8.朝
手の中の携帯が震え、意識が浮上する。
目の前に持ち上げると、八時半。アラームをセットしておいたのだ。まったく疲れは癒えていないが、三時間は眠れたか。
作業が終わったのは五時近く。終わったと思った途端に猛烈な眠気が来て、ベッドに倒れ込んだ。
今日の現場は十時集合だ。遅れるとマネージャーがうるさいし、時間を守るというのは最低限気をつけている部分でもある。起きて、シャワーを浴びて、機材を揃えて……と頭の中でルーティンを確かめながら片手で顔を擦り、逆の腕を伸ばしてあくびを一発……したら、伸ばした手が暖かく柔らかいものに触れた。
「……っ」
ハッとして身を起こす。
仰向けに青年が寝ている。────思い出した。そうだ、彼を寝かせていたのだった。
このベッドは、やたら高価なものを揃えようとしていた時期に買った。ひとりで暮らす部屋には似合わないキングサイズで、搬入時に後悔したほどデカい。
買い換えようにも搬出を考えるだけで気が重くなるので、未だに使っているわけだが……いや、去年だったか、マットレスだけ買い換えた、が……。
シーツを交換したのはいつだったか。夏なのでタオルケットなのは幸か不幸か。確か先週、買い換えた、ような気がする。洗うのが面倒なので、汚れたような気がしたら買い換えてるのだ。臭くはあるまい。たぶん。
自分に確かめながら首を伸ばし、彼の顔を覗き込んだ。
目元に少し赤みが残っているが、昨日の輝きも挑戦的な眼差しも無い、疲れた子供のような寝顔だ。泣きわめいていた顔はどこへやら、可愛い、といいたくなるような。……こういう表情も良いな。
いったいいくつの顔を持っているのだろう。
────少し落ち着いた。シャワーを浴びてこよう。
サッパリして目が覚めた。炭酸水を飲みながら機材を揃え……ちょっと気が向いて、寝室へ向かう。手にはフィルムの一眼レフ。
ファインダーをのぞき、露出を絞る。
彼はまだぐっすり眠っていた。よほど疲れていたのか。
表情にはあどけなさが漂っているけれど、鼻筋が通って眉が高い。精悍というには若い、だが整った顔に、窓からの光が柔らかい陰影を付けて、甘さと鋭さを併せ持たせている。
────やはり、いいな。
シャッターを押す重みと、軽い音。
角度を変えて、焦点をずらして、絞りを弄り、少し離れて、逆にまつげの本数が分かるような接写で……何枚か撮っていたら、眉が少し寄った。この顔も良い。
だが、目覚める前にやめるべきだろう。
おろしたカメラをサイドチェストに置いてベッドに腰を落とし、見下ろした。なんとなく手を伸ばし、髪を撫でてみる。
光に透けていた明るい髪は、少しごわごわしていた。水分量が足りないとかか? それとも髪を染めて傷んでいるのか。
色んな顔を持つ、彼がこれからも傍にいてくれるなら。
────俺は、人物を撮れる、ようになるかもしれない。
彼が被写体として優れているのは間違いないけれど、それだけでこんなにも意欲を、想像力をかき立てられるものだろうか。
俺は彼に、単なる被写体以上のものを感じているのだろうか。
とはいえこれだけの素材だ。他にも撮りたがるカメラマンは多いだろう。作夜は落ち込んでいたようだが、きっと彼は売れる。そうなったら俺ごとき、撮らせてくれなんて言ってもハナで笑われるだろう。
「……技術、じゃないんだよな……」
痛いほど分かっていたことだ。
けれど胸に痛いだろうと、くちにすることを避けていた言葉が漏れていた。
なにを考えているのか、自分でも不明なまま、ふっとくちもとが緩んだ。
「う……」
眉が寄り、目が薄く開いた。呆けているような顔が、妙に可愛い。
「……ぁ。あれ?」
目を開いた彼が、ガバッと起き上がる。
おお。若いからか? それとも腹筋を鍛えているからか?
見ていると目が合った。「あ」と声を漏らし、髪を額から後ろへかき上げるようにしながら、動揺も露わな表情でキョロキョロ周りを見回している。
「おはよう。悪いが起きてくれないか。そろそろ仕事に行くんだ」
「…………はい」
妙に素直な返事に、思わずクスッと笑った。
急にふて腐れた表情を浮かべたのを見て、慌てて言葉を継ぐ。
「ああっと、シャワー浴びるか? そこ出て左だよ。タオルなんかは好きに使っていいから」
「はい……や、……分かった」
蹴るようにベッドから降りてシャワー室へ向かう背を見送って、また笑ってしまいながら準備に戻った。
「あっちい……」
タオルで髪をガシガシ拭きながら出てきた彼は、上半身裸のままだった。
「そうか? まだエアコンは切ってないが」
「脱衣所、暑すぎ」
「ああ……」
気楽な一人暮らしだ。風呂上がりはいつも裸でウロウロするので、あそこのエアコンは付けない。
「済まない、つけとけば良かったな」
一瞬俺を睨むように見て「いいけど」ひとこと呟いた彼は、頭部にタオルをかけたまま、真っ直ぐプリンタへ向かった。
作夜からプリントし続けた画は、おそらく百枚を超えている。手を入れたものと原本とに分け、さらに彼の画と森の画に分けて、サイドワゴンの上に積んである。
里山を撮った原本に手が伸び、手を入れたもの、彼を撮ったものにも手を伸ばして、一枚一枚じっと見つめている、その横顔。立ち姿。
目が離せない。
スッと伸びた背筋、少し俯き加減の首から顎の線。ほどよく乗った筋肉が僅かな動きに陰影を変えていく。
いいな。いい画だ。
「なあ……」
思わず声を掛けていた。
しかしどう言えば良いのか。これからも撮りたい。撮らせてくれ。そう伝えたい。
彼は何枚かを手に取ったまま、画の山にまた手を伸ばしている。
「……これと」
一枚をプリンタの上に載せながら、ぼそり、と漏れたような声に、言いあぐねていた声が喉元に詰まる。
「これとこれ、それにこれと、これ……と……」
睨むような目元が、俺に向けられた。半ばタオルに隠れた顔、まだ雫を垂らす髪。
「────これ。……だけ、くれ」
「え?」
思わず上げた声に応えることなく目を伏せた彼は、プリンタの上に集めていた数枚を纏めて俺に差し出した。
受け取って確認する。彼自身の画三枚と、里山二枚、蒼天を横切る飛行機雲の一枚。たしかにどれも我ながら良いと思ったものばかり。
……だが
「だけ……、て?」
「こんだけでいい」
ぼそっと漏れる声。「え」耳を疑って、思わず聞いた。
「……デ、データは」
なぜだか彼の気持ちが、変わっているとは感じていた。
だからもしかしたら、そう言われるような気もして、いや、期待していた。けれどこのタイミングだとは思っていなかった。言うとしたら、これからも撮らせて欲しいと頼んだ後だと思っていた。名刺を渡し、エージェントを確認し、その後……。
「カードは要らない」
しかし、そう言った彼の、タオルの狭間から見えるくちもとには緩い笑みがあった。チラリと垣間見えた目元は照れたように細められて……
「べつに、良かったんだ、ほんとは。撮られたってぜんぜん、良かった」
「いや、しかし肖像権……」
「もう俺、やめるし」
息を呑んだ。
「無理なんだ、もう」
「……なに、言って」
「俺さ、ゲイなの」
震える声は、すぐにかぶる声に打ち消される。
タオルをかぶったまま俯いた彼の顔は見えない。
「キモい?」
「い、いや。だ、だいじょうぶ」
ククッと肩が揺れ、「なんだよそれ」くちもとが僅かな笑みに歪む。
────彼がこのまま埋もれる? これだけの素材なのに……
いや、そんな簡単な話じゃない。彼は埋もれていたカメラマンにイマジネーションをもたらした。他にもそう感じる者は必ずいる。
焦りでこめかみに汗が滲んだ。
それはダメだ、いけない、絶対にいけない────
「好きな男いてさ。そんでこっち出てきたんだ」
濡れた毛先から雫が落ち、鼻筋を伝って、少し歪んだくちもとに流れた。
「そいつ、ちっさいモデル事務所やってて、だからモデルやるからとか言ってさ、来たんだ。最初はそばにいられるだけで良いとか思ってたんだよ。わりと順調にモデルの仕事して、褒められたら嬉しくて。……でもそいつ……社長にとって俺は、使えるモデルってだけで。まあ、分かってたんだけどさ、最初から」
俯いたタオルの狭間から、伏せた目がチラリとのぞいく。
「でも色んな人に会って見たり聞いたりして、いろいろ言ってくれる人とかもいてさ……モデルじゃなくて役者になりたいって思うようになって。社長は無理だって言ったけど、頑張って役者のオーディション、いくつか受けた」
はっ、と息を吐き、顔が上を見る。タオルがパサリと床に落ち、首から肩の線が露わになった。顎から喉仏や鎖骨の陰影……良く出来た彫像のよう。
「社長に無理言ったの、はじめてで……けどさ。全部落ちたよ、みごとに全部。ちゃんとした事務所でもねえ、コネもなんもない、まして演技なんてド素人だ、受かるわけねえ……いや。そんなん言い訳だな。……社長は役者の才能なんて無い、モデルをちゃんとやれとか言うし。そうなんかもなって思ったよ、俺も。けどさ」
降りた顔がまっすぐ俺を見る。眉尻の下がった情けない、泣き笑いのような表情。
「そんとき『商品だ』って言われて……なんか、分かってたけど、はっきり言われたら、なんかもう無理だなって思っちゃってて、で、昨日、ロケハンに行った。主役に選ばれた奴の代わり。背格好が似てるからって」
ククッと肩を揺らし、俺の手から選んだ画を取り返す。
「スタッフ二人と来てたんだけど、撮りながら言うんだよ『やっぱりちょっと違うなあ』とか『しかたないよ、本人じゃないんだし』とかさ、一所懸命やってるのにさ、目の前で話してるんだ。なんか、やってられるかってカアッとして…………んで、ばっくれた。バカだよな」
彼は目を細め、俺の撮った画を一枚一枚丁寧に見ながら、フフッと笑う。
「いや、でも、一度失敗したくらいで……」
「一度じゃないんだ。社長から連絡来たら、現場だろうがなんだろうがフケてたし、何度もそういうのやってて、……だから事務所通さないで声かけてもらって、チャンスかもって思ってた……のに、ばっくれちまった。マジでバカなんだよ」
「しっ、……しかし」
どうすれば良い? どうしたらこれからも彼を撮れる? モデルで無くなったら、もう彼を撮れなくなる? それはダメだ、絶対にダメだ。
「むしゃくしゃして山ん中に走り込んで、あそこって道もねーし迷ってさ、ウロウロしてたら開けたとこに出てさ。太陽ギラッギラで、下は崖みたいになってるし……なんかさ、俺なんて、誰も要らねーよなとか……思ってたら」
言葉を切り、顔が上がる。妙に光る目が俺を真っ直ぐ射貫いた。
「あんたが、勝手に撮っただろ。安く見られたとか、そんな感じでさ、めちゃイラッとした」
「あ……す、済まない」
反射的に謝ると、彼は勝ち気そうにニッと笑い、手の数枚をひらっと見せる。
「……でもいいんだ。やめるから、データもなにも持っててくれて。それに昨日、なんかグダグダだったけど、吐き出してスッキリした。俺なんかの馬鹿みたいな話、聞いてくれてありがとう」
少し首を傾げて笑んでいる彼は、妙に透き通って見えた。
まるで、今にもこの世から消えてしまいそうな、危うい……
「ただ、コレだけくれよ。思い出に……」
「だっ、ダメだっ!」
思わず強い声が出ていた。
「……なにがダメ?」
俺を射貫く視線には強い拒否が乗っている。
……作夜の泣き上戸状態を考えると、自分自身を否定する方向で決めつけているのかも知れない。人の意見は聞かない状態になってるのか。そして、もしかしたら────崖の上で、彼はなにを考えた?
自らを滅するような、そんな衝動があるのだとしたら────
ゾクッと背筋が震える。
「ダメだ! そんなの絶対に!」
気付いたら叫ぶような声を上げていた。
「お前はカメラマンの目を惹く。必ず誰かの目に止まる。現に俺だって」
あのとき一瞬で彼に惹かれた。
そして撮れた。
こんな画が、撮れた。
「……あのとき、お前を見て思わずシャッターを押していた。次々撮りたくなった。強く惹きつけるもの、内から輝くようなものが、おまえにはあった」
「…………」
「やめるんじゃない、もったいない」
「……ははっ、なんかありがとう」
手元の画に目を落とし、彼は力無く笑う。
傷つきやすい少年と、若く青い自負、さらに子供の無邪気がない混ざったような────やはりイイ顔をする。が、それだけじゃない。
「……まあ実際、これ見て思った。……俺でもこんな顔できんだなーってさ」
身体全体から零れる雰囲気があるのだ。それが俺のイマジネーションを刺戟した。────ああ……そうか。だからか。
彼を見た人は、思ったのだろう。モデルよりも役者に向いてるかも知れないと。だからそう言った。そうして彼は役者へ希望を見出した。
こんなにも色んな表情、くるくる変わる雰囲気、それがいちいち魅力的なのだ。そう思わせるだけのものが、彼にはある。
「知らなかったけど、あんたって実はすげえカメラマンなのな」
「バカを言うな」
表情に照れとはにかみが加わる。また雰囲気が変わった。
「これはお前の力だ。ファインダーを通した時のお前はすごい」
「すごいって」
少し目を見開いた彼の表情にまた心惹かれる。そこにあるカメラに手を伸ばしたくてウズウズする。
「お前に触発されたから、俺程度でもこんなスゴイのが撮れたんだ」
「ええ? なに言っ、」
「カメラマンの目を惹くってのは凄いことなんだぞ。だから俺は……おまえが起きたら」
「ちょ、落ち着けって」
「言おうと、いや頼もうと思ってた。……これからも撮らせて貰いたいって、そう言うつもりで……。ああ、だからメシ食って落ち着いて、それから、と思ってたんだが」
「メシ?」
「そうだ。食いながら何気なく頼もうと思って、どう言えば良いか考えて……だが、おまえは俺ごときの腕で撮りきれる素材じゃない。たくさんのカメラマンの中のひとりとして、これからも撮らせて貰えればと思っていたんだ」
「ちょ、ちょっと」
「やめるなんて絶対にダメだ! 昨日本命じゃなかった? それがなんだ! 自信を持て! お前は絶対に周りを食うくらい……」
「あー、ちょ、待って、待てって」
慌てたように手を振る彼に、声が止まる。額に滲んだ汗を手の甲で拭い、ハァハァと息が荒くなっていることに気付いた。
「なんかビビる。昨日もそうだけど、いきなりキャラ変わるな」
「す、済まん。興奮した」
「興奮、か。そんな汗かいて……はは……、そっか」
くちもとに笑みを湛え、彼が俺を見る。
「悩んでたの、アホらしくなってきた。そっか、俺……」
視線が、彼を撮った画に落ちる。片手を陽にかざし、青く透けるような色調となった一枚。
「俺、やれる……かな」
「やれる。きっとやれる。……たぶん」
「たぶん、かよ」
はっきり言われるとくちごもってしまう。絶対的な自信なんて無い。
しかし再び目を上げた彼の顔は、一変していた。
挑戦的な笑み。獲物を狙う肉食獣じみた強い光を放つ瞳。
────ああ、本当にイイ顔をする。
「うん。じゃあ、やってやる。あんたの目が間違ってないって証明してやる」