沈黙の暗殺者
ゼノンが去った後も、
牢の空気は、しばらく冷えたままだった。
腹の奥に残った鈍い痛みをこらえながら、
俺は壁にもたれ、ゆっくりと息を整える。
すると――
「……運が悪いな、新入り」
静かな声が、
隣の房から聞こえた。
低いが、よく通る声だった。
姿は見えない。
だが、気配だけは、はっきりと分かる。
「聞こえていたのか?」
「ああ。
あの副看守長の足音は、嫌でも耳に入る」
それきり、声は止まった。
しばらく沈黙が続き、
俺のほうから口を開く。
「俺はアルス。
あんたは?」
「名乗るような者じゃない。
ただの囚人だ」
会話は、そこで終わるかと思った。
だが、数秒後、
その男は、ぽつりと続けた。
「……まあ、皆は“沈黙の暗殺者”と呼ぶ」
「暗殺者……?」
「過去の話だ。
今は、ただの囚われの身よ」
殺気は、まるでない。
だが、その語り口には、
不思議な重みがあった。
◆
「ところで、ひとつ聞く」
暗殺者が、静かに言う。
「——なぜ、息を殺した?」
「いつの話だ?」
「ゼノンが、目の前に立った瞬間だ。
お前、呼吸を一拍、ずらしたな」
心臓が、一瞬止まりかけた。
ゼノンだけでなく、
この男にも、見抜かれていたのか。
「……ただの癖だ」
「嘘だな」
淡々とした声。
責めるでもなく、
詰問するでもない。
ただ、“気づいた”という口調。
「お前は、何かを隠している」
「……隠してなんて——」
「隠しているさ」
即答だった。
「だが、安心しろ。
俺は、誰にも言わん」
「なぜだ?」
「生き延びたい奴は、
余計なことを言わない」
その言葉には、妙な説得力があった。
◆
「……さっきのゼノン、やばいな」
暗殺者が、低く息を吐く気配がした。
「“やばい”どころじゃない。
あの男は、殺し屋より厄介だ」
「何も見ず、理由もなく――
“察知”する」
「察知……?」
「俺は、人の歩き方や重心のズレで、
“次の動き”が読める」
「だが、ゼノンは違う」
声が、わずかに低くなる。
「あれは……嗅ぐんだよ」
「嗅ぐ?」
「空気の違い。
呼吸の癖。
迷いの匂い」
「そういうものを総合して、
“直感”で動く」
その声に、初めて“恐怖”の色が混じった。
「俺も何度か試したが……
あの男の前では、隠密も嘘も通用しない」
計算不能の敵。
予測不能の本能。
ゼノンという存在の異常さが、
あらためて胸に重くのしかかった。
◆
「だが——」
暗殺者が、わずかに声を潜める。
「お前には、何か“別の匂い”がある」
「……は?」
「普通の囚人にはないものだ」
「何かを“測る目”を持っていた奴の匂いだ」
胸の奥が、ひくりと鳴った。
(……まさか、能力のことか)
もちろん、今の俺には、
数式の一つすら見えない。
ただの囚人のはずだ。
◆
「安心しろ。
俺は詮索しない」
暗殺者は、静かに言った。
「ただ……
もしお前が“出たい”と思うなら」
「協力してやってもいい」
その一言は、
冷たい監獄の中で、
ほのかな灯りのように響いた。
◆
だが、次の瞬間。
廊下の奥で、
金属音が鳴った。
暗殺者の気配が、
一瞬で消える。
「看守だ。
黙れ」
乾いた警棒の音が、
規則正しく近づいてくる。
俺は、息を殺し、
暗闇に溶けるように沈黙した。
◆
やがて、足音は遠ざかった。
その後で、
暗殺者の声が、再び囁かれる。
「……一つ、忠告だ」
「この監獄で、一番恐ろしいのは、
ゼノンでも、結界でもない」
「じゃあ、何だ?」
「“考え続ける囚人”だ」
その言葉が、胸の奥に沈んでいく。
「考えている奴は、必ず“行動”する」
「そして、この監獄は――
行動した瞬間に、潰される」
◆
理解した。
能力を失った今の俺の計画は、
ただの“危険な想像”でしかない。
それでも――
「それでも、俺は出たい」
暗殺者は、
それを聞いても、笑わなかった。
「なら、正しい静けさを学べ」
「静かに動き、
静かに考え、
静かに機会を待て」
「できるか?」
「……やってみる」
「よし」
短い一言。
「これで、お前は、少しだけ死ににくくなる」
◆
冷たい鉄と、
底の見えない絶望の中で。
その夜、
俺は初めて、
“味方”と呼べる存在を得た。




