嗅覚の番人
地下区画の空気が、わずかに揺れた。
音はない。
振動もない。
警報も鳴っていない。
それでも、
**“何かが来る”**という感覚だけが、
はっきりと胸の奥に触れた。
俺は、反射的に視線を走らせる。
看守の配置。
巡回の経路。
結界の流れ。
すべて、計算どおり。
この区画に入って来られる存在は、
今の理論上――
“存在しない”はずだった。
それなのに。
「……来てるな」
ぽつりと、俺は呟いた。
グラムが、鋭く眉をひそめる。
「誰だ」
俺は答えなかった。
答えが、すでに一つしかないからだ。
ゼノン。
その名を思い浮かべた瞬間、
視界の奥で、
“読めない点”が、
わずかに輪郭を持ち始めた。
それは、
数式では表せない動き。
確率にも乗らない進行。
ただ――
“違和感”だけが、
確実にこちらへ近づいてくる。
「……ありえねぇだろ」
グラムが、低く吐き捨てる。
「ここは結界の最奥だ。
巡回が踏み込む理由がねぇ」
理屈は、その通りだった。
だが――
ゼノンは、
理屈で動く男じゃない。
次の瞬間。
結界の縁が、
わずかに“歪んだ”。
魔力が破られたわけでも、
解除されたわけでもない。
ただ、
空気が、ずれた。
その歪みの中央から、
一人の男が、
何事もなかったかのように歩き出てくる。
――ゼノン・グレイブ。
静かな足取り。
乱れのない呼吸。
こちらを“見ている”わけでもないのに、
視線だけが、
一直線に俺を捉えていた。
「やはり、ここだったか」
低く、落ち着いた声。
理屈も、証拠も、
何一つ揃っていない。
それでも――
この男は、迷っていない。
「この辺り一帯の空気が、
さっきから、
ずっと“軽すぎる”」
ゼノンはそう言って、
床に落ちていた小さな金属屑を、
指先でつまみ上げた。
それは、
グラムの装置から剥がれ落ちた、
微細な欠片。
証拠としては、
ほとんど“無価値”なものだ。
だが、ゼノンは、
それを“嗅ぐ”。
目を閉じ、
ごくわずかに、息を吸った。
「……やはり、だ」
その瞬間、
背筋に、冷たいものが走った。
嗅がれた。
魔力でもない。
汗でもない。
血でもない。
ただ――
“世界の流れが変わった匂い”を、
この男だけが、
正確に嗅ぎ取っている。
「ここにいるのは――
“賢者”だな」
はっきりと、
俺を見て言った。
その言葉が発せられた瞬間、
俺の頭の中で、
無数の回避ルートが走る。
左。
右。
背後。
天井。
結界の継ぎ目。
どれも――
“逃げられる”と計算が出る。
「アルス……!」
グラムが、一歩前に出ようとする。
リオルも、
すでに別の出口に体を向けていた。
だが、
俺は、動かなかった。
いや――
動けなかった。
理由は一つ。
目の前のこの男だけは、
**どの未来線にも、必ず“追いついてくる”**からだ。
「……なぜ、分かる」
俺は、問いを投げた。
ゼノンは、
ほんの一瞬だけ口角を上げる。
「分からん」
即答だった。
「だが――
“違う”という感触だけは、
最初から、ずっとあった」
それが、
この男のすべてだった。
理屈を持たない代わりに、
間違えない本能を持つ存在。
「お前がここに来た瞬間、
この監獄の空気が、
ほんの少しだけ、軽くなった」
「それが、
気に入らなかっただけだ」
俺は、
はっきりと理解した。
この男は、
“自由の匂い”を、
誰よりも嫌っている。
「賢者」
ゼノンが、一歩踏み出す。
床の石が、
ごく小さく鳴った。
「その目で、
すでに全てを見ているつもりだろう」
「だが――」
その一歩が、
俺の計算より、
“半拍だけ早かった”。
「お前のその“未来”は、
必ず、俺が折る」
知性と本能。
数式と嗅覚。
この瞬間、
初めて――
完全に正面から、ぶつかった。




