変異の予兆
結論から先に言うと俺は2頭のクマリスから逃げていた。
食料や地図等の備品が積まれている荷車を置いて、休憩場所から遠く離れるため走って走って走り続けた。
重い鎧にふらつきそうになりながらも野山を駆ける。露でぬかるむ土に何度足を取られたか。その度にブーツと鎧に泥が付着する。緑苔に覆われた巨石に足を滑らせ顔面から転倒。赤く腫れた顔面を抑えながらも足は止めない。
進行の妨げとなる草木を剣で凪ぎ払う。適当に振り回す剣の柄に大木の幹が当たる度に右手全体に痺れが回る。
鎧の下のインナーは汗によってびしょ濡れ。その下の皮膚は汗で蒸れて痒みが出ている。かきむしりたいのに掻けないもどかしさを振りほどく。
すぐ背後にはその図体から信じられない程の速度で俺を追うあの2頭が、その巨漢と勢いに任せ俺と同程度の大木を砕きながら近付いてくるのが音でわかる。
追い付こうと思えば追い付ける距離で追い付かないのは、あの2頭がこの狩の中で余興に興じているからだ。
俺の体力が尽きるまで、俺がもう逃げられないと悟り、恐怖に戦きながら食らうことを望んでいる。
「どれだけ逃げようが、隠れようが無駄だ。お前の臭いはよくわかる。恐怖に染まった人間の臭いは味と共に格別だからな」
どれだけ身体能力が高くても野生の生き物には及ばない。ここはあの2頭テリトリー。地の理も向こうにある。
「ガウッ!」
叢から飛び出す巨体を剣の刃の部分だけで防ごうと、剣を平行に左手の掌を剣先の下から押し上げる形をとる。数百キロはあるであろう体重に加え速度と飛び掛かるジャンプによる落下の勢いが加わり、その場で踏ん張ることは敵わない。
巨体を抑えきれず俺は体勢を崩し、背後の崖を転げ落ちる。転げ落ちる中で何度も体を気にぶつけるが、傾斜が急なこともあり大したブレーキにはならい。
崖から転げ落ちる先には川が広がっており、そのまま川に叩きつけられた。
それなりの高さがあるところから落下したことと、鎧の重量もあり川の中腹ぐらいの深度まで沈む。
鎧のせいで直ぐに浮上できず、仕方なく鎧を水中で脱ぎ捨てその重みから解放されることだようやく浮上することができた。
水中から頭を出し息を吸い込む。目の前には対岸。川から上がるため対岸目掛けて泳ぐが、川の流れは速くどれだけ泳ぎ続けても流され続けるだけで一向に対岸に辿り着けない。
次第に川の流れは速くなり、小さな滝のようなものが幾つも見える。気がつけば渓流を生身で下ることになっているようだ。
岩肌に体をぶつけないように体を反らしながら川の流れに身を委ねる。ラフティングで落水したときのように足を上げラッコの姿勢をとる。けど今はライフジャケットがなく、浮力はインナーのみ。
だからこそ体に無駄に力は入れずに極限まで脱力して水に浮くことだけを考える。体幹を意識して沈まないように。
急流に揉まれること十数分。かなり下流まで流されたのか、渓流から穏やかな緩流へと勢い収まっていく。
丸みを帯びた無数の石が転がる川岸に這いつくばりながら上がる。むせかえる程咳き込み、脈拍が尋常ではないほど上昇しているのがわかる。
深呼吸を繰り返し上がりきった心拍を落としながら落ち着きを取り戻す。
インナーを捲るとその下には逃げ惑う途中に負った夥しい切り傷。深いものから浅いものまで。
仰向けになり青空を見上げる。
平時の穏やかな日常の中でなら安らぎと、心地よさを覚えるであろう鳥類の囀ずりが煩わしくさえ思える。
体が動かない。疲労困憊。最後の要として、落とさないように、流されないように強く握り絞めていた剣だが、今はそれを振り回す力さえ残っていない。
ガサガサ、パキッ、ガサガサ。
右手の方角から茂みをかき分け、小枝を踏み折る音が鮮明に耳に入ってくる。
音の主は当然あの2頭。どれだけ流されようが一度狙った獲物は決して逃さない。況してや今の俺は身動きが取れない弱りきった状態。
「いい感じに肉が熟してきている。恐怖に支配され、種を残そうと言う本能が働くことで味に深みが増す」
どうせ殺るなら一思いに殺ってもらいたい。だが、知能が高い故にこの2頭は直ぐにご馳走にありつくことは無いだろう。どうすれば味が増すかを熟知しているだけに。所謂調理なのだ。食材が俺で調理師は向こう。
食欲を満たすだけの動物的本能しか持たない生物がどれだけ可愛いものか。これから俺には調理というには少々残虐な嬲り行為苦しめられるだろう。
そこからは俺の考える通り。
娘がいたぶり役で父親が見極め役。娘は俺が死なない程度に力加減をした甘噛みで、俺の腕や足に牙を食い込ませる。食い込む箇所から滴る鮮血が川岸の広がる。
おこぼれを狙おうと上空では鳥類達がぐるぐると旋回。まだかまだかと待ち兼ねいている。
肉に牙を食い込ませ俺の体を振り回しては、糸が切れて力のなくなった傀儡人形のようになった俺の体が宙を舞う。
殺さない程度の甘噛みとはいえ、肉に深く食い込む牙は俺を悶絶させるには十分過ぎた。
「あぁ、最高だよお父さん。まだ駄目なの」
「旨い物は時間が掛かるものだ。その分ありついた時の幸福感が何とも言えない。もう少し辛抱しろ」
既に娘の方は我慢の限界を迎えている。牙を食い込ませた時に流れ込んだ俺の血と、肉の切れ端が甘美な誘惑をしているのだろう。
荒い息遣いに、抑える気のない口元から零れ落ちる涎。離れていても獣臭さが鼻を突く。
何度も何度も噛みつかれては振り回され、次第に頭の中が真っ白になってくる。既に握り絞めていた剣は手離している。つまり自分の身を守るものはもう何もないということだ。
このまま意識も手離してしまおうか。そんな諦めの感情が頭の中に過った時に"それ"が起きた。
痛い! いや、熱い!
手離そうとした意識が、余りの激痛に似た刺激に一瞬で我に返る。
一体何処が? 噛まれた所か? いや違う。 振り飛ばされた時に打った頭か? それも違う。では何処だ。あぁ......眼だ。無い筈の"右眼"が。
噛まれた時の痛み以上のモノに堪らずよがり狂う様に2頭のクマリス達も俺の異変に気付く。
全身を裂かれるような苦痛と、煮えたぎった釜湯に全身が沈めら肉が溶け落ちるような熱さ。
苦痛を堪える為に噛み締める唇は、噛み締めるには些か過剰な力が籠められており、自分自身の歯で唇を食いちぎってしまいそうな勢いである。
シュルシュル、と、地面に眼帯が落ちる。
ナニか危険を察したのか、それまで余裕を見せ、空腹に耐え兼ねていた娘が、空腹の限界からくる衝動とは別の明確な殺意をもって飛び掛かってきた。
しかし、その飛び掛かかりが俺に届くことはなかった。その前に娘が俺の視界から消えた。いや、"消した"のだった。
山中の大木を幹から折り砕く衝撃が川岸に走る。
父親の方は何が起きたの分からなかった。いや信じられなかったのだ。先程まで瀕死の獲物が、それまで餌さとしか見ていなかったか弱い人間が自分達に牙を向けたことに。
娘を山中に蹴り飛ばした俺の左足のつま先から白煙が逆上せ左足を包み込んでいる。肉が焦げた臭いがする。自分でも自分の身に何が起きたのか分からない。ただ反射的に蹴り飛ばしていた。
仰向けの俺は右眼を抑えていた右手の指を少し開き、その隙間から外の景色を覗かせる。
あぁ......"視える"。"潰された"筈の右眼が視える。
この時ハルト自身は自分の右眼がどんな状態なのか知るよしもなかったが、この場に残された父親クマリスただ1匹だけが見ていた。常闇のように暗い、それは暗い空洞から父親クマリスをじっと"覗き視る悪しき眼"が自分を捉えていたことを。
父親クマリスは感じたこともない空気を肌と目で感じ取っていた。あらゆる生命を凍てつかせるような冷たい感覚を。いつの間にかおこぼれを預かろうとしていた鳥類達が消え失せていた。いち早くハルトの異変を感じ取っとたのだろう。鳥類は非常に敏感だ。
しかし、ハルトはそれすらも気づいていない。
潰されて喪った筈の右眼に世界が広がっていた。嬉しさよりも懐かしさが先にくる。遠い過去のようなモノだった両眼の視界。
懐かしさに浸っている俺だったが、今度は娘を蹴り飛ばした左足に激痛が走った。
完全に骨が折れていたのだ。蹴りの速度と衝撃に体が耐えれなかった。音速に近い速度の蹴り。足が千切れてもおかしくはないのだが、幸い足は千切れていない。その代わり焦げ臭い臭いの正体は娘の体を焦がした臭いだけでなく、俺の足が摩擦熱で焦げた臭いでもあった。
「お......の......れ......!」
蹴られた脇腹を押さえながら娘が戻ってくる。蹴られた箇所は肉が抉れ、明らかに弱っているのが一目でわかる。
「予定変更だ。直ぐに殺さねば!」
俺の異変に危機感を抱いた父親が、その巨体で高く飛び上がりのし掛る体勢をとる。両手を大きく広げることでその巨体が更に巨大なものとなる。地面に映る影もそれを知らせてくれる。
徐々に迫る自分を飲み込む黒い影。体重も体格相当か、それ以上はあるはず。潰されるのは目に見えている。
骨は砕け、肺や胃などの臓物も潰れ、口から内蔵は鮮血と共に吐き出されることだろう。
もう何も残っていない完全に燃え尽きた俺に為す術はない。いつの間にか右眼の視界も失せ、元の闇に戻っていた。
悔いが無いと言えば嘘だ。けれども一矢報いた。それだけでも万々歳だ。
遂に覚悟を決めた俺は眼を瞑る。「申し訳ありません。アリシア様」と心のなかで呟く。
すると一人と2頭の位置よりも遥か頭上の崖上から、パカラパカラ。土を踏み野山を駆け抜ける足音が2頭の耳に。2頭が見上げると崖の上の茂みから太陽と重なるように1等の馬に乗った人間が飛び降りて来た。
「ハァッ!」
ヒヒィィン。馬が前足を上げ後ろのめりになる。
ハルトと父親クマリスの間に割って入った、馬の鳴き声と被さる透き通った力強い男の声。父親クマリスは突然の乱入者の剣によって、突き出されていた右手掌を斜め切りつけられ、その拍子に5本ある内の爪の一本。人差し指に当たる爪を切り落とされ背中から地面に落下。
「立ち去れぇ!」
男の雄叫びが父親クマリスを威嚇。
「ユークリッド!!」
ユークリッドと呼ばれる乱入者。知古の間柄のようにさえ思える両者。父親クマリスは恨めしそうにその者の名を叫び睨み付ける。
互いに見つめ合う両者だが、父親クマリスが折れて娘を連れて山中へと逃げるようにして立ち去っていた。
「安心しろもう大丈夫だ」
2頭が自分達に危険が及ばない位置まで去ったことを確認したユークリッドという男は、剣を鞘に収め馬の上から降りると、ハルトに寄り添う。
銀色の光沢を放つ鎧甲冑に身を包む男。派手な装飾は見られず、ただだだ、その男のこれまでの武勲を物語るであろう傷の数々。
男はハルトを抱き抱え、容態を確認する。
「傷は深いが問題ない。私の家で治療しよう」
助かったのか?
覚悟を決めたハルトは両眼を開き、自分を助けてくれたであろう男の姿を、その眼で視ることさえ叶わないほど弱っていた。
そしてとうとう意識を失ってしまう。
そんなハルトを軽々と持ち上げ、男は馬の上に乗せると、自身も馬に跨がりそのまま山道を走り去っていった。