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第二話 【改稿版】

お金持ちの変態おじさんに拉致された女子高生がお城で監禁生活をする話、第二話です。完結にあたって見直してみたらシリーズ前半部分をテコいれする必要を感じ、このたび大幅に加筆修正しました。この第二話は終盤の回想部分をかなり手直ししました。



「おお、なんという可憐さ――美しさだろう。さながら愛と美の女神が地上に降り立ち、あたりに花が咲き乱れるかのようだ」

 めかしこまれた私の姿を目にした美濃部は開口一番、歯の浮くような言葉を並べ立てた。

「やはり君には黒髪の方がよく似合う。洋服もとても素敵だよ」

「お褒めいただきありがとう存じます」

 淑女になったつもりで、にこり。意識して口角を上げないと顔が引きつってしまいそう。

 今私が身に着けているのはホワイトとサーモンピンクを基調とした花柄レース使いのワンピース。重ねられたシフォンと腰にあしらわれたシルクのリボンがアクセントになっている。ガーリーだが可愛らしすぎない、清楚で透明感のある装いはお嬢様然としていて確かに素敵だと思う。とはいえ普段は動きやすいパンツスタイル中心の私としてはどこかこそばゆさを感じてしまうのもまた事実だけれども。

「さあ、こちらにお座り。食事にしよう」

 仕立ての良さそうなシャツに千鳥格子のベストというクラシカルな出で立ちの美濃部が私に椅子を勧める。

 ――午後六時。二階バルコニーにて。

 あれからゴージャスな薔薇風呂に入浴させられたのを皮切りに、自称執事の紺子さんの手によって全身をくまなく弄り倒された。先日、美容院でベージュブラウンに染めたばかりの髪はあっけなく地色に戻され、エステやらトリートメントやらネイルケアやらで肌から髪から指の先から全身つやつやのピカピカに磨き上げられ、その後は衣装室で高価な洋服を着せ替え人形よろしくたんまりと試着させられ、今に至るのだった。その甲斐あって今の私はこれまでの人生のなかでもっとも華やいでいるに相違ない――少女漫画だったら花を背負って登場するシーンだ――し、お姫様のような待遇に普段の私ならば大感激するところだけれど、それを用意したのも披露する相手もこの変態ストーカーおやじでは……やはり素直に喜べなかった。

「ほら、君の望みどおり庭の見渡せる食卓だぞ」

「わあ……!」

 私はわざとらしくならないように感嘆の声を漏らし、バルコニーの手すりに歩み寄る。二階とはいえ建物自体が大きいため見晴らしは良好だった。視界を遮るものは何もなく、見渡すかぎりの自然が広がっている。ひんやりと澄んだ外気にもしやと思った通り、やはりずいぶんと高所にあるお屋敷のようだ。丘陵地を四角く切り取った広々とした敷地は庭師の手入れがなされているのか石畳の路に沿って整然と樹木や花壇の配置された立派なものだったけれど、夕暮れに朱く稜線を照らされてそびえ立つ山々の存在感の前では霞んでしまう。麓の方にはところどころ人家の群れも見える。

「気に入ってもらえたようで嬉しいよ。午前中なら満開になったムクゲの生垣が楽しめるのだが……」

「でもそちらの壁から手すりに巻き付いているお花もとてもお綺麗ですわ」

「ノウゼンカズラの花だよ。夏から秋にかけて咲くつる性の落葉樹で、子規の俳句にも登場する。ここにいれば四季折々の草花たちが毎日楽しめるよ。秋はコスモス、冬はアセビ、春にはサクラ」

「まあ、素敵ですわね」

「もっとも目の前に咲いている一際可憐な花の前では造花も同然だが」

「いやだわ美濃部さま。そのような仰られ方、花たちに失礼ではなくって」

「ふはははははは」

「おほほほほほほ」

『ですわ』って誰だよお前は……。いっぱいいっぱいになるとつい演出過剰になる自分の演技力のなさには呆れてしまうが、美濃部は終始上機嫌だし、これで正解なのかなと納得していたら、

「失礼します。お食事をお持ちいたしました」

 ――トレイに料理皿を載せて現れた紺子さんが笑いを噛み殺していた。テーブルに料理を並べるときにちらりと私を横目で見た途端、また笑いの波が押し寄せてきたのか口内に巻き込んだ唇をもにゃもにゃと動かしながら肩を震わせている。なんだろう……このいたたまれなさは。

「自家燻製の海の幸サラダでございます」

 フラワーモチーフのお皿にはソースの和えられた魚介や野菜が色とりどりに盛り付けられ、いやがおうにも食欲をそそる。正直なお腹がきゅるきゅると主張して思わず顔が火照ってしまったけれど、成長期の女子が朝から何も食べていなければ当然だろう。

「それでは二人の幸福な門出を祝って――乾杯」

「……かんぱい」

 まるで結婚式の祝辞のような乾杯の音頭に合わせて、葡萄ジュースの注がれた私のグラスと美濃部のワイングラスがチンと高い音を立てる。

 ジュースは市販のものとは種類の異なる甘酸っぱくふくよかな味がした。ホタテを口に運んでみるとまたしても未知の香ばしさが口じゅうに広がる。あまりこうした上等な料理は食べたことがないため味を表現する語彙に乏しいのが難だが、ソースも含めて鮮度の高い素材を使いひとつひとつ丁寧に手作りした様子が覗えた。私が演技することも忘れ夢中でサラダを攻略していると、美濃部が感慨深げに口を開いた。

「いやはや、こうして君と食卓をともにできるなんて夢のようだ。思えばはじめて君に出会った三年前、僕は人生のどん底だった。自ら命を絶とうとすら考えた。僕は運命も神も信じないが、このときばかりは私たちを引き合せた見えない引力に感謝したよ」

「あの、失礼を承知で申し述べるのですが、その美濃部様との馴れ初めを私は覚えておりませんの。私とはいったいどちらでお会いになられたのでしょうか」

 この話題に触れるときはドキドキしたが、美濃部は特に気分を害した風もなく、むしろ遠い想い出の世界に浸るような眼差しになる。

「駅前で君が歩いているところを見かけたんだ。そう、今のように白いワンピースを着て、肩まである黒い髪をなびかせながら、颯爽と歩いていた。美しかった。可憐すぎた。瑞々しさと、にじみ出る気高さに言葉をなくした。灰色の景色のなかで、顔のない群衆のなかで、君だけが光り輝く世界に生きているようだった。それまでは誰にでもすべからく無慈悲な世界だと思い込んでいたけれど、そうじゃなかった。世界は君を中心に回っていたのだ。それから君の姿を追うことが、僕の生きる指針になった。ときにはちょっとばかり無茶な追跡もしてしまったが」

 ……無茶な追跡って何をしたんですかあなたは。

 私のもの問いたげな視線を察知したのか、美濃部はきまり悪そうに白い歯を見せる。

「いや、ちょっとした身辺調査も兼ねて留守中お部屋にお邪魔させてもらってね」

 ……立派な犯罪じゃないですか!

「もちろん何も持ち出していないし、調査後はすべて元通りにしたから心配ない」

 何を調査したのかはもはや聞きたくなかった。

 話が一段落したのを見計らって、紺子さんがスープ料理を運んできた。綺麗な薄緑色のお汁はそら豆の冷製スープだそうだ。

「はぁ……最初に私を見かけられたときにお話ししてくださればよかったのに」

 だって実物の私は彼の印象ほど大層な人物じゃないんだ。全然優しくないし、正しくもない。もう今更だけれど、早い段階で彼が私に幻滅してくれれば拉致されるような事態にはならなかったのかもしれないのにとは思う。

「情けない話だが、君があまりに神々しくて……。畏れ多さからただ見ていることしかできなかったのだよ」

「ではなぜ今になって……」

「転機があったのだ」

 これまで穏やかだった美濃部の顔に一瞬、苦悩の影が差した。彼はグラスワインを飲み干すと、しばしの逡巡の後、低い声で呻くように言った。

「君のお母上の問題だ」

 ――予期しない言葉に心臓が大きく脈打った。

「そうした見ているだけの日々が二年ほど続いたある日、君のご両親が離婚したという話が舞い込んできた。経緯については君も知っての通りだ。円満な別れ方からはほど遠い、険悪きわまるものだったことは想像に難くない」

 私は美濃部の視線から逃れるように目をそらす。何も聞きたくないし、訊かれたくない話だった。

「さようでございますか……ご存じだったのですね」

「ざっとしたあらましはな。当事者たちの心中までは僕の与り知らないことだ。だが想像することならできる。君はご両親の離婚の事実よりも、離婚後まるで人の変わってしまったお母上の方を重荷に感じているのではないか。ここ最近の君はあまりに痛々しくて、正直見るに忍びなかったよ」

「お気遣い大変ありがたく存じます。ですが美濃部さまの仰られるような深刻な事実はありませんわ。母は離婚のショックから立ち直りつつありますし、私たちはこれまで通り上手くやれておりますもの」

「なぜ、嘘をつくんだい?」

「――え?」

 笑顔のまま硬直する私に美濃部は矢継ぎ早に問いかけてくる。

「なぜさっきから僕の目を見ようとしない?」

「まさか……たまたまですわ」

「ならば本当にお母上に含むものなどないと、母娘の確執など存在しないと、目を逸らさずにちゃんと言ってごらん?」

「わ、わたくしは……母にはこれっぽっちも……含むものなんて……」   

「ではなぜ、適当な理由をでっち上げて休日に家を空けようとするのかね。時折辛そうな顔で物思いに耽っているのはどうして?」

「そ、それは……」

 俯いたまま何も言い返せなかった。

 美濃部は重たい空気を吐き出すように長く息をついた。

「僕は少しばかり自己中心的な人間かもしれない。他人の気持ちに鈍感すぎると紺子にもよく小言を吐かれるよ。でもね、この三年間、僕はずっとずっと君だけを見てきたんだ。いくら鈍い僕でもそのくらいの察しはつくさ」

 私は美濃部と目を合わせるのが恐ろしくて、我知らず唇を噛み締めていた。その眼差しに込められているかもしれない憐憫の情を知ってしまったら、これまで騙し騙し繕ってきた自分が崩れてしまいそうだったから。私は断じて可哀想なんかじゃないのだ、そう思いたかった。

「僕ははじめて君と出会ったときに誓ったんだ。何を失おうとも、誰を敵にまわそうとも、絶対に君を守ってみせるとね。ここ一年、苦悩に苛まれ無垢な輝きをすり減らしていく君を見て、今こそその誓いを実践に移すときだと確信した。だから改めて宣言しよう――」

 美濃部は卓上に重ねられた私の手にさっと自分の手を添える。

「夏姫、君を娘として迎えたい。僕なら君を幸せにすることができる。わが資産と権力のすべて、そしてこの堅固な城塞でもって、世間のありとあらゆるしがらみや悪意から、生涯をかけて君を守り通すと約束しよう」

「美濃部さま……でも……わたくし……母が……帰らないと……」

「そんな他人行儀な呼び方はやめにしよう。父と――いや、お父様と呼んでごらん」

 もはや心理的劣勢から頭のなかはぐちゃぐちゃで目が回りそうだった。美濃部はしどろもどろになったこちら答えに覆い被せるように畳みかけてくる。その迫力に気圧された私は、

「オ……ト……ウ……サマ?」

「お父様」

「お、と、う、さま?」

「お父様」

「おとうさま?」

 ついおうむ返しに口を滑らせてしまったのだ。

 たどたどしく「ウォーター」と発音するヘレンとサリバン先生のようなやり取りの末の悲劇であった……。

 その途端、鬼の首を取ったように吠え立てる美濃部。

「そう、お父様! お父様だ! よくぞ言った夏姫! よいそれでよいのだわははははは!」

 すっかり冷めてしまったテーブルの料理をよそに、やっかいな既成事実(?)が出来上がった瞬間だった。

  


 ◆◇◆◇◆◇◆◇


 

「おやおや、本当に口を滑らせてしまうとは」

「うぅぅ……面目ない」

 会食を終えた私は紺子さんに連れられて二階廊下を歩いていた。

 気分はさいあく。当初は美濃部好みの私を装って機嫌を取りつつ、あわよくば一時帰宅の許可を、それが叶わなければ自宅連絡への同意を取りつける目論見だったのだけれど、そんな微妙な提案を口にできる雰囲気ではなくなってしまった。辛うじて庭の間取りや出入り口となる庭門の位置は確認できたものの、敷地内での自由行動は厳しく制限され、移動中はこうして同行する紺子さんが監視の目を光らせている有様。とてもじゃないが逃げる隙などない。先ほど屋敷の執事と思しき中年男性ともすれ違ったが、彼は私の姿を認めても目礼して通り過ぎるだけだった。おそらく紺子さん同様、従業員一同の間では私の一件は周知の事実なのだろう。

 しょげている私に紺子さんはさらに追いうちをかける。

「あれでは彼の申し出に喜んで尻尾を振ったも同然です。我が主の思い込みの強さは折り紙つきですから」

「なんとか誤解を解く方法はありませんかね?」

「無理です」

 と、彼女はにべもない。

「一度正式なご息女として認識された以上、その関係を解消することなど考えない方がよろしいかと存じます。そんなことをすれば御身のご安全の保障はお約束しかねますゆえ」

「……はぁ、これからもお父様と呼び続けなければいけないのか」

「それよりは今晩のご心配をされた方がよいと思いますがね」

「まだ何かあるんですか」

「初夜ですから」

「はっ?」

 話の流れからして宵の口のことではなさそうだ。まさかとは思うけれど……

「夏姫様を耀司様のご寝室にお連れいたしますから、お二人でよろしくやっていただくことになります」

「え? ――ええええええええっ!?」

 そのまさかだった。仰天する私に紺子さんは不可解そうな顔を向ける。

「何を驚いているのですか」

「だ、だだだだって父娘なんでしょう!? そんなのおかしいですよっ!」

「え? 仲の良い父娘だったらセッ●スのひとつやふたつはするでしょう」

 はてなと小首を傾げてとんでもないことを口にする紺子さん。

「しませんって! どこの世界の常識ですか!?」

「我が主の蔵書は父娘の性愛についての物語であふれておりますが」

「うわあああああやっぱりあの人ガチの変態だよ!」

「ご心配なさらずとも大丈夫ですよ。避妊具は一通り揃っておりますので心置きなくお貞操を奪われてくださいね」

「私が貞操を奪われる前提で話を進めないでください!」

 だめだ……この人。私が変態おやじのいけにえに捧げられようとしているのに、なんだかすごくウキウキしている! 執事なのに全然頼りにならないってどういうこと!? あ、彼女も美濃部サイドの人間だった……。でもどことなく美濃部の計画には乗り気じゃない感じだったのに、あれは私の思い違いだったのか。

 はたから見て私があまりに悲愴な顔でもしていたのだろうか、紺子さんは励ますようにぽんっとこちらの両肩に手を載せた。

「嘘ですよ。耀司様からはそのようなご指示は受けておりません」

「……へ?」

「貴女が実にからかい甲斐のある反応をするもので、つい調子に乗ってしまいました。申し訳ありません」

「あああっ――もうっ! あなたって人は!」

 なんて意地が悪いのだ。黙っていれば男装の麗人そのものなのに!

「お詫びによいものをお見せしましょう。ご案内いたしますのでどうぞこちらへ」

「もう……今度はなんですか」

 私の前を歩く紺子さんは大段差を下って一階に到着すると、階段裏の先にある通路をさらに奥へと進み、ひとつの扉の前で立ち止まった。

 城内の扉のなかではいくぶん大きめの、草花のレリーフの刻まれた両開きの鉄の扉がぼんやりとした照明を受けて佇んでいる。

 振り返った彼女は囁くように「ここです」と告げた。

「現在八時十五分ですから、まだ少し早いかもしれませんが」

 彼女は懐から取り出した鍵束のうちのひとつで扉を開錠すると、力を込めるように取っ手を握りしめて少しずつ扉を開いていく。

「建て付けが悪くなっているため、開閉には少々骨が折れるのです」

 ギシギシと硬い摩擦音を立てながら人ひとりが通り抜けられる広さまで半開きにすると、夜の冷たい外気に混じって、ふんわりとした甘い香りが鼻孔をくすぐった。

 ――そこは中庭だった。

 白銀の光を浴びて、花壇に白い花が咲き乱れている。

 夜空に向かって伸びた直径二十メートルほどの筒状空間に月の光が注ぎ込んでいるのだ。その幻想的な光景に私は息をするのも忘れて見入ってしまう。

 開花した花こそまばらであるものの、ギザギザのがく片に縁どられた純白の花冠は私の顔ほども大きく、そこかしこに蕾もつけている。それは植物というよりは、柔らかく透き通った乳白色をした脱皮後の昆虫の外皮を連想させた。目にしみるほどの強い芳香に、鼻を近づけた私は少しだけ顔をしかめる。

「ゲッカビジンといいまして、夜から翌朝にかけて一晩かぎりの花をつけるサボテン科の常緑多肉植物です。蕾の数が多いので今は交替で咲いておりますが、生育状況が良くても年二回ほどしか咲かない珍しい花です」

 と紺子さんは解説をしながら、私の首から肩にかけて厚手のストールを巻きつけてくれる。私はありがとうとお礼を言って、

「名前は聞いたことがあるけど、実物を見るのははじめてだよ。すごい……ほんとに月の下で咲くんだ」

「実際は新月の日にしか咲かないというわけではないのですがね。まだ七分咲きといったところですから、満開になるのはこれからですよ。その証拠に――」

 紺子さんは花弁に近づけた自分の耳にそっと手を当て、内緒話をするような囁きを漏らす。

「こうして耳を澄ませてみてください」

 私も彼女にならって手を当てた耳を花弁に近づけてみるものの、特に異変は感じられない。辺りの虫の声がわずかに聞こえてくる程度だった。私は目をつむり音に意識を集中する。しばらくすると――


 さらさら さらさら。


 微かに。何かがこすれ合うような音が聞こえてくる。

 一度音を拾いあげるコツを掴んでしまうと、今度はその不規則なリズムに耳がいくようになる。衣擦れのような柔らかい音を発していたかと思えば、時折床鳴りにも似た鈍い軋みが割り込んでくる。さながら昔課外授業で観た能の静寂に身を浸しているかのようだった。ゲッカビジンの香気に包まれて、まぶたの裏に一面の雪景色のなか扇子の舞いを踊る和服女性の姿が浮かび上がる。

「花びらが開こうとするとき、微かに音が漏れるのです。私は花そのものを愛でるときよりも、こうして目を閉じ、耳を澄ませ、開いていく花の姿を思い浮かべているときの方が好きです。目を開けばすべてが白日の下に晒されてしまう。目の前の花はもしかしたら醜い枯れ花かもしれない。病に侵され、虫に喰らい尽くされた無残な姿かもしれない。けれど目を開けないかぎり、私の頭のなかの花の像は永遠に美しいままなのです」

「なんだか儚いですね……」

 紺子さんは微笑んだ。いつもの噛み殺すような笑みではなく、まるで物語のなかの男装の麗人そのもののように。

「ゲッカビジンの花言葉は『儚い美』『儚い恋』ですから」

 気づけばすでに花は満開になっていた。

 現実のゲッカビジンは枯れていたり病気や害虫による被害はなく、月光のなかで密やかに舞い踊っているように見えた。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 ――夜九時。

 美濃部により定められた帰部屋時間が近づき、紺子さんに私の寝室へと案内された。

 長いらせん階段の果てに辿りついたのは、ゴシック風の家具や調度品に彩られたスイートルームのような部屋だった。

 にわかに心を躍らせたのも束の間、閉じられたオートロックの扉が、あの地下の一室と同じく内側からは開けない構造であることに気づいて意気消沈する。室内には空調設備のほか、バスやトイレも完備されているし、壁には緊急連絡用の内線電話も備え付けられていることから生活の不便はないのだろうけれど、体のいい独房というのが実際のところだと思う。

 場所はなんと例の中庭の真上だった。このお屋敷は一階中庭を挟みこむような形で二本の尖塔が屹立しており、らせん階段に連なる最上階がそれぞれ私と美濃部の寝室に充てられていた。この尖塔は美濃部が私を迎え入れる上で増築したものらしく、高さや幅も含めてほぼ左右対称の構造になっているため、バルコニーからは二十メートル先の互いの部屋が丸見えだった(カーテンは備え付けられているものの、やはり気持ちが悪い)。なお東側が私、西側が美濃部の塔となっている。

 私は疲れた体をベッドに投げ出すと、うつ伏せのまま今日一日を振り返る。

 朝早く突然車に押し込まれて、地下室で美濃部と対面して、逃げ出したら紺子さんに捕まって、淑女みたいに話すと美濃部が落ち着いて、頭のてっぺんからつま先まで全身を弄りまわされて、バルコニーで美濃部と会食して、おとうさまと呼んでしまって、中庭でゲッカビジンを見せられて……。

 ざっと思い返してもおそろしく密度の濃い一日だった。これが本当に半日足らずのうちに起こったことなのだろうかと、愕然としてしまう。今朝自宅を逃げるように飛び出したのが遠い過去の出来事のようだ。

 友達は私と連絡が取れなくなって心配しているだろうか。これまで門限破りや、無断外泊なんてしたことがなかったから、もう捜索願も出されているかもしれない。ただでさえ余裕のないお母さんにもまたしても迷惑をかけてしまったことになる。私の胸がぎゅっと痛む。


 ――なぜ、嘘をつくんだい? 


 美濃部の問いかけがまだ鼓膜に残っている。


 ――君はご両親の離婚の事実よりも、離婚後まるで人の変わってしまったお母上の方を重荷に感じているのではないか。


 ずっと見ないふりをしてきたけれど、彼の見立ては正しいのかもしれない。

 私は私の両親が夫婦ではなくなった経緯と、それからの辛い日々ことを想う。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



 一年前のその日――突然うちの家族は崩壊した。

 いや、正確には崩壊の兆しはすでにはじまっていたのだろう。雨漏りの水が少しずつバケツに溜まりゆくように。けれど同じ環境にいつづけることが当たり前になってしまえば、微細に移ろいゆく日々の変化には鈍感になりやすいものだ。徐々に水の温度を上げていけばカエルだって逃げ遅れてしまう。それほどまでに私たちの家族は上手くいっているように見えた。少なくとも私とお母さんにとっては寝耳に水だったのだ。まさかお父さんが離婚届とともに、女の人と連れ立って家を出ていってしまうなんて。その女の人は私もよく知っている、お母さんの長年の親友だったなんて。あの日のことで浮かんでくるのはいつも同じ画ばかりだ。見たこともないような神妙な顔でいるお父さんと、涙をにじませ怒り狂うお母さんと、そして言葉をなくして突っ立っている木偶の坊のような私による、ある種の地獄絵図。今にして思えば家族想いに見えたお父さんの立ち振る舞いも、私たちへの罪の意識がそうさせていたのかもしれないとすら思う。

 私が一時のショック状態から立ち直るのはわりあい早かった。もちろん両親の離婚はとてもとても悲しいことだけれど、ただ悲しいこととして処理することならできた。私たちを捨てたお父さんにはいくらでも昏い感情をぶつけることができる。怒りを、理不尽な思いを、裏切られた悔しさを、思いのかぎりに叩きつければよかった。

 でも――お母さんの問題はそんな単純なものではなかったのだ。

 最愛の人と、無二の親友に一度に裏切られ、変わってしまったお母さん。ひとりでお酒を飲む時間が長くなったお母さん。些細なことで私にきつく当たるようになったお母さん。お母さん、お母さん、私、テストで学年上位に名前が載ったんだよ。お父さんよりも美味しくご飯が作れるようになったんだよ。洗濯も掃除も家のことなら何でもきちんとこなせる。お母さんの事務仕事だって手伝ってあげられる。だからお母さん、元気出して。またいつものお母さんに戻ってよ。一番幸せだった頃の、お父さんがいた頃の、活動的で底抜けに明るくて、ちょっと男前すぎてまわりを驚かせることもあるけれど、素敵な素敵な私のお母さんに。だって――


「今のお母さんはお母さんらしくないよ」


 ――あたしらしいって何よ? 今のあたしはあたしじゃないとでも言うの?


 アルコールで濁ったお母さんの目。


 ――結局あんたはあたしが元の鞘に収まることで自分が安心したいだけじゃないの。


 そんなことない。


 ――そうやって善意と引き換えに手前勝手なあたしらしさを押しつけているだけじゃないの。


 そんなことないってば。


 ――ねえ夏姫、あんたにまで追い詰められたらあたしはどこへ行けばいいの?


 私は唇を噛み締める。

 薄々、感づいてはいたのだ。結局、私はお母さんのことを何も知らなかったということに。私がお母さんだと思っていた女の人は、私やお父さんやお母さんの親友やその他たくさんの――本当にたくさんの人で出来ていたのだ。大切な人を失ったお母さんがもとのお母さんとは違ってしまったからといって、それは彼女を構成する大きな部品が二つも欠けてしまったのだから致し方のないことだ。何も知らない愚かな私は、それを受け入れることができなかった。いつもの笑顔で無邪気なふりを装って、もういなくなってしまった昔のお母さんを執拗に求めることで、今の彼女のありのままを否定してしまったのだろう。美濃部のなかの光り輝く世界に生きる少女のように、まぶたの裏の永遠のゲッカビジンのように、目を開けば水泡と化してしまうかもしれない儚い夢で、知らず知らずのうちに現実の彼女を傷つけていたのだろう。

 今私は、その報いを受けているのだろうか。


 変態ストーカーに監禁された私がとても危機的な状況にあるのは確かだ。彼の機嫌をとれているうちはいいけれど、いつ何時、理不尽な暴力を浴びせられるかわからない。なによりもまず身の安全の確保を優先させなければならないはず。けれどこんなときでも頭に浮かんでくるのは、お母さんのことだった。暗い部屋で肩を落としているお母さんの後姿だった。

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