嗅覚の番人
鋼鉄の檻に放り込まれた翌朝、
俺は“音”で目を覚ました。
――カン。
固く、短い金属音。
警棒が床を叩く、監獄特有の合図だ。
続いて、鉄格子の向こうを
無数の足音が一斉に流れていく。
整列。
点呼。
そして――
選別の時間。
◆
「新入り、出ろ」
看守に名前すら呼ばれず、
俺は通路へ引きずり出された。
周囲には、
俺と同じ“初日組”が五人。
誰一人として、
まともに顔を上げられる者はいない。
重たい沈黙が、
点呼場を支配していた。
◆
「……なるほど」
そこで、初めてその声を聞いた。
低く、静かで、
感情の揺れが一切ない声。
だが――
なぜか、背筋が凍るような感覚だけが、
一瞬で駆け抜けた。
◆
「これが、例の“賢者”か」
視線が向けられる。
ゆっくりと、
黒い長外套を揺らしながら歩いてきた男。
年齢は三十代後半ほど。
表情は冷静そのもの。
だが、その目だけが違った。
人を見る目じゃない。
――獲物を見る目だ。
◆
「副看守長、ゼノン・グレイブだ」
看守が、そう紹介する。
その名を聞いた瞬間、
周囲の囚人たちの空気が、
目に見えて沈んだ。
◆
「……妙だな」
ゼノンは、俺の目の前に立ち、
ゆっくりと首を傾げた。
「記録上は、爆殺犯」
「だが、匂いが違う」
――匂い?
◆
「恐怖、憎悪、諦観、虚無……」
淡々とした口調で、
囚人たちの前を歩く。
「ほとんどの犯罪者は、
このどれかの匂いを、必ず纏っている」
そして、俺の前で止まった。
◆
「だが、お前からは――」
鼻先が、
ほんのわずかに近づく。
「“静かすぎる”」
その瞬間、
全身に冷たいものが走った。
◆
「怯えていない」
「怒ってもいない」
「自分を正当化もしていない」
ゼノンは、
俺の内側を、覗くように見つめる。
「……まるで、
“この状況をすでに理解している者”の匂いだ」
◆
「俺は無実だ」
そう言うと、
ゼノンは、初めて僅かに口角を上げた。
「それは、
“俺が決めることじゃない”」
◆
次の瞬間。
警棒が、俺の腹に叩き込まれた。
◆
息が潰れ、
膝から崩れ落ちる。
だが、ゼノンは一切の感情も見せず、
ただ一言だけ言った。
「ここは“無実”で生き残れる場所じゃない」
◆
「生きたければ、
“囚人の匂い”を身につけろ」
そう言って、
何事もなかったかのように背を向ける。
◆
倒れ込む俺の横で、
他の囚人たちは、
一切声を上げなかった。
叫ぶ者も、
抗議する者もいない。
それが、
この監獄の“正しさ”だった。
◆
点呼が終わり、
俺は再び、独房へ戻された。
内臓が、痛む。
呼吸が、浅い。
だが、それ以上に痛んだのは――
ゼノンという存在が、
「計算不能」だと理解してしまったことだった。
◆
(……あの男は、理屈じゃない)
解析できない。
予測できない。
だが、確実に“嗅ぎ分ける”。
それは、
俺の“超解析”とは正反対の能力。
本能だけで、真実に近づく怪物。
◆
その夜。
鉄格子越しに、
誰かが、低く囁いた。
「……目、つけられたな。新入り」
「誰だ」
「気にするな。ただの囚人だ」
わずかな気配だけが、
闇の向こうに残る。
◆
「忠告しとく」
その声は、
ひどく静かだった。
「ゼノンに嗅がれたら、
ここでは終わりだ」
そう言って、気配は消えた。
◆
俺は、暗闇の中で目を閉じた。
冤罪。
封じられた能力。
そして、
“嗅覚の番人”ゼノン・グレイブ。
この監獄で、
最も危険なのは、結界でも鉄格子でもない。
――あの男だ。
そう、はっきりと理解した夜だった。




