準備
目覚めの一発は冷水を掛けられることであった。
「冷たっ!」
顔面に大量に掛けられた冷水に対する反応で、勢いよく上半身を起こす。
意識が回復してから経緯を思い出すまで間が少し空いたが、「そういえば新居を探している中で、荒くれ者が根城としているや邸にやってきて絡まれている所にやってきたアリシア様の蹂躙の巻き込みで気絶していたんだったな」と簡単に回想が終了した。
どれぐらいの間気を失っていたのか。
ここに訪れたときは既に日没前。
割れた窓から外の景色を見てみると、木々の隙間から朝日が除いている。少なく見積もっても半日以上は経っている。
「おはようハルト。私の言いたいことは解るわよね?」
足元で腕を組んで仁王立ちをしているアリシア様の背後からゴゴゴ、という効果音的な擬音のするオーラーを感じる。顔は笑っているのに目は笑っていない。
昨日何があって今に至るのかの過程を回想で振り返ったことで状況把握済ませてある。目的を達成することが出来たか否かの云々の前に、目的を忘れて酒に溺れていたことがバレてしまっていたからだ。
だからこうして上半身裸で両手を鎖で固定されているのだ。
上体を少し起こすことは出来ても完全には起こしきれない。伸びきった左腕と右腕ががっちり固定されているから。
「弁明の余地はありますか?」
「口答えする権利はない」
間髪入れず容赦なく刑が執行される。
下腹部辺りに走る鋭い痛み。一直線の切れあとの周辺の肉は裂け、傷痕周りは赤く腫れ上がる。
久し振りの鞭打ちであったせいか、痛みに対して少々たじろいで体を脈打つ形で震わせてしまった。 けどそれも直ぐに慣れたモノだと割り切り平静を取り戻す。
「私の言い付けを無視して酒飲みするなんて、教育が必要みたいね」
教育というよりは調教。アリシア様の奴隷根性は養ってきてはいたが、何分俺も人間である。間違いや違反を犯したりもする。
「さぁ、言ってごらんなさい。お前は誰の奴隷であって誰の言うことを聞かなければならないのか」
苦痛に顔を歪めるがそれはアリシア様をより悦ばせる要因でしかない。
始めは上半身だけで留められていた鞭打ちの躾も、次第に範囲を下半身、顔面部へと広がっていく。それでも背中......背後だけは手が及んでいない。
目に見えない背後よりも、目に見える全面部からの躾の方が効果も恐怖も大きいと思っているのがアリシア様の考え。
「お許しを......」
苦虫を噛み潰すように顔をしかめ、必死に言葉を絞り出しながら赦しを乞う。
「いいえ、まだ足りないわ」
頬を少し赤らめながら鞭打ちを続ける。ダメだ。完全に悦に入り出した。こうなっては気が済むまで内容は問わずに調教が続く。
悪い癖と言えば悪い癖。相手を痛みつけることや倒すことに悦びを感じてしまうのだ。アリシア様は。
「もっと悶えなさい!」
元の世界なら間違いなく変態に認定されることであっても、ここでは奴隷の扱いに対して一般的常識は通用しない。奴隷は人ではなくモノとして扱われているからだ。
だからこうしてアリシア様が俺をどんなに痛みつけても罰せられることはなく、当たり前の風景として捉えられる。
かつての俺ならば反抗、若しくは何らかの態度で示すのだが、10年も奴隷をやっていれば嫌でも奴隷としての泊がつく。嬉しくないけど。
ようするに俺は奴隷であることを認め、諦めたのだ。だからといって一端の奴隷で終わるつもりはない。奴隷は奴隷であっても役に立つ奴隷。つまり、奴隷の中でも優位に立てるように立ち回るようにしている。
それがこの10年間。
今までのアリシア様との感じで特別な存在、若しくは普通の奴隷と違うと思うかもしれないが、何の違いもない。奴隷は奴隷。アリシア様にとって俺はそれ以外の何者でもない。
「奴隷は奴隷らし......く......」
激しい鞭打ちに途中から目を瞑っていたのだが、ある時を境に鞭打ちが止まった。気が済むまで止まることのない躾。いつもよりも時間も短いかく、異変に思った俺は恐る恐る目を開いた。
目を開いた先には驚愕......何かに戦いているのか、わなわなと肩を震わせ両目を見開きながら俺を見つめていた。
「っ! ......早く眼帯を着けなさい!」
耳につく金切り声で突然怒鳴り散らしてきた。
眼帯......?
右目に触れてみると確かに眼帯がとれていた。しかし、何故眼帯がとれただけでこうも取り乱しているのだ? 普段ならここまで取り乱すようなことはない。何が特別な事情でもあるのか?
だが、俺にそんな心当たりはない。この目の負傷も俺自身の不出来の結果。アリシア様には特に関係はないはず。
チラッと、床に散乱しているガラスの片片で反射する自分の顔を見てみる。そこにあるのは右目部分が空洞になっていて、切り傷と窶れた30代の男の顔しかない。
こうして改めて自分の顔を見てみると、酷い有り様になっているもんだ。こんな顔では女性は愚か誰も人が寄ってこない。
空洞と化している右目。深淵の常闇のように真っ暗で、ずっと見つめていたら中に吸い込まれそうだ。
この目はただの負傷。何か特別な力が備わっているわけでも、そんな風に発展するわけもない。一生消えることのない只の傷に過ぎない。
「......わかりました」
恐らく鞭打ちをしているなかで鞭が眼帯に当たり、とれてしまったのだろう。
床に落ちた眼帯を拾い上げ、今度は外れないようにきつめに紐を縛る。
「今後二度と私の前でその眼帯を外すな」
冷淡な目で睨みながらまた新たな命令を与え、そのまま邸の奥に姿を消していった。
今の今まで一度足りもアリシア様の前で眼帯を外したことがなく、こんな反応をとるのが意外だった。命令は命令。意外であっても命令は今後守らなければならない。面白半分で眼帯をとれるような感じでもない。
何をそんなに怯えていたのか。聞こうと思えば聞けたのだが、そんな野暮なことが出来るような雰囲気でもなかったため、俺の中で謎しか残らない。
それとここにいた荒くれ者集団はアリシア様に半殺しにされた後、憲兵にしょっぴかれていった。その後正規の手続きや契約をしたわけでもないが、街から謝礼金として3万ほど受け取ってもいた。
◆ ◆ ◆
昼過ぎ。
「買い出しに行くわよ」
先ほどまでとはうってかわって、元の状態の凛々しい状態に戻られたアリシア様。買い出しというのは学園に入学するための必要物品の調達だろう。
高等部からの編入であるため、当然だがある程度の物は自分で用意しなければならない。
学園は今は夏の休暇中らしく、生徒の大半が実家に帰省や何処かに出ていたりと、割りと学園の制度や休暇等は共通している所がある。
先日の荒くれ者達の吐瀉物、それまでのゴミやボロボロとなっていた邸の掃除を一時切り上げ、戸締まりを確認してそくさくと歩くアリシア様の後をついていく。
流石に買い出しで空中を歩くことはなく、普通に地面を歩いてくれるようだ。
歩いてくれるのは助かるが、それでも躾で受けた傷が服に触れる度にヒリヒリと痛む。嫌な汗が流れるがアリシア様の機嫌を損ねない為にも我慢して顔には出さないように気を付ける。
「何をお求めで?」
「特に珍しい物は必要ないわね。薬物の本に、筆記用具に初級から上級までの各魔法書。それと武器。武器は自前があるか良いとして、主に参考資料となる学習書ね」
果たして残っている金でどこまで揃えれるか。良くてギリギリか?
「魔法書なんて今更な気がするけど、用意しなければならないのだから仕方がないわね」
正直なところアリシア様は魔法に関して、学生レベルで学ぶべきことはほとんどない。大抵のものは独学で習得している。
アリシア様自身も、学園に求めるところはそこのところではないことは自覚している。
「さっさと終わらせるわよ」
必要なモノを求めて商業区『ファルバン』へと向かっていく。この街は商業区、行政区、居住区、教育区と区画分けされており、それぞれがそれぞれの機関として独立している。モノを買い求めるのは商業区。俺達がいるところが居住区となっている。
◆ ◆ ◆
「これで全部ですか」
商業区で目当ての品を買い揃え帰路についていた。案の定、金は底を尽きてしまった。予想以上に魔法書やその他教育書が高く、有り金を全て使ってようやく揃えれたのだ。
教育書ぐらい学園側で用意して欲しいが、そこまで面倒は見てくれないみたいだ。だから貧しい家庭ではまともに道具を揃えることが出来ずに周りと格差をその段階でつけられるみたいだ。
もう少しでアリシア様もその輪に加わる所だった。なるべくアリシア様には普通に学園生活を送ってもらいたい。俺が無駄遣いさえしなければ良かった話だが。
「あら? これはこれは。誰かと思ったら没落貴族のテスタメントのご息女じゃないの」
俺達が出た店の反対側の店から出てきた茶髪のロングヘアーをした左目の下に泣き黒子がある如何にも高飛車系のような女が、甲高い声で憎まれ口を叩いてきた。
「............」
が、これを無視して歩き出すアリシア様。
「ふん、その分だと没落した貴族は気品も一緒に堕としてしまったみたいね」
誰かは知らないが、あまり減らず口を叩いて返り討ちにあっても知らないぞ。こんな人だから一度キレたらところ構わず暴れることに。手がつけられないだけならまだしも、街を半壊させ兼ねない。
拠点を移してまだ初日、これから学園への編入も控えているというのに大事になって編入も流れ、街から追い出されるのもゴメンだ。
「相変わらず減らず口は治ってないようねレイチェル」
レイチェルと呼ばれた少女はようやく名前を呼ばれると誇らしげに胸を張った。
「聞いたところによるとアリシアも学園に編入するのですってね」
「それが何かしら?」
「別に大したことじゃないわよ。ただ、また貴女の顔を見れると思ったら可笑しくて」
何だろう。心なしか空気がピリピリとしだしている。それがひしひしと肌で感じられる程に。この二人の間の因縁は何なのか詮索はしないが、穏やかではなさそうだ。
「それを言いたいが為にわざわざ呼び止めたの? 随分と暇をもて余しているのね。生憎私はあんた程暇じゃないのよ」
「没落貴族が暇以外に何があるというのかしら? 非常に興味深いね」
どんどん険悪なムードになっていく。道行く通行も野次馬と化し、二人を中心に輪を作り出している。
下手打つとここで一悶着もあり得る。そうなったら......力ずくで止めに入らなければならない。余りそれはしたくないがやむ終えないか。
二人がいつ飛び掛かっても直ぐに割って入れるように、気付かれないようにそっと後退りして足に力を込める。
「私を挑発してあわよくば、ここで一泡吹かせようという魂胆なのは見え見えよ」
どうやら無用な心配だったようだ。相手の挑発に乗ることなく冷静さを保ったアリシア様はその場で空高く跳躍すると、その高度を維持したまま空中に留まる。軽く5mぐらいだろう。
「逃げるつもり? 偉く弱腰になったわね」
「進歩したのよ。こっちはあんたみたく成長してないわけないのよ」
空中で相手を見下す。アリシア様。アリシア様が日頃空中に舞うの相手を見下せて悦に入れるからだ。ただし、今回は相手はアリシア様の顔見知りで余り意味はないようだ。
「決めたわ。あんたが編入してきたら真っ先に潰してあげる」
「それは楽しみね」
不穏な一言を残しレイチェルはアリシア様に背を向け歩き始める。アリシア様もレイチェルの反対方向、居住区の邸目掛けて歩き出す。
何とか事なきに終えたことに胸をそっと下ろす。止めるとは言ったものの、あの間に割って入るにはかなり神経を削りそうだったから本音は嫌だった。
「もたもたしてないでついて来なさい」
そんな俺の心中を察してくれていることもなく、言いたいことを一方的に言うだけ。
こんなことで学園で周りと馴染めるのかどうか心配で仕方がない。孤立......下手をしたら虐め。アリシア様に限って虐めなど身の程知らずな行為に走る輩はいないと思いたいが、今のアリシア様は家の名も後ろ楯も何もない、ただ力が強いだけの世間知らずな少女。もしももあり得る。
そうなってはならないように俺が裏で影で懸命にサポートしなければ、亡き当主様達の為にも、アリシア様の側にいるのは今は俺だけしかいないのだから。
奴隷としての域を超えつつあるが、これが俺のアリシア様の奴隷としての在り方。アリシア様の為が俺の為にも繋がってくる。
何か良いように纏めているが、現実として、当面の問題として今後の生活費や邸の修繕費といった必要経費を確保するのが先決になってくる。それを何とかしないことにはアリシア様のサポートもあったもんじゃない。
不法に邸を占拠していた荒くれ者排除の区からの謝礼金も、準備で全て消えてしまっていた。無論他に預金も何もない素寒貧。
また暫くの牛馬の如く働かなければならないな。これは。
なるべくありきたりは避けたいのですが、ありきたりになってしまっている現状