魔王見習い様と静かな街。(2)
ちょっと(…?)グロいです。
苦手な方はご注意をおねがいします。
(3)に続きます。
いつしか空は群青色に染まり、日の到来を今日も静かに告げていた。
刻一刻と明るさを増して行く空は、同じように刻一刻とその顔の色を変え、光の時間が来た事を。 暁告げる、マリア神を称える詩を歌いはじめた。
影の時間の終わりである。
〈暁の世界を見た事はあるだろうか。
太陽が出る直前の、澄んだ空気と純粋な碧と、影の黒。
そして、耳鳴りすら聞こえてくるほどの、静寂。
ただそれだけの地。 日が昇る事も墜ちる事もない、静止した世界。
私は見た事がある。 肌で触れた事がある。
もう一度だけでいい。 もう一度だけ、そこに行きたい。〉
そんな文句を、静かに街を見下ろす魔物の主は思い出した。 あれは何時の事だっただろうか、誰かの伝記で読んだかもしれない。 それともただの、お伽話だったろうか。 そこまで考えた所で思考を打ち切り、眼前に広がる現実に目を向けた。
ローラン港、というものは。 基本的に活気にあふれすぎている街である、と彼は聞いた。 説明を受けた通りに、街の形は貝のようで、ちょうど陸路の出口…崖に作られた道を下った所にある、巨大な鉄の門から扇形に広がっている。
とはいっても、規則性はなく。 大まかな主要道路のあたりを除けば、様々な形と色の建物が、歩むための道なぞ知るかと言わんばかりに立ち並んでいる。 今は影も形も見えないが、高所に住む者達の為に、空を飛ぶ店などもあると彼は聞いていた。 しかし街の中心部のあたりには、一際高く細い塔が立っていた。 朝日に照らされ影になっているので、彼には詳細がわからなかったが、少なくとも彼はそんな物があるとは聞いていなかった。 見たところヒトが住むにも細すぎる上、天を突くほどに高いので、一見するとそれはどこぞの芸術家の作品のように見えた。
それも調べようと脳内に記録し一つ頷くと、彼はさっさと終わらせ帰るべく、今は濃青に染められている街へと歩を進め始めた。
さっさと終わらせたい。 つい先ほどの決意などほっぽりだして彼はそう思った。 いや、今すぐ終わらせたい。 具体的には逃げたい。 何故かというと、街が臭すぎるのである。 ただし、その臭いは普通の臭いではない。 腐敗臭などの『本当にそこにある臭い』ではなかった。
何故それなのに臭いと思うのかというと、彼は魔力を臭いで判別するタイプであるからだ。 ついでに言うと、彼の力を受けている魔物達もその能力を差こそあれど持っている。 彼らにとって純粋な気持ちが込められた「綺麗な魔力」は、甘い香りや落ち着く香りなどに己を変えるが、ローラン港に纏わりつくドロドロとしたそれは、彼らにとって地獄もかくやという臭いを醸し出す性質を持っていた。 通常の…例えば生ゴミなどの臭いならば、鼻はいつか麻痺するし慣れる。 が、これは魔力を判別するための臭いであり、本当に鼻を使っている訳ではなく、また己でコントロール出来る訳もないので、ダイレクトに臭さが神経に届いてくるのだ。
「…ミリア、大丈夫か?」
『そろそろ、げんかいですぅ…』
「…上で、待ってるか?」
味には影響がないので、ぎりぎり喋れているこの状況。 かといって、動物型である彼女にとっては、彼の何倍も辛いだろう。 そして、案の定。 ミリアとて己の主の護衛である事は理解しているが、倒れてしまえば逆に迷惑をかけてしまう。 彼女はそう思って少し撫でられた後に千尋の提案に従い、素直に踵を返した。 彼はそんな彼女の姿を心配そうに見やったが、結局何も声を掛けずにさっさと下りていった。
下り切った所から見えるのは、開かれた無骨な鉄の門と意外にきっちりと組まれた頑丈な塀、そしてその先に見える極彩色の家々だった。 人っ子ひとり見えはしないが、異様な事に、街の奥の方から気配だけは沢山感じられた。 おかしい。 これほど静かなのだ、全員避難しているのではないのか。 そう思っても、ここに佇んだままでは何もわからない。 いやだいやだと思いつつも、彼は最大限の警戒をしつつ門を潜った。
一歩一歩、慎重に歩を勧める。 もっとも気配の量が多いのは、やはり眼前にそびえ立つ細長い塔だった。 未だ太陽の影になっており全貌は見えないが、近付く事でそれの異様さが少しづつ分かるようになっていく。 特に顕著なのが、ヒトがそれほど入れる程太いようには見えないのに、多くの命がひしめき合っている感覚がある事だった。 また、ぐちぐち、ねちょねちょ、そんな不快な感覚が、その塔に色濃く纏わりついていた。 そしてその後ろの海から吹き込む潮風は、魔力の臭いとは違う本物の腐敗臭をどこからか運んできていた。
ギギィ…
後ろで奏でられた可笑しな音を耳にし、彼は振り返った。 町の門が、おそらくは十人がかりで開け閉めするような大きいそれが、ひとりでに閉じようとしていた。 崖上にたどり着いていたミリアも焦ったのか、せっかく登った道を再び下りかけていたが、彼は手をあげてそれを遮った。 この程度、なんら問題はない。 その意味を、笑みに込めて。
ギィーーーーーーーー、ズン。
あまり耳障りの良くない音を立てて、それは閉まった。 崖上に戻った大きな心配性の猫にもう一度手を振り、彼は門に背を向けた。
さて、と。 まずは、あの変な物体を見に行くべきか。
彼はそう思い、中心部に向かおうとした。 が、道順が分からず少々途方に暮れる事になった。 前述の通り、この街の道に規則性はなく、比較的広く歩きやすい主要道路もその例に漏れず、カタツムリが這った後の様な惨劇を作り出しているからである。 はぁ、と一つため息をつき、彼はまっすぐ歩き出した。 山の中でもあるまいに、目印さえあれば何時かはどこかにつくだろうと信じて。 実際問題、大抵の障害物ならば乗り越えていけば良いだけなのだ。 家であろうと、塀であろうと、登って降りる…または回りこむ。 それだけなのだから。
しかし、その『大抵の障害物』の範疇に入らない物が出てきた場合。 どうすれば良いのだろうか。 幾つかの塀を乗り越えて、家々に遮られ崖上の仲間が見えなくなった頃。 どこにも逃げ場のない、狭い道を歩いている彼は、そう思った。
気づいたのは、それが近場の屋根の上から跳躍した際だった。 顔に影がかかった事に気づき、急いで回避したのは良いものの。 眼前にボトっと落ちた、伸縮を繰り返している半透明の青い物体は、そこから退く気は無い…どころか、落下のダメージすら無いかのようにこちらに近づいてきていた。 ズルッ、ズルッ、少しづつ、ただし確実に向かってきているそれ。 彼はそれがスライムと名のついた魔物だという事を知っていた。
スライムとは、基本的に色や大きさは定まっておらず、ほぼ中心部にある核を壊されると崩れてしまう、酸性かつ粘着質の、ランクFの魔物である。 そのかわり、透明度や平均的な大きさなどは種類によってまちまちであり、属性ともなると本当に千差万別の魔物だ。 また、目や耳は持たず、なぜ獲物を捉えられるかも未だにわかっていない、世界で最も種類と謎が多い魔物とも言われている。 さすが単細胞生物ともいうべきだろう。
ただ、それらは総じて動きが遅く、弱点が多く、複雑な思考もできないため、初心者の良い練習相手にもなる。 が、あまり大きすぎると、とたんに厄介な相手となる。 なぜならば、力が増せば増すほど、その身の酸性度も高まっていくからである。 余裕を持って頭を覆える程の大きさともなれば、人族であれば数秒で骨が露出するだろう。 このレベルになると、ランクEかDとなる。 また、さらに大きくなったり、知性を持つなど別方向に進化すると、ランクCかそれ以上の魔物に変異する。
そして、彼の眼前にいる水色のそれは、いったいどれ程の食事を摂ったのか、大きな鍋ほどもあった。 ランクはDあたりだろう、それがうにょんうにょんウネリつつ、行く道や周りの壁を己の酸で溶かしながら、じわじわと彼に向かって動いてきているのだ。 かかわりたくない、と思ってしまった彼を、一体誰が責められようか。
ひゅ、と音がした。 スライムが、己の体の一部を細くし彼に向かって伸ばした音である。
彼はそれをまた下がって避け、どう倒すべきかと思案した。 彼は魔族といっていいほど上位に在る魔物…そもそも『魔王種』であり、いくら強かろうとスライムごときでは彼に傷一つつける事は不可能である。 実際問題、種族間の差は埋める事が不可能であり、だからこそ魔物は上位の者には逆らえず、大抵の場合命を下すだけで彼は勝利する事ができる。 人間や獣など、感情で己を守る事ができる者達以外、または眼前のスライムのように知性すら持たない者達以外ならば。 そのような者達を相手にする場合は、勿論戦闘にて相手を堕とす。 魔術しかり、体術しかりで、完膚なきまでに、堕とす事が唯一の勝利方法である。
つまり、スライムが持つ程度の酸性ならば、何がどうなろうと彼の皮膚を溶かす事もないので体術を使っても良いのだが。 彼が今着ている半袖のチュニックは、深い紫色の木綿で作られた、一番のお気に入りである。 そして勿論普通の服であるので、酸に晒されれば溶ける。 それだけは避けたい。
だから彼は大きく息を吸い、ため息をつくと共に、肺のすぐ上にある炎袋を軽く開けて、ライター程度の火を吐いた。 体術が使えぬならば、得物が使えぬならば、魔術でも固有能力でも使えばいいだけである。 彼は人間ではなく魔物であり、戦闘ごとに関しては例に漏れず使える技の幅が非常に広いのだ。 そして目の前のスライムは、青。 水属性である。 蒸発させれば、欠片も残りはしない。
突如現れた天敵の気配に気づいたのか、青色のスライムは大きく体を震わせた。 それにとっての敗北は、死。 彼にとっての敗北は、服にダメージを与えられる事。 決して負けられない戦いの予感に、きゅうっと縦に裂けている彼の瞳孔が狭まり、息が荒くなる。 口角があがり、白い歯がむき出しになる。 もはや一欠片の失敗も許されないこの状況で、先に動いたのはスライムだった。
先ほどとは違い、今度は体全体を使い大きな槍を創りだした。 それを見て、彼は足を地面に食い込ませ、炎を今も口元からちろちろと吐き出しながら、笑った。 聖母の如き柔らかな笑みと、優しく差し伸べた腕を、スライムの方に向けながら。
スライムはもう一度大きく震え、しかし先端を彼に向けた。 比例して細くなっている、地面に接している部分は、いつでも飛びかかれるように膝のように折りたたまれていた。 そうして一時がたった後、それが動いた。
人間族であれば反応できないかもしれない速度で迫りくる切先。 しかし彼にとってそれは、ひどく遅い物で。 さらに口角を吊り上げ、瞳は一際輝きを増し、炎はいっそう強く彼の口から漏れだした。 歓喜のため息と共に。
顔に刺さるかという瞬間、彼は素手でその生きている槍を掴んだ。 通常ならば、ここから無造作に体に手を突っ込みコアを破壊すれば余裕で勝利できる。 ただ、今回の彼は、少しですら服に近づける行為はしたくない。 なので、掴まれたスライムが焦り、己の体を変形させる前に彼は、先程から貯めていた炎を思い切り吐き出した。
ぼぅ、
と控えめな音とは裏腹に、彼の口から漏れでた大きな炎は、深紅。 彼がこの世に生まれでた際の、それそのもののように残酷で、また見た者にそれで焼かれたいと思わせる力強い色だった。 その炎の色が、スライムとあたり一帯を染め上げていく。 どんな色も、影も、その色の前では無力で。 その時、その場所では、全てが彼と彼の色に頭を垂れていた。
そしてその色に屈したのは、スライムも同じで。 最初こそ抵抗はしていたものの、すぐにそれもなくなり、小さくなっていく体ももう気にしていないかのように、投げ捨てられた先の地面から動かないままゆっくりと伸縮を繰り返すのみだった。 それを見て、もっと激しい抵抗を予想していた彼は、いつでも戦闘態勢に戻れるように警戒をしながらも、炎を吐くのをやめそれに近づいていった。
いまだ空中に残る焔の残滓に目もくれず、彼は縮みゆくスライムの前にて立ち止まった。 そしてしゃがみ込み、手を伸ばす。 と、スライムがゆるりと、細長く作った部分で彼の手に触れた。 一瞬引っ込ませようかと思った彼であったが、目の前のそれがもはや虫の息であるのを見、好きにさせた。
すり、と縮んで行く魔物は、彼の手に巻きつけた触手を使い彼の手に体を擦りつけた。 ふるふると軽く震えながら彼に拒まれなかった事に安堵したかのように、まるで幼子が撫でて貰いたがっているように。 彼はそれを見て驚きに瞬いた後、ふっと表情を緩めて死にゆくそれをゆっくりと拾い上げ、腕に抱いた。
そうして少々の間の後、その体は完全に溶け去り、またそれの核も炎の中にて破片となった。
黙祷を捧げた後、手の内に残った核の残骸に、彼は迷った。 知性を持たないスライムではあるが、何故か情を交わせた相手だ。 このまま捨てるのは忍びない。 かと言って、こんな所に墓を作れる訳もないし、持ち運べるような袋も持っていない。 ふー、と諦めたように一つ溜息をつき、彼はそれの欠片を全て食んだ。 彼の腕の中で息絶えたいと願った相手だ、彼の糧とするのがもっとも正しい選択だろう。 そう思って。
そうして気づいた。 お気に入りの服が、己の炎で焼けている事に。 しばし絶望に暮れた後、気を取り直し再び街の中心に向かいはじめた。 そのまま適当な家から替えの服を借り、何匹かエンカウントした魔獣を退け、面倒くさそうなのは身を潜めてやり過ごし、いくらか歩いた後に、彼は大きな広場に出た。 街の中心についたのである。 しかし、そこは街には在るべきではない物でうめつくされていた。
昼近くであろう、天高く登った太陽は、高く高く聳え立つ細長い塔の全貌と、その周りに広がる惨状を照らしだしていた。 それらすべてを見た彼は、怒った。
その惨状は、地獄と呼ぶのも躊躇われる程に酷いものだった。 呪いが発動した時に近くに居すぎたのだろう、地に倒れ伏しているヒト々は、もはやヒトとは呼べぬ形になっていた。 隙間風が吹くような音の呼吸、頭から胸にかけて侵食している樹皮のような茶色の物、体中に点々と生えているどす黒い緑の蔦、そして小さな宿木の数々。 また、かろうじてヒトの形を保っている下半身は中身を吸われ尽くしたかのように潰れており、見える肌は茶色や紫色に染まり、果ては皮膚が破けて出来た穴という穴には、純白の蛆の群れが群がり一心不乱に元は体であった物を貪っていた。
しかし、もっとも驚くべき事は、それでも寄生先が生きている事だろう。 苗床として強制的に生きながらえさせられているとしか思えないが、とにかく彼らは生きていた。 そして、塔をもっと良く見るために太陽側に回るついでに一人一人を見ていっていた彼は、小さな少女と目があった。 同じように腐り食われている右目はもう使い物にはならないのだろうが、未だ奇跡的に無事だった左目は、彼を認識した瞬間懇願の色を浮かべた。
例え呪いを解いたとしても、すでに体そのものに影響が出ている以上、死を待つのみだ。 幼いが故に死を齎す呪いに抵抗が高かった彼女は、それが故にことさらゆっくりと体を食われ、だからこそそれを理解したのだろう。 開放して欲しいか、と彼が言うと、安堵の色と涙を浮かばせ、ゆっくりと一度瞬いた。 その目に強い意志と正気を持ったまま。
「それではおやすみ、良い夢を。」
彼女が最後に見たのは、暖かな紅色。