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第一話 【改稿版】

お金持ちの変態おじさんに拉致された女子高生がお城で監禁生活をするお話、第一話です。完結にあたって見直してみたらシリーズ前半部分をテコいれする必要を感じ、このたび大幅に加筆修正しました。この第一話は改稿前の第二話とひとまとめにしてみました。




 私こと柴崎夏姫はある朝突然、拉致された。

 

 黒塗りのワンボックスカーが目の前に立ちはだかるように止まり、後部座席から飛び出した大柄な男たちに車に押し込まれるまで十秒とかからなかったと思う。

 あっという間の出来事で心の準備も何もなかった。

 やばいと思ったときにはもう口を塞がれ、大人数人の力で体の自由を奪われていた。私は悲鳴ひとつ上げられないまま、自然災害に押し流される哀れな人形のように後部座席に詰め込まれた。

 ドアが閉められると同時に口内に硬い物を強引にねじ入れられ、息が詰まりそうになる。もう助けを呼ぶ言葉はおろか、大声すら発せられず、ただただ小さな唸り声が漏れるばかり。さらに厚布の目隠しに、手錠のようなもので拘束される手足。両脇から男たちにがっちりと固定される腕。男の誰かが発車の指示をだす声がどこか他の世界の出来事のように響いた。

 そう、今日は夏休みの初日だった。

 八月は心置きなく遊びに精を出せるように、今月中は三駅先の図書館に通いつめて宿題をいっぺんに片づけてしまう予定だったのだ。空は快晴。でも気分まではそうはいかなかった。薄曇りといってもいい。私は昨晩、お母さんから浴びせられた一言について考えながら、最寄り駅へと通じる抜け道を歩いていた。そこは賑やかな表通りと周辺の住宅街からは死角になっている人気のない場所だというのに注意散漫だったかもしれない。だってまさか白昼堂々、こんな大胆な犯行に及んでくる連中がいるとは思いもしなかったから。

 こいつら誰? 私これからどんな目に遭わされるの?

 当然口を塞がれていて問いかけることなどできない。うちは母子家庭だから身代金目的の誘拐とは思えない。誰かに恨みを買った覚えもない。それじゃあなんで? 人身売買。人体実験。殺人。レイプ。マグロ漁船。カルト教団。北の某国。エトセトラ、エトセトラ。物騒な単語が次々と浮かんでは消えていく。その想像の世界が怖くて、恐ろしくて、唇をきつく噛みしめて血の気が引く感覚に必死に耐えた。

 車に乗せられていた時間が実際どの程度だったのかはわからない。嫌な時間は長く感じられるからといった類の話じゃない。混乱と恐怖と息苦しさから呼吸が荒くなり、いつしか気を失ってしまったのだ。情けないことに。

 だからここに連れてこられるまで何十分もしくは何時間かかったのか知らないし、目隠しされていたからどんな道を通ってきたのかもわからない。

 ひとつ言えるのはここは地下にある一室なのかもしれないということ。

 今は七月だ。屋内にいても喧しいくらい蝉の鳴き声が聞こえてくるというのに、ここには物音ひとつないのだ。さらに連日気温三十度を超える真夏日が続いているとは思えないほど、ひんやりとしている。エアコンの冷風によるものとは質の違う底冷えのする涼しさだった。おまけに何日も換気をしていない部屋のように空気は淀んでいるし、少し黴の匂いも含まれている気がする。あくまで拉致現場からそれほど距離が離れていなければの話だけれど。

 ここは十畳ほどの何もない部屋だった。石床石壁に囲まれた、窓はおろか家具や調度品の類もないただ広いばかりの空間。その中央にぽつんと置かれた椅子に私は縛りつけられたまま座らされていた。過去形なのは今は座っていないからだ。椅子に私を固定した男たちが部屋を去った後、ありったけの力で暴れて拘束を解こうとした結果、座っていた椅子ごと横倒しになったまま身動きが取れなくなってしまったのだ。目隠しは外してもらえたが、猿轡らしき拘束具ははめられたままなので、相変わらず声を出すことはできない。仕方なく半分吊るされたような態勢のまま、目の前の金属扉を見つめている。

 一旦意識が途切れた影響か、私はさっきよりも落ち着いていた。

 怖くて不安なことには変わりはないものの、パニックの波はいくぶん引いている。少なくともここは地下室ではないかと当たりをつけることくらいはできるようになっていた。

 私を拉致した男たちの動機にはやっぱり心当たりがない。心当たりがない以上、彼らが私を使って何をするつもりなのかについては考えないように努めた。考えても意味がないし、恐ろしい画しか浮かんでこないからだ。

 今はここから逃げ出すことに思考を集中させていた。とはいっても部屋は文字通り八方塞がりで私は椅子から一歩も動けない。携帯端末は奪われたバッグのなかだ。やはり事態が進展するのを待つしかなさそうだ。

 しばらくして金属扉が開錠される音。そしてぎいいっと重苦しい摩擦音を立てて男が姿を現した。

 背の高い初老の男性だった。肌の状態や、髪の毛の白い物の混じり具合から六十歳前後に見えるけれど、私はこのくらいの年代の男の人――おじさんとおじいさんの中間くらいだろうか――の年を推測するのがあまり得意じゃなかった。

 それは彼が奇妙な表情を浮かべていたこともあるかもしれない。

 シンプルな喜怒哀楽に収まらない顔だった。薄い唇が微かに笑みを形作ってはいるものの、目は濁って焦点すら定まらず、眉から額にかけての筋肉にはどこか怒りの予兆すら感じられる。大雑把に分類するならば無表情になるのだろうけれど、いくつもの感情の成り損ないのようなものがうず巻いていてなんとも掴みどころのない顔だった。私はわずかな表情の変化から相手の感情を読み取ることには長けている方だと自負しているが、今彼が思っていることを窺い知ることはできそうもなかった。

 彼は床に転がっている私と目が合うと「ああ――!」と吐息を漏らし、芝居がかった仕草で天を仰いだ。

「なんて酷い――! 倒れた椅子に縛り付けたまま放っておくなんて」

 即座に椅子ごと私を抱き起すと、手足を拘束するロープをするすると解いていく。

「この部屋の扉は外側からしか開錠できない仕組みだから本来君の体の自由まで奪う必要なんてないのだ。彼らはそうでもしなければ君が抵抗するなり怯えて取り乱すなりして、まともに会話すらできないとでも思っているのだろうが――」

 手際よくロープと猿轡を解いた彼はハンカチで私の顔についた埃を拭うと、にこりと微笑んだ。

「僕は君がそういう無分別な少女ではないことを知っている。芯の強い瞳のなかに常に正しく物事を見通す眼差しを備えている」

 彼は金属扉を開け放ち「さあ、おいで」と唖然と固まっているこちらの肩を抱いて私を部屋から連れ出した。

 室外はさらに薄暗かった。地下倉庫といった風情の石造りの通路が左右に伸びている。初老の男性は滑らかな動作でこちらに手の平を差し向けた。一瞬、虚を突かれたが“手を繋げ”というサインだろう。わけがわからなすぎて怖かった。とはいえ建物の構造も逃走路も把握できない段階では軽率な行動は避けたい。躊躇いがちに手を重ねると、初老の男性は満足気に頷き、仄明るいランプに照らされた石畳の上を進みだす。

「あなたはいったい誰ですか? 私なんでここに――」 

「覚えているかい? 中学一年のときの修学旅行先での出来事を」

 ずっと聞きたかった問いを遮って逆に問いかける彼の言葉の意味をすぐには呑み込めなかった。シュウガクリョコウってなんだ?

「五月に京都・奈良だったね。あの日も今日のような猛暑だった。運悪くその年の最高気温にかちあってしまったんだ。灼熱の太陽が容赦なく照りつけるなか、君は他校の男子生徒が熱中症にやられた現場に立ち会った。彼は意識がないわけではなかったから、他の生徒たちは対応に戸惑っていた。君は彼に二、三質問をし、異常を察知すると即座に救急車を呼んだ。その後は日陰に移動して自販機の冷水を含ませたタオルで懸命に応急処置をしたね。その素早く適切な対応のおかげで彼は大事に至らずに済んだ。君はあのとき、あの場にいた誰よりも正しかったのだ」

 なぜ、それを知っている……!? ぎょっとして初老の男性に視線で問いかけるが、彼は意に介さず踊るような足取りで石畳の上を進みつづける。

「中学二年の文化祭のときもそうだったね。君のいた二年一組は演劇を行うことが決まっていたんだが、本番当日に致命的な納品ミスが発覚したのだ。美術部に発注した小道具がひとつ揃わなかった。それは重要な場面で使われる替えの効かないもので、今から作り始めても間に合わない。混乱するクラスメイトたちに君は脚本と演出の一部変更を提案した。件の小道具が使用される中盤のシーンをラストにもってきて、暗闇で役者にピンスポットを当てるだけのシンプルな演出に切り替えたのだ。これがより物語の余韻を高める結果となった。観客はトラブルによる苦肉の策とは思わなかっただろう。君の選択はまたしても正しかったというわけだ。そうそう他にも――」

 こんなこともあったねと旧友が思い出話を懐かしむように、時折身振りを交えながら私の過去を興奮気味に語り続ける。私は言葉もなかった。確かにエピソードのひとつひとつは身に覚えのあることだけれど、私と彼とはこれが初対面のはずだ。一体この初老の男性とどこで接点があったのか想像がつかないが、彼は私のことをよく知っている。どこかで小耳に挟んだにしては詳しすぎる。まるでその場で見てきたかのようだ。これってもしかして……。

 やがて通路は突き当り、上へと通じる階段に差しかかる。

 初老の男性は顎先で上階を示した。上。上に、何かあるの? 私どこに連れて行かれるの? 緊張で手の平が汗ばみ、乾いた喉はいがらっぽさを増していく。彼の口元の笑みがぐっと深くなる。愉快でたまらないといった様子だ。初対面のときの曖昧な表情は見る影もなく、まるで悪戯っ子のように微笑んでいる。彼は私の手を一層強く握りしめると、階段に足を踏み入れた。ランプの作りだす影が揺れ、私たちの姿を不気味な怪物へと変えていく。長い階段の先に四角く縁どられた光が見える。

「つまり、君は私に悪意などないことを見抜いているはずなのだ。そしてこれから知ることになる。私は君のことを誰よりも理解し、愛し、最上の幸福を与え得る存在であることをね」

 階段を上りきった先の光のまばゆさに、私は目を細めた。

 

 ひらひらと、光のなかを天使たちが舞っていた。


 金色に輝く光の輪。舞い散る白い羽。神々しい光景に一瞬、目を見開き、息を呑む。

 ――でも当然、そんなものは錯覚だ。

 高い天井から吊るされた煌びやかに光を乱反射するシャンデリア。その周りをあたかも舞い踊るように先ほどの天使たちが天井画として刻まれていたのだ。

 ここは洋風の広間だった。さながら海外の高級ホテルか結婚式場のロビーを思わせる、目もくらむような豪奢な造りだ。天井と床の間には細かな模様の縁どられた巨柱がそびえ立ち、タイル張りの床には毛足の長い絨毯が引かれ、片方は吹き抜けの二階へと通じる中央の大階段へと、もう片方は重厚な門扉へと繋がっている。

「この城はかつて外国人の資産家が所有していた別荘でね。少々古いが君にふさわしいと思ったから買い取って改装したのだ――おっと、申し遅れたね、私は美濃部耀司という者だ。君を娘として迎えに来たよ、夏姫」

 彼は恭しく跪き、優雅な仕草で私の手を取ると、その甲にそっと口づけをした。ひとつ、ふたつと口づけを重ね、肌の匂いを楽しむように甲に鼻を擦りつけ、切なげな吐息を漏らす。ひくひくと口の端と目尻の皺が奇妙な形に歪む。その慈しむような哀しむような微笑みを見ながら私は、

(変態だー!!!!)

 頭に『変態』の二文字を躍らせていた。

 そうして私が凍りついているうちにも、初老の男性あたらめ美濃部耀司なる変態ストーカーの狼藉はさらにエスカレートしていく。

 掴んでいた私の手をおもむろに翻し、二の腕から手の平までを愛でるようにひと撫ですると、その指先の匂いを嗅ぎ、口に含み、ナメクジのような舌を這わせてきたのだ。その間「はぁ」だの「あぁ」だのと言葉にならないため息を漏らし、夢の世界を漂うように私の名を呼び、フゥーフゥーと呼吸を荒くしていく。彼の興味が手から首へと移動すると、肩まで伸びた髪を指先で弄び、半ば抱きしめるような格好で首筋からうなじにかけて鼻をすんすんとさせる。なにやら生暖かい液体がノースリーブの肩にぬるりと落ちた。

 もはや限界だった。

 私は気持ち悪さと恐ろしさとで硬直した体を奮い立たせ変態男を突き放すと、門に向って駆け出した。

 出たとこ勝負だけれど仕方がなかった。好機を覗うなんて悠長なことを言っていたらやられてしまう。

 踏み込む足に力を入れ、門まであと二、三メートルと迫ったとき、ふっと全身の運動エネルギーが何かに吸収される。次いで、柔らかい寝具に身を投げ出したときのような浮遊感。驚いて顔を上げると、冷ややかな女の人の目がこちらを見下ろしていた。私は彼女に抱きかかえられる格好になっていたのだ。

 そこから態勢を変えられて横抱き――いわゆるお姫様抱っこ――にされるまであっという間だった。私は女の人から逃れようと全力でもがくものの、彼女はその細い腕には不釣り合いな力でがっちりと私を固定する。

「やだ、放して! 放してよう! 放せ、この! 助けて! 誰か、助けて!」

 唯一自由になる口で声のかぎりに助けを呼びながら、ここが変態男の根城であったことを思い出し暗澹とした気分になる。物語なら白馬の王子様が颯爽と助けにくる場面だが、あいにくここは現実だった。相変わらず冷淡な女の人の瞳をきっと睨みつけるが、彼女は私の窮状などまるで知らん顔といった様子。おまけにあくびまでしているし。そうこうしているうちにコツコツと踵の音を立てて美濃部が近づいてくる。

「――おお!」と彼は私を見るなり懺悔するように天を仰ぎ、

「生まれたての小鹿のように震えている夏姫……! なんて可哀そうな夏姫……!」

 目に涙まで溜めながら深く憐れむように、私の頬を撫でる。

「君は車に押し込まれたときにすっかり怯えてしまったのだね! 当然だ! 当然だとも! あんな厳めしい男たちに取り囲まれ、体の自由まで奪われては!」

 一転して気色ばんだ彼は、唾を飛ばし肩を震わせながら、全身で怒りを表現するように地団駄を踏み続ける。

「当然だあ! 当然だあ!」

「……耀司様、落ち着いてください。夏姫様がますます怯えてしまいます」

 見かねた女の人が注意を促す。低くてよく通る声だった。彼ははっと我に返ると顔中の皺の向きをぎぎぎっと変え、泣き笑うような表情になる。

「ああ、ごめん、ごめんよ、夏姫。感情的になってしまって。思えば僕はなんという酷いことをしてしまったのだろう。訳もわからずにこんなところに連れてこられ、混乱している君の気持ちを慮ってやらねばならないはずなのに、僕ときたらいきなりあのような……あのような愛撫を……! 如何に父親が娘に向ける愛情表現とはいえ許されない行為だったかぁ!」

 嘆き苦しむように両手で顔を覆い、床に跪き、頭を抱え、喚き、転げまわり、また天を仰ぎ、かと思えば涙と鼻水と汗と皺でぐちゃぐちゃになった顔で私の手をきつく握りしめ、「どうか、愚かな父を許しておくれ」と哀願する。濁った目は私ではない何かを見ていた。ぞっとした。

 頭のなかに面白半分に凶器で切り裂かれ中綿の飛び出した無残な人形の画がよぎる。

 この人は、危険だ。

 逃げなければやられる。怒りに触れてもたぶんやられる。自分の身を守るために、慎重に、確実に、事を運ばなくちゃならない。機嫌を取りながらでいい、なんとか隙を作らないと。

 私が――ああなってしまう。

 えっと、まずは……まずは何をしたらいい?

 そうだ……! どうも彼は許しを乞うているみたいだから、私が怒っていないことを伝えればいいんじゃないかな。

 よし、相手を刺激しないよう、なるべく礼儀正しく丁寧な口調で……!

 私はごくりと唾を飲み込むと、意を決して言った。

「美濃部様、お顔を上げてください。私、あなたのことをもう怒ってなどおりませんわ。非礼はすべて水に流します。その代わりどうか私をここからお降ろしくださるよう彼女にお伝え願えませんこと? このようなお姿では落ち着いてお話をすることも叶いませんもの」

 しまった……! テンパりすぎて変なお嬢様言葉になってる! これじゃあ逆に相手を刺激しちゃうんじゃ!?

 私がおっかなびっくり美濃部の様子を窺うと、

 ――ぽっ、と。

 汁まみれになった美濃部の虚ろな顔に灯がともるのがわかった。

 大きな目をパチパチとしばたたいて、話の内容を咀嚼しているようにも見える。

 ややあってから女性に向けて顎で合図すると、彼女は私を解放した。

 あれれ? なんだか上手くいったみたいだぞ。

 椅子に縛り付けられていたときといい、無理な姿勢で拘束されていたため体じゅうがぎしぎしと痛んだが、私は脈ありとみてさらに言葉を継ぐ、

「美濃部さまは私のことをよくご存じでいらっしゃるようですが、まことに失礼ながら私はあなたのことを存じ上げておりませんの。一度、お食事がてらお話でもいかがですか? 願わくばお庭が一望できるような場所がよろしいのですけれど」

 内心びくびくしていたものの、言葉を選びながらできるだけ柔らかくゆっくりとした調子で話せたと思う。最後の一文は心持ち語気を強めた。隣の女の人――よく見れば執事服を着ている――が、怪訝そうに頬をぴくりと動かしたが放っておく。

 美濃部は答えない。彫りの深い目元に影が差している。

「あの……だめ……でしょうか?」

 両指を弄びながら、俯いてしまう。だんだん自信がなくなってきた。ストーカーのプライド的に美濃部のことを存じ上げないなんて言ったのはまずかったか……? 遠目からでも敷地の間取りや警備をチェックしたいというこちらの下心がバレているのか……? それともやっぱり言葉遣いがおかしかったか……? ばくばくと早鐘を打つ心臓を耳元で感じる。耐え忍ぶには限度があった。私が美濃部の顔色を覗おうとして面を上げかけると、

「紺子、夏姫にふさわしい召し物を用意してやれ」

 ぼそりと小さな呟きが聞こえてきた。虚を突かれた思いで視線を送れば、すでに彼はこちらに背を向けていた。大階段の方へと早足で歩きながら背中越しに女の人に指示を送る。

「もちろん身を清めるのが先だぞ。茶色く染色した髪なぞ見ておれんからな。夕刻よりバルコニーで食事だ」

「かしこまりました」

 紺子と呼ばれた女の人は恭しく一礼する。彼女は美濃部の姿が二階の一室に消えるまで待ってから、じろりとこちらを一瞥した。身長百五十三センチの私よりも頭ひとつ分ほど背が高いせいか、睨まれているような印象を受けてしまう。

「えと……私は彼を怒らせちゃったんでしょうか」

「あれは照れているんですよ」

「……はぁ」

 出会った早々あれだけの醜態を晒した男が、今更照れることなどあるのか。

「おそらく夏姫様があまりに夏姫様らしかったのでしょう」

「ちょっと意味がわからないんですけど」

 紺子さんはどこか眠たげな目をすぼめると、ふぅと細長い息を吐いた。くせっ毛らしいふわふわの髪が微かに揺れる。

「すでにご存じでしょうが、耀司様はここ数年、夏姫様のお姿だけを追い求めておりました。世を捨てた男性が言葉を交わしたことすらない少女のことを寝ても覚めても想い続けたら、彼の頭のなかの少女はどうなってしまうと思います?」

「どうなるんですか?」

「こうなるんです」

 むぎゅ。私の両頬は彼女の手の平の間でサンドイッチにされる。

「ふむ、押し潰しても案外見れますね、貴女の顔」

「はにふるんれすか」

「むしろこの方が面白おかしくて私は好きなくらいですけれども」

「ひゃめてくらはい」

「いえね、我が主のなかの夏姫様の歪み具合を忠実に再現しようと思いまして」

「それ“歪んでる”の一言で済みますよねえ……!」

「冗談です。怒らないでください」

 小馬鹿にした笑みを噛み殺すような顔でニヤつく紺子さん。

 何なの……!? 最初のイメージと全然違うじゃないか、この人。

「煮詰まった妄想は現実から乖離してしまうと言いたかったんです」

 最初からそう言いなさいよと思うが、ああそうかと合点する。私があまりに私らしかったというのは現実の私の姿と美濃部の脳内にある私像との結びつきのことを言っているんだ。

「ああいうのがあの人の望んでいる私なの?」

「まあ、おおむねそのような具合です。耀司様は先ほどもご覧になられたとおり、やや情緒不安定の気のあるお方ですので、この城で生き長らえたければ彼の期待を裏切らないようくれぐれも注意してくださいね」

 紺子さんはそんな少しも笑えない忠告をさらりとすると、こちらに向き直り左手を腹に当てて深く一礼した。

「私は巻紺子と申します。美濃部家の執事を務めさせていただいている者です。夏姫様の担当執事に任命されましたので、以後、お見知りおきを」

「こ、こちらこそよろしくお願いします」

「それでは本日のご予定の件ですが、これより午後一時から一階浴室にてご入浴、午後二時より同階化粧室にてご調髪、午後四時半時より二階衣装室にてお召替えを行い、午後六時より同階バルコニーにて耀司様との会食となります。以上、何かご質問はございますか?」

 嵐の一日はまだ終わりを告げない。


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