始まりの終わり、そして
そこには何もなかった。 空も、地面も、芝を刈った後の青臭い匂いも、焼いた肉や魚の味も、耳がもげる寒さも、ただ人々が毎日を過ごしている喧騒も、何もなかった。 唯一つ例外があるとすれば、誰かの純粋な命への渇望だろうか。 ただ、それは渇望と言うよりは執着と呼ぶに相応しい程に捩れ歪んでいた。
そんな中で唯一在る、右耳の酷い痛み。 心臓のようにそこはどくんどくんと苦痛を伝え、呪いの言葉をクィエルの頭に流し込み続ける。 しかし体から切り離された人形は、ただ黙ってそれに耐える事しかできなかった。
そこに聞こえてきたのは黒い声。
“己の心を殺そうとする敵に会った時に感じるべき感情は恐怖ではない。
己の魂さえ焼き尽くす程の怒りである。
敵が何枚も上手であるならば、共に地獄へと連れて行けば良いだけだ。
人を呪わば穴二つ、と言うだろう?”
-魔術士B(32歳、男)さん、愛娘(3歳)を侮辱されて
【クィエルさんは、長いこと目を覚ましませんでした。
もう幾ら経ったのかも、通常はあるはずの時刻を告げる鐘すらもないのでわかりません。 そもそもここがどこかもわからなかったのですね。 図書館内なのかすらも。 トラップである以上そうであるはずだったのですが。
というか、ここにはもう宵入りも、昇る日も、何もありません。 大きな音がして、クィエルさんが倒れてから、この世界は暗く静かになりました。 草原のざわめきも、巨木の葉が擦れる音もなく、静寂で耳が潰れそうでした。
カーターさんも、クィエルさんを寝かせてるリビングに椅子を持ってきて、一見リラックスしてるようにも見えますが、耳と尻尾はずっと警戒状態でした。 何かがここに侵入しようとしているとの事ですし、まあ当たり前でしょう。
それはそれとして、何も出来ない自分が憎らしいにも程がありました。 カーターさんがなぜ色々と知ってたのかは気になりますが、そんな事を気に止めておける状態じゃなかったのですね。
アレイさんなら、何か思いついたんでしょうか。 アレイさんはこんな時、どうするんでしょうか。 馬鹿な私には、わからなかったのです。 もうちょっとこう、勉強とかまじめにやってれば何か出来たんでしょうか。
その時から感じていた、何かぴりぴりした感覚。 肌が痒いのか痒くないのか、ぎりぎりのラインのそれ。 予兆だったのでしょうね、今から思うと。
「来たな。」
またカーターさんが音も立てずに立ち上がっていました。 さすが猫。
「そうなのか。」
「ああ。 坊ちゃんはどうする?」
「この子に付いている。」
「そうか、じゃあ俺もそうしよう。」
せっかく立ち上がったカーターさんが座りました。
「なぜ?」
「撃ち漏らす可能性もある。 そんな時、守らなきゃならん奴抱えて満足に立ちまわるのは無理だろう。」
「全部燃やしてしまえば良い。」
「クィエルはどうするんだ?」
「燃やさなければ良い。」
「だからそれをどうするんだと。」
「クィエルだけならやりようはある。」
「…そうか、じゃあ俺は外に出てくる。 何かあったら呼べ。」
「わかった、ありがとう。」
「ん。 …さようなら。」
ぼそりと呟かれた最後の言葉を理解して顔を上げた時には、ドアは閉められていました。 こんなシチュでさようならなんてフラグってレベルじゃありませんよね。 あのヒトなんか近々結婚する婚約者か、残してきた若い妻と幼い娘でも居るのかと思いました。
とりあえずの静寂。 それから聞こえてきた何やら整頓された無数の金属的な足音に、思わず私はクィエルさんの側を離れ外を見に行ってしまいました。 見えたのは、ちょうど丘の麓にたどり着いたカーターさんと、向こう側に見える雑多な虫の形をした、ロボットロボットしている何かの集団。 というかそもそもカマキリやカブトムシならともかく、なんでゴキブリの形のまであったんでしょう。 作ったヒト、趣味悪いってレベルじゃないですよこれ。 けっこう精密に作られているらしく、動きまでそっくりでした。 わりと本気で怖いです。
そこでカーターさんが視界に入って来ました。 付いて行きたいのはやまやまなれど、この子を置いて行く訳には行きませんし…と思っていたら、なんか変身しました。 大きくて可愛い猫さんですが、どうみても影のようで、実体が無いような感じの、一見化け物のような何かに。 というかまるでクマのような堂々とした立ち振舞いでした、あんなのの前には立ちたくないですね。 …おお、吠えました。 こっちの耳までびりびりした程に大きい声です。 さすがに虫達も少し歩みを止めましたが、かといって完全に止まった訳ではありません。 生物じゃないと物理攻撃にしかならないんでしょうね。
そしてぶつかる2勢力。 相手は物量的に圧倒しているのでどうなるかな、とも思いましたが、何か凄い事になってました。 金属噛み砕くとかどうなってるんでしょうあのヒトの牙。 私の目ですら追えないスピード出せる上、身長の十倍ぐらいあんな重そうなの吹っ飛ばすとか、筋力凄すぎです。 それとも魔力で補填でもしてるんでしょうか。 とりあえずカーターさんはチート級ってのはわかりました。 戻ってきたらご機嫌とか取ったほうが良いんでしょうかと一瞬思いました。 さすがにあんなのには勝てませんよ私。 古の勇者でさえそんな事が出来たなんて記録残ってないのに、ほんとなんなのでしょうあの猫さん。
そんな事を思っていたら、刺されました。 左脇腹を、おもいっきりざっくりと。 ちなみにこれ、後でわかったんですが、呪い掛かってました。 なんてえげつない。 腹は避けても、これじゃ意味ないですね。 それでも刺さったままならまだともかく、抉りながら引きぬかれました。 呪いと出血多量、どっちで殺したかったんでしょうか。 死ねばそれでよかったんでしょうか、どっちにしても無駄でしたけど。
「…クィエル、何故私を刺した?」
どのような場合でもわりと冷静に動こうと努めてはおりますが、当時の脳内は結構パニック中でした。 そりゃ味方だと思ってた子に刺されましたからね、混乱もしますよ。 なにはともあれ、患部をあまり刺激しないようにゆっくりと振り向くと、無表情なクィエルさんがいらっしゃいました。 結構ビビるものですよ、知り合いに無表情で見つめられると。
「…お前が、」
「私が?」
「お前が居るから、また戻ってきたから。」
わけわかめな理論でした。 戻ってきたって、私は別人なのにね。 同じでもありますが。
「お前さえ居なければ、それで良い。 お前さえ。」
「とりあえず、お前誰だ。 人違いじゃないのか?」
「黙れセンクレスト。 ここはもう己の物だ、お前は要らない、必要ない。 何度戻ってきても無駄だ、お前は喜ばれていない。 出て行け、出て行かせてやる。」
色のない言葉の羅列。 感情がないってこんなに聞いてて不愉快になる物でしたっけね。
「センクレストなんて知らん、私は千尋だ。」
「『千』を抱くそれが雄弁に物語っている。 嘘などついても無駄だ。」
一歩づつ、クィエルさんの体を取ったそれが近づいて来るのを見ながら、私は荒い息を吐いていました。 痛みと流れ出る血で頭が朦朧としはじめたんです。 わりとヤバイみたいな。 チョベリバ? みたいな?
ちらと見た外では、カーターさんがなんかさっきより生き生きしてました。 戦闘するの好きなんでしょうか。
「他人の心配か、余裕だな。 どうせこれで四回目だ、さっさと諦めたほうがお前も楽だろう。 さあ、死ね。 死んで出て行け。」
その言葉と共に刺される私の滑らかなお腹。 結構気に入ってたんですが、しょうがないので刺されてやりました。 そしてそのまま左手で手首を掴み、右手でクィエルさんの頭を壊しました。 あんな変なのに付かれてるよりは、壊してやったほうがクィエルさんの為になりますしね。 固定してる入れ物さえなければ、クィエルさんの魂は死者の国に強制的に引っ張られますし、そんでそのまま転生するでしょう。 次はもっと良い人生になる事を祈ります。
ぐらりと後ろに倒れこみ、床にぶつかったと同時に砂となったクィエルさんの体を見ながら、私も膝を付きました。 やけにあの初心者さんから貰った耳飾りが目につくのは何故でしょう。 そんな事より、カーターさんは大丈夫でしょうか。 …いえ、おそらく心配自体が無用でしょう。 目が霞み、横にならなければならない頃には、脳内麻薬が出始めたのか痛みがなくなってました。 良いねエンドルフィン。 そして私は、一人ぼっちで目を閉じました。】
誰も居なくなった部屋に、音も立てずに長く黒いローブを来たヒトが現れた。 そのヒトはゆっくりと耳飾りに近づくと粉々に粉砕し、それが色を失ったのを確認すると、動かなくなった千尋の体を軽々と抱え上げソファに寝かせた。 外ではまだ戦闘音が聞こえていたが、そのヒトがふと顔を上げると一瞬にして喧騒が終わった。
そのヒトはどこからか椅子を出すとこれまた音もなく座り、千尋の穴の空いた体などを綺麗にしはじめた。 そこにカーターが扉を開け、そのヒトがそこに居る事にさしたる疑問もないように話しかけた。
「ん、来ていたのか。 …何をしているんだ?」
「お帰り、僕達の猫。 また使えるようにしてるんだよ。 いくら基盤が埋まったとはいえ、まだ要石が居ないのはちょっと不味いからね。 …ちーちゃんは本当に良くやってくれたよ、おかげで全部予定通りだ。」
「そうか。 で、その中身…センだったか千尋だったか、はどうなったんだ?」
「お家に帰ったよ。 今頃、自分家の造り主様からネタばらしされて怒ってるんじゃないかな。 ちーちゃんとこの方はうちのと違ってイタズラ好きだからね、貸出の際に記憶を取り除いた挙句何も言わなかったんだって。 あれで短い期間とは言え貸出出来るぐらい優秀なんだから、厄介ってレベルじゃないよねぇ。」
そのヒトは微かに笑い声を漏らした。
「…なんか変だと思ってたら、何も知らなかったのか。 なんともまぁ…うん、まあいい。 で、これからどうするんだ?」
「うん、とりあえずはこれをあーちゃんに貸し出すよ。 動かす魂も必要だし、丁度いいからね。 あーちゃんも娘さんと会えて嬉しいだろうし、一石二鳥ってやつじゃないかな?」
「…その体を使うと、どうしても元の中身を思い出すと思うんだが。 そもそも、そいつに付いてきてた奴らはどうするんだ?」
「慣れてもらうしか無いねー。 記憶消したらやった事が無駄になっちゃうし。 あーちゃん以外の子は、ちゃんとちーちゃんが入ってた際の記憶は受け継がせるし、大丈夫じゃない?」
カーターは諦めたように、一度息をついた。
「なんで溜息なんて付くんだい。 傷つくじゃないか。」
「傷つくほどの心があった事にびっくりだ。」
「ひっどいなぁ。 僕達は自分の身まで削ってるのに。 この体を作るのにどれだけ苦労したと思ってるんだい?」
「過程が基本的に鬼畜すぎるんだよお前らは。 …もういい、で、ちゃんとセンクレストは生まれたんだな?」
「もちろん、ようやく世界は思い出してくれた。 …長かったよ。 本当に長かった。」
はぁ、とそのヒトは短い溜息を一つ付いた。 そしてそれは、本当に本当に嬉しそうに、笑いを零す。
「さて、反撃、開始だよ。」
怒っているのは、誰でしょう。
何はともあれ、この世界での千尋の物語は一旦止まります。 こんな初心者の投稿を読んでくださった方々には恐れ入る思いでございます。
次作、「ありがとうを捧げたい」は千尋の居た時より三百~四百年経っており、マルチ主人公の形式で進行していきます。
(今作よりプロットのディティールは詰めてあります)
もし良ければ、こちらの方もお付き合いくださると嬉しいです。
http://ncode.syosetu.com/n9815bm/
また、千尋の物語の再開は中盤~終盤あたりからとなります。 ただ、登場は序盤からですので、興味のある方は探してみてください。
「そういや、祭りはどうなってんだ?」
「普通に進行してるよ? ここに連れてきたのだって、他の子達に被害が行かないようにだもの。」
「ああ、そういう…あれ、つーかこいつらにイヤリング渡した奴はどうした?」
「逃げられた。 ちょっと目を離した隙に消えちゃった。 さすがに駒を大事にするようになったみたいだね、めんどくさくなるよこれから。」
「俺、帰っていいか?」
「ダメ。」
「ですよねー…」