第10話 優しさ
夏の日差しが傾きはじめた夕方、俺と陽菜は駅へと歩いていた。
彼女の家も俺の家も、同じ地下鉄沿線。だから自然と、同じ改札へと向かうことになる。
「ごめんね、チャージしてくる」
陽菜が小さく笑い、券売機の前に立つ。
風が頬をかすめ、少し涼しい地下の空気が、胸のざわめきを和らげてくれる気がした。
そのときだった。
「匠海?」
振り返った瞬間、心臓の鼓動が急に早くなった。
桐島紗菜。
元カノだ。名前を呼ばれて、あの嫌な記憶が急に蘇る。
肩までかかる金髪は蛍光灯の光を受けて艶めき、笑ったような口元の影には、昔の軽さと同時に、どこか体が受け付けないような気味の悪さが混ざっていた。
「お前…」
言葉を発した瞬間、喉の奥が焼けるように熱くなる。
「やっぱり。あのDM、既読無視したでしょ」
紗菜は腕を組み、少し拗ねたように俺を見上げる。
「当たり前だろ。お前、何をしたか忘れたのか?」
「それは…謝ったじゃん。あの時だって」
紗菜はそっと視線を逸らす。開き直ったような口調で喋りかけてくる。俺の心は怒りと恐怖で溢れており、言葉も出なかった。
「お待たせ!」
その瞬間、陽菜が駆け寄ってきた。小さな財布を握り、ぱっと俺の隣に立つ。
その柔らかい存在感に、空気が一瞬凍りついたように感じた。
「誰、その女」
紗菜の声は低く、鋭さを帯びていた。
俺は自然と陽菜との距離を詰め、守るように立つ。
「お前には関係ないだろ」
声が思わず荒くなる。心臓が早鐘を打ち、背中に汗が伝う。
紗菜は薄く笑った。その笑みには、昔の軽さだけでなく、消しきれない未練の影というのが潜んでいそうだ。
「まあいいや。私、匠海の学校の文化祭に行くから。その時、ちゃんと話そ」
そう言い残し、紗菜は人混みの中へと消えていった。
残されたのは、冷たい静寂と、俺の鼓動だけ。耳の奥で心臓が鳴り響き、肩の力が抜けない。
「今の…前言ってた元カノさん?」
陽菜が恐る恐る尋ねる。
その声に、俺は少し肩を落とす。無理やり笑おうとしたけれど、声が震えている。
「うん。ごめん、変な現場に付き合わせて」
頭の奥で、嫌な記憶が次々に押し寄せる。笑っていた日々、突然の裏切り、踏みつけられたような感覚に胸の奥がぎゅっと締め付けられ、息が詰まる。
鮮明に記憶が蘇り、冷や汗とふらつきで、今にも倒れそうになった。
そのときだった。
陽菜はそっと腕を回し、俺の体を抱きしめた。
少し驚いたが、不思議と抵抗感はなかった。
「たくみがどういう風に浮気されたかは知らない。でも、今の顔を見れば…だいたいわかるよ」
彼女の声は小さく、でも優しさに満ちていた。
「仮だとしても、私は彼女なんだから。辛い時は私に頼っていいんだよ。たくみは一人じゃないから」
その言葉が、まるで温度を持って胸に沁みる。
陽菜はゆっくりと俺に話しかけてくれる。
「面白い友達だっているじゃん。たくみのこと、ちゃんとわかってくれる人はいるんだよ」
涙が勝手に溢れた。
情けないと思う気持ちよりも、心の奥から湧き出す安堵が強すぎて、止められなかった。
陽菜の温もりと、視線の優しさに、俺は少しずつ息を整えながら、心の奥に残ったざわめきを抑え込もうとする。
「ありがとう…」
小さな声に、陽菜はにっこり笑った。
二人でホームに立ち、電車を待ちながら、少しだけ沈黙が流れる。
「ごめん…恥ずかしいところ、見せちゃった」
俺が小さく呟くと、陽菜はそっと笑みを浮かべた。
「ううん。人の辛いところ見て、放っておける人なんていないよ」
その優しさに胸がじんわりと温かくなる。
「ありがとう。やっぱり、陽菜は優しいな」
「ふふっ。あとね、たくみの可愛いところも見れたから、ちょっと得した気分」
頬をほんのり赤くして冗談めかす陽菜に、俺は思わず顔を覆う。
「や、やめろよ!恥ずかしいから思い出させないで!!」
必死に隠す俺を見て、陽菜は小さく声を立てて笑う。
その笑い声がホームの空気に柔らかく溶け込み、少しだけ心が軽くなった気がした。
電車の心地よい音が俺たちを包み込む。二人だけの小さな時間が、ゆっくりと過ぎていくのを感じた。
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気づいたら日間ランキング12位になってて、凄くびっくりしました。
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