修練と目覚め
その日の朝アリシア様からこう告げられた。
"お前の剣術を鍛える"と。
奴隷の俺に何故剣術を鍛える必要があるのか。そんな疑問をアリシア様にぶつけるわけにもいかないので、ただ一言だけ「はい」とだけ返事をした。
ただ、その前に家事を済ませる必要がある。アリシア様にそう伝え、時間を頂いた。
朝食を終えたアリシア様の食器を洗うため、邸の外の井戸から水を汲む。
縄を引っ張り上げ、井戸の底から上がってきた木の桶から、手に持つ木の桶に水を移していく。
井戸の水は冷たい。少し触れただけで飛び上がりたくなるぐらい。冬になるとあかぎれや霜焼けに悩まさせられる。軟膏類も無いため我慢しなければならない。
文句を言う資格もなければ身分もない。余りアリシア様を待たせるわけにもいかない。てきぱきと食器を洗っていく。
食器を洗っていくなかで、水が汚れればまた新しく井戸から水を汲んで綺麗な水で洗う。
食器を洗い終えた後は床の雑巾掛け。雑巾を絞り食堂や正面玄関の床拭き。
全て一人でしなければならない。今に始まったことではないのでぼやく訳にもいかない。
「一旦そこら辺で切り上げなさい」
待ち兼ねたのか、アリシア様の一声で俺は作業を切り上げる。
金を稼ぐことばかりに頭が回っていたけど、よくよく見れば邸の修繕余り進んでないな。
「庭で待つ。服装を整えてすぐに来なさい」
服装を整えると言っても、剣術の修行に相応しいような鎖帷子の防具や、堅牢な鎧なんて持っていない。
以前の仕事で着ていた鎧も武器屋からの借り物。だから俺は剣すら持っていない。奴隷に武器を与えるのは、裏切り行為の危険性が高まる。世の奴隷を有する者の常識だ。
とはいっても何も身なりを整えないまま、アリシア様の元に行くわけにもいかない。命令に不服従とみなされる。
部屋に戻りなるべく綺麗なローブとインナーに着替える。
綺麗といっても、奴隷用の服としてで、世間一般的には小汚ない卑小な格好だ。
◆ ◆ ◆
「来たわね。それを持ちなさい」
庭に生えている木にもたれ掛かっているアリシア様。俺の目の前には一本の直剣が置かれている。
剣を拾い上げる。拾った剣は、武器としてはみすぼらしい、刃こぼれが酷く、使い古された古刀である。ただし、手入れなどされていない。使い古されたというよりは、使い捨てられたという表現が正しいか。奴隷の俺に相応しいな。
「私は騎士でも何でもない。だから丁寧な指南することはできない。実戦形式でお前に剣を叩き込んでいく。私に一太刀浴びせてみなさい」
半ば強引な剣の修行。個人的に剣術というものをやってみたかった気持ちもある。以前の仕事で何もすることが出来なかった苦い思いもある。
必要最低限、戦闘技術は心得ておく必要がある。願ったり叶ったりだ。
「言っとくが......私は容赦はしない!」
視界からアリシア様が消えた。直後に下腹部辺りに鈍痛。胃から食べた物が逆流しそうな、吐き気を催す。
痛みの正体は蹴り。身体を強化したアリシア様の蹴りが俺の下腹部に直撃していたのだ。
普通の蹴りでさえ、まともに食らえば悶える。魔法を使って身体を強化した蹴りとなれば、そのダメージは想像を遥かに越える。
堪らず地面に両膝と両手をつき、四つん這いになる。必死に押さえようとしていた吐瀉物だったが、我慢しきれずに地面に吐き出してしまった。
「剣術といったが、それ以外の攻撃がこないと思うな」
剣術ではなく戦闘術と改めて欲しい。こっちとしては蹴りがくるなんてことは想定外だったのだから。
「どうした! 立ちなさい!」
声を荒げ叱責するアリシア様。負けず嫌いな性格でもあるため、何くそと、その場に立ち上がる。
立ち上がり剣を両手で握り、剣道のように中段の構えをとる。
中学時代に授業で習った剣道が役に立つかは解らないが、何もしないよりはましだろう。
「待っているだけでは勝てないぞ!」
また視界から消えるアリシア様。今度は確り気配を感じる。後ろか。
勘だった。勘で剣が来ると予測した俺はしゃがみこんだ。予想通り俺が立っていた時の、首もとを剣が通過していったのは風切り音で判断。
躊躇いもなく首を狙ってきた。下手したら死ぬかもしれない。本当の実戦であれば相手を殺さなければならないことから首等狙えるところは全て狙われる。
俺もやられっぱなしのままではない。剣を握る手を、両手から右手の一本に切り替え、振り向くのと同時に左斜め下から切り上げる。
横薙ぎ時に伸びきった右手の手首狙い。防具の手甲は手首も護っている。剣が当たっても傷を負うことはないだろう。
だが、俺の剣が手首に当たることはなかった。
腕を左に捻り、親指を下に向けることで握られていた直剣も下向きになり、俺の剣撃を防いだのだ。
「ハルト、一瞬私の身でも案じただろう」
涼しそうな顔で剣を押し返してくる。あの力が入りにくそうな手の向きでこっちの剣を押し返せるのか。
両手で剣を握り、押し返そうとする剣を押し返そうとするが両手でも押し返せない。体も正対させ、方膝立ちで踏ん張っているのに。
じりじりと俺の剣が胸元まで押しやられる。
「言ったはずよ! これは実戦形式。実戦中に相手の体を心配するバカがどこにいる!」
アリシア様が腕を勢いよく振り上げると、両手で確り握っていた筈の俺の剣が弾き飛ばされる。勢いに負け、体勢を崩した俺は尻餅をつく。
くるくると回転しながら宙に舞った剣は尻餅をつき、肩幅に開かれた俺の両足の間に、地面に突き刺さる。
鼻先にアリシア様の剣が突きつけられる。手も足も出なかった。終始アリシア様のペースだった。
「抜きなさい、もう一度よ」
振り返り距離を置くアリシア様。どうやら訓練はまだまだ続くようだ。それもそうか。俺はまともに戦ってすらいなかった。それでは訓練にならない。
「今回から身体強化はしない。素のままの生身にしてあげる」
生身でも俺になんか負けることなんてない、という余裕の現れ。
身体強化がなければ多少勝機はあるかもしれない。こっちの世界の魔法が使える連中からすれば、身体の強化など当然のことかもしれない。けどこっちはそれに対する対処法が無いんだ。
だから国外での小競り合いで、魔法が使える連中が活躍すら。それ以外の一兵卒はただ蹂躙されるだけ。
がむしゃらに剣を振り回す。
勝敗を争うのが目的ではない。一太刀でも良いからアリシア様に当てれば良い。消極的な考えかもしれない。積極的にアリシア様を打ち負かすぐらいは考えなければいけないのかもしれない。
でも、先ずは目の前の目標、目的だ。ずぶの素人が何段階も先を飛ばすことを思い描いても決して上手くはいかない。上手くいったとしてもそれはまぐれ。
小さなことでもいい。地道に積み重ねていけば。今はこうしてがむしゃらに振っているだけの剣も、何れはまともな剣筋になるはず。
アリシア様でさえ、数多くの騎士に御指南を受けてようやく今の段階に立っているのだから。
誰も初めから出来たりなどしない。
「盾や鎧があるなら多少大振りでも構わない。それ以外はここぞというとき以外大振りしない! 外れた時の隙も大きく、合わせ技もされやすい!」
軽快にステップを刻み、攻撃がかわされていく。
力任せに振り回しているだけだから太刀筋が見極め易いのだろう。
空いた脇に拳がめり込む。動きが止められた。そして注意が行き届いていない下半身に対して攻撃がされる。
「下半身にも意識!」
左足を内側から刈られ転倒。先程の拳でよろめき、体重が後ろに傾いていたことで簡単に足を払われたようだ。
咄嗟に首を上げ、両手で地面を叩き、転倒の衝撃を全体に逃がす。
「倒れたすぐに立つ」
受け身を取る俺の顔の横に剣が突き刺される。
右横に何度か転がり一度離れるが、剣を地面から抜いたアリシア様が駆け足で近づいてくる。
回転を止め急いで立ち上がるが、アリシア様は次の攻撃のモーションに移っている。
「倒れたら終わりだと思いなさい」
まるで小さいナイフを扱うように小刻みに、脇を閉めながら剣を降ってくる。一撃で命を刈り取ろうとしていない。何度も何度も切りつけて、傷を負わせようとしてくる。
「相手が傷つき、動きが鈍くなったところに致命傷を与えれば良い」
アリシア様の猛攻は続く。上半身だけではなく、下半身にも切りつけが及ぶ。いっそのこと致命傷とならない攻撃なら無視して反撃にでることも考えたが、刃物で切られるのは簡単に我慢出来るものではない。カッターや包丁で指を切った時でさえ、無視しできない痛みなのだから。
それにそんな無謀に出て勝てたところで、後々に傷が響かないとも限らない。今は訓練だから無茶をしても問題はないが、防御することも必要。
折角こうして攻撃してきてくれているのだから、いなしかた、剣での受け方を覚える機会。
頭の中でごちゃごちゃ考えているけど、余裕があるわけではない。寧ろ一杯一杯。
「守りながら相手の隙を見つけて反撃! そうしなければ活路は見えないわよ!」
対するアリシア様は俺に指摘しながら攻撃をしている。指摘する側は相手のことを良く見て考えた上で言葉を発している。つまり、俺以上に頭の中で色々と考えていることになる。
ギリギリでかわしたり、防いだりしているだけの防戦一方。
試しにアリシア様のように足技や拳を要り交えてみる。
剣で防ぎながら無防備と思われる左足の脛を狙って足蹴り。
「格闘を入れるなら、攻撃しようとする箇所に視線を落とすな気づかれるぞ!」
繰り出した足蹴りは狙ったところではなく、アリシア様の左足の裏を捉えていた。否、足の裏で防がれた。
確かに攻撃前にちら見はしたが、一瞬だけ。それだけで何処に攻撃しようか解ったのか。アリシア様は俺から視線を外してはいない。視線を落としたのを見たとしても、正確に何処を見たかはわからないはずなのに。
「一瞬でも視線を相手から外す余裕があるものか!」
気がついたら殴られていた。
視線を一瞬だけ落としたのを見計らって、アリシア様の左フックが顎を捉えたのだ。
まるで格闘家のような鋭い左フックを顎に受け、脳が揺れ平衡感覚が麻痺。
防具の手甲は金属製。そんなもので顎を殴られればこうもなるか。
「ま、参りました......」
体力的には自信は少しあった。運動をそれなりにしてきたからだ。だから今回の修行も心の底では何とかなると思っていた。
だが、結果はどうだ? 主人とはいえ、経験値が向こうが上とはいえ、一回りも俺よりも小さな、年も大きくかけ離れた女の子に手も足も出ない。
情けないな。
初めて剣を取った時、ボロボロとは言え、その重みに戸惑った。
生まれて初めて持った人殺しの武器。武器本来の重さもさることながら、人を殺す道具という精神的な重圧は半端がない。
気持ちで負けていたのかもしれない。武器を持つということに対して認識が甘かったのかもしれない。
今にしてみれば、初めの大振り以外俺は何も攻撃しなかった。足蹴りも相手の動きを止めるために繰り出したもの。
あからさまではないが、アリシア様は自ら隙も作って下さっていた。見逃してはいない。気づいてはいたが、体が動こうとしなかった。
今更言い訳がましいな。
「弱い、弱すぎる! 私の奴隷ならば強くありなさい! 力をつけなさい!」
投げ掛けられたのは労いの言葉ではなく罵倒。
力か......こっちに来てから力なんて求めたことなかった。力なんて求めるだけ無意味だったから。
"チカラ、ホシイノカ?"
誰だ?
声が聞こえた。やけに低い声だ。
周囲を見渡してみるが俺とアリシア様以外誰もいない。だけど声はずっと聞こえる。その声も俺にしか聞こえていないようだ。
"ホシイノカ? ホシクナイノカ?"
欲しいって言って都合良く力など手に入るわけないだろう。
やけくそのように答える。
"ホシイノダナ。ナラカシテヤル"
そして声は聞こえなくなった。そしてあの時のような感覚が俺を襲ってきた。
右目の部分が徐々に熱を帯びていき、燃えるように熱くなっていく。それだけではなく、何かが内側から出てくる。
うずくまり体を震わせる。熱かった体が寒くなってくる。震えが止まらない。変な汗も出てきている。
◆ ◆ ◆
ハルトの様子が変だ。その場でうずくまり異常に震えている。
体から妙なオーラが出ている。暗く冷たく不気味な黒いオーラ。それだけではなく、何かがハルトの周りを渦巻いていく。黒い霧のような靄のようなものが。
魔法ではない。そもそもハルトは魔法が使えない。では、あれは何なのか。魔法のようなオーラ。いや、魔法よりももっと禍々しい別の力。
震えが止まり立ち上がるハルト。顔は俯いていて見えない。
体を引き裂かれるような突風が吹き乱れだす。雲ひとつない晴天が、灰色の空に早変わりしていく。
ハルトの顔がゆっくり上げられていく。その途中でハルトの右目につけられていた、傷を隠す黒い眼帯が地面に落ちた。
顔上げたハルトの顔に私はただただ驚いく。潰されたはずの、失ったはずの右目がそこにあった。
ただし、普通の目ではなく、白目の部分は黒に染まり、瞳の部分が赤く発光している。獣のような瞳。
「がぁっ!」
私は瞬きなどしていない。ハルトの顔から目を一瞬たりとも離してはいない。
なのに私は地面に叩きつけられていた。ハルトの右手が私の顔を異常な握力で掴んでいる。
突然のことに思考が一瞬止まったが、すぐに切り替える。
顔を押さえつけるハルトの横腹を全力で蹴り飛ばす。蹴り飛ばされたハルトは家の壁に激突。
訓練の時でさえ、抑えていた身体の強化を最大にして繰り出した蹴り。恐らくあのままでは私の顔は潰されていた。
蹴られたハルトは無事ではないだろう。私が全力で蹴ったのだから骨は粉砕されているはず。
「そんな......」
骨を軽く粉砕するほどの蹴りを受けてハルトは平然と立っていた。ほとんどダメージを受けていないようだ。
「訓練の再開ね。私の目的はそれだったし」
何故私が突然ハルトの訓練を持ち出したのか。それは見極める必要があったから。ハルトの中にいるモノを。
昨日見たハルトの目の傷の広がり、老人から貰った指輪の反応。そして夢のなかで見た、今のハルトに私が殺される夢。
「主人に牙をむく躾のなっていない奴隷は再教育しないと」
そして、今確信した。ハルトの中には何かが潜んでいる。強大で歪な生物かどうかも怪しい何かが。