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紅薔薇姫と天使の彫像 Prinzessin Rosenrot und Engelsstatuette.

作者: 組鐘ヒムネ

 潰える国の街道に通りがかる者などあるわけがない。

 誰もがとっくにめぼしいものを持って逃げ出してしまった。それでなければ逃げられない者、斃れるこの国と命運を共にせざるを得ない者。いずれにせよ、星も昏いこの夜半に街道に近寄っている筈がない。

 紅薔薇姫の他には。

 だから姫は脇目も振らず牝馬で疾走した。何者をも撥ね殺す心配がないのだから一心不乱に馬を駆った。馬は駆ける足もとの下草も、低く眼前に枝垂れる樹枝も弾き飛ばして走った。この故国トーテンブルクから、せめて、中立国フォルトリンゲンまで。草葉の夜露(アーベントタウ)が散る。

 姫の手綱を引く手は真白く、淡い黄金の髪は波打って風に散り、碧の双眸は闇を見据え、頬は名に相応しく、鮮やかな紅色(ローザ)に上気している。乗馬服に着替える間もなかった姫は、礼服(クライト)の裾が翻る足で鐙を踏み、障泥(あおり)を打つ。

「けれど、すぐに掴まってしまうよ」

 姫は姫ゆえに、供の一人でもありそうなものだが、姫を数えねば人影はない。しかしそれでも、姫にはなおうっとりと、甘い言葉が囁かれる。

「もうすぐ、もうすぐ。ああもうそこまで来ている」

 姫は後ろを振り返る。耳をそばだてずとも、もう一騎の蹄の音が、徐々に近づいて来ているのが知れる。

「ほら、姫。早く、早くくれないと、僕は姫を守れないよ」

 声には応えず、姫は前を向いて歯を食いしばる。激しく揺れる鞍の上で騎乗の姿勢を崩さないよう、身体の隅々まで力を込めたまま、どれくらいの時間が過ぎたか。

「ねえ、姫、ねえってば」

「お黙りなさい、化け物」

 姫は足下を一睨みする。姫の鞍には、頼りのない細剣(デーゲン)の他に、小さな赤い革の行李(コッファー)がひとつ結わえ付けられている。その蓋の隙間から、一体の天使の小像(エンゲルススタテュエテ)が今にもこぼれ落ちそうにはみ出している。

 花のかんばせに金の巻き髪、蒼い瞳。大剣を携え大翼を広げ、まさに羽ばたかんとする流麗な姿、一目で類い希な(マイスター)の手になると知れる品。勇ましく右だけ掲げた脚は、(ドラッヘ)を踏まんとしているのだ。

 何代も前から王家に伝わるこの秘宝を、逃げ果せれば幾らででも売ろうという魂胆も、父王から譲られたものであるから死出の旅にも大切に携えようという殊勝な覚悟も、姫は持ちあわせていなかった。ただ姫の思惑のためには、他ならぬこの神がかった彫像でなければならないのだ。

「化け物だなんて。この大天使(エアツエンゲル)だけが君の願いを聞き届けるんだのに」

「じっとしていなさい。お前は最後の(ディ レッツテ )切り札(カルテ)です」

 密やかな含み笑い(キヒャーン)を残して声は止む。その代わりとばかりに、後方で猛る蹄の音が一挙に速度を増し、暗闇からその姿を現した。

 黒馬の黒騎士。速駆けのために鎧は着けていないが、闇に溶けるように黒い下鎧を身に纏っている。

 黒い駿馬を操る黒い騎士。姫はそれが誰であるかを聞き知っていた。口の中で毒づきながら、姫は再び馬の腹を蹴る。

 街道は山道に差しかかり、曲がって狭いが、とはいえ辛うじて二騎が並ぶだけの幅がある。黒騎士は声を上げて拍車を掛け、姫の牝馬に山側から追いついて並んだ。黒騎士の黒馬の方が姫の牝馬より一回り大きい。じりじりと谷へ迫られ、圧迫に耐えかねて牝馬は失速する。すかさず黒馬が前へ回り込んで道を阻めば、姫が手綱を引かずとも、牝馬が前脚を上げて立ち止まってしまう。姫は馬を降り、その顔に手を当てて宥めなければならない。

 黒い騎士は丈高い黒馬の鞍から軽々と飛び降りた。他には鐙と手綱ばかり、大した馬具も着けず、ほとんど裸馬だ。儀仗用に外套や鎧まで着けた馬に慣れた姫は、それは速かろう、と合点した。騎士は馬術に長けているのだ。恐らく、剣術も。

 黒騎士は鞍に備えていた長剣(リッターシュヴェアト)を手に取った。そして怖じることなく姫のもとへと歩を進める。

紅薔薇姫(プリンツェシン ローゼンロート)におわすか」

 姫は背筋を正して黒騎士を見た。言い逃れることもできる。しかし、姫たる者、いかなる時でも王族としての矜恃を捨ててはならない。

「いかにも、私がローザ・フォン・トーテンブルク。無礼者、控えよ」

 おっと、と漏らして、黒騎士は膝を屈して頭を垂れた。しかしすぐに立ち上がる。長剣の柄の左手を緩めもしない。

 姫は黒騎士の姿を改める。短く刈った黒い髪と同じく黒い双眸。黒く染めた簡素な麻の上下、黒革の薄い下鎧に黒の長靴という黒ずくめ。騎士(リッター)と言うよりは剣士(ゾルダート)といった出で立ちだ。浅黒く焼けた肌は引き締まった筋肉を包んで生々しく蠢く。そして、長剣の鞘には(くろがね)の意匠が施されている。

「その姿、鎧こそないが、嘆きの(リッター デア )騎士(トラウアー)と音に聞く黒騎士であるな」

「二つ名までご存知あったとは」

 黒騎士は固く結ばれていた口もとを僅かに緩めた。

「戦友の死を嘆くばかりの不死身、ベーゼンタール王が騎士ベルンハルト・ベルンシュタインと申す」

「もっと壮麗に着飾った騎士かと思っていたが」

「卑しき生まれの身には余る名誉」

 黒騎士は長剣を左手に提げたまま、右手を姫に差し出した。

「信心深く、慈悲深いという姫君よ、どうか、我が故国にお招きする僥倖を、この卑しく哀れな男に」

 否、と言う代わりに、姫は騎士の足もとに大きく飛沫き上がる黒い跡に目を止めた。それは革の胴衣と似た色ながら、革と違って月の光をも吸い込むような濁った色をしている。そして、鎧っていたであろう腿のあたりで途切れている。

 跳ね上がった返り血の跡だ。

「その血、それは、我が兄のものか」

「……姫、声が震えておられる」

 騎士は今度はあからさまに口を歪めた。嘲笑したのだ。

「残念ながら、新たなトーテンブルク王の首を刎ねる栄誉に預かったのは、私の戦友」

「では、あの知らせはやはり間違いではなかったのだな……」

「知らせ? ああ、あの狼煙か」

 日が落ちて暮れ泥む空に昇る一本の赤い狼煙は、陰って黒々と空から垂れる血痕のようだった。それを城内の軍勢は、押し狭められた国境戦線が伸びる西の空に見つけたのだ。

ベーゼンタールの王は、十二年前に没したトーテンブルク王妃の弟に当たる。先月トーテンブルクの王が崩じ、王位が姫の兄に移ったが、その瞬間にベーゼンタール王がトーテンブルクの王位継承権を主張して兵を挙げたのだ。

 継嗣が生存しているうちに隣国の王が王権を得ようとすれば、侵略以外の何ものでもない。ベーゼンタール軍を迎え撃つため西の国境に遣わされた軍勢は、しかし徐々に東へ東へと後退し、ついに姫の兄、新王率いる騎士団が出陣したのだ。そして。

 やはり兄王は討たれていたか。城には新手が迫っているか。残った者たちの命運は。胸に悲痛な思いがこみ上げ、息を詰まらせる姫に、黒騎士は無慈悲な笑みを見せた。

「行きがかりには合戦の跡もお見せ進ぜよう。自身の臣民がどのような末路を辿ったか、ご覧あるといい、なぜ敗戦を告げる狼煙が日没までも遅れ、なぜ私に追いつかれたのか、ご理解頂けよう。……尤も」

 黒騎士は目を細め、皮肉げににやりと口の端を吊り上げる。

傭兵(ゼルトナー)どもの戦場跡は略奪と私刑の嵐。ご婦人(ダーメ)の目には余るだろうがな」

 侮られて、姫はきっと黒騎士の顔を睨みつける。騎士は上背が高く、姫はその目を見上げる形になる。

「さあ、姫君。戦場で首級を上げられなかった哀れな私に、新たなる栄光(グロリー)を与え給え」

「栄光とは、私の命か」

 騎士は差し出した右手を引き、一歩姫へと踏み出す。

「有り体に言えばそうなる」

 さらに一歩。姫は一歩を退く。

「姫にとっての最上の選択肢は、私と共にベーゼンタールまでお越し頂くこと。トーテンブルク王位継承権の詐称容疑で、我が王が姫を裁きに掛けられる。その後は知らぬがな」

「その後は、打ち首を晒されるのだろう」

「親族なのだから丁重に扱うべきところだが、我が王は些か趣味が悪い」

「そう、まともではない。直系の子女がいるというのに、その王位継承権を否定するなど正気の沙汰ではない」

「勝ち取る自信があるがゆえ。勝算がなければ侵略戦争はしない」

 黒騎士は懐から黄褐色に光るものを取り出し、ぽいと頭上に放り上げ、受け止めてもてあそんだ。夜目にも太陽の色に輝くそれは、彫刻を施されて複雑な形をしているが、確かに拳大の琥珀(ベルンシュタイン)だ。

 ベーゼンタールでは数年前に琥珀の鉱脈が見つかり、大きな収益を上げて戦費の源となっていた。その潤沢な資金でベーゼンタール王は大勢の流れ者を集め、傭兵部隊を組織していたのだ。農業以外には取り立てて産業のないトーテンブルクの戦力と、琥珀熱に湧くベーゼンタールの戦力とには、大きな隔たりがあった。そしてまた、兵士騎士たちの士気も上り調子だったのだ。目の前の黒騎士のように。

「さあ、姫、どうぞ我が馬上へ」

 黒騎士は右手に琥珀を、左手に長剣を握ったまま、また一歩、姫に歩み寄った。

 姫は数歩後退り、牝馬に飛びついて、その鞍に結わえ付けていた細剣(デーゲン)を抜いた。

 黒騎士は首を横に振る。

「そんな決闘向けの獲物で、戦場の血煙を吸った(クリンゲ)の相手が務まるとお思いか」

「お前が言うのは、最上の選択肢ではない。私は逃げ果せてみせる」

 黒騎士は追い詰めた手負いの獣を哀れむように姫を見下ろし、その長剣の鞘をすらりと払った。鞘はそのまま地に投げ捨てる。幅の広い鉄の刃が闇に滴るように輝く。

「私にこれを振るわせないよう願いたい。その玉の肌を傷つけたくなくば」

「さあて、そう上手くいくかなあ?」

 突如上がった朗らかな声、まるで声変わりのさなかの少年のような声に、黒騎士ははっと顔を上げて、闖入者を改めるべく周囲を見回す。

 その隙に紅薔薇姫は行李の蓋を開けた。

 天使の彫像(エンゲルススタテュエテ)。それはこぼれ落ちずちゃんと行李の中にあり、姫の手に抱かれた。

「そうそう、そうこなくっちゃあ」

 彫像は嬉しげに声を上げる。

 姫は像を夜天に掲げ、唇に真珠の糸切り歯を立ててきりと噛み、血を滴らせた。

 そして、その唇で彫像の唇にくちづける!

「ああ、やっと元の姿に戻れるよ!」

 彫像は夜闇を裂くようにまばゆく光り、見る間にその大きさを変じて、騎士の前に立ち塞がった。光が収まれば、そこにはちょうど黒騎士ほどの背丈の、どこか幼さを残した青年の姿がある。

 その手には抜き身の大剣(ツヴァイヘンダー)、その背には白い大翼(フリューゲル)。白い衣に白銀の甲冑(パンツァー)。靡く金の巻き毛、蒼い瞳とそれを包む黄金の睫毛、姫にも負けない薔薇の頬。陶磁のような(ポルツェラーンハウト)、精緻な顔立ちの(リッペ)には、未だ赤い姫の血。それを彫像だった天使は赤い舌で舐め取る。

「さあ、思い切り暴れよう。この騎士を壊してしまえばいいんだね、姫?」

「……天使の彫像に宿った悪魔(トイフェル)よ」

 姫は苦々しい顔で口上を述べる。

「殺戮を許す。存分に力を振るうがいい」

 悪魔と呼ばれた天使は輝かんばかりに真っ白い翼を広げ、声を上げて宙に舞い上がった。

 それを黒騎士は、剣を下ろし顎を上げ、呆けたように眺めて立ち尽くしていた。

「何とも、驚いた」

 天使はその騎士の姿を認め、したりとばかりに艶やかな唇を笑わせ、翼で風を切って低い宙から騎士に切り込む。

 しかし黒騎士は、見過たず僅かばかりの足の運びで天使の一撃を避ける。

 そして、右手の中の琥珀の塊を夜空に掲げた。

「姫も、同じものを持っているとは」

 その無骨な手の中にある琥珀が、花のつぼみにくるまれて夢見るように佇む少女の姿に刻まれているのが、姫にも見えた。

 なめらかな卵形の顔には円らな瞳と、風がゆくように通った鼻筋、小さな唇が花弁のように開いている。華奢な肢体の周囲を囲むのは、開きかけた五弁の花びら。

 花少女(アルラウネ)の彫像だ。これもまた、どこか魔術的な出来映えの品。

 嘆きの騎士はその彫像を掴み、舌の先を歯で削り割いて、滲んだ血と共に少女の彫像の額にその舌と唇とを押しつけた。

 目だけ動かして黒騎士が敵を見る。像にくちづけたまま。

「まさか、その像は」

 天使は急激に膨らむ琥珀の魔力に気付き、素早く飛びすさった。

 その今退いたばかりの地面を、長く伸びた蔓草が射貫く。天使は勢い込んでさらに二歩下がった。

 蔓草の主は人の姿を得、太陽の色に輝きながら地に降り立ち、黒騎士に寄り添う。輝きが止めばそれは、大きな紫の花びらと幾筋もの蔓草を身に絡みつかせた、小柄な少女だった。黒髪と琥珀色(アンバー)の肌、長い手足と裾の膨らんだ衣裳がどこか異国風の乙女。額から頬にかけて蜘蛛の入れ墨がある。夜の遠目には見えなかったが、虫入り琥珀だったに違いない。

「僕のような生ける彫像が、他にもあったなんてね」

「そう、この琥珀は最近採れたものではない。長年王家の蔵に眠っていたものを下賜頂いたのだ。尤も、この秘密をこいつから告げられたのは、私だけだったようだがな」

「僕らは主を選ぶ。僕は極めて信心深く、清らかだった紅薔薇姫をこそ、邪悪な願いで穢す相手に選んだ。君もまた、相棒としての力量を像から認められたという訳だ。あるいは、その邪な野心をかな?」

 花少女は小さな口をかっと開いて、しゃあと蛇のような音を出して威嚇した。彼女は言葉を持たないのだ。

 天使は驚きの表情を隠さず、しかし不敵に笑う。

「でも、この大天使に敵う者なんていないんだよ。君たち二人がかりでもね!」

「それは、やってみなければ分からない。いずれ穢れた魔物同士なのだから!」

 天使は大剣(ツヴァイヘンダー)を、黒騎士は長剣(リッターシュヴェアト)を振り仰いで正面に構えた。黒騎士の長剣よりもさらに刀身が長い、その幅広の剣を、天使は易々と扱う。

 勢いよく踏み込んだ天使の大剣めがけて、少女の蔓草が幾筋も伸びて絡みつく。天使は立ち止まることなく、大きく剣を振って蔓草を引きちぎった。続けて少女が風を切って飛ばした花弁を、天使は翼で叩き落とす。くっ、と天使は息を漏らした。白い羽根が夜闇に散る。大天使が思っていたよりも花少女の花弁の力は強かったのだ。

 その隙を逃さず黒騎士が斬り込む。天使は騎士のそれよりも長い刀身を振り薙いで長剣を捌く。返す刀で天使が切り上げると、踏み込んだ騎士は横に飛んで刃を避けた。

 天使の大剣のほうが少しばかり黒騎士の長剣より刃渡りがある、そのために、黒騎士は天使の懐に入り込めない。しかし天使も、黒騎士と花少女の波状攻撃に切り進む足を止められた。

 ならば、花少女(アルラウネ)だけでは?

 天使は少女に狙いを定め、踏み込みざまに大剣を薙ぎ払った。剣の大きいに任せた、勢い任せの太刀筋だ。対して、多くの蔓草や花弁を纏った少女の足取りは速くない。少女は間合いを取るが、間に合わない。大剣の切っ先が少女に届く。

 否、その剣先は、少女の額の前で止まった。蔓草を編んだ網が、その主の眼前に広がって幅広の大剣の刃を受け止めたのだ。

 そのまま蔓草は大剣の刃にするすると巻き付く。天使は力任せに薙ごうとするが、その手首までが絡め取られて思うように刃を振るえない。

 その僅かな間隙に、黒騎士が姫へと奔った。天使は大剣の柄で殴って網を破る。しかし騎士の方が速い。

 姫は退きながらも、鋭い呼気とともに細剣を突き出した。騎士は一瞬たたらを踏む、が、姿勢を直して長剣を中段に構え、再度姫に斬りかかる。姫の細剣など姫ごと叩き切られてしまうだろう。

「姫ェ!」

 天使は少年のような声を叫ばせ、思わず姫に手を伸ばす。少女の蔓草は天使の大剣に手首に未だに絡んで離れない。黒騎士の切っ先が姫に迫る。

「ぐ……おのれ!」

 天使は捕らわれた大剣から手を離し、翼を一度羽ばたいて宙に舞い、手をさながら聖なる十字のように開き掲げる。

 まばゆい光が炸裂した。

 大天使が光輪(グロリー)を戴いたのだ。

 昼日中の如き(リヒト)夜闇(ドゥンケル)を灼く。黒騎士は立ち止まり、顔に右手を翳して呻吟した。より天使に近くあった花少女は両手で目を覆い甲高い悲鳴をあげる。

「姫!」

 光輪は間もなく姿を消した。花少女が倒れ伏して蔓草もまた力なく地に落ちる。大天使は大剣を拾い上げ、残った蔓草を引きちぎると姫の元へ舞い降り、灼かれた目を眇めて闇雲に剣を振り回す黒騎士から引き離した。姫は光輪の出現よりも一瞬速く目を閉じていたが、それでも眩しそうに碧の瞳を潤ませた。

「涙だなんて。そそるね」

 天使は姫を抱きすくめ、その花の唇に自らの口もとを寄せ、にいと唇を引き裂いて嗤った。

 赤い唇から長い牙が覗いた。

「さあ、姫。代償を支払うんだ」

「う……!」

 大天使は紅薔薇姫の唇を啜った。口中に牙を突き立てて貪り、舐め、啄み、啜って、やっと口もとを引き離せば、姫の唇からは血の珠がこぼれる。天使は艶やかに微笑んで、赤く濡れた口もとを拭った。蒼い目に、ほんの一瞬、赤い火が灯る。

「……悪魔め」

 姫は天使から身を引き剥がし、憎々しげに呟いた。

「何とでも。その悪魔に頼らなければとっくに首を刎ねられていたのは誰だい?」

 辱められて姫は歯を噛む。しかし、それでも今は、命が惜しい。

「そうだ、お前が私を救うのだ。油断してよいなどと一言も言っていない。一刻も早くその騎士を仕留めよ」

「そうだね。当面の代償は頂いたしね、相応の働きをしてあげる」

 余裕綽々といった風情で天使は黒騎士に視線を投げた。黒騎士は目をしばたたきながら、ようやっと正しく天使に向かって剣を構えた。

「禍々しいな」

「お互い様さ」

 黒騎士は目元の汗と涙を手の甲で拭い、長剣(リッターシュヴェアト)の柄を握り直す。天使は刺突の構えで大剣(ツヴァイヘンダー)を水平に握る。二人は摺り足で間合いをはかり、向かい合ってじりじりと円弧(クライス)を描く。

 そして、大音声(おんじょう)とともに二人は同時に斬りかかり、互いの刃を(ディ クリンゲン)交える(クロイツェン)。


  剣戟(フェヒテン)剣戟(フェヒテン)! 剣戟(フェヒテン)

  剣戟(フェヒテン)剣戟(フェヒテン)! 剣戟(フェヒテン)


 天使の刺突を騎士が弾き、空いた脇めがけて騎士が突く、それを天使が身を捩って避け、その回転の力を載せて大剣を振り薙ぐ、その大振りを間一髪騎士は地に這ってやり過ごし、低い姿勢のまま天使の脚を切り上げる。天使は大翼で羽ばたいてその切っ先を躱し、翼をたたんで落ちざまに騎士に大剣を突き立てる。騎士は身を転がして降る刃を逃れ、即座に立ち上がり泥に塗れた長靴を踏みしめ、地に剣先を突いた天使に上段から斬りかかる。天使はすぐさま剣を地から抜き放ち騎士の長剣を弾き上げる。騎士はよろめかず再度切り下ろす。その刃を天使の刃が受ける。打ち合う。打ち合う。刃が咬み合う。咬み合う。咬み合う!

 その剣戟の音を馬のいななきが遮った。姫が追う蔓草を逃れて騎乗したのだ。少しでも遠くへ、焦りの色を見せて姫は馬の障泥(あおり)を打つ。

 手柄に逃げられてはたまらない。追おうとする黒騎士の前に天使が立ちはだかった。

「おおっと。お前の相手は僕だよ」

 ぎりりと音を立てて騎士は歯噛みする、その間にも馬は蹄を鳴らして駆け去る。

 その後を花少女の蔓草が追う。しかしいくら蔓草が素早く伸びると言っても、駆けだした馬には敵わない。何より花少女は動きが速くない。彼女は腕を伸ばし蔓草を操るが、最も長く伸びた蔓の一本でさえも、牝馬の脚に届かない。

 姫の背を黒い瞳で捉えると、黒騎士はその長剣を大地に突き立て、空いた両手で耳を塞いだ。

「アルラウネ!」

 突如として獲物を手放す黒騎士に呆気にとられる天使の耳に、少女の薄い胸がすうと息を吸う音が聞こえた。


  キャアアアアアアアアアアアアアア!


 耳をつんざく叫び声が谷間の狭い道筋を駆け抜ける!

 天使は大剣を取り落として耳を覆うが、間近の少女から発せられる悲鳴は、空気を伝って天使の身の肉と頭の中を震わせてかき乱す。

 地平線までも届いて人を死に至らしめるというその叫び声は、山肌に反響しながら即座に姫の元にも届いた。

 馬は繊細な生き物だ。姫は右手で耳を塞ぎ、左手は何とか手綱を握り続けたが、牝馬は前脚を上げて立ち止まってしまった。耳をやられた馬は何度もいななき胴を震わせる。姫は振り落とされそうになって馬の首にしがみつく。

 黒騎士は姫が馬に手こずっているのを確かめると、耳を覆う手を離して長剣を握った。丁度、花少女(アルラウネ)が息を継いで、叫び声が残響を残しながら止む。

 瞬間の判断、黒騎士は姫を無視して、眼前の天使に剣を振りかぶった。

「私の相手をしてくれるのだろう?」

 天使は耳から手を離し急ぎ大剣の柄を取ろうとするが、一手遅れて間に合わない。黒騎士は長剣を振り下ろす。

 がしゃんと、豪奢な焼物が壊れるような音がした。長剣は彫像の天使の額を叩き割り、右の眼窩を抉って虚ろな側頭部を吹き飛ばした。

 天使はよろめいて後退り、割れた額を抱えて断末魔の悲鳴を上げた。仰け反る喉にまでひびが入る。

 黒騎士はなお足をもつれさせる天使を横目に、長剣を携えて駆けだした。姫の元へ。その首級のもとへ。花少女も苦しむ天使を放って後を追う。

 姫は馬を宥めきれず、馬に揺さぶられてその背から転げ落ちた。そこへ黒騎士が辿り着く。背中を強かに打ち、冷たい地面に尻をつけたまま、姫は立ち上がることができない。丈高い黒騎士の顔を見上げ、痛みと屈辱に顔を歪ませる。

 気丈にも自らを睨みつける姫の目を見下ろしながら、黒騎士は何事かを考えるように佇んだ後、姫の足もとまで近寄って長剣を真っ直ぐ眼前に掲げた。王族への敬礼の辞儀だ。

「信心深いと名高い姫君が、魔術に手を染めてまでの戦い、何としても生き抜こうというその執念、見事なり」

 黒騎士は剣を下げた。そして、低く固いその声を幾分和らげ、地に這いつくばる姫に語りかけた。

「プリンツェシン・ローザ、私はこれから、我が王だけでなく、あなたにもお仕えしよう。その気高い御身が誰にも傷つけられぬよう、また辱められぬよう、私がそっと弑して進ぜる」

 姫は乱れた礼服の裾に手をやりながら、華奢な首を振った。

「敗者はもはや、王族ではない。王とは、勝者の名。勝ち続ける者の名。私は最早、姫ではない」

 紅薔薇姫の瞳は、自らを手にかけるため屈み込もうとする黒騎士を認め、そしてその唇は、呪いの言葉を呟くために綻ぶ。

「……私が負けるのならな」

 黒騎士は背後に膨らむ魔力の気配に思わず振り向いた。振り向きざまに、即座に立ち上がる。

 彫像の天使は、密かに主の近くまで這い寄っていたのだ。天使はもはや言葉の体を為していない唸りを上げた。それは右の額から後頭部を欠き、虚ろな中身を晒しながら、大口を開き、長い牙を見せて叫んだ。眼窩には瞳の代わりに闇がわだかまり、仄かに赤い火が灯っている。

 しかし、掴みかかろうとする天使に、黒騎士は機敏に的確に反応した。それが最後の一撃になることを図ったかのように、手中の長剣を振りかぶり、あたかも短槍でするように天使めがけて投げつけたのだ。

 長剣は天使の心臓の位置を正確に射貫いた。天使は割れ鐘のような声で叫びながら地に斃れた。

 その勝利の瞬間に、僅かに身動ぐ判断をしたのは、黒騎士が百戦を潜り抜けてきた証、戦場の駆け引きというものを熟知していた証なのだろう。

 黒騎士の腕に衝撃が走った。よろめくほどの勢いで彼の腕に刺さったそれは、ごく短い矢だった。それが、薄い皮の下鎧を貫き、騎士の二の腕に深々と埋もれている。

「……いつ使うかと思っていたが」

 黒騎士は薄く笑みながら姫を振り返った。

 姫の手中には、小さな巻き取り式の弩。膨らんだ礼服の裾が大きく翻っている。内に隠してあったのだ。

「的確な判断だ」

 前後二重に攻撃したこと、あるいは極め手を最後まで取っておいたことを讃えた騎士の微笑みは、しかし、姫にはその敗北を嘲う凄絶な笑みに見えた。心臓を狙っていたはずの矢を避けられ、姫は細剣を探して視線を彷徨わせる。

 矢を抜き、放って、姫の足もとに、再び黒騎士が佇んだ。

 初めて姫の目に恐れの色が差した。

「やっと」

 その色を味わいでもしたかのように、黒騎士がうっとりと微笑む。

 彼は右手だけで姫の首を捕らえ、そのまま身体ごと持ち上げた。細く華奢な首は、黒騎士の手の中で可憐な花のように手折れそうだ。

 黒騎士は右手に力を込める。姫は息を詰め、愛らしい口を開き、騎士の手首を両手で掴み、尖った靴先で黒騎士の腿を蹴った。

 黒騎士は楽しげに頬を緩めた。子供の頃に欲しかった玩具を、大人になってから手に入れたような笑み。

 姫が彼の玩具であるのは、姫が死にゆくからではない。この期に及んでなお、姫が騎士に屈しないからだ。

 黒騎士は、最期まで自らに屈しないものを初めて見た。誰でも力には屈するのである。彼ですらそうする。なぜなら騎士は、王に膝を屈することから教え込まれるからだ。卑賎であれば、生まれた時から力には屈するよう教えられる。

 だが紅薔薇姫はとうとう力に屈しなかった。どこまでも気高く、誰にも屈しない。明らかに脅威であるはずの私が、明らかに優勢であっても、屈しない。

「高貴とは、このようなことか」

 紅薔薇姫が昏倒した。同時に、背後で小さな光があがる。騎士が振り返ると、大天使が小さな彫像へと戻っていた。天使の胸に立っていた長剣が落ちて、がらんと音を立てる。

 黒騎士は紅薔薇姫を地に横たえた。胸に耳を当てると、心臓はちゃんと動いている。やがて細い呼吸も戻ってきた。黒騎士は、意識のない姫の耳元に口を近づけ、そっと囁いた。

「約束通り、私はあなたにもお仕え致す」

 立ち上がりざま、もう少し、この花を愛でていたいから、と黒騎士は付け加える。

 花少女(アルラウネ)は頭を垂れていた。その額に触れると、蔓草が彼女の胸の中へと巻き戻り、それを抱きかかえるようにしながら収縮して、彼女は透き通る琥珀へと戻った。

 花少女の彫像を懐に入れ、ついでに欠けた天使の彫像も拾って懐に入れる。その顔は彫像らしく、穏やかに微笑んでいた。

 そして再び姫の身体を抱きかかえる。左手が利かないので、右肩に担ぐ。やっと空いた右手で長剣を拾い、愛馬のもとへ戻るのだ。

 姫は救われてなお私の命を狙うだろうか、と黒騎士は思った。それも面白い。しかし、祖国を恨む姫の思いに寄り添うのも面白い。いつか反旗を翻し、二つ並んだ小さな玉座を狙うのであれば、もっと面白いだろう。



お読み頂いてありがとうございました。

この作品は私の同人誌『破滅少女小品集Ⅱ』に掲載されている小説の「お試し版」です。あと三種類、エンディングがあります。

本を手にとって頂き、全てのEDをコンプリートしていただければと思います。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  ドイツ語でしょうか。多めのルビが嫌味にならず、作品の雰囲気づくりにしっかりと一役買っていると思います。ルビ設定が失敗している箇所があるのが惜しいです。  歪んでますねー。目覚めた姫がドン…
感想一覧
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