第3話 再開
夏期講習の初日。
重たい空気をまとった校舎に足を踏み入れるだけで、じわじわと気だるさが心に押し寄せてきた。
「なぁ、タク。やっぱ塾ってのはさ、独特の匂いするよな」
隣で海斗が鼻をひくつかせる。インクと紙、冷えすぎたクーラーの風、そして焦りを孕んだ空気。慣れていないせいか、さらに気だるさが増す。
俺たちが選んだのは大手の集団塾。難関私立コースの夏期講習だ。朝早く、教室には既に数十人の生徒が集まり、ざわめきの熱気に押し潰されそうだった。
数時間の授業は、想像以上に早く過ぎた。黒板を追いかけるだけで精一杯。必死にノートを埋めても頭に残るのは、周りとの差への焦りばかりだ。
その横で海斗は堂々と寝ていた。
「ん…終わった?」
「お前、絶対一文字も聞いてないだろ」
「明日から本気出すって」
呆れながら荷物をまとめ、廊下に出る。すでに帰り支度の生徒たちでごった返していた。
「なぁタク、腹減った。ラーメンでも食ってかね?」
海斗の声に曖昧に頷き、出口へと歩を進める。
外へ出ると太陽の眩しさと熱気に体が包まれた。
その時だった。
視界の端に、ふっと映ったもの。
太陽を照り返す美しく長い黒髪。風を受けてふわりと揺れ、甘い香りが漂う。背筋をまっすぐに伸ばし、周囲のざわめきとは明らかに違う空気を纏う一人の女子。
(……綺麗な髪だな)
思わず目を奪われた。黒曜石を砕いて散らしたみたいに深く艶めく黒。その輪郭を縁取るように、淡い光が差し込んでいる。
すれ違う生徒たちの視線さえ、自然と彼女へと吸い寄せられていた。
何か懐かしさを感じたが、俺とは関係ない。そして横を通り過ぎようとした瞬間、
「もしかして、匠海くん?」
耳に飛び込んできた名前に、驚きを隠せない。
振り返ると、さっきの黒髪の女子が、真っ直ぐこちらを見ていた。涼やかな瞳が、俺の全てを射抜くように。
「え?」
声が掠れる。知らないはずの顔。だけど、その奥に微かに見覚えのある表情があった。
「すっげー美人。タク、知り合いか?」
海斗が怪訝そうに俺を覗く。
「いや、特に…」
女子はにこりと笑って、一歩、俺へと踏み出した。間近で見ると、息が詰まるほど整った顔立ち。化粧は薄いのに、輪郭がくっきりしていて、まるでモデルのように垢抜けている。制服の着こなしも洗練されていて、姿勢も所作も自然に美しい。
けれど、その笑みの温度だけは、なぜか懐かしかった。
近くに寄ってきて顔を覗かれる
「やっぱりたくみくんだ! 全然変わってないね」
「えっと…」
「忘れちゃった? 星乃陽菜。小学校まで一緒だったでしょ?」
「ひな?」
瞬間、胸の奥がざわめきに弾ける。
錆びついた記憶が、鮮明に蘇った。一緒に通った学校、中学受験、合格した時、泣きながら喜んだあの冬。
でも、その記憶にある陽菜と、今目の前にいる彼女とは、まるで別人だった。
いつも髪は肩で切られていて、笑うと八重歯が見える。誰とでも分け隔てなく話すけれど、見た目は特別目立つ存在じゃなかった。
ただの気さくな幼馴染、それが俺の知っている陽菜のはずだった。
黒髪がきらめき、陽菜が笑う。その笑顔は確かに昔のまま。けれど、そこに重なる大人びた雰囲気が、俺の心を強く揺さぶった。
「おいタク、やっぱ知り合いだろ?」
「幼馴染」
「マジかよ!?こんな可愛い子の知り合いが居たなんて…何で今まで黙ってたんだよ!」
「黙ってたんじゃなくて…」
動揺して言葉が詰まる。陽菜は楽しげに笑い、俺をじっと見つめ続けていた。その視線に、昔の記憶と今の現実がぐちゃぐちゃに混ざっていく。
彼女は確かに陽菜だ。けれど、あの頃の幼さは跡形もなく消えていて、ただ「再会した」というだけじゃなく、「知らない人に出会った」ような感覚。
俺の胸は、熱と冷たさが同時に押し寄せて、どうしようもなくざわめいていた。
その瞬間、蝉の声が一斉に鳴った。
運命の歯車が、音を立てて回り出した気がした。
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