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第9話 嫌な思い出

この時間が、ずっと続けばいいのに。陽菜と並んでいるだけで、不思議と心が落ち着いていく。彼女の声、笑顔、何気ない仕草。全部が癒しになって、胸の奥のざわめきが消えていくようだった。


ガラス越しに広がる青空。

カップの結露が机に垂れて、冷たい甘さが喉を通っていく。

けれど、顔の熱はぜんぜん冷めない。隣を見ると、陽菜はワッフルを小さく切り分けて、もぐもぐと食べていた。頬を少し膨らませて食べる姿は、どこか子どもっぽい。気がつけば、その何気ない表情すら愛おしく見えていた。



   怖い。こんなふうに、幸せを意識するのが怖い。



次の瞬間、唐突に脳裏に蘇ったのは、元カノの顔だった。


最後に会った日の記憶。あの日、二人並んで見た夜景。彼女は笑っていた。ほんの少し疲れたみたいな笑顔だったけど、それでも


「大丈夫だよ」


って言ってくれた。


その言葉を信じた俺が、どれだけ馬鹿だったか、後になって気づいた。気がつけば彼女は遠くに行ってしまって、残ったのは理由もわからない終わりの感覚だけ。


思い出すたびに胸の奥に棘が刺さる。抜こうとしても、いつまでも残ってしまう棘だ。今のこの幸せすら、その痛みを呼び起こす引き金になる。

胸がぎゅっと締め付けられて、息が苦しくなる。頭がくらっとして、思わず咳き込んでしまった。


「たくみ、大丈夫!?」


陽菜が慌てて振り向き、俺の背中に手を当ててさすってくれる。温かい体温が伝わってくる。その優しさに救われるはずなのに、嫌な記憶と混ざって、余計に心が乱れた。


「大丈夫。たまになっちゃうんだよね…」


なんとか笑って答える。声が少し震えていないか不安になる。


「そっか。でも、ほんとにしんどい時は言ってね」


陽菜の真剣な目が、胸に刺さる。嘘はついていないけど、本当のことも言ってない。それでも、その優しさが嬉しくて、どうしようもなかった。


「ありがとう」


短く返すと、陽菜は安心したように笑った。その笑顔で、少しだけ胸の痛みが和らぐ。まるで、元カノの残した棘の存在を、ほんのひととき忘れさせてくれるようだった。


食事を終えて、二人で同じビルの本屋へ移動する。広いフロアにずらっと並んだ棚。紙の匂いと静かな空気に包まれて、さっきまでざわついていた心が少しずつ落ち着いていく。


「わ、これ出てるんだ!」


新刊コーナーの前で陽菜が足を止める。手に取ったのは、恋愛漫画の最新巻。表紙のカップルがきらきらとした笑顔で寄り添っている。


「買っちゃおうかなー」


と言って、レジに向かう。その背中を見ているだけで、自然と口元が緩んでしまう。無邪気すぎて、見てるだけで癒される。


「そういうの読むんだね。なんか意外」


レジを終えた陽菜に声をかけると、彼女は得意げに笑った。


「恋愛ってこういうのなんだーって想像するだけでドキドキするの!」


「俺も恋愛のラノベとか漫画よく読むよ」


「一緒だね!あと私、恋愛したことないからこういうのに憧れるんだよね」


「それも一緒だね」


「ほんとかなぁ? それにしては女の子の扱い方、結構慣れてたけどなー」


茶化すような声色。でも、その笑顔に裏がないのはわかる。俺に向ける視線が、真っ直ぐすぎるくらい真っ直ぐで、凄く可愛い。


そして、ふと俺の心の奥がざわついた。


「陽菜ってさ、男慣れしてないよな」


「急にどうしたの?」


「いや……中高一貫のお嬢様学校だろ。こんなふうに一緒に歩いてくれるなんて、ちょっと信じられなくて」


「ふふっ、そんなに珍しいことかな」


「珍しいよ。俺なんかと一緒に歩いてくれるなんて…すげー嬉しい」


「そっか…」


陽菜が頬を赤らめながら小さく笑う。その笑みは柔らかいのに、不思議と胸の奥がきゅっと締めつけられた。


だけど同時に、また怖くなる。この幸せも、突然終わってしまうんじゃないかって。


本屋を出るとき、陽菜が漫画の袋を大事そうに抱えて笑った。その横顔を見ながら、俺の胸の奥で刺さったままの棘が、ほんの少しだけ溶けていくのを感じた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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