新居
小汚い埃と、蒸れた男の汗とそれに混じるキツイ体臭に、建物全体に広がる酒とスモッグが鼻をひん曲げるような刺激を与える。
下品な笑い声と、昼まっから酒に入り浸り酒癖の悪さで至る所で喧嘩が勃発。
血と汗が迸り、周りの野次馬達が騒ぎを囃し立て、更にヒートアップ。熱狂による白熱さが増し、しまいには武器まで取り出す始末。とても手に終えるような状態ではなく、周囲もそれが異常とは思ってもないらしく収拾がつく様子はない。
何が言いたいのかと言うと、ここ怖い。
「ヘイヘイ兄ちゃんよ? もういっぺん言って貰おうか? 俺達をここから追い出すだって?」
「......近隣の住民の人から苦情が絶えず出ていって貰いたいそうで」
もう嫌だ。何が悲しくて筋肉隆々の暑苦しくてむさ苦しい男の集団の中に飛び込んで交渉しないといけないんだか。
「おいおい聞いたか? この兄ちゃんが俺達を力付くで追い出そうだってよ!」
話を飛躍させないで欲しい......誰も力付くとは言ってないのに。俺は平和的に話し合いで解決したいだけ。
「そいつは聞き捨てならねぇな。怪我しない内に帰んな。そうすれば俺達も危害は加えねぇ」
あぁ、もう嫌だ。360°を屈強な男共に囲まれた。皆身長が180cmを簡単に越えて棍棒やら斧やら手に持っている。敵意と害意を剥き出しの四面楚歌。
一体全体どうしてこうなったかというと、始まりは何時ものようにアリシア様の無理難題が原因。
◆ ◆ ◆
「明日までに新しい住居を確保しなさい」
『中央街バンベルグ』に着いたのは午後3時ぐらいであった。旧テスタメント家から全力で飛ばして半日も掛からない時間で到着。普通なら馬車で半日は掛かる。
空を悠然と走ってきたアリシア様に比べ、荷物を手に、山道や起伏の激しい道路を走ってきた俺との疲労の差は言うまでもなかった。
中央街桟橋付近でへばりこんでいる俺にそう告げてきたアリシア様。
簡単に中央街の説明をすると、先ず街は周囲を巨大な数十メートルもある外壁に覆われている。その上街事態が巨大な湖の中心に形成されており、この桟橋を含めた4つの橋から渡らなければ街には入れない。
これだけ聞くと案外規模の小さい街と思うかもしれない。俺も話を聞いたり資料に目を通したりして適当に想像してはいたが、実物はその想像を遥かに越えていた。
第一に湖。琵琶湖以上の面積。とても一望することはできない。水質も5m程度なら見透せる程淀みもなく悠々と泳ぐ魚類の姿を視認できるほど澄んでいる。
その中心にあるバンベルグだが、東京23区がそのまま湖にすっぽりと埋まっていると言う表現だと分かりづらいか。これも簡単に言うと地上からでは街全体を見渡すことは到底不可能である。
規模のぶっ飛び具合に心が踊るのを抑えれない。巨大な湖の中の巨大都市。自然と調和した幻想的な光景と造形。
早く中に入ってみたい。
移動に余り気乗りしていなかった俺だが、こんな物を見てしまっては俺の冒険家志望としての心に火が着いてしまう。奴隷となっていても俺自身の根本に在るものだけは変わりはない。
まだ見ぬ街並みと人々の生活。この国一番の都市であるバンベルグにはそれが全て集っているといっても過言ではない。
空想に吹けるところをアリシア様のけたぐりで現実に引き戻されることとなった。
「主人を差し置いて興奮するなんていい度胸ね。私が言った要求を速やかに達成しなさい。期限は日没迄よ。良いわね」
仁王立ちで苛立ちを露にするアリシア様。どうやら俺がアリシア様を無視してバンベルグに見いっていたことに機嫌を悪くしたようだ。
「下調べも何も無しに先程の要求を満たしている物件は見つからないと思うのですが」
「そんなの知らないわ。私は探せと命じているのよ。黙って従いなさい」
これだけ広い街なら無いことも無いが、突然のいきなりに『清潔』『一室の広さがアリシア様の部屋並み』を探そうとなると骨が折れるだけではなく、先取りされている可能性が高い。
どれか一つではなく全部を満たしていなければならず、街全体で探すと期限の日没をとうに越えてしまう。探す範囲を限定しなければならない。
これでもアリシア様は譲歩しているらしく、本当ならもっと要求があったようだが抑えているとのこと。
「もし、見つけられなかったらお前を全裸で街の中心に張り付けにするから」
「全身全霊を持って確保して参ります」
有限実行。一度やると言ったことは何であろうと実行してしまう為、全裸で張り付けも脅しではないだろう。そもそも俺よりも何度もこの街に訪れているアリシア様の方が土地勘にも詳しく、件の物件を探すのは容易のはず。
にも関わらず俺に探させ、挙げ句の果てには何の情報も与えないことにアリシア様の鬼畜具合が伺える。
全速力で桟橋を駆け渡り、街の入り口で検閲、警護をしている衛兵の脇をすり抜け街に突入する。どう考えても大問題ものの取り押さえものを平然としてしまった。
アリシア様の口裏合わせに期待する他、俺の罪の帳消しは免れない。
許可もなく侵入するのは当然不法侵入による罰が待っている。ここは国を治める国王の居城する場所まで道が繋がっている城下でもある。
城まではこの街の更に奥の一本道を進むしかなく、それに伴い当然街への出入りの警護も厳しい。城までの一本道の警護も24時間交代制で何十人単位。
これらのことは一般的に出回っている情報であるため、特別なことでも何でもない。
そもそも何故城に行くまでの道がこの街一本だけなのかというと、他の道が険しすぎて普通の人間では通れないからだ。
城事態が断崖絶壁の上に建てられており、絶壁の下には国の中でも随一を誇る魔物や危険な生物の棲みかになっており、絶壁をよじ登る前にそこで大抵はくたばる。
仮に突破出来たとしても屈強な騎士団が城中に群がっている。
まぁ、今は城やその他のこととは関係がないから俺にはどうでもいいこと。
検閲を強硬突破した俺は衛兵を振り切る為に、目と鼻の先にあった街灯と家の壁を使い、足蹴りで屋根まで飛び上がり屋根から屋根までを繰り返し、一目散に走り去った。
屋根づたいにも地上からも追ってくる姿が無いのを確認し、目立たない裏路地に飛び降り何事もなかったかのように平然とした顔で路地裏から出る。
その後街行く人混みに溶け込みながら物件の捜索を開始。
商店、宿屋、酒場、等々目当ての物件になりそうなものはあっても既に人の手の中にあるため早くも頓挫。
何としてでも手に入れなければならないが、かといって無理矢理奪い取る行為に走るわけにもいかず、時間ばかりが過ぎていく。
「あぁ? そんな都合の良いところがあるわけねぇだろ。あったとしてもそんな端金しかもってない分際で何が買える? 冷やかしなら帰んな」
このように不動産屋みたいな所を訪れても門前払いされる。いよいよ打つ手が無くなってきている。
旧テスタメント家を出る際に残っていた金銭を持ち出してきてはいたが、とてもではないが物件を購入出来るような金額ではない。
遺産が少なかったわけではない。莫大とまではいかないが、それでも充分すぎる遺産もアリシア様の生活の為の費用、並びに家を保つための道具、何よりもアリシア様自身の能力向上の為の魔法書、武具といったもので年々減っていた。
そしてとうとう、遺産は10万ギルカを切った。(日本円でいう10万円。金銀銅合わせての金額。金の小判のようなもの一つで1万。銀は1000円。銅は100円)
絶望にうなだれながら道路を歩く俺に通行人の視線が刺さる。
人と商いで賑わう繁華街を一人暗いムードで歩いていたら誰でも避ける上に注目されるだろう。
人混みに溶け込んでいた俺であったが、余りにも場違いで空気を読めていない俺自身を取り巻く空気のお陰で、俺の半径2m弱の範囲内には誰も寄り付いていない。
「情報を仕入れるのは酒場......ゲームとかだと割かし宛にされるが、現実問題としてはどうなのだろうか」
重い足取りで俺が辿り着いたのは一軒の酒場。昼間であるにも関わらず店内からは笑い声で溢れ返っていた。
結局頼れる所が他に無いため、ゲーム的思考を元に酒場のウェスタンドアを押し、酒運びをするウェイトレスを避けながら中央にある空いているカウンターに腰掛ける。
「辛気臭い顔してどうしたんだいダンナ?」
客である俺に対してカウンター内でジョッキに酒を注ぐ店主らしき中年の、見事に頭部の中心部分だけがスキンヘッドの男性が気さくに話し掛けてきた。
何故中心部分だけスキンヘッドで、他の箇所がパーマのような髪型をしているのか。お洒落のつもりか?
「世の中理不尽だってことに嘆いていたんだ......」
とまぁ、人の見かけののことは置いておいて、折角話し掛けてくれたのだから返事を返さない訳にはいかない。無視して無反応なのは失礼極まりないことだ。
それに誰かと話せば少しは気も楽になるかもしれない。そう言ったこともあり返事を返すまでの間は短かった。
「訳ありみたいだが、深くは聞かねぇよ。それにここは酒場だ。しみったれた話や辛気臭いのは似合わねぇ。これでも飲んで元気でも出しな」
営業スマイルとは別の裏表のない笑顔で、ポンっと俺の目の前に酒が注がれたジョッキが置かれた。何も注文もしていないのにだ。
「何も注文もしていないのだが......それに無駄遣いするわけには......」
「そう言わず飲みな。この一杯に関しては金は取らねぇ。俺のサービスだ」
酒は大学のサークルでの歓迎会以来飲んでない。あの時も酒に強いわけでもないのに無理して飲んで先輩に介抱されたっけな。
ここに来てからも酒なんてものにありつけることもなく、飲むのは10年ぶりってことになる。口に合うかどうかの問題もある。
「......有り難く頂くよ」
しかし、半ばやけくそになりがちだった俺は出された酒を気前よく喉に一気に流し込んだ。
「アルコール強っ!」
ゲホッゲホッ! とむせ帰るも何とかして流し込んだ酒を逆流させないように胸の辺りで抑え込む。
10年ぶりであるのに一気に飲もうとしたからだ。それ以前にこの酒のアルコール度数も高かった。飲んでから少しして焼酎や日本酒の比ではない辛味が襲ってきた。
ポカポカと身体中が熱くなりだし、毛穴が開くような感覚と眠気が消し飛ぶような目の覚醒が感じられた。
この酒本当に体に害がないのかと疑いたくなるような体への影響。それなのに二口三口と飲みたくなるような衝動に見舞われる。
「中々イケるじゃねぇか。『スコール』を一気にそこまで飲む奴ぁ、最近見なかったな」
「そんな凄い酒なのか?」
「一番強烈な奴だ」
何てものを一気に飲もうとしたのだ俺は。それでも3分の1までジョッキの中身は減っていた。
「畜生! こうなったらとことん飲んでやる!」
二口、三口とグビグビ酒を口にする。酒に強くない俺が店一番の強烈な酒を飲んでしまえば、たちまちほろ酔い状態になり、調子に乗ってしまう。僅か一口でこの有り様だ。それ以上に飲めばどうなるかは想像に難くない。
「マスター! つまみも出してくれ」
気づけば俺の周りにはつまみと酒でいっぱいだった。泣けなしの金も注ぎ込んで酒を集る。誰かストッパーがいれば良いのだが、残念ながら店主も周りの客も煽り出し歯止めが効かなくなっていた。
「景気が良いねぇ。ダンナみたいなのは好きだぜ」
いつの間にか他の客も交えて宴会騒ぎだった。
この時俺は自分のやるべきことをすっかり忘れ果てていた。
◆ ◆ ◆
酔いもほとぼりも覚める頃にはすっかり夕暮れの日没前だった。
時間の経過と酔いが覚めて始めて思い出した使命で、全身の血の気が一気に引いていった。
「また頼むぜダンナ」
慌ただしく酒場を出た俺は吐き気を抑えながら、宴会で聞き出せた物件の場所に向かっていた。
何だかんだ言って都合の良い物件が見つかったのだ。ただし、その物件の詳しい詳細やどういった状態であるのかを聞きそびれていた。
そして時間は最初に戻る。
◆ ◆ ◆
事細かに話を聞いておけば良かった。完全に自分の落ち度である。
話を聞いてやってきた邸は、荒くれ者グループが根城にしている巣窟。街の外れにある森の洋館。どこぞの金持ちに気紛れで作られた別荘だったようだが、何年も前から利用されることがなくなり放置されたとのこと。
そこに目をつけたのがこの荒くれ者達。コイツらは録に働きもせずに力を有り余らせた連中。色んな人から金を集っては酒に入り浸る。
随分と自由奔放に振る舞ってきたせいか、かつては優雅だった別荘も、酒瓶と食い散らかしたゴミで汚れ、手入れがされなくなった庭は雑草まみれ。乱闘で至る所は傷だらけ。
湖の街に何故森があるのかという謎はまた別の機会に追求するとして、ここが最後の頼みの綱だ。ここを逃したら終わりだ。上手く手に入れたいがこれでは......
「選ばしてやるよ。有り金全部置いてボコボコにされるか、ボコボコにされてから身ぐるみを剥がされるか」
二つのようで実際は一つしかない選択肢。しかも結末は変わらない。
「平和的に解決しましょう。ここに5万ギルカあります。これでここを明け渡しては......」
「そんな金でこんな良い溜まり場は手渡せないな」
非常に短い交渉期間。
「決めたぜボコボコにして身ぐるみを剥いで、どっかに売り飛ばす」
俺に与えられた選択肢なのに勝手に決められてしまった。しかも何か追加されている。もうどっかに売り飛ばされるのはゴメンだ。嫌な目に合うのももう十分だ。
「死にやがれ」
最早殺しにきている。終始踏んだり蹴ったりな俺は溜め息をつくしかなかった。
「どこで油を売っていたのかと思えば......こんなところで何をしているのかしら?」
救世主、救いの女神等々、『赤の他人』や『一般人』からすればそう錯覚してしまう程に都合よくタイミングよく現れた聞きなれた声の持ち主の少女。
凛とした容姿に相応しい透き通るような美声。男だらけのむさ苦しい空間に咲いた一輪の花。
男衆をドロドロのヘドロとするのならば、主はそれを浄めてしまう天使の瞳からこぼれ落ちた雫。
筋肉隆々の男たちは揃い揃ってアリシア様に見とれていた。兜の隙間から覗く目の意識が完全に俺からアリシア様に移り変わっているのが見てとれる程に。
「簡潔明瞭に答えて貰おうかしら?」
笑顔なのだ。これ以上なく可憐でいとおしくなるよくな甘い笑顔なのだ。それが男たちを骨抜きにしているのだ。
男たちが骨抜きされている笑顔を見れば見るほど俺の足の震えは止まらない。目を合わせるのも避けたい程に。なのに恐怖で目を背けれない。うっすらと開けられている瞳が物語るのは、これから行われる悲劇の序曲。
「どうしたのかしら? 私に会えたことが嬉しすぎて声も出ないのかしら」
会ってしまったことで声が出なくなってしまっているのは事実。
スタスタと周囲と俺の置かれている状況を無視して足を進めるアリシア様。その一歩一歩が踏まれる度にまるで処刑台への階段を上っているようなイメージが沸いてくる。
半笑いで俺の前で立ち止まり、胸に優しく手を当て穏やかな声でこう告げてきた。
『全部知っているから』
この瞬間俺の死が確定した。何処で見られていたのか。いつから見られていたのか。疑問が尽きないが、そんな疑問をもう考える必要もなくなりそうだ。
「こんな上玉滅多に拝めねぇな! どうだい嬢ちゃん。俺達に少し付き合ってくれよ」
身の程知らずの自殺志願者。野盗の一人がアリシア様の肩に触れた途端に荒くれ者は姿を消した。否、吹き飛んだ。ボロボロの木造の扉諸とも邸から10m以上も離れた所に。
荒くれ者達は空いた口が塞がらず、状況を飲み込めずにいる。それはそうだ。可憐な少女の手で大の大人が10m以上も吹き飛ばされたのだから。それも軽く小突いた程度で。
そこから先は殺戮ショーだった。
何が起きたのか分からないまま。一人......また一人と宙に舞っては意識を刈り取られ、音が遅れて聞こえる速度で動く度に発生する衝撃波、ソニックブームが巻き起こり押しのけられた大気が周囲に暴風となって襲い掛かり、邸の床や壁の材木が砕け散る。
不可視の速度。アリシア様の力のほんの一部に過ぎないが荒くれ者達には理解不能な範疇の力。
これはアリシア様が魔力によって強化した身体能力の産物。全員が全員この領域に辿り着ける訳ではない。目まぐるしい鍛練の賜物でもあるが、生まれもっての能力も大きく関わっている。
荒くれ者や木材と共に衝撃波の餌食で壁に叩きつけられる俺。背中からモロに受ける衝撃は例え日頃から鍛えていたとしても、肺の中の酸素を全て吐き出させ、呼吸困難に陥れるのは簡単なこと。
壁に体をぶつけた際に頭も打ったのか、視界が歪んできている。平衡感覚も徐々に失われ意識も遠退いていく。
のたうち回る気力もなく、力なく床に突っ伏す中で最後に見たのは蹂躙することで悦に入っているアリシア様の姿であった。
余りやりすぎの無いように、一つ一つの行動には自重と是正をして貰わないと。その方法を今後考える必要が出てきた。
アリシア様がチート。主人公ではなくアリシア様が。