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最終話 【改稿版】

お金持ちの変態おじさんに拉致された女子高生がお城で監禁生活をする話、最終話です。完結にあたって見直してみたらシリーズ前半部分をテコいれする必要を感じ、このたび大幅に加筆修正しました。この最終話にかぎってはひとつ繰り上がる形での再投稿となります。



 目当ての事務室は一階ロビーの正門から向かって左端にある。

 屋敷の従業員の詰所となっているその小部屋は主に書類事務の他、食事や休憩、来客時の対応に使われるなどしている。

 敷地内外のセキュリティ設備の状況をリアルタイムで管理しているのもこの事務室である。各所に設置された監視カメラの映像も画面分割された大型モニターで確認することができ、庭門前のインターホンが鳴れば来訪者の映像を見ながら音声のやり取りができる仕組みだ。当然、庭門の電子ロックを開錠させる送信機はこちらに常設させるのが業務上好都合ということになる。

 私は一階廊下の柱の陰からロビーに人がいないことを確かめると、事務室までの距離を小走りに駆け抜ける。よほど床を踏み鳴らすような走り方でもしないかぎり、裸足の足音は密やかだ。

 事務室前まで辿りつくと、扉に耳を当てる。うん、室内から物音は聞こえないし、扉の隙間から灯りが漏れていることもない。この時間帯だから当然なのだが、警戒するに越したことはないだろう。これを失敗したら次はないのだから。

 私はドアノブを掴み、極力音をたてないように注意しながら僅かに扉を開ける。肩から身を潜らせるように室内に侵入すると、照明のスイッチには手をつけず、大型モニター脇まで駆け寄る。

 ――あった。

 送信機の場所は先日従業員への挨拶に訪れたときすでに確認済みだ。

 金属板にはめ込まれた幾つかのボタンのうち、鍵の絵文字のあしらわれた『庭門一』と『庭門二』を探しあてる。

『庭門』という記載が他のボタンにはないことから、このどちらかが車両通行用の大扉で、もう一方が住人および従業員通行用の小扉に対応していると見て間違いないだろう。

 開錠開閉に伴う音はできるかぎり小さい方が望ましい。その意味でボタンを押すと同時に分厚い鎧戸の開く大扉より、ごく標準的なサイズの鉄扉である小扉を選びたいのはやまやまなのだが、番号以外の情報のない状況では、いったいどちらが小扉なのかわからない。ううむ、怪しまれるのを覚悟でもう一歩踏み込んだ調査をするべきだったか。

 私は気持ちを整えるため一度深呼吸をしてから、意を決して『庭門二』を押した。

 送信機のランプが音もなく点滅する。

 物音がないせいで実感こそできないけれど、これでどちらかの庭門は確実に開いたはず。

 次は屋敷外への出入り口をどうするか。

 これまで検討してきたように一階ロビーの表口は開閉音が大きすぎて無理。勝手口は一階の奥まった場所にあるため、長い距離を往復する羽目になってしまう。となればあとは窓しかないが――

 私は室内の西向きの窓まで駆け寄ると、サッシの周囲に素早く視線を走らせる。

 ――やはり。窓枠にセンサーのランプが青く灯っている。おそらく窓の開閉やガラスに加えられた衝撃をマグネットが感知して大音量のアラームが鳴り響く仕組みだろう。私はセンサーの電源をオフにすると、念のため両面接着テープの本体ごと窓枠から引き剥がし、手動で鍵を外す。両開きの窓を子供ひとりが通り抜けられる程度に開く。その隙間に足をかけて屋外に身を乗り出し、注意深く辺りを覗ってから、パンプスを履いて飛び降りた。

 靴底に土の感触を感じる。湿り気を帯びた外気と、虫の声に包まれる。庭だ。ついに屋敷の外まで辿り着くことができたのだ。あとちょっと、もう僅かで、敷地外へと抜けることができる。すでに準備は整った。送信機も押した。ここから約百メートル先にある庭門さえ抜ければ、晴れて自由の身になれる!

 脱出を目前にしてようやく興奮と歓喜が迸ってきた。

 これまでの窮境に瀕したときの震えとは種類の異なる、ぞくぞくとする感覚が上半身をせりあがってくる。我知らず口角が上がってしまうのを抑えることができない。気を抜けば笑い声すら漏れてしまいそうだ。

 しかし喜ぶにはまだ早い――

 私ははやる気持ちを諌めつつ、外側から事務室の窓を静かに閉めると、息を大きく吸い。

 一、二、三。

 庭門に向かって弾かれるように駆け出した――

 懸命に腕を振りながら。走りづらいパンプスを交互に投げ出しながら。大地を跳ねるように、踏みしめるように疾駆する。月光が影のなかにより深い影を躍らせる。

 全力疾走に呼吸は乱れ、汗が噴き出す。けれど疲れは微塵も感じない。目と鼻の先の希望がすべてを覆い隠していた。

 数百平米はあろうかという庭園には石畳の車道に沿うように生垣や花壇が配されているものの、正門側には背の高い木や建物は少なくただっ広いため、総じて見通しは悪くない。すでに闇に慣れた目は容易に辺りのシルエットを判別することができる。現在、動いているものはひとつとして見受けられない。当然だろう、そのためにこんな真夜中を選んだのだから。

 私は庭園の中央にある女神像の噴水近くまで辿り着くと、生垣の陰に身をひそめて、もう一度周囲を見渡した。やはり誰の姿もない。人っ子ひとり、獣一匹見られない。律儀に羽を擦り合わせる虫たち以外のあらゆる生き物に眠りの帳が降りているようだ。

 次いで庭門の大扉に目を凝らす。ビンゴだ――! 鎧戸は開いていない。

 もはや五十メートル地点にまで達した。あと半分、同じだけの距離を走り、あの小扉を潜り抜ければ、私は私の現実を取り戻せる――!

 私は両手の指を地面につき、前足の膝を立て、短距離走者のようなポーズをとる。ここからは車道上を庭門まで一気に駆け抜けよう。この距離、この暗さでは屋敷内から見咎められることはあるまい。時間にして僅か数秒。いける。

 私は石畳を蹴って庭門までの距離を猛然とダッシュする――

 足場がいい上、直線距離だ。

 夜闇に黒々と佇むそれが瞬く間に迫ってくる。

 あと四十メートル――!

 あと三十メートル――!

 あと二十メートル――!

 十メートル――!

 そして――小扉に手をかける。

 金属のドアノブの回る感触。

 黒い鉄扉を手前に引き。

 隙間から外の景色が。

 待ち焦がれた景色が目の前に広がり。

 そして――

 









 ブウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウ


 大音声が。

 頭のなかで響き渡る。

 強い衝撃に顔をしかめる。

 まぶたの裏に紅い光が明滅する。

 なんだ?

 体がおかしいぞ。

 私のなかで何が起きている?

 いや、違う。

 これは――

 私は目を開けて庭門を見上げる。

 屋根に設置された赤色灯。

 それが鮮やかな紅をばら撒きながら回転している。

 大音量のアラームがけたたましく鳴っている。

 音も光も、体の外にあったのだ。

 私は愕然とする。

 なんで?

 どうしてこうなる?

 扉にセンサーが取り付けられていないことは確認済み。

 従業員だっていつも何事もなく出入りしていたじゃないか。

 私の目の見えない場所に、私にしか反応しない特殊な設備があるとでもいうのか。

 そんなの、あんまりだよ……。

 私はショックによろめきながら。

 ふらふらと小扉を抜けて敷地外へと踏み出す。

 早く。

 早く、逃げなければ。

 追手が、迫ってくる。

 捕まったら最期なのはわかっているだろ。

 だから。

 動いて。

 動いてよ、私の足。

 震えるのは、あとにしてくれ。

 まだ失敗したと決まったわけじゃない。

 これまで紆余曲折あっても結果的には上手くいってきたんだ。

 今度だってきっと大丈夫。

 だから、走れ。

 走って。走って。走って。

 息が上がって、足が棒になって、まだ走って。

 倒れて。

 もう立ち上がる力もなくなって。

 這って、匍って、ハッテ。

 指一本、爪先ひとつ動かせなくなったときがお前の最期だ。

 それまでは。

 どうか足掻いて、夏姫。

 私は震える足に両手で喝を入れて、眼前に伸びる細い山道を駆け下りる。

 このアスファルトの車道を下っていけば、いずれ麓まで辿り着くはず。

 そうすればこっちのものだ。民家でもコンビニでも駆け込んで、いくらでも助けを呼べばいい。

 鬱蒼とした林と岩壁に挟まれた、急な坂道が続く。

 傾斜につんのめりながら、転びそうになりながら、必死に腕を振り、両足を前に投げ出す。

 汗が視界がにじみ、酸欠で意識は朦朧とする。

 ふくらはぎや腿に鈍い痛みが溜まり、これまでは感じなかった疲労が足元から這い上がってくるのがわかる。

 自分に対する後悔や悲しさや怒り。そうした負の感情を糧にここまで頑張ってきた。それもあと一歩、もうちょっとで報われる。家に帰れる。私がこれまでお母さんにしてきたことを謝ることができる。どんなに辛くても、もう逃げたりしない。再び家族としてやり直す機会が与えられるのならば私は――

 背後から車の走行音が聞こえてくる。

 追手がどれだけ後方に迫っているのかはわからない。

 音の小ささからして、だいぶ引き離していることは間違いないだろう。

 けれど舗装された路で車の足と子供の足が競い合ったら、追い抜かれるのは時間の問題だ。

 ――ならば。

 私は意を決して道路脇の林に飛び込んだ。

 覆い茂る樹木の群れをすんでのところで躱し、張りだした枝や葉に手足を引っ掻かれるのも構わずに、落ち葉と地下茎の絡みついた急勾配を下っていく。

 やがて根に足を取られて転倒する。そのまま坂を転げ落ちた私は、数メートル先の巨木の根元を抱きかかえるようにして辛うじて落下を食い止める。

「痛――ッ!」

 立ち上がれはしたものの、全身泥と傷だらけ、膝はがくがくと笑っている。

 私は巨木の陰に背中を預けて、荒い呼吸のまま空を見上げる。網の目のような枝葉に切り取られた夜空から楕円の月が顔を出している。

 もうしばらく走るのは難しそうだ。けれど連中には私の隠れ場所まではわからないはず。車道からこちらは木々に遮られて見通せないが、こちらからは車の音も光も筒抜けだ。様子を覗いながら、上手くやり過ごすことさえできればまだチャンスはある――!

 私が巨木の陰から坂の上の動きに目を凝らしていると。 

 やがて一台の車が路上に停車する。

 ――えっ? と私は自分の目と耳を疑った。

 だってそこは、私が身をひそめている場所のきっかり延長線上なんだもの。

 ドアの開く音。

 衣擦れの音が聞こえる。

 次いで数人の声と足音。

 坂道を下りる音。

 正確にこちらを目がけて――下りてくる音。

 私は悲鳴を上げるのもためらわずに逃げ出した。

 複数の追手の影が指向性の強いライトをこちらにかざす。疲労で息もたえだえな私との距離を詰めようとする。

 もう考えられる原因はひとつしかない。

 私の体のどこかに、発信機が仕掛けられているのだ。筒抜けなのはどうやらこちらの方だったらしい。

 でもそんなもの一体どこに――

 そうこうしているうちに、後ろから追手に腕を掴まれ、羽交い絞めにされてしまう。最後の力を振り絞って暴れるものの、群がった数人の男たちに成す術もなく担ぎ上げられてしまう。

 同じだ。まるっきり一緒。一か月前ここに連れてこられたときの再現じゃないか。私は屋敷に連れ戻され、さらに厳重な監視下に置かれてしまうに違いない。あの地下室に監禁された挙句、ペットのように扱われ、二度と日の目を拝めないかもしれない。指先までかかった扉は再び閉ざされ、私は真っ暗な穴のなかに落ちていく思いだった。

 私を担いだ男たちはそのまま坂道を下りて林から車道に戻り、路の脇にある車一台分のスペースに私を降ろす。両手を男たちに掴まれたまま、跪くように膝を付けさせられる。

 声を出すことにも疲れ、うなだれた私の姿はまさに罪人そのものだろう。

 ややしてから、眩いライトとともにもう一台の車がやってくる。

 車体の長い白の外国車。

 運転席から降りたのはレザーブルゾンを羽織った長身の女性――紺子さんだ。

 彼女は私を無表情に一瞥すると、助手席にまわって恭しくドアを開ける。なかから出てきた人影が誰なのか、もう見なくてもわかっていた。

「なんて酷い有様だ、夏姫」

 このひと月、何度となく聞かされてきた鼻にかかったふくよかな声に、私は僅かに顔を上げる。

 傲然と見下ろすガウン姿の美濃部がそこにいた。

 月を背にした彼の顔は、影の落ちた彫りの深い目鼻のせいで表情が読み取れない。

「もういい、お前たちは下がっていろ」

 男たちが車に引き上げ、両手を解放された私はぐったりと地面に手をつく格好になる。あたかも粗相をした奴隷が主人に許しを請うように。もう身体と心のどこにも抵抗する力は残されていなかった。

「君に贈った腕時計、あれにはね」

 美濃部は訥々と喋りはじめる。まるで食事中ふと思いついた話をするときのような何気ない調子で。

「極小の高性能発信機が埋め込まれている。庭門のタイルの下に仕掛けられた受信機はその電波を感知すると、屋根のアラームと赤色灯を作動させる仕組みだ。さらにGPSを通じて君のいる現在位置を逐一チェックすることもできる」

 私は跪き俯いたまま美濃部の声を聞いていた。

「言っただろう? これはお守りだと。だから片時も離さずに身に着けていてくれて嬉しいよ」

 太い手が私の胸倉を乱暴に掴み、半ば引きずられるように立たされる。まぶたを上げると、美濃部の感情のない顔とかち合った。昏く澄んだ目の奥底から泡のような何かが浮かんでくるのが見える。どす黒い、憤怒の兆候。美濃部は顔じゅうの筋肉を神経質に引きつらせながら、

「夏姫、お前は僕を欺いていたんだな。これまでの振る舞いはすべてこの日のための準備だったのか。僕を裏切り、陥れるための手回しだったのか……!」

 瞬間、火花の散るような衝撃とともに私の身体は地面に投げ出される。

 頬がじんじんと傷み、口の中に血の味が滲む。

 私は平手打ちをもろに受けて吹き飛んでいた。

「なぜだ!? なぜそんなことをした!?」

 美濃部は大型獣がむせび泣くように吼え立てる。ずかずかと詰め寄り、倒れ伏した私の髪を引きずるようにして立たせ、今度は反対側の頬を平手が強打する。

「誰よりも理解しているというのに! 誰よりも愛しているというのに! お前は誰よりも幸せになれたはずなんだ!」

 怒声とともに唾を飛ばす美濃部に髪を掴まれたまま、さらにもう一撃、肉厚の手の平が飛んでくる。

「なのになぜ私を拒絶した!? なぜだ!? なぜだなぜだなぜなぜだなぜだなぜだなぜなんだ!?」

 繰り返し暴力を浴びせられる私に、もはや彼の言葉の意味など何ひとつわからなかった。

 痛みとショックで朦朧とする意識のなか、呪詛のような抑揚だけが響き続ける。

 一瞬、視界に映った美濃部は鬼の形相。制止に入る紺子さんを振り払い、さらに平手を打ち下してくる。完全に我を失っている。

 ――殺される。

 私が今度こそ、死を覚悟したとき。

 崩れ落ちる身体が、ゆらりと何かに抱きとめられた。

 僅かに視線を上げた先には、顔じゅうの体液で汁まみれになった顔。泣き笑う美濃部の顔があった。

 彼はぎゅっと私を抱きしめたまま、耳元で嗚咽している。

「――死んだらどうする?」

 震え声で問いかけてくる。

「あんな無茶をして、死んだらどうするつもりだったんだ?」

 無茶苦茶だ。

 さっきまで私に殴り殺さんばかりの狼藉を働いていた男が、今度は私の命の心配をしている。それが高い場所からロープで降りたことについて言っているのだと、おぼろげながらに理解したときには、美濃部は私の肩に顔を埋めておいおいと泣き崩れていた。

「よかった。君に何事もなくて、本当によかった……!」

 ――麗。という名前が聞こえた気がした。

 まるで愛娘の無事を心から喜ぶ父親のように、彼は私の身体をひとしきり愛撫すると、ネグリジェから伸びる剥き出しの手足に視線を落とす。泥と砂で汚れ、赤黒い打ち身や大小の擦り傷で満身創痍の私の身体は確かに酷い有様だった。

「可哀そうに、こんなにボロボロになって……。君の綺麗な肌に跡が残らないよう、帰ったらすぐに傷の手当てをしなければ。体の汚れも洗い流さないといけないね。もう他の人間には任せておけないから、全部僕がやってあげよう」

 美濃部は私の頬をそっと撫でる。春のような朗らかな笑顔を浮かべて。

「これからの君と僕はいつも共にあるんだ。着替えのときも、用を足すときも、眠るときも、すべて面倒を見てあげよう。片時も君から目を離すことはないと誓おう」

「美濃部さん……ちょっと……」

「そんな他人行儀な呼び方はやめにしようと言ったろう。僕は君のお父様なのだから、何も恥じることはない。さあ夏姫、お家に帰ろう。もう一度、最初からやり直すんだ」

 美濃部は強引に私の手を引き、停車した車に連れ込もうとしている。

 開け放たれたドアが地獄の入り口に見える。

 入ったが最後、私は美濃部専用の玩具となり、もう二度と人間らしい営みを送ることは許されないのだろう。

 私は私でいられなくなるのだろう。

 お母さんにも謝れなくなるのだろう。

 ――そうだ、そうだよ。

 お前はこれまで何のために頑張ってきたんだ?

 家族にもう一度会いたいからじゃないのか?

 やり直したいからじゃないのか?

 負けるか。

 負けるものか。

 私の意思は私のものだ。

 絶対に、言いなりになんかなってたまるか――!

「放して」

 声を漏らす。

「放してよ!」

 渇いた喉から絞り出す。

「放せ!」

 掴まれた腕を引き剥がそうとし。

 懸命に、身をよじる。

 振りほどくことができないと見るや、思い切り腕に噛みつく。

 美濃部が苦痛に喘ぎ。

 手が離れる。

 瞬間。

 私は左足を踏み込み。

 渾身の右ローキックを、美濃部の股間に食らわせていた!

「ぐあああああああああああああああああああ――!」

 絶叫。

 美濃部が苦悶にのたうちまわる。

 股間を抱えてうずくまる。

 私は攻撃の手を緩めない。

 勢いのまま今度は右足を踏み込み。

 美濃部の顔面に右ストレートを浴びせかける。

 鈍い音ともに、彼は仰向けに傾ぎ。

 私は遠心力にまかせて上半身に馬乗りになり。

 何度も、何度も、殴りつける。

「ふざけるな! ふざけるなよ! 勝手にこんなところに連れてきやがって! 何度もビンタしやがって! 何が『すべて面倒を見てあげよう』だ! 私はお前のペットじゃないんだぞ!」

 一発。

 二発。

 三発。

 容赦なく拳を振り下ろす私。

 怒りを、憤懣を、浴びせかける私。

「勝手に夢見てるんじゃねえよ! 理想を押し付けてくるんじゃねえよ! 私は私なんだよ! 私は麗さんじゃないんだよ!」

 拳が痛い。

 拳が痛い。

 心が、痛い。

 ふいに振り上げた拳が宙で止まる。

 紺子さんが、私の腕を掴んでいる。

 厳しい顔で、首を振っている。

 私は美濃部を見下ろす。

 鼻血にまみれた顔が。

 昏い目が。

 無表情に、私を見ている。

 おいおい夏姫。

 お前はいつからそんな見境のない子になっちゃったんだよ。

 もうこれは、ただじゃ済まないぞ。

 美濃部から引き離される私の背中から、何かが剥がれ落ちる。

 ――大判のトートバッグ。

 昨夜、美術準備室で紺子さんから借り受けたそれが、ワンピースの紐で背負うように巻きつけられたそれが、月の光を浴びている。

 私はバッグを拾い上げ、中身を取り出す。

 薄汚れたスケッチブックがそこには収められている。

 冷や水を浴びせられたように、瞬く間に思考が冷める。

 パニックになってすっかり忘れていたが、これが私の切り札だった。

 そうだ、まだやれることは残っている。

 驚きに目を見張る紺子さんに、私は目で問いかける。

 ――ここで見せてもいいですか?

 一瞬の逡巡ののち、彼女は覚悟を決めたように頷いた。

「では私が耀司様に――」

「私に言わせてください」

「しかし」

「自分で決着をつけたいんです。お願いします」

 彼女は観念したように息を吐いた。

「……いいでしょう。好きにしなさい」

 とは言ったものの……。

 私は美濃部にちらりと視線を投げる。地面に手をついたままこちらを睨んでいる彼は、これまでの見たなかでもっとも恐ろしい顔をしていた。

 すー、はー、すー、はー。

 深呼吸に大きく息を吸って、吐きだす。

 脱走がバレた上に、連れ戻そうとした美濃部を拒否して、汚い言葉で罵りながら何度もぶん殴ってしまったのだ。衝動的にやったこととはいえ、あそこまで最悪を上塗りすれば、もはや開き直るほかない。今の私はある意味で怖いものなしだった。

 よし! と両手で頬に気合いを入れると、私は美濃部と真正面から向き合い、最後の対決に赴く。

「美濃部さん、このスケッチブックに見覚えがある?」

 彼は答えない。

「これはあなたの本当の娘――麗さんが生前使っていたものだよ。事件のどさくさで紛れ込んで、最近まで発見されなかったんだ」

 美濃部は紺子さんを振り仰ぎ、怒りの眼差しを向ける。

 彼女は苦しげに目を泳がせていたが、やがて正面から美濃部を見据えて告げた。

「……はい。私の独断で麗様の一件をすべてお話しました」

「なぜ、そんなことをした?」

「失礼ながら申し上げますが、夏姫様には夏姫様の人生があり、ご家族があります。耀司様の我儘な夢に無理矢理お付き合いいただく以上、お知りしてしかるべきだと判断いたしました」

「貴様……!」

「はいはい、ケンカはそのくらいにして」

 私は紺子さんに掴みかからんばかりの美濃部を制すと、身をかがめて彼と同じ目線に立つ。

「美濃部さん、本当の私はね、あなたが言うほどできた人間じゃないんだ。麗さんと友達だった過去をすっかり忘れちゃうくらい薄情だし、今だって遺品のスケッチブックであなたを説き伏せようとしている。自分が助かるためなら名前も忘れた友達の死だって利用する、どこにでもいるつまらない人間だよ」

 美濃部は憮然としたまま私を睨めあげている。

「だから言うね。あなたがどんな綺麗な夢で私を満たそうとしても、私は麗さんの器にはなれないの。ううん、麗さん以外の誰にも麗さんの替わりなんて務まらない」

「それは過小評価というものだ。君には自らの価値が見えていないだけだ。麗を奪われ、すべてを失った僕を救ってくれたのはまぎれもない君なのだ」

「そう、僅かなひとときでも私はあなたの支えになれていたんだね。あなたの夢を叶えてくれてありがとうって紺子さんからも感謝されたっけ。でも私が麗さんでない以上、それは期間限定のごっこ遊びだよ。ある日、私が枯れ花や虫食い花だったことに気づくまでの、儚い夢に過ぎないんだよ。それとね美濃部さん、本当にあなたはすべてを失っていたのかな?」

「何を言っている。麗は僕のすべてだったのだぞ」

 私はスケッチブックの表紙をめくる。

「麗さんはあの画集の作者――ジョージア・オキーフに憧れていたそうだね。彼女の遺品のキャンバスは花の絵でいっぱいだった」

「……そうだ。あの子は……麗は、花の生きざまを写しとるためだけに絵画をはじめたのだ。花の絵以外は遺していない」

「じゃあこれはなに?」

 私は彼を手を取り、手の平にスケッチブックをそっと重ねた。

「亡くなったからって麗さんのすべてが無になるわけじゃないんだ。ここには彼女の心がある」

 美濃部は手に取ったスケッチブックを見つめる。

 美濃部麗、と細いペンで名前の記されたベージュの表紙には、ところどころ傷汚れがついていたり、角がめくれあがっていたりする。

 感慨深げに表紙をひと撫でしてページをめくった彼の手が、

「――――!」

 ふいに止まる。

 目を見開いたまま、紙面に描かれたものを凝視している。

 そこには美濃部と彼の奥さん――麗さんの家族の肖像が数十ページにわたり描かれていた。

 花壇の手入れをする奥さんの横顔。

 縁側でタバコをふかす美濃部の立ち姿。

 モチーフは何の変哲もない日常のワンシーンばかりだ。

 構図は平坦だし、技術的にも決して優れているとは言えない。

 けれどもし優しさや愛おしさや幸せといった形のない感情を線で写しとることができたなら、きっとこのような絵が生まれるのではないだろうか。

 そう思えてしまうほどに被写体に対する描き手の暖かな目線に満ち溢れていて、見ている側まで頬が緩んでしまう。

 悲惨な事件でこの世を去った彼女の見ていた世界はこんなにも美しいのだ。

 美濃部のページをめくる手が震えている。

「麗さんは失われてしまった。でもまだ彼女が心から大切にしていたものは残ってるじゃない。麗さんとはもう言葉を交わしたりはできないけど、麗さんの愛したものをあなたもまた愛することで、彼女の気持ちに報いることはできるはずだよ」

「妻とやり直せと言うのか。世間からはおしどり夫婦などと呼ばれていたが、あれとうまく折り合うことができたのは麗の存在があってこそだったのだ。あれほど当り散らし、邪険にした妻に今更許しを請えと言うのか……」

 私はお父さんと親友を同時に失ったお母さんのことを連想してしまう。美濃部や美濃部の奥さんの重要なパーツには麗さんが含まれていて、彼女が欠けることで二人とも以前からは少しずつ変わってしまったのかもしれない、と。

 美濃部は顔じゅうの皺を苦悶に歪めて、首を振る。

「……やはり無理だ。麗のいない世界なんて僕には生きる価値がない」

 ばちん!

 小気味良い音とともに、私は美濃部の顔面を思い切り張り倒していた。

 うめきながら地面を這いずる彼の首根っこをむんずと引っ掴むと、眼前にスケッチブックを押しつけ、無理矢理まぶたをこじ開ける。

「ばかっ! この後に及んでまだそんなこと言ってるのか!? 麗さんの大切なもののなかにはあなた自身も含まてるの! 生きる価値がないとか軽々しく言うなぁ!」

「うぅ……しかしだな……」

「しかしもへちまもないっ! 麗さんの想いを深く共有できるのは奥さんだけだよ! この機会によりを戻さなくてどうするの!」

「急にには、だな……その……メンツが丸潰れではないか」

 私は呆れて言葉も出なかった。

 それと同時にこれまで感じていた美濃部へ恐怖が一瞬にして吹き飛んでしまう。私はこんなへたれ男に一カ月も監禁された挙句、必死に機嫌をとったり、びくびく怯えたりしていたのかと、それこそ綺麗で儚い夢がガラガラと音を立てて崩れ落ちるように。

 きまりの悪そうに目を逸らしている美濃部は、まるでケンカした友達との仲直りを渋る子供みたいだった。

 ふいに、子供時代の苦い記憶が蘇る。

 思い出されるのは、かつて仲良しだった女の子の笑顔。

 私と彼女はつまらないことで仲違いをした。

 あのときは私がぐずぐずと意地を張ってるうちにクラス替えがあって、そのままタイミングを逸してケンカ別れになってしまったのだった。

 誰だっけ。二つ結びにしたおさげが可愛らしい、いつも花の絵ばかり描いていたあの子。

 ああそうか、あの子が――

 あの子が、そうだったんだ。

 ごめん、ごめんね、今まで忘れていて。

 お別れすら言えなくて。

 その代わり、今からあなたの大切なご両親をもう一度引き合わせてみせるから、そこで見ててね。

  

「じゃあさ――こうしようよ」


「一度しか言わないからよーく聞いてね」

 むぎゅ、と私は美濃部の両頬を手の平で挟んでサンドイッチにする。鼻血と皺でぐちゃぐちゃの顔を無理矢理、私に向けさせる。

「まずね、最初の日にバルコニーであなたが指摘したことは全部図星だったの。私が適当な理由をでっち上げて休みの日に家を空けようとしていたのは、お母さんと顔を合わせるのが気が重かったから。辛そうな顔で物思いに耽っていたのは、お母さんのことで悩んでいたから。私はお母さんに含むものがいっぱいあったし、率直に言って母娘関係はギクシャクしっぱなしだった」

 意図を測りかねているのだろう、美濃部は目を白黒させて私を見る。

 私は彼を抱きしめるような格好でそっと耳元に囁いた。

「でもそれは私自身の勝手な夢を彼女に押しつけていたから。ここであなたが私に麗さんの時間を再現させようとしたことと、同じだったんだ。でもお陰で察しの悪い私でも自分のしていたことに気づくことができた。美濃部さんにはたくさんたくさん恨みもあるけど、あなたは私の目を開かせてくれた恩人でもあるんだよ。だからね――」

 美濃部の右手を力いっぱい、両手の平で包む。

「一緒にはじめようよ」

「ほ?」

「“よりを戻す”の一緒にしようって言ってるの。私もお母さんと逃げずに向き合うから! 気乗りしないことでも誰かが一緒なら頑張れるでしょ、ね?」

 満面の笑みを向けた私に、美濃部はしばらく百面相を繰り返していた。

 泣き、笑い、怒り、憂い、痛み、悦び、あるいはそのどれでもなく、はたまたそのすべてを皺だらけの顔に込めながら――

「うむ、わかった」

 と一言だけ呟いた。

 私は呆けたように突っ立っている紺子さんからペンを借りると、美濃部の肉厚の手の平にさらさらと自宅の住所と電話番号を書き込む。

「まあ、もう知ってるとは思うけど、一応連絡先ね。私のスマホは後日そこ宛てに送り返しておいて。経過報告、待ってるからね。ああ――それとこれ返すから」

 私は取り外した腕時計を美濃部の手の平に収めると、すっと踵を返して歩き出す。

「おい、夏姫……どこへ行こうというのだ……?」

「家に帰るに決まってるでしょ。もう戦いははじまっているんだからね!」

 そう言って私は、偽物のお父様に手を振った。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇


 

「まったく、まさかその格好のまま下山しようとするとは」

 隣の運転席でハンドルを操作する紺子さんがため息を漏らす。

「だって目先の危機のことで頭がいっぱいで、自分の身なりのことなんて頭に浮かばなかったんですもん」

 彼女が呆れたのもそのはず、ミラーに映った私は二目と見れないほどの散々な有様だった。

 泥や夜露で汚れたネグリジェは肩ひもが半分ずれかけているし、髪は山姥のようにぼさぼさ、剥き出しの手足は痣と傷だらけ。平手打ちされた顔は腫れ上がっている上、切れた唇には血糊がこびりついている。もはやどこからどう見ても、お化け屋敷の女幽霊そのものだ。身体を拭き、簡単な傷の手当てをして、紺子さんのレザーブルゾンをすっぽりと被って多少はましになったものの、おいそれと人前に出られる格好とはいえなかった。

「まあそれも無理もないでしょう。何か企んでいるとは思いましたが、まさか寝室からワンピースで脱走し、果ては連れ戻しにきた耀司様まで手玉に取ってしまうとは……。彼に殴りかかったときにはどうなることかと気を揉みましたが、いやはや、とんだお転婆姫もあったものです」

「えー、結局それ褒めてるのと呆れてるのどっちなんです?」

「両方です」

 紺子さんが横顔に噛み殺すような笑みを浮かべると、交差点の信号が赤から青に変わり、彼女はアクセルを踏んで車を発進させる。

 ひとり下山する私のあとを追いかけてきた紺子さんによって、私は美濃部家専用車で自宅まで送り届けられている最中だった。

 時刻は午前六時。月しか光源のない山の夜から、麓に向かうにつれてぽつぽつと外灯の明かりがまばらに見え、人家や商店が混じりはじめ、青闇が薄闇に、薄闇が朝焼けにとその色合いを変えていった。随分と人里離れた場所にまで連れてこられたようだったけれど、見慣れた風景に私の住む町までもう僅かだと知る。

 このひと月いろいろなことがあったけれど、再び私は家族のもとへ帰ることができそうだ。

「夏姫様には改めてお礼を言わさせていただきます。耀司様の夢を叶えていただいた上、その夢からも覚ましていただき、本当にありがとうございます。スケッチブックの件は頃合いを見て私どもから耀司様にお伝えし、夏姫様の解放を進言する心積もりでしたが、結局貴女にすべてを委ねる形になってしまいました。申し訳ありません」

「いえ……そんな」

 紺子さんの口から改めて言われると、なんだか無性に照れ臭かった。

「しかし本当によろしいのですか? 私たちは貴女に対して許しがたい罪を犯したのです。このまま警察に向かわれても」

「あー、いいんですよもう。途中まではそのつもりでしたけど、なんか良くも悪くもたくさんのことがありすぎて……どうでもよくなっちゃいました。それに――」

「奥様のことを見届けたいのですか?」

「はい」

 仲違いしたまま永遠の別れを迎えることになってしまった、かつての友達麗ちゃんへの私なりのはなむけだ。スケッチブックに描かれた彼女の想いを共有することのできる二人なら、必ずやよりを戻してくれると思う。麗ちゃんが欠けることで、夫婦関係が完全に元の鞘には収まらなくても、そこからもう一度はじめていくことならできるはずだ。私とお母さんみたいに。

「ところで美濃部さんは今回の一件ではいろいろとショックが大きかったんじゃないかな。麗さんのことだけでもいっぱいいぱいなのに……大丈夫ですかね」

「おや、ご心配なのですか?」

「そりゃまあ。あんな急にボカスカ殴ったり、押し切るような形で約束を取り付けたりした以上、私も無関係ではないし、気遣ってあげてもいいかな、みたいな?」

「おやおや、ご自分の奇矯なお振舞いに自覚はあったのですね」

「もともと悪いのはあっちなんだからね!」

 火照った頬でわめき散らす私に、紺子さんは安心させるように微笑んだ。

「大丈夫でしょう。あと数日は塞ぎこむことになるかもしれませんが、必ずや初志貫徹して奥様のもとに赴かれるはずです。耀司様は一度ご自分でお決めになられたことには忠実ですし、なにより夏姫様のことが大好きですから、約束はお守りするはずです」

「えーっ!? さすがにあれだけの醜態を晒せば幻滅したでしょ」

「むしろ惚れ直してしまったかもしれません……異性として」

「うそ……冗談、だよね?」

「耀司様はご自分を引っ張ってくれるような押しの強い女性もお好きでして……」

「……はぁ」

「加えて、Mっ気も少々……」

「……へ?」

「夏姫様のことをお嬢様ではなく、女王様とお呼びする日も近い……かもしれません」

「ええ~!?」

「ここだけの話、実はあの地下室は……」

「やめて~! 聞きたくなーい!」


 私の家までは、まだもう少しかかりそうだった。


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