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6.リベンジ

「…………なんか。……なんかさ。……ていうか」


 顎を動かす合間に漏らす言葉は要領を得ない。

 炭酸水をゴクリと飲み、俺は黙って横顔を見つめる。

 彼に対して強い興味が湧いていた。


 この時期にありがちな迷い、悩み。それゆえの表情だろうか。あの里山で見た、呆然としたような表情も、それゆえなのだろうか。

 仕事に対するプライドを覗かせるかと思えば、投げやりに見える言動も見せる。これだけの素材、モデルとしてじゅうぶんやっていけそうに思えるのだが……しかし長く人物を撮っていない俺は、モデルの活動に詳しくない。


「────あんた、……諦めないって、言ったろ」

「…………ああ」


 若かった情熱はもう無いけれど、こうして長く仕事をしてこられた。評価される声もそれなりにあり、今は自分の撮るものに自信も生まれている。

 年齢を経て開き直った部分もあるだろうが、今の俺だからこそできることがあると、そう考えられるようになった。


 だが、先ほどの車中でくちにした『もう諦めない』────あれは、あのとき初めて意識に昇った言葉だった。

 おそらくだいぶ前から、意識の奥底にあったであろう想い。

 それがあのとき彼に促されて初めて、表層に出た。


「それ、……なんか。……すげえなって」


 しどろもどろにそう言い、彼はラザニアのパックを掴んでかっ込みはじめた。そのまま食うことに集中するような横顔に苦笑を向け、炭酸水で喉を潤す。

 彼と同じ年、俺は諦めた。それから胸の内にモヤモヤとわだかまっていたもの。後悔、と一言で言えるような感情では無いそれが、あの時くちにしたことでスッキリした。


「おそらくだが」


 追い詰められて初めて自覚するなど笑止ではある。自分の至らなさに笑うしか無い。


「そう思えたのは、君のおかげだ」

「……は? 俺?」

「ああ」


 だが彼のおかげで分かった。

 俺は、無意識に手放したものを取り返したいと思っていた、のだろう。


 彼を見てシャッターを押して、────なにかを掴んだように思え、手放すものかと必死になった。だが、それでも失わざるを得ないというならば。

 ならば改めてしっかり掴み直そう。それが、その想いがくちに上せた『諦めない』だったのではないか。

 若かったあの時は諦めた。けれどこれからやり直す。これからは、自分自身に納得できるように生きていく。彼を撮ってからの時間に、そんな意識の端緒が産まれていた、の、かもしれない。

 思わず浮かんだ笑みのまま見ると、彼は眉寄せた不審げな顔をしていた。


「俺は脅迫してるんだよ? あんた、あんなに焦ってたじゃん。すっげ必死で……」

「そうだな」


 返しつつ苦笑のままピザにかぶりついた。


「だがそうされるような失態を犯したのは俺だ。君がああ言ったのは、プロとして当然のことなんだろう」

「だって、あんたが写真撮れなくなるようにしてやるとか思ってたんだぞ?」

「……だろうな」


 写真を撮り続ける俺に怒った彼。

 激しい敵意を感じ焦った。詳しくは知らないながら、プロのモデルなら、きっとそう考えるものなんだろうと、どうにかしなければと。

 なにかを掴んだような気がしていた、あのときに道をたたれるのはかなり辛いと必死になっていた。


「うん、写真を撮れなくなるのは困る、な。……だからこうして、君に従ってる」

「だろ? 俺は敵じゃん? 敵なら憎むんじゃねえの?」


 声が、軋むような響きを帯びた。

 彼はひどく苦しそうに眉を寄せ、縋るように俺を見ていた。まるで憎んでくれと請うように。


「……憎い、とは思わないな。少し恐れてはいるが」


 今このように考えている、そうなれたきっかけは、明らかに彼だ。

 仕事には真摯に取り組んでいるつもりだったが、投げやりな部分も常にあった。この年になるまで、ここまで追い詰められたことなど無かったゆえに、深く考えず日々過ごしていたのだろう。

 あの日々を否定しようとは思わない。

 生きるために、社会生活を送るために、考えずにいることが必要だった。

 あの頃深く考えていたら、一歩も動けなくなっていただろう。そうすることが必要だった。

 俺はおかしかったのだ。それを自覚することすら無意識に怖れ、考えないようにしてきた。

 おそらくあの時からずっと。


 新人賞に漏れて自棄になった、その二週間ほど後。俺以外の家族全員で温泉旅行に出かけたが、俺は一人残っていた。

 自棄になっていた当時の俺には、気遣うような母や妹も、弟がからかうようにちょっかいかけてくるのも煩わしいだけだった。脳天気に旅行など行く気にならなかったし、むしろひとりになれると喜んですらいた。とはいえ写真も撮らずにダラダラくすぶっていただけだったのだが────。


 父の運転する車はトンネル内で起こった車の追突事故に巻き込まれた。

 車の何台かが発火し、トンネルの中は巨大な煙突と化していたらしい。その発火した一台は、うちの車だった。


 母も父も妹も弟も、二度と帰ってこなかった。

 家族全員分の保険金、そして今住んでいるこのマンションが、俺に残された。


 呆然とするばかりだった俺に、その頃の記憶は薄い。

 葬儀などの手配は、田舎から出てきた祖母がやってくれて、田舎に来て一緒に暮らさないかと言ってくれた。

 しかし俺は祖母の申し出を拒否した。学生とはいえ成人しているのだ。一人が寂しいなんて思わない。むしろ一人暮らしが楽しみだと嘯いて。

 祖母の家に移ることが、家族に対する裏切りに思えていた部分もある。さらに今ここから離れたら負けという強迫観念めいたなにかもあった。


 そのとき『一人暮らしは寂しいから』と言ったのは、おそらく祖母の本音だったと思う。今なら祖母の寂しさに思い及ぶこともできるけれど、当時の俺には分からなかった。いや、分かろうとしなかった。


 祖母が帰り、家族の思い出が残る家で一人となった。

 そして辛い日々が始まった。


 自分のベッドで目覚めて見える時計は父が買ってくれた。シーツや枕カバーを洗濯しろと、母はうるさく言った。

 このコップは妹の気に入り。弟はこのジュースが好きだった。…………キッチンに立つだけで、食卓に座るだけで、ソファでテレビを見るだけで、風呂に湯を溜めるだけで、髪を洗う、手を洗う、洗濯をする……そんなことで、いちいち虚無に陥って動けなくなった。生活の全てが家族の思い出に繋がっていた。


 俺は家に閉じこもって、ただ寝て起きていた、食欲も湧かず、水一杯飲む度に頭を抱え、ぐずぐずと蹲った。

 家の中にいるとなにをしても、なにもしなくても、いちいちなにかしらの記憶が呼び起こされ、そのたびに動けなくなった。外に出ても見えるいちいちに家族の顔や声が浮かび、身体が凍って息もできなくなった。


 見れば、触れれば、苦しくなる。なにも見なければ良いとも考えた。閉じこもり膝を抱え目を閉じ耳を閉ざし────しかしなにも見ずに触れずに生きていくなど不可能だ。


 何も喉を通らないまま、ひたすら閉じこもって頭を抱え、やがて気力も尽きてきた頃。

 心配した同級の友人が訪ねてきた。

 おそらくひどい状態だったのだろう。友人は強引に俺を連れ出し、居酒屋へ行った。そこでは普通に飲み食いできて、ひどく飢えて渇いていたことを自覚した。

 思うさま食って飲んで酔っ払って、そこで色々吐き出したらしい。


 正直、このあたりの記憶は薄いが、目に触れて辛いものを一時的にでもトランクルームに預けてはどうかと、そう友人が言ったのは覚えている。

 それは当時の俺にとって光明だった。捨てずに済むのだ。目に触れないところへ、一時的にしまっておくだけだ。

 だから、俺はそうした。

 手を付けていなかった保険金の一部を使い、友人の知り合いだという便利屋に依頼した。

 家具はもちろん鍋や調味料も、自室のものも含めてタオル一枚残さずにすべてを、目にも手にも触れない、匂いも届かないところに持って行って貰った。


 作業が行われている間、部屋の片隅で頭を抱え縮こまっていた俺を、友人はまた居酒屋へ連れ出し、俺に驕らせてメシを食った。俺はまたしたたかに酔っ払い、気づくと家に戻っていた。


 作業が終わって、きれいに掃除までしてあった部屋に。


 なにも無いガランとしたリビングに転がり、大の字になって、酔っ払いはひどくホッとした。

 そうしていつの間にか眠っていた。

 家族と会えなくなって初めて、この部屋でまともに息をすることができた。


 しばらく布団も無く、床で寝起きしていた。風呂に入るのにシャンプーやボディソープ、タオルをを買うときも、敢えて見覚えの無いものを選んだ。なにかを見たり触れたりして家族の顔が少しでも浮かぶと、それから目を背け、買ったばかりの物だろうと捨てた。


 俺は本当にろくでもないやつだった。


 写真の学校に行く、学費は高いが出世払いで返す。

 そんな言い方で父母には無理を強いた。だが文句ひとつ言わずに父は残業を、母はパートの時間を増やした。


 なのに鼻をへし折られた時、俺は学校では見栄を張り素知らぬふりをしておいて、家で荒れた。

 気遣う声を掛ける妹を邪険に振り払い、母の夕食を無視して友人の家に入り浸り、大言壮語を吐いて飲んだくれた。


「兄貴、いい加減にしろよ」


 真っ直ぐな言葉で俺を刺す弟には、『能なし』だの『馬鹿には分からん』だのと根拠の無い侮蔑を返した。


 小学校からサッカーを続けていた、まっとうな弟。

 すぐ泣くくせに、傲慢な(おれ)を気遣っていたけなげな妹。

 家族のために働き、たまの休みも家族のために使った父。

 日々家事をこなしつつパートまでして、俺たちを育ててくれた母。


 ────俺などより彼らが生きるべきだった。


 なのに、彼らはいなくなり、俺は生きている。

 けれど死ぬのは恐ろしい。死にたくない。俺は、ろくでもない。


 才能も無いのに驕りたかぶって虚勢を張り続け、敗北感を押し隠して、やはり見栄を張り……下らない、価値など無い人間。腐り果てた、ろくでもない人間。

 ────なのに、なぜ俺は生きてる。


 もういない。

 声を聞くこともできない。

 触れることも、謝ることも、もうできない。

 なのに彼らを忘れて、俺一人が楽になるなど、してはいけない。

 死ぬこともできない俺が逃げるわけには行かない。

 せめてここで、罪をあがなうのだ。




 保険金で生活するなど、絶対に嫌だった。彼らの死を利用して生きるなど無理だ。

 しかし生きて行くには金が必要だ。最低限の生活を整えなければならない。働かなければ。

 そう思えるようになるまで、二ヶ月近くを要した。


 俺の驕りで居酒屋へ通っていた友人は、未だに付き合いの続いている気の良い男だ。

 まず自分の部屋に来るかと声を掛けてくれた。しかし狭っ苦しい部屋で男二人暮らしなど、想像するだに嫌だと断った。

 すると『俺もここに住もうかな』と言い出したが、この部屋に他人が踏み込むのはもっと嫌だった。次にホテル暮らしを勧められたが、この家から離れることなどできるわけがないと、にべもなく無視した。


「意地を張るな、少し気を楽に持てよ」


 友人は心配だったのだろう。言葉も視線も真摯なものだった。


「生活を変えろ。せめてちゃんと眠れ」


 疲れ果てていた俺は、思い悩み続けることを、諦めた。


 保険金の大半を祖母に送り、残った一部を新たに作った口座に入れた。

 その金でベッドを買って、寝具も全て揃え直した。母ならけして買わなかっただろう高級なものを選び、かつて兄弟三人で寝起きしていた、子供部屋だった部屋に設置する。


 でんと鎮座する高価なベッド、落ち着いた色合いの肌触り良い高級な寝具、シックなサイドテーブルにスタンドライト。

 まるで高級ホテルのような部屋になったそこで、俺は眠れるようになった。


 それまで見たことも無かった高級品を選んで、タオルなど必要な最低限を揃える。下着に至るまで服も全て買い直し、徹底して外食し、カメラも新たに購入してパソコンも最新のものを揃え────そうして、かつてここにいた家族の影など微塵も無くなった。

 しかし、唐突にひょっこり顔を出すのだ。


 それはときに声であり、ときに匂いであり、ときに瞼の裏に浮かぶ顔だったが、その都度気付かなかったことにして誤魔化した。やがて誤魔化すことに慣れて、無意識にそうするようになり……ここまで生きてきた。


 数年が経ち、仕事を貰えるようになって独立してフリーでやっていくことを決めた俺は、部屋で作業を完結できるよう機材を揃えた。家族の団欒の場であったリビングは、生活臭ゼロの作業スペースになった。

 自活できるだけの収入を得てからも、引越そうなど微塵も考えなかったけれど、この部屋に生活感を持ち込みたくは無かった。

 好意を寄せてくれる女性もいたが、やがて愛想を尽かされた。

 頑なに心を開かないままでいる男に、付き合いきれなかったのだろう。


 俺は怖かったのかも知れない。

 

 新たな関係を築いても、また失われる。失うのが怖くなるほどの人間関係を作ることを、ずっと恐れ続けていたのかも知れない。


 そんな自覚など、無かったけれど。


 三年後に祖母が亡くなった。

 突然のことで、死に目に会うことはできなかった。

 俺は天涯孤独となり、田舎の家も含めた資産が、俺一人に残された。


 祖母の友人である不動産屋に、放置して傷むより人が住んだ方が良いと進言され、祖母の家は賃貸することにした。幾度か住人は変わったが、現在の住人は祖母とまったく縁の無い若夫婦だ。家が気に入ったのか、次の契約更新を機に購入できないかと打診されている。答えは保留中だ。

 あの家に住むことは無いだろうし家賃収入はたいした額ではない。維持費を考えても売却した方が手間は無くなる。だが、祖母の思い出はあそこにしかない。


 収入面では恵まれていると言えるだろう。写真の仕事も安定しているし、遺産に手を付けずとも、ゆとりを持って生活できる。都心のファミリー型マンションで気楽な一人暮らし。独身貴族などと死語で揶揄されることも少なくない。

 だが……埋められない喪失感は、重しのようにずっと腹の底にわだかまっていたのだろう。そのまま気づくことなく、この年齢(とし)まで来てしまった、のだろう。そんな自覚も、今まで無かったのだけれど。


 改めて顧みれば、思い出に悩まされることも、ここ数年は少なくなっていたようだ。

 そんなことに気付いたのも、彼に触発されて考えたからだ。

 新たな一歩を踏み出せるような、そんな心持ちになっていることに、気づくことができた。

 時間は誰にでも優しい────そう誰かが言っていた。いや、本かウェブかなにかで見かけたのか。


 そうかも知れない、と思う。


 思い出は、後悔も、薄れない。

 けれどそんなものと共に生きていく誤魔化し方を、俺はいつの間にか覚えていたらしい。


「あんた馬鹿だろ」


 そんな俺の考察、自己分析など、彼に伝わるわけが無い。

 ただ────


「……だっておかしいよ。俺はあんた脅迫して、大切なもん捨てさせようとしたんだぞ」

「うん、君はいつでも壊せた。けれど壊さなかった」


 不満げに眉を寄せながらピザを食っている彼と出会えたから、そう思えた。

 だからこれは……


「……君のおかげだ」

「は……、ばっかじゃねえの?」

「……そうだな」


 目を背け、逃げてきた。


「馬鹿だったよ」


 だが、ずっと気づいていなかったことに、今気づいた。

 ならば始めたい。


 失ったものは大きかった。彼らを忘れることは無いだろう。だが、愚かなりに過ごしてきた年月で得たものもある。

 失ったもの、得たもの、それをしっかり見つめ直し、やり直す。今この地平からできることをはじめたい。いや、はじめなければ。やりなおさなければ。


 たとえ今回撮ったものを全て手放すことになったとしても、新たに撮ろうと思え。

 これから敗者復活戦だ。

 勝利を狙う戦いではない。そんなギラギラしたものは、今の俺には無い。

 いうなれば、情けない男が少しだけまともに生きていくための、戦い。

 あのとき様々なものに負け、投げ出してしまったもろもろを、ひとつひとつ拾い直すための、人生のリベンジ。


 そこまで考えて、そんな格好いいものでも無いか、と苦笑しつつ、俺は言わなければならない言葉をくちにした。


「ありがとう。君のおかげだよ」


 彼は信じられないものを見る目で俺を見て、ふんっと鼻を鳴らした。


「ばっかじゃねーの」

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