第三話 【改稿版】
お金持ちの変態おじさんに拉致された女子高生がお城で監禁生活をする話、第三話です。 完結にあたって見直してみたらシリーズ前半部分をテコいれする必要を感じ、このたび大幅に加筆修正しました。この第三話は新エピソードと再構築したエピソードを加えました。
「令嬢のたしなみ、ですか?」
「そうだ」
グラスのペリエをすすり、得意げに頷く美濃部に私は目を丸くした。
「今日から僕のもとで屋敷暮らしがはじまるわけだが、夏姫も何もせずにいるのは手持ち無沙汰であろう。そこで君の内面の美しさをより輝かさせるための技芸に励んでみてはどうかと考えていたのだ」
美濃部はグラスを手にしたまま立ち上がると、バルコニーの手すりから外の景色を眺める。
山間から降り注ぐ白々とした光が、澄んだ空気にほんのりとした熱を差しかけている。これからが夏本番とはいえ、山の朝は思いのほか涼しい。
私はペールピンクのワンピースに重ね着したストールを結び直すふりをして、動揺を察されまいと身構えた。変態ストーカーが拉致した女の子に習わせようとする技芸なんて……きっとロクなものじゃないだろうから。
「それで、その技芸とはどのようなものですの?」
「ははは、いきなりこんな話を持ちかけられて不安だったかい? 君にふさわしい技芸を僕が直々に選び取ったものだから、何も案ずることはない」
いや、それこそが不安なのだが……。
「内容についてここで事細かに説明するのも無粋だろう。ひとまず一日二日励んでみてはどうかね。もちろん無理にとは言わん――」
いつの間にかテーブルの対面にまで移動してきた美濃部は、傍に座る私の両肩にそっと手を載せてくる。くんかくんか。耳の裏に近づけた鼻先を犬のようにひくつかせ、肌の匂いを楽しみながら。
「二人だけでずっと寄り添い、語り合っているだけでも僕は一向に構わない。いやむしろ――」
「いっ、いえ! せっかくお父様がご所望されたことですし! ぜひやらせていただきますわ!」
「うむ? そうかい」
どこか名残惜しそうに引き下がる美濃部。
気持ち悪すぎてもう無理……てか選択の余地ないでしょこれ。一日中一緒だとか嫌な予感しかしないんだけど。
「ならばそのように手配させよう。いやはや、これは楽しみ楽しみ――おおそうだ! いっそのこと毎月宴を開いて夏姫に常日ごろ励んだ技芸の成果を披露させるのはどうだろう!? うむ。うむうむうむ。実に好ましいアイデアに思える。おい、紺子! 紺子はいるか!?」
独り言のようにぶつぶつと呟いていた美濃部がふいに紺子さんを呼ぶと、
「――お呼びですか、耀司様」
お腹に手を当て浅く一礼した紺子さんがどこからともなく現れた。
「ひと月後に城内で宴を催すと皆に伝えろ。場所は一階ロビーがいいだろう。夏姫がここにやってきた記念日を毎月盛大に祝い、同時に彼女に仕込んだ技芸の発表会も兼ねるのだ」
「承知いたしました」
いかん……目の前で私の話が私不在で進められている。
「あの、お父様……ひとまず一日二日励んでからというお話は……?」
「技芸の出来ばえはひとえにお前次第なのだ。頼むぞ」
私の抗議の声も興奮した美濃部の耳には届いていない模様。てか私の技芸の出来が紺子さん次第って……もしや……。
不可解顔の私に美濃部はにいっと白い歯を見せて、ドヤ顔で告げた。
「すでに技芸の講師は紺子に一任してあるのだわはは」
「担当講師の巻紺子と申します。改めてよろしくお願いいたします。夏姫お嬢様」
またしてもあんたかいっ!
そして彼女はすれ違いざまに私の耳元にそっと囁く。
みっちりしごきますから覚悟してくださいね、と。
◆◇◆◇◆◇◆◇
――同日午後四時。
衣装室の姿見の前にはテニスウェア姿で苦笑いを浮かべる私と、
「お召し物がよくお似合いですよ、夏姫お嬢様」
私の髪をポニーテールに結わえながら賛辞を述べる紺子さんがいた。
結局のところ“令嬢のたしなみ”とやらは恐ろしいものではなかった。
少なくとも『変態ストーカー美濃部による』という枕詞から連想されるようなアレなものではなく、話し方や礼儀作法、ダンス、ピアノ、油絵、茶道、華道、テニスなど、いずれも世間一般のイメージからすれば実にステレオタイプなお嬢様の習い事ばかり。講師を務める紺子さんの教え方の上手さもあり、短期間でめきめきと上達していくのがわかる。とはいえ、何事にも限度というものはあって――
「初日からハードすぎやしませんかね……。すでにバテバテの身体を引きずって真夏の日中に運動とか……何の修行ですかこれ」
「おや、覚悟してくださいと申し上げたはずですが? ……ふむ、やはりひとつ結びより二つ結びの方が……」
私の髪をツインテールに結び直しつつ答える紺子さんはご機嫌だった。終始にこにこと微笑みを絶やさず、鼻歌交じりに服装や髪形の仕上がりをチェックしている。ともすれば無愛想にすら見える普段の彼女はどこへやら。まるで着せ替え人形に嬉々と戯れる少女のよう。ぐったりと憔悴しきった私とは対照的だ。
「朝から晩まで習い事でぎっしりってどんな英才教育ですか!? 休憩時間も移動と着替えにとられるし……ご飯はご飯であいつと会食だし……夜は夜で……うぅ、もう帰りたい……家に帰りたいよぉ」
隙間なく予定の書き込まれたスケジュール帳によれば、毎夜九時には帰部屋を義務づけられているようだ。その後は内側から開閉不能な扉によって地上三十メートルの個室に監禁され、屋敷内を散歩することすらできない。さらに寝室にはテレビやパソコンはおろか、雑誌の一冊もなく、依然として携帯端末も没収されたままだ。習い事で疲労し、食事で神経をすり減らし、挙げ句趣味や娯楽からも隔たれる。『お金持ち』『お嬢様』『豪邸生活』といったワードにつきまとう優雅なイメージからはほど遠いハード&ストイックな生活だった。
でもまあ、ありえない変態趣味を強要されたり、乱暴な仕打ちを受けることもなくホッとしている部分もある。まだ一日は終わっていないから油断はできないけれども、ああ見えて美濃部はあくまでも私を家族として扱うつもりなのだろうか。差し当たり、身の危険はないと判断してもいいのだろうか。
「少々よろしいですか、夏姫様」
私のお上品でないしゃべり方を聞き咎めた紺子さんは、ツインテールからお団子ヘアに結び直した髪から手を離し、早速苦言を呈す。
「耀司様のことは“あいつ”ではなく“お父様”とお呼びくださいませ。加えて、眉間に皺をお寄せになる、お声を張り上げになる、せかせかとした早口でまくしたてられるなどというのは、三流も三流。小市民の話され方です。先にも指導したように――」
「『気品あるたたずまいは美しい言葉遣いと美しい表情から生まれる』でしょ」
「ご名答。おわかりになっておられるなら、早速心がけてくださいませ」
「えー、いいじゃない。お父様のいるときは散々気を張っているんだから、紺子さんと二人でいるときくらいはリラックスさせてくださいよ」
「そういった気の緩みが禁物なのです。普段の心がけが特別な場でも出てしまうのですよ」
「えー、でも……」
「でももだってもありません、よろしいですか夏姫お嬢様、私が講師役を引き受けた以上は
――」
くどくど。
以下、小言が右から左へ抜けていく。
ううむ、厳しいな紺子さんは。人を食ったような言動に惑わされがちだけど、責任感が強いというか、根は真面目なのかなこの人。
小言の雨をひとしきり降らせて気が済んだのか、彼女は「それでは」と気持ちを切り替え、
「貴女を裏庭のテニスコートまでご案内いたします。まだ日没には早いとはいえ、日が陰ると途端に気温が低下するのがここの気候です。真夏の日中でも外で体を動かすには悪くない時刻でしょう。ただし日焼け対策だけは抜かりなきように」
そう言って、日焼け止めクリームを私の肌にぺたぺたとのばしはじめる紺子さん。
「あの、せっかくお外に出るのですから、少し前庭をお散歩しても……よろしくて?」
もちろんただの散歩ではない。ぐるりと庭をひと回りするついでに敷地内外をつなぐ庭門のセキュリティをチェックするのが目的だ。
「…………」
なぜか思案深げな顔でじっと私を見つめている紺子さん。
あれ? 何も言わない。ちょっと言い方が露骨すぎて怪訝に思われただろうか。
この身長差で彼女の寝ぼけ眼に凝視されるのは睨みつけられているようで結構怖いのだが……はてさて、どう取り繕ったものか。
私の懸念をよそに彼女は「ふむ」とひとつ頷くと、ふと何かに思い至ったように片眉を上げ、
「やはりお団子よりも三つ編みの方がお似合いの気がします。今からお直ししても――」
「いい加減にしろー!」
私の小市民的ツッコミが炸裂した。
彼女が私の髪型をいじるのはすでに十二回目だったからだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
紺子さんの重大発言は、屋敷の二階廊下から大階段を経由して一階ロビーに向かう最中だった。
「前庭をご覧になられたいのならちょうどよい頃合いです。この機会に夏姫様に知っていただきたいことがあるのです」
なんだ聞こえていたのか。そうならそうと返事くらいしてくれよ、という私の呑気な思いは彼女の次の一言で跡形もなく消え去ることになる。すなわち――
「貴女はこの城から自力で抜け出すことは不可能です」
振り返った彼女の顔はいつになく冷たく乾いて、そして真剣だった。
「今からその根拠についてご説明いたしますので、どうか無謀な企ては慎んでください。夏姫様ご自身のためにもお願いいたします」
唖然としている私に「ついてこい」と言わんばかりに半歩先を歩き出す紺子さん。
やれやれ、やはりこちらの思惑は読まれていたようだ。それも当然か。美濃部には隠せおおせても、私がここに留まっていることが本意ではないことくらい誰の目にも明らかだろうから。
大階段から一階ロビーに到着する。毛足の長い絨毯を踏みしめながら、高い天井の果ての天使たちを見上げる。ステンドグラス越しに差し込むいくつもの光の帯に、細かい塵が舞い散る羽のように輝いていた。静かだ。
やがて紺子さんはロビーの出入り口で立ち止まった。
巨大な門が目の前にそびえ立つ。高さ三、四メートルはあろうかという樫の扉が鉄の帯板で縦横に補強されている。分厚い金属錠のほか、壁にはかんぬきの横木を通す穴もある。
彼女は鉄の留め金をそっとひと撫でして、こちらに向き直る。
「ありえない仮定ですが、もしも夏姫様が私の監督下を逃れることができたとしましょう。この敷地内からの脱出を考えた際、まず貴女の向かう先は屋敷と庭とをつなぐ出入り口となります。真っ先に目につくのはこの表口の扉でしょう。こちらには二種類の錠前が取り付けられておりますが、日中の出入りのために鍵はかけられていないことが少なくありません。このように――」
彼女は鉄の取っ手を握ると、観音開きの扉を一気に押し開けた。
――ギギギギギギギギ
年代物の大扉にふさわしい重厚な音が辺りに響き渡る。ロビーが閑散としているせいもあるが、思いのほか大きな音に私は驚いた。ううむ、これでは。
「ここには都会のような騒音などほとんどありません。この屋敷には十数余名の従業員が勤務しておりますが、これだけ大きな開閉音があれば、屋敷内の誰かが必ずや聞きつけてしまうはずです。おまけに我々従業員の詰め所である事務室は表口から目と鼻の先です」
そう言って彼女は、表口から向かって左側の扉を指し示す。私の歩幅で十数歩と言ったところか。
「確かにこの距離なら事務室のなかにいても扉の音は丸聞こえですね……」
「目立つのを避けたい貴女は別のルートを模索するでしょう。幸い正規の出入り口はもうひとつあります。厨房の傍には食料や日用品などの搬入に使われる勝手口があり、こちらならば音を聞き咎められる危険性はぐっと低まります。ただし一階の奥まった場所にあることから移動中に従業員と遭遇するリスクは考慮せねばなりません。屋敷内には使われていない部屋も多々あります。現在地によってはいっそ窓から庭に抜ける非正規の出入り口の方がより安全性が高い場合もあるでしょう。さて、ここでもうひとつ――」
紺子さんは開け放たれた門扉の向こうを手で示し、すたすたと外へ踏み出していく。彼女に従って表口を抜ける私の眼前に数百平米はあろうかという広大な庭が広がる。にわかに暖色味を帯びた光に照らされて、青々とした芝生と、手入れの行き届いた花壇や庭木、その間を抜けるように伸びる石畳の路が遥か彼方の庭門まで続いている。
「夏姫様がもろもろの障害を突破して無事屋敷から庭に抜けられたと仮定いたしましょう。次に貴女が向かう先は庭と敷地外とをつなぐただひとつの出入り口である庭門です。あちらを抜けることさえできれば、もはやそこは敷地の外です。バルコニーからご覧になられたように、舗装された山道を下っていけば人家のある麓にまで辿りつけるはずです。さて、実際に庭門まで歩いてみましょうか。お足もとの段差にはご注意くださいませ」
うーん、よくわからない展開になってきたぞ。なんだか私には看守が囚人に正しい脱獄の仕方を指導しているようにしか見えないのだが……。彼女は美濃部側の人間だと思っていたけれど、ひょっとして違うのか? でもそれにしては、さっき私が逃げられない根拠について説明するとか言っていた。いったい紺子さんはどんな意図があって私にこんなことをするのだろう。
あれこれ思いを巡らせながら表口の段差を下って石畳を踏みしめる。
ぐるりと敷地の外周を取り囲むのはヨーロッパの輪状要塞を思わせる高い石塀だ。庭門はその中央付近、屋敷の表口からほぼ水平方向の位置に大小ひとつずつあった。
「こちらから庭門までは石畳の路を経由した直線距離でおよそ百メートルといったところでしょうか。走れば十数秒ほどで辿りつくはずです。もっとも日中は庭師の勤務時間内ですから、移動の際には慎重を期す必要こそありますが」
半歩先を歩く紺子さんは庭木の手入れをしている中年男性に目礼して通り過ぎる。私もつられて頭を下げる。
やがて路はちょっとした広間に差しかかる。十字に枝分かれした石畳の中央には、花壇に囲まれた女神像の噴水が設えられている。
「屋敷の表口と庭門を線で結ぶとここがほぼ中間地点にあたります。件のテニスコートのある裏庭は左の路ですが……まずは庭門をご覧ください。ちょうどいい頃合いで車両がやってきたようです」
確かに車の走行音が塀の向こうから接近してくるのがわかる。庭門付近まで近づくとエンジン音がアイドリングに切り替わり、車のドアの開く音。ややしてから二つある扉のうちの大きい方――金属の鎧戸がズルズルと上がり、小型トラックが鼻先を覗かせる。車はそのまま庭門を通り抜けて、石畳の路を横切っていった。
「ご覧になられた通り、大小ひとつずつある庭門のうち、大扉は車両の通行に、小扉は住人および従業員の通行に使われております。いずれも電子錠システムにて常時施錠されておりますゆえ、通行の際には事務室の送信機で遠隔開錠するか、対応するカードキーが不可欠となります」
紺子さんは懐から金属製のカードを覗かせる。
「このようにカードキーは私どもが常に管理しておりますし、送信機についても設置場所である事務室は従業員の詰め所ですから、常に誰かの監視下にあることになります。つまるところ、夏姫様がご自分で庭門をお開けになることはできない、ということです」
紺子さんの説明を整理すると、万が一、屋敷から庭に抜けることができたとしても、庭門を開く手段を持たない私は、敷地内で立ち往生してしまうということか。でも他に可能性はありえないのだろうか? さっき紺子さんは庭門のことを『庭と敷地外とをつなぐただひとつの出入り口』と言っていた。それが真実だとしても、屋敷内の窓から庭に抜けるように、非正規の出入り口を経て敷地外に抜けるルートは考えられなくはないか。例えば――
「庭を囲む塀を飛び越えるおつもりでしたら、お辞めになられた方が賢明です。脚立でも用意しなければ越えられない高さですし、塀の上にはあのように監視カメラとビームセンサーの警報機まで設置されております。脱出ルートとしては論外でしょう」
視線を目ざとく察知した紺子さんによって、その案はあっさり却下される。
「後ほど裏庭をご覧になればおわかりになられるでしょうが、敷地内外は塀によって完全に隔たれております。塀を飛び越えることが現実的ではない以上、敷地外に抜けるルートは庭門以外にはなく、その庭門を開錠する手段は私どもの管理下にあります。はてさて、夏姫様はどのようにしてこの難所を切り抜けたらよいのでしょうか?」
だしぬけに問いかけてくる。
まるでつまらないクイズでも出題するような語り口に、すぐに答えを出せるものと錯覚してしまいそうになるが、実際には切り抜ける方法などないのではと思ってしまう。
気づかれないように事務室の送信機を押せるとも、従業員からカードキーを奪えるとも思えない。よしんばそれが叶ったとしても庭門を抜ける私の姿は監視カメラで筒抜けだ。勝算はかぎりなく低い。
いや、まてよ――
「あの、事務室の扉に錠は付けられていますか?」
「いえ、付けられておりません。錠付きの扉は庭に接する表口、勝手口、中庭と、他には寝室、書斎くらいのものです」
「だったら――」
夜間ならばどうだろう。
屋敷の住人が各々の寝室で寝静まっている深夜なら事務室に忍びこむことはできそうだ。庭門を開錠する送信機を押すことも可能だろうし、騒音の関係で屋敷の表口は使えないにしても、勝手口もしくは窓から抜け出すことは容易だろう。
しかし私の思考を先読みした紺子さんが発するのは、呆れたようなため息だった。
「もしや監視のいない夜間に行動を起こすおつもりですか? 夏姫様は重要なことをお忘れになっておられるようですが」
と、屋敷を示す。指の先には東西に屹立する尖塔。美濃部と私の寝室。
って、あっ――
「やれやれ、ようやくお気づきになられましたか?」
「寝室から――出られない」
そうだ、皆の就寝時間より一足早い午後九時には、私は東の尖塔の最上階にある寝室に連れ戻され、内側から開錠できない扉によって監禁状態にされてしまうのだった。この大前提をあっさり失念してしまうとは……我ながらなんて呑気だったのだろう。
落ち込む私に噛んで含めるような紺子さんの言葉が追い打ちをかける。
「よろしいですか、夏姫様。尖塔は高さ十メートル。真下にある中庭までの距離は一階と二階の天井の高さを足して、およそ三十メートル。この平均的八階建てマンションほどの高さの、かぎりなく九十度に近い絶壁を降りることができるのは、しかるべき装備を整えたクライマーくらいのものでしょう。屋敷内をお歩きになるためには、外側から寝室の扉が開錠されるのを待つほかないのです。その時点で貴女は私の監督下に置かれるわけですが」
「でもっ! 梯子やロープを持ち込めれば、もしかしたら――」
私の苦し紛れの仮定に紺子さんは首を振る。
「梯子やロープ程度ならば用具庫や納屋を探れば手に入るかもしれませんが、中庭まで届くほどの長さのものはかさばりすぎるため、誰にも見咎められずに寝室まで持ちこむなど現実的ではありません。さらにもうひとつ大事なことをお忘れになっておられるようですが、昨夜ゲッカビジンをご覧に中庭に出られた際、出入り口で私がしたことを覚えておいででしょうか」
紺子さんがしたこと……ええと、確か出入り口には建てつけの悪い扉があって……彼女の懐から取り出した鍵束で……。
「――あっ! 外から、開けない?」
「はい。中庭と屋敷内とをつなぐ扉は内側から施錠されているため、たとえ中庭に降りることができたとしても結局手詰まりとなってしまうのです。とどのつまり――」
「貴女はこの城から自力で抜け出すことは不可能です」
結局、振出しに戻るわけだ。