第172話 命とは
時は少し遡り、セイジェルと交戦中のクオンがデスと交代した頃。後ろをクオンに任せて先を進む事にした流離と幻は、各階の端の方にある折り返し階段を登っていた。……後続には大量の警備員を携えて。
「待てぇ侵入者共!」
「貴様らを捕縛すれば昇給が狙えるんだぁ!」
「もう結構登ってる筈よね……!まだ諦めてくれないのかしら……!」
「仕事なのだから当たり前だ」
幻は『はぁはぁ』と息を切らして、階段を浮遊したまま登っているのに対し、流離は息を切らすどころか汗1つかかないまま2段飛ばしで階段を登っている。
「飛んでいるのに疲れるのか?」
「徒歩だって続けていれば疲れるでしょう……!」
「……ハァ。来い」
「えっ、何を……きゃっ!」
流離は登るのが遅い幻に痺れを切らし、彼女の色白な手を掴んでそのまま幻を抱き抱えた。
「掴まっていろ。片手だから上手くは支えられないぞ」
「え、ええ……その……重くはない?」
「ああ。口は閉じていた方が利口だと思うぞ」
流離は常から刀を腰に差さず、わざわざ左手で持ち歩いているのだ。
長らく夢界に居た事もあって、幻にとっては他人とここまで距離を詰めるのは久しぶりだった。幻は年齢差から流離の事を弟のように思っていたが、少なくともこの時はその限りではなかったという。普段は流離に甘えたりする事などないのだが、この騒乱のどさくさに紛れて少しだけ、流離に軽く抱きついてみたりもしたらしい。
「チッ……ここで終わりか」
幻が流離の声にハッとして前を向くと、階段がもうそこで途切れていたのだ。まだ最上階という訳ではなさそうだが、何にせよ逃げ場を探さねばならない。
「流離、横にドアがあるわ!あなたはそこから先に行ってて!」
「お前はどうする気だ」
「待っててちょうだい。足止めをするわ……」
流離が先にドアから出ていると、階段の踊り場に残った幻が淡く輝く泡の中から純白の弓を取り出した。
「あいつ……!武器を出したぞ!射撃用意!」
「ごめんなさいね。あなた達に危害を加える気はないから」
そして幻が弓を引き絞って放つのと同時に、彼女の正面……つまり階段のど真ん中に無数の光の矢が降り注いだ。素早く幻が流離の下に戻った瞬間、階段は崩壊して、警備員達の悲鳴が聞こえて来た。
「ふぅ……何とかなったわね」
「助かった。俺とて余計な殺生は避けたいからな」
「私もそれがいいと思うわ。さて、別の道を探しましょう?」
「……いや、待て。俺達は何も考えず直感的に最上階を目指しているが、それは本当に正しいのか?」
「あ、言われてみれば……確かにそうね。道中の階にここの総監が……アノイトスが居るかもしれないものね」
「ならここを探索するか」
そう言って流離が視線を向けた先には、まばらに照明が点灯している何の変哲もない静かな空間が広がっていた。ここはかなりの上階なので、恐らくここで作業をする者はほとんど居ないのだろう。
そんな静かな空間に響く足音が1つ、薄暗い通路の向こうから流離達に近づいて来ていた。
「侵入者というのは君達かね?」
足音の主は裾の長い白衣を着たいかにも『医者』という風貌の青年だった。髪は金色で目元にクマがあり、ポケットに両手を突っ込みながら歩いてくる。
「……ああ」
「そうか。なら……解剖させてもらおうか」
「え……?」
若干違和感のある言葉に、幻は思わず声を漏らす。
「ああ、自己紹介がまだだったね。私は『ルヴニール』。しがない外科医兼……アノイトス君直属の始末人さ。まぁ、後者の肩書きは始末対象にしか教えない秘密なのだが。我が上司であるアノイトス君から命令があってね……『侵入者を始末出来たら死体は好きに使っていい』との事なんだ」
「それが解剖とどう繋がる?」
「私の趣味なのだよ。人間を解剖するのは……私にとって人間を理解する手段なのさ。血の色は、匂いは?脳の形は?骨の強度は?……気になる事が沢山あるじゃないか?」
恍惚とした表情で語るルヴニールの目には、ある種の狂気のような者が宿っていた。しかし、流離は全く動じない。何故なら彼は知っているからだ。今目の前に居る狂気の外科医が常識人に見える程、更にドス黒い狂気に呑まれた人間を。
「……フッ。それが心理攻撃のつもりなら……悪いが俺には効かないな。俺は……お前より遥かに狂っている道化師を知っている」
「ほう……まぁ、別に心理攻撃ではないがね」
流離は別に凄惨な現場を見る事は苦手ではない。むしろ、その現場を生み出して来た側の人間だ。しかし流離の知るその『道化師』は、流離でさえ軽い吐き気を催すような行いをする人物だった。
「母親の腹を裂いて殺した事はあるか?自らの手で眼球を抉り出した事はあるか?自分が殺した者の遺体を縫い合わせて、巨大な肉人形を作った事はあるか?……無いだろう?」
「急に何だね……まぁ無いが」
「……なら、やはりお前は恐るるに足らんな」
流離は軽く鼻で笑いながら刀を抜き、いつも彼が吐く台詞を言おうとする。
「さて、お前は俺の……」
その時、流離の中にある言葉が過った。
『命を……軽く扱いませんよう』
別れ際、仲間が残してくれた言葉だった。流離自身は正直なところ半分聞き流していたが、今になってその意味を理解し始める。
「……好敵手になれるか?」
「いいや。むしろ君になってもらうよ……モルモットにね」
流離は前に幻から説得されて尚、自身の死を望んでいた。否、何なら今この時だってそうだ。しかしクオンの言葉によって……流離本人にも言葉で表し難い、漠然とした心境の変化が起こったのだろう。目的も思考も何1つ変わっていない筈なのに、流離はやたら晴れがましい気分で戦いに望めた。幻が、自身を心の底から大切に思ってくれている者が、確かに居る。そんな思いを胸に秘めて、彼は刀を構えた。




