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5.作業

 最初にシャッターを押した数枚。

 呆然と空を見上げる横顔。光に透ける指先、毛先。青みを帯びた肌。背景の蒼天と一筋の白。


 いい。

 やはり、いい。


 そう思いつつ、PCにプリントの指示を与える。すぐに唸り始めたプリンターの音を聞きながら、さらに手は動く。

 このままで既にいい。だがエフェクトをかけてみても、いや色相を少し弄るか……さまざまなアイディアが浮かぶ。興奮と共に手を動かしつつ────溜息が出た。

 ……これを手放すのか。


 ────惜しい。だがそれが約束だ。諦めろ。この目で見れただけで良しとしなければ。


 くちびるが切れるほど噛みしめ、自分に言い聞かせる。ここでヘンな色気を出して自らの首を絞めるような真似はするまい。

 黙々と手を動かしつつ、画を目に焼き付ける。手元に置けないなら、せめて覚えておこう。今の俺は、こんな画を撮れるのだ。

 かつて見た『彼女』の、あの一枚が未だ薄れないように。敗北感と虚無に落ちた感情の乗った、あの画が脳裏にこびりついているように。

 この画もこの感情を乗せて忘れるまい。


 プリントされた画が吐き出され、腰を上げ見に行こうとすると、いち早く伸びた手に持って行かれる。

 ソファにいたはずの彼が、いつの間にかそこにいた。


 何も言わずに画を見つめている横顔は、その手元にある顔とひどく似た、呆けたような顔をしていた。

 この顔が、彼の芯なのだろうか。そんな思いを押し隠し、恐る恐る、しかしなるべく明るく声を掛けてみる。


「……どうだ? いいだろ?」

「うん……」


 俺の衝動を呼び覚ました画だ。

 自信はある。だが、彼はどう感じるのだろう。


「あ~……気に入らないか? 俺はすごくいいと思うんだが」

「ていうか自分の顔だし。いいとか……へんじゃねえ?」

「そうか?」

「だってそうだろ。……つうか」


 ふっとこちらを見た目が少し細まって、表情が柔らかい。


「他のもあんだろ。見せてよ」

「あ、ああ。待ってろ。すぐに」


 よく分からないが、彼の心境が変わっている。

 少なくとも、反応は悪くない。うまくすればさらに譲歩を引き出せるかも知れない。そんな思いはデータを渡さずに済むかも、という欲に繋がった。

 加工したものを保存し、次の一枚、さらに次をとプリントしていく。彼はプリンター前に陣取ったまま動かず、吐き出されるたびに画を手にとり、じっと見つめている。


「これもいいだろ」

「……うん」


 小さい頷きに気が大きくなる。


「光線が少し目に入ってる。透ける髪の色とリンクする色が出せた。奇跡的な一枚だと思う」

「ああ……」

「こっちは指の影がここに出てるのが良いなと思って、コントラストを強めにしてわざと白飛びさせてみたんだ。毛先や指先が少し飛んでるだろ? こっちはちょっとピントを緩めてある。シャッター速度落としつつわざと動いてみた。面白い画になってるだろ。で、こっちのは少し青を強めてみた」

「へえ……、色々、できるんだな」

「まあな、ここまでイマジネーション次々湧くなんてなかなか無いんだが、君を見たとき一気にぶわあっと来てな。ついいろいろやっちまった」

「…………」

「────ほらこれ、どうだ? 肌の色が青みがかって透きとおるみたいだろ。背景の蒼天が君まで染めているような、ちょっと人間ぽくない雰囲気になってるよな。でもこの雰囲気は君の、この表情があればこそだと思う。……で、これは影の青みが強くなってるだろ。取り巻く枝葉が青みがかった額縁のように見えないか? あと、こっちのは…………」


 彼が、はあっ、と大きなため息をつき、ハッと我に返る。思わず一枚一枚手にとって語っていた。


「す、すまない。つい」

「いいけどさ、さっさと次やれよ」

「……次?」


 呆けたような返事に、彼は目を細めて、クッと笑う。


「喋りながらできねーの?」

「いや、……できる」

「ならそうしなよ」


 なぜだか彼が笑っている。笑った顔は初めて見たが、この顔もいい、と思わず見惚れてしまう。


「だからやれって」

「あ、ああ」


 慌てて彼から目を引きはがし、作業スペースに腰を下ろしてマウスに手をかける。

 彼の気配は背後から動かない。焦れたのか。早く終わらせろといいたいのか。プリント操作だけやっていれば早く終わるだろうと監視か? プレッシャーをかけているのか?

 エアコンがきいてるのに背中に感じる気配に、プレッシャーを感じて汗が吹き出した。


 大急ぎで全部プリントするだけで二時間以上はかかる。なのに得々と語って時間を無駄にしていたのだ。自分を殴り飛ばしたいような気分になる。

 もしも彼が焦れて手を伸ばし、ちょっとした操作をしたら、今加工を入れたデータもすべて無いことになる。簡単にそうできる。

 汗が止まらない。


 しかし────呼び出した画に、また性懲りも無く引きこまれた。

 

 森に一歩踏み込んだ逆光、影を帯びた顔の中、射貫くような眼差し、目に宿る光。『やめろ』と言いながら手を伸ばしたときの彼。

 コントラストを緩めたら、もう少し表情が……つい、手は動いた。


 そうして次々ファイルを開き、確認し、プリント操作をしていく。どの画もひどくイマジネーションを刺戟してくれる。ついつい弄りたくなる。

 すぐに集中して唸り続けるプリンタの音も聞こえなくなり、色々やりはじめてしまっていた。


「……なあ」

「……っ、な、なんだ」


 また彼を忘れていた。


「ここで見てていい?」


 だが続いた言葉に目を見開き、背後を見る。


「あ、ああ。……もちろん」


 ぼんやりした顔。なにを考えてるか分からない。こめかみから流れる汗を手の甲で拭いつつ、伸ばした彼の手に目が行く。腕の先、指は俺を通り越している。


「これ、今の。なにやってんの?」


 指で示された画面には、たった今作業を加えた彼の姿があった。


「ああ、光量を調整してみたんだ」

「コウリョウ?」

「一部だけ変えることこともできる。他に、こんなことも……」

「え、てかなに? 今の」

「これはな、コントラストを弄ったんだ。ほら、こういう風に……」

「わっ、ぜんぜん違う」

「だろ? 色相なんかもちょっと弄るだけで、……ほら、こうなる」

「わ、おもしれー」


 作業を進めながら会話が産まれていた。クルマの中の、あの重々しい空気はすっかり払拭されている。

 調子に乗ってさらに色々やってみせると、「すっげーな」などとはしゃぐような声を出し、ときおり声を上げて笑った。

 こっちまで楽しくなってくる。

 作業に没頭するに、人の声は邪魔だ。常なら無視して無言で作業を続ける。だが彼の存在は無視できない。

 それでもいつしか手元と画面に意識が持って行かれ、会話も無くなっていた。






「はあ?!」


 素っ頓狂な声にビクッと手元が狂い「なんだ!?」と声を上げた。


「鍋も調味料もねー! なんでだよっ!」


 彼の声だ。また忘れてしまっていた。

 声はキッチンから聞こえてくる。ため息混じりに腰を上げ、キッチンへ向かった。彼はあちこちを開いては閉じ、なにやら憤っている。


「なんもねー! どうやって生きてるんだよっ!?」

「あ~、たいてい外食で済ませるんだ」

「つっても限度ってモンがあんだろ! うわ冷蔵庫も炭酸水とビールしかねえ! マジかよ、広いのにもったいねー馬鹿じゃねーの?」

「……悪かったな」


 勝手にひとの家を歩き回って勝手に憤っている。こっちもムッとした。どんな生活してようと、文句を言われる筋合いは無い。

 一瞬目が合うと、彼もムスッとくちを結んでスマホを弄りはじめ、偉そうに言う。


「しゃーない、ピザ頼むからアンタ払えよ」

「ああ、なんでも好きなもの頼め」

「よっしゃ、んじゃーアイスと、サイドメニューも! 唐揚げと~、なにこのラザニアつの、めちゃチーズ乗ってね?」


 ラザニアを知らんのか、と呆れたことで少し落ち着いた。ここで飲み食いはほとんどしない。客人……かどうかは置いておくとしても、水一杯出してなかったのはこちらの落ち度だ。


「ああ……気づかず悪かった。俺も腹減ってるな」

「だろ? もう七時過ぎてんだもん、腹も減るよ」

「食いたいと思ったもの全部注文しちまえ」

「あ~喉渇いた……のにコップも無い! なんでだよっ!」

「ビール飲んで良いぞ」


 また怒り出しそうだったのでひとこと付け加えると、彼はひとつ息を吐き、肩を上下させて何度もウンウンと頷きながら冷蔵庫を開いた。


「……それしかねーもんな。まじでマヨすら無いってどうなってんだよ。アンタもビール飲む?」

「いや、炭酸水くれ」

「りょーかい。つうかコップとか皿くらい置いとけよマジで」

「あ~、分かった分かった、そのうち用意する」

「いつだよ、そのうちって」


 冷蔵庫から出した缶ビールを飲みながら、彼は眉寄せてスマホに集中し始めた。


「デザートも食おっと。めちゃ腹減りだっつの」


 炭酸水はどうした、と思いつつ。

 作業スペースに戻って黙々と作業を進めるのだった。


 彼に腕を引かれ、ソファに並んで座った。

 届いたピザその他諸々が、ソファ前のけして大きくないテーブルに並べられていた。ピザはMサイズが四種類、サイドメニューも数種類、デザートまで並んで、テーブルから零れ落ちそうだ。どれだけ食う気なのか。好きなだけ頼めと言ったのは俺だが。


「てかラザニアってどれ?」

「……これじゃないか」

「おおーう、どーん。……わ、マジでチーズすっげ!」


 嬉しそうにプラスチックのフォークを突き刺してるのを見て、同梱されていたプラスチックのナイフを渡し、層になってるから切って食えと教えてやる。

 素直に言う通りにした彼は、切り口を見て感動しながら食い始める。

 その様子を横目で眺め、くちもとを緩めながら自分もピザに手を伸ばした。この匂いがした瞬間に空腹を自覚していたのだ。

 昼過ぎに麦茶と生姜の砂糖漬けを呼ばれてから、なにもくちにしていなかったのだから空腹も当然。作業に集中すると食欲や睡眠欲が飛ぶのはいつものことだから、気づくと空腹というのは珍しいことではない。

 しかし。

 ピザを咀嚼しながら、不思議な気分になってくる。

 いつもならマネージャーがいるだけで集中を阻まれるので、すぐ追い出すのに……今回は彼がいたのに集中していた。

 追い込まれていたからなのか? 分からないが、何度も彼の存在を忘れていた。


 ラザニアを一口食った彼はピザにかぶりついて、同時に唐揚げを頬張った。そうとう空腹だったらしい。というか野菜がねえな。……と考えが進んで失笑した。

 不摂生レベルで人のことを言えはしないという自覚はあるのに、若いのを見ると偉そうなことを言いたくなるのはなぜだ。……オッサンだから、と一瞬浮かび、いやいや、と苦笑する。

 二種類目めのピザをくちに運びつつ微笑ましい気分になって横顔を見ていたら、彼と目が合った。


「てかあんたって彼女とか……いないよな、うん」

「おい」


 勝手に納得している彼を軽く睨んだ。

 失礼な。確かに八年ほどいないが、いかにもモテそうな青年に言われると、若干ムっとした。


「いたらこんな部屋なわけないもん。少なくともコップはあるだろ」

「……うるさい」


 この部屋は作業して寝るだけの場所、作業アトリエ兼私室だ。とはいえテレビも無いし、湯を沸かす道具も無い。

 二人がけのソファとテーブルは部屋で打ち合わせすることもあるだろうと来客用に置いてあるものだ。自分はPC前から椅子を転がしてくれば良いと考えたので、ソファはこれひとつだけ。しかもほとんど使っていない。たまにマネージャーが座る程度。

 風呂に入るか寝る以外、俺はたいてい作業スペースにいる。この場所でできること、それ以外は必要ない。腹が減れば外で食えばいい。このキッチンで自分が料理したのは十数年前が最後である。

 敢えて生活感を廃しているのだ。

 

 なのに、そんな部屋で、ソファに座ってピザを食っている。ついさっきまで脅されていたはずの男と並んで。

 なんだかな、と思わざるを得ず、笑うしか無い。


「こういう大人にはなりたくねえな~。四十過ぎて彼女もいねえとか、なっさけねー」

「……過ぎてない。三十八だ」

「変わんなくね? どっちにしろおっさんじゃん……てか老けて見えるよあんた」

「大きなお世話だよ」


 それは良く言われる。なのでいつも通り軽く流し、矛先を返してみる。


「そういうおまえは。いくつなんだ?」

「俺? 二十二」

「まだガキだな」

「はぁ? 年くってりゃエライって?」

「そうじゃないが……」


 むくれた顔に慌てて付け足した言葉に反応することなく、青年はピザを飲み込み、はぁっ、と大きく息を吐いた。


「つうかさ、もう決めなきゃなんねえな、……とか。俺だって色々あんだよ」

「ああ、……そうか、そういう時期か」


 俺が新人賞に漏れたのは二十二歳のとき。その翌春には今に繋がる道を定めたのだった。


「そ! ばかにすんな」

「そうだな。悪かった」


 人生の転機になる時期というのは、多かれ少なかれ誰にでもあるものだ。そう考えると、彼がなにかを決める、と言ったのも頷けた。


「つうかさあ、高校卒業してこっち来て、色々頑張ったけどやっぱ帰った方がイイのかなあとかさ、考えてんだよ」

「……ん?」


 こいつ、モデルなんじゃなかったか? 


「おまえ、……就職、とか。考えてるのか」

「ん~~、ていうかさあ…………ていうかさ……」


 彼は手にしたピザをくちに押し込み、缶ビールをゴクゴク飲んだ。

 助手席にいたときのように少し目を伏せた横顔には、ガキと言われてむくれた顔とは全く違う、大人びた色気があった。

 やはり極上の被写体だと思う。これからも彼を撮りたい。

 今の、この気安くなった雰囲気なら言い出せるように思っていた。

 が……モデルをやめるのか?


「……なあ」


 呟くような声が聞こえるが、彼は目を伏せたまま、こちらを見ることはしないまま、ぼそりと言った。


「これ。……俺の写真、くれない?」

「…………」


  瞬時、声が出なかった。


 「……ああ。もちろん、データカードごと渡す」


 なぜか請うような目になっている青年に声を返した。


「そういう約束だ。君はその為にここまできたんだろ」

「……そうなんだけど」


 フッと笑った彼は唐揚げにかぶりつき、ビールで流し込むようにして、くちを動かしながら目を伏せる。

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