる。もう平凡で無個性な「その他大勢」じゃない。
未知の世界への扉が開いた。スリルに満ちた冒険の日々が始まる。そんな予感に胸が震えた。
暁雄の行く手には、いったい何が待っているのだろう。
謎の組織の来訪? 奇怪なモンスターの襲来? 異世界への旅立ち? 魔法という強力な可燃材を得たことで、いつも以上に妄想がはかどる。
「何が起きても大丈夫なように、心構えはしておかないとなぁ」
家を出て学校へ来るまでの間、常に警戒を怠らず、四方に視線を走らせていた。さながら一流の傭兵か特殊工作員にでもなった気分だ。
教室で杉山智環と挨拶を交わしたときは、張り詰めた緊張が緩みまくったが、自分の席につくと再び警戒モードに入る。
(窓からは距離があるから、外から襲撃されても対処は可能だ。問題は廊下だな。入口から近いぶん、敵の接近に気づけないとオシマイだ)
それっぽい知識の元ネタは、漫画で読んだ凄腕スナイパーの台詞からの引用だ。実際の有用性はさておき、熱意だけは一人前であった。
しかしその熱意も、朝のHRが終わり、いつも通りに授業が始まると、少しずつ温度を下げていった。
授業のチャイムの後にやって来る教師の顔ぶれに変わりはなく、彼らが黒板を背にして語るのは、教科書の内容どおりの無個性な単語ばかり。
壊れたはずの日常は、まったく無傷の状態で暁雄を取り巻き、刺激に満ちた妄想世界で羽ばたいていた暁雄の心は、無味乾燥な日常への帰還を余儀なくされる。
ダメ押しは、昼休みに交わした杉山智環との会話だ。
「放課後は用事があって……。部屋使いたいなら、鍵預けるけど?」
魔法の練習を見学させてもらおうと班活の予定を聞いた結果がコレだ。
「……ま、世の中、そんな上手く行かないよな」
放課後になっても、日常の殻を破ってくれる「何か」は現れなかった。
冷静に考えてみれば当たり前の話で、勘違いし舞い上がっていた自分が恥ずかしい。つい先日まで、根拠レスな楽観や高望みを戒めていたのに。
暁雄がいる教室のベランダからは、校庭で班活に励む生徒たちの姿が見える。
(班活、早く決めないとなぁ……)
クラブ活動で良好な人間関係を築くには最初が肝心だ。入るタイミングを逃せば周りから浮いてしまう。一昨日、征矢に言われたようにタイムリミットは迫っている。
(そういえば、生徒会のコトも調べてなかったな)
今からやろうかとも思ったが、どうも気乗りしない。気分転換を兼ねてしばらくベランダで過ごしていたが、結局、帰ることにした。
暁雄が通う武蔵大付属高の周囲は、高層マンションと昔ながらの一軒家が混在する住宅街で、最寄り駅の武蔵駅は、校門から目と鼻の先にある。
駅を挟んだ反対側には、 国内最大級の長さで知られるアーケード商店街があり、アーケード内の遊技場やファストフード店は、武蔵大付属高の生徒たちには定番のたまり場であった。
そのアーケード商店街と駅をつなぐ駅前広場の一角、点在するベンチのひとつに暁雄の姿があった。
なんとなくまっすぐ家に帰る気になれなかった暁雄は、道行く人たちを眺めながら、屋台で買ったカレー味のたい焼きを頬張っている。
雑踏の音に紛れて、校庭で班活に励む生徒たちの声が届いてくる。
(やっぱ脇役なんだよな、どこまで行っても)
魔法使いの存在を知ったからといって、魔法が使えるようになったわけではない。何かコトが起きたとしても、主役を任されるのは杉山智環であって暁雄ではない。
凡人の暁雄は、しょせん脇役Aだ。スポットライトの当たらない、舞台の端に立つだけ。それどころか、舞台に立つことすら許されない観客かも知れない。
(関わるのもほどほどにしないとな。違う世界の話だ)
はるか頭上を流れていく白い雲を見上げながら暁雄は思った。
杉山智環の住む世界は、あの雲のように果てしなく遠い。どんなに手を伸ばしてもゼッタイに届かない。
(おこがましいんだよ、飛べもしないヤツにはさ)
苦い感情を封じこめ踏ん切りをつける。
そろそろ帰ろうかと思い、何気なく周りに向けられた暁雄の視線は、駅の入口近くにたたずむ少女の姿をとらえ、そこで急停止した。
少女は、暁雄には見覚えのない制服を着ていた。紺のブレザーに、チェック柄のスカート、胸には大きめのリボンという組み合わせは、武蔵大附属のそれとは全く違う。
少なくともこのへんの学校ではなさそうだ。
だが、何よりも強烈な印象を放っているのは、少女の類まれな容姿だ。
光沢のある黒髪を肩の辺りで切りそろえ、その黒髪に挟まれた顔は驚くほど小さい。そのため、顔の中央で柔らかい曲線美を描く鼻梁と、その左右で瞬く瞳の大きさが際立ち、見る者に鮮烈な印象を与える。
まるで名画の中から抜け出してきたような美少女であった。
呼吸するのも忘れて暁雄が見入っていると、不意に少女の視線とぶつかった。慌てて顔をそらそうとしたが、できかかった。深く澄んだ瞳に魂ごと吸い寄せられているかのように視線を外せない。
そうしている間にも、少女は、凛とした姿勢を乱すことなく可憐な足取りで、まっすぐに暁雄のもとへ歩み寄ってくる。
(な、なんだ……!? 俺? 俺か!? でも、知らない子だよな?)
美少女は暁雄の目の前で立ち止まると、容姿に相応しい透き通るような美声で言った。
「貴方は、アバリティオではありませんね? なぜそこにいるのです?」
「は? アバ? え?」
「危険ですから、そこにじっとしていなさい。くれぐれも向こうへは近づかないように」
それだけ言うと、美少女は、自ら危険と言ったアーケード商店街の方角へ去っていった。
あとには、鼻孔をくすぐる甘い香りと、当惑する暁雄だけが残された。
立ち去る美少女を夢心地で見送っていた暁雄だが、その背中が曲がり角の向こうへ消えると、呪縛から解放されたように脱力しベンチにもたれかかった。
(なんだ? あの子……)
微妙に既視感を覚えるできごとであった。
美少女は「この場から動くな」と言っていたが、後を追いかけたい気持ちも抑えがたい。2秒ほど悩んだすえ、暁雄は立ち上がった。
「追いかけるんじゃない。家に帰るんだ。そう、始めからそのつもりだったし!」
暁雄の自宅はアーケード商店街の向こうにあるため、帰宅するには、必然的に美少女の去った方向へ向かわねばならない。
いつもの理論武装で自分を納得させると、曲がり角の向こうへ消えた美少女の後を追った。
美少女のことに気を取られている暁雄は、周囲に起きた異様な変化に、まだ気づいていない。