1.蒼天
別サイトにてUPしていたものですが、
若干の修正を加えてこちらにもUPします。
地味な話ですしエロイことは無いんですが、自分では気に入っていたりします。
楽しんでいただければ幸いです。
抜ける空の蒼。
どぎついほどの太陽光。
大地からムクムクと生えたような白い雲。
山間に広がる田畑。草原やあぜ道の合間に並ぶまばらな樹木。水路は陽光を反射してきらりと光り、作物や草花は葉を、木々は腕を、傲慢な太陽の恵みをより多く受けようと伸ばしていた。青々とした輝きが強い生命力を感じさせる。
長閑な風景のどれもこれもが強い光に濃い影を生成し、遠景の山はくっきりとした輪郭でそびえる。
そんな炎天下の昼下がり。俺はひとり、車を走らせていた。
午後の予定がぽっかり空き、半日ほどの余裕が見えたと思ったら車に乗っていたのだ。
小一時間ほどで到着した、いつもの町。
実のところひなびた農村と言った印象なのだが、『村』と言うと住人が怒るので『町』と言うことにしている。
馴染みの家に車を置かせてもらい、挨拶すると「暑いのに良く来たねえ」と冷たい麦茶を呼ばれた。縁もゆかりも無い、ただの顔見知りだが、善意の固まりのような老夫婦に、もう亡い祖父母のような感覚も覚えてしまい、いつも断れない。
「これも食べなさい」
出された生姜の砂糖漬けをひとつまみ。のどかな世間話を聞きながら、バッグからカメラを取り出して、縁側からの景色をひとつ撮る。
「堪え性のないやつめ。もういい、行ってこい」
「気を付けてねえ」
励ますような声に苦笑で腰を上げ、笑みで手を振る二人にこちらも振り返して、農道へ向かい足を進める。
足の向くまま、なにという目的も無く、そぞろ歩いた。
といってもほとんどが畑や田んぼばかりの風景だ。役場や郵便局などがある辺りを外れると人家もまばらになる。
エネルギッシュな光に喜ぶ草花、葉野菜、まだ青い稲……圧倒的なまでの真夏の、むせる熱気。
カメラ片手に気が向けばシャッターを切った。
良いものを撮ろうとか、そんな欲はない。頭を空っぽに、ただ目が心が赴くままにカメラを向ける。また進み、ふと気になればファインダーを通し、心の赴くままにシャッターを切る。
なにに心惹かれるか。どこをどう見たいのか。
思うとしたら、そんなことだけだ。
けれど習性で手は勝手に動く。今日のような強い太陽光を活かすには……切り取る画面のバランスや光の表現を半ば無意識に考え、露出や露光を自動的に調整、ピントをずらしてみたり絞ってみたり、その都度シャッターを切り……うまく行ったように思えばくちもとが緩む。そんな繰り返し。
休日をこんな風に過ごすようになって、ずいぶん経った。
ここに来ると心穏やかになれる。
が、ある一部はひどく貪欲になる。
こんな心持ちになることなど、長く無かった。気がつけばずいぶん長い間、写真を撮ることは作業になっていた。
クライアントが望む画を、求められる形で納品する。技術を駆使して撮ったものに、必要なら加工を加え、急な注文変更にも臨機応変に対応し……
それはそれでカメラで食っていく上で在るべき姿の一つであり、間違ってはいない。
そこに不満など無かった。
────はずだった。
初めてここを訪れたのは二年ほど前、紅葉も盛りの時期。
仕事が一本無くなって、ぽっかり3日ほど時間が空いた。
1日目は寝て過ごし、2日目はたまった洗濯を片付け部屋を掃除して、3日目。
家にいても惰眠を貪るだけになりそうだと思い、ふらりと車を走らせた。
あてもなく知らない道を進み、通りがかったのがこの町だった。
前時代的な町並みと鮮やかな彩りを帯びる山野、エネルギッシュに人の営みを呑み込まんとする自然に逆らわず、共存を選んだ人々。
ふっと、そんなイメージが浮かんだ。
しかし車を降りたのは、ただ単にひとやすみのタイミングだっただけ、かも知れない。そのときカメラバッグを肩に掛けたのも、単なる習慣でしかない。
体を伸ばしがてらぶらぶらと歩を進めるうち、道ばたの雑草の合間に見えた花一輪に、なんとなく心惹かれ、シャッターを切った。
そのとき初めて自分がカメラを持って車を降りたことに気づいて苦笑が漏れたほど、無意識の行動だった。
そうと気付いて自嘲が漏れた。
現場で『撮るのは作業。経験と計算だ』などと嘯いていた自分が、常にカメラを手放せないなど嗤うしかなかった。
そして妙に凪いだ心持ちになっていた自分を不思議に思いつつ、なんとなく町並みや道行く人、畑の佇まいなどそのまま撮り続けた。
沈み行く夕陽を見てシャッターを切る。露出を調整しまたシャターを切った。露光計を……とポケットを探ってフッと我に返った。
ずいぶん時間を浪費していたことに、ようやく気づいたのだ。
妙な爽快感を覚え、くちもとを緩めたまま車に戻り、帰宅してから撮ったデータを落とそうとして、ずいぶんたくさん撮ってしまっていたことに驚いた。
一枚一枚、モニターで改めて見てみると悪くないように思えて、また笑ってしまった。
────それから、なんとなくここに通っている。
近場と言うには遠く、だが離れ過ぎているわけでもない距離感。それも良かったのかもしれない。何度か通う内、町人から声をかけられるようになり、顔見知りもできた。
お茶をふるまわれたり、軽い食事を呼ばれたりと徐々に居心地が良くなって、ますます足繁く通うようになり、今に至っている。
そうして今日もこの街に来て、そぞろ歩きながら写真を撮っているのだが。
「…………暑い……」
汗が目に入り、カメラを下ろした。
こめかみや首筋にも汗が流れている。腕で拭うと、半袖から露出している部分が若干ヒリヒリしていた。遮るものの無い灼熱の中、暑さも感じないほど夢中になっていたようだ。
見上げると天空の蒼。ギラギラと暴力的な太陽が、薄く光る雲の白に囲まれている。
無意識にカメラを向け、何度かシャッターを押してからフッと息を吐く。我ながら懲りてないと薄く笑って一度車まで戻ることにする。
以前、こんな調子で撮り続け、日射病だか熱中症だか、そんな症状を呈してぶっ倒れたことがある。通りがかった町の住人に拾われて助かったのだが、老人たちに帽子をかぶれだの水分をとれだのとひどく叱られた。それから親しくなれたのは怪我の功名というべきか。
ともかく水分補給はするべきだ。未だに帽子は買っていないけれど、まあそれはいい。
老夫婦に挨拶して車に乗り込み、エンジンを掛けるとエアコンが涼風を吹き出す。ホッと息をつきつつ車を発進させた。町には十九時に閉店するコンビニがひとつあるきりだが、自販機はけっこう点在している。緑茶を買って車に戻り、ゴクゴク飲みながら帰るかな、などと考え────ウィンドウ越しの景色に目を細めた。
車のフレームが額縁のように景色を切り取っている。
暗色を纏ったフレーム、そして輝く蒼天。遠景の緑。
「……いいな」
影と光の対比。今日のような太陽光でこそ撮れるもの。
……そう考えが進み、ウィンドウ越しに陽光で緑を輝かせている里山が目に入った。
樹間から見る景色というのもいいかもしれない。木々を額縁として、明るい場所を撮るのだ。
それに森の中なら直射日光が無い分、いくらか涼しいだろう。日射病の怖れも少ない。暑さはさして和らがないだろうが、あの中を撮ってから帰るか。
そう考え、また車を発進させた。
山裾で車を止めた。
この里山に入るのも珍しいことではない。季節毎に変転する森を何度も撮った。道らしい道は無く、いわゆる獣道のみのある木々の狭間を、ゆっくり進みながらカメラを構えるのだ。
しかし今日は、鬱蒼とした森へ足を踏み入れるとすぐにむせるような緑の香りに包まれた。陽光は遠のいたが風が無く、蒸し暑い。やはり帰ろうかと考える。
踏み出す足が枝を踏む音に小動物が飛び出し、一瞬で通り過ぎる。反射的にカメラを上げたが間に合わなかった。おそらくリスかなにかだと思うが、いつも追い切れない。
一度定点で動物を待ってみるか、などと思うのもいつも通り。
しかし一方で、静かな興奮が身を満たしていくように感じていた。
森が、いつもと違う顔を見せている、……ようだ。
降るような蝉の音に包まれつつ、なにかが違う、いったいなにがと、焦燥にも似た何かを感じつつカメラを構え────息を呑んだ。
突如ファインダーの中に切り取られた画。
蒸れた空中に水蒸気でも上がっているのか。それとも細かい塵や小さな虫の群れだろうか。樹間に漂う薄い靄のようなもの。
そこへ枝葉の狭間から零れ落ちた強烈な太陽が、光の筋となって突き刺さっている。その眩しさに反して、樹幹には闇が落ちていた。
神秘的。そんな言葉が似合う画。
まるで違う世界に飛ばされたかのよう。
気づくとシャッターを切っていた。
汗が襟元や背中を濡らし、シャツが張り付いて動きにくい。そう冷静に考える部分も生きている。それで帰ろうと思っていた、はず。
……なのに
────空気に宿る輝きが、緑の鮮やかさと闇の深さを助長し、ときに違う彩りを添える。
枝が纏う濃緑と反射する光。しっとりと水分を含んだような樹皮を覆うように這う蔓植物。合間に密生する苔。落ちる光が際立たせる濡れた緑、そして闇。
刻々と創出される新たな画を写し撮ろうと、ひたすらシャッターを押す。露出を変えてまた撮る。ちょっとした角度の変化で見えるものが一変する。足を進めれば、また違う世界。
枝を広げる森の主役の力強さ、息づき。いや、主役は葉だろうか。それとも空気、いやこの光か。
この世界を作っているのは光線、いいやこのむせるような気温か、湿度か、……いや違う。そんな限られたものではない。……神、などと呼ばれるなにかが産みだした、これは奇跡だ。
だとしたらそれで良い。今だけ見られるこれを写し撮りきってやる。
夢中になって、シャッターを押し続けながら足を進め──────
「くっ」
いきなり目を焼かれた。
小さく呻き、舌打ちを発しながらカメラを下ろす。
里山はたいした大きさじゃ無い。なにも考えずに進めばいずれ、開けた高台に出ることも当然知っていた、なのに失念していた。
再度舌打ちしつつ、いったん焼けた目が取り戻した視界に映った蒼天に、またカメラを構える。
──────これだ、これだから面白い。
鮮やかな、深い蒼。この色を……
露出を調整する。世界は青いフィルターを纏った。
さっきまで神秘的な深い緑だった森は蒼を帯びた黒の額縁となる。
興奮と共に足を踏み出した。たった一歩進んだだけで額縁が消え去り空と大地が開ける。
ギラギラと太陽が照りつける空。青みの灰と蒼白の色付きを乗せた雲。大地を覆うのはエネルギッシュに恵を謳歌する深緑。強靭で無慈悲で、絶対的。まるで神の視点であるかのような────
シャッターを押し続けながらパンしていく。一様ではなく微妙に変化を見せる空の蒼。ミリ単位で表情を変える太陽。
夢中で露出を変えピントを弄り、刻々違う表情を見せる空を写し取って行った。
これはフィルムでも撮ってみた方が。ああ、森の中もフィルムで……うん、面白いかもしれない。カメラバッグにはフィルムのカメラも入っている。そんなことが頭の隅に過ぎるが、カメラを下ろす気にはなれなかった。今、この奇跡のような瞬間の連なり。一瞬でも目を離したら、神の目を失う────
切り取る画面に、スゥッと一筋の白が現れた。
飛行機雲?
こんなところに飛行機なんて飛んでない……いや、これも一瞬で消える奇跡か?
蒼を斜めに切り裂くような白が、徐々に薄まって行く。待ってくれ、まだそこにいてくれ。焦燥に焼かれそうになりながら雲を追った視界に、唐突に割り込んできた────陽に透けたような。いや、濃い影を纏った────若い男。
風に遊ぶ明るい色の毛先。目を少し細めた横顔。妙な存在感。
空を見上げる眼差しは、届かぬ憧れを見つめる少年のように切なげで悲しげで、なにかを諦めてしまったかのよう。
太陽に向けて上げている手の指先が陽を受けて白く光り、肌はほの青く染まっていて、なぜか涼しげにすら見える。
本能でズームしていた。
レンズをのぞく習性を持つ者なら、誰もがそうするだろう。それほど際立つなにかがあった。
するりとした肌に、ぽつんと艶を帯びるくちもとのほくろ。
いや、目尻近くにもある。くちもとのほくろは艶黒子といったか。目尻近くの泣き黒子は、たしか多情。良くも悪くも女を泣かす顔貌。
何者だろう。そう考えながら、ほう、と息を吐きだしてシャッターを押した、そのときまで呼吸は止まっていた。息を呑んでいた、というのが正しいか。生理的な欲求などどこかに飛んでいた。
一度動いた指はシャッターを押し続ける。音に気づいた青年の眼差しが動いた。顔がこちらに向く。
生命感の無い儚げな彫像だった男が、一転して生気を纏った。
いい目だ。
瞳は挑戦的な色を帯び射貫く。くちびるが血の気の多そうな形に歪む。
若さ故の傲慢に無垢な少年が見え隠れする。
いい。
この顔もいい。全て写し撮りたい。
「なに」
少し高い掠れた声。ああ声もイイ。
彼が一歩踏み出した。
「動かないで」
シャッターを押し続けながら、夢中で声をかける。
「は?」
「その位置、」
光線の入りが良いんだ。奇跡的なほど。
「動かないで。あと少し……いや」
表情を強請る声をかけようとした瞬間、瞳が強い色を放つ。同時に口角が上がって薄い唇が笑みを形づくった。
放心したようだった顔が一気に不敵になる。この表情。これだ。
「……やめてくんない?」
「良いな……」
「やめろって言ってんだけど、イイ男過ぎて止まんねえか?」
「ああ、最高だ」
声を返しながらシャッターを切る。
「しゃれになんねーからマジでやめろって」
僅かにしかめた眉、目元とくちもとから笑みの気配が消えた。
決めた露出でズームバック。
首が長い。広すぎない肩幅。スラリとした手足。
軽いジャケットにシャツ。山の中を歩くにはずいぶん洒落ている。暑くないのか。
彼の背景には消えかけた飛行機雲が走っている。さらに何枚か撮った。
満足感と共にカメラを下ろす。
「ありがとう。いい画が撮れた」
「はあ?」
久しぶりに人物を撮った。
これは帰ってからじっくり見よう。加工を入れても面白そうだ。
どこか呆けたようだった表情が、不満げなものに変わる。
またファインダーを覗いた。はっきりと怒りの表情。コレも良い。思わずシャッターを押していた。
「なんなの? 俺やめろ、つったよな」
「ああ、いきなり悪かった」
確かに失礼だったか、そう思い至りバッグに手を突っ込んで名刺入れを探す。
「思わずというか、止まらなかった。奇跡的に光線が良かったんだよ。青みを帯びた君の肌や髪の……」
「ていうかデータカード寄越せ」
こちらに向けて手を差し出し、きつく睨み付ける目を光らせて青年は言った。
「タダで撮らせてやるかつーの、ふざけんな。つうか気合い入ってねー顔はNGなんだよ」
「……ぁ……君は……」
まずい。
背中に冷たい汗がつつっと流れたのを感じつつ、バッグを探っていた手が止まる。
いまどき人物を撮るに、一般人でも肖像権に気をつけるのは鉄則だ。
「……モデル、か?」
ましてプロなら……。
「だったら? つうかあんた、失礼だな」
久しく人物は撮っていないから、最近のモデルなどほとんど知らない。しかしこれだけのモデルに対してカメラマンが顔を知らないと言うのは、侮りと取られてもしかたない。
俺程度、肖像権侵害で訴えられたら一発で干上がる。
暑さによらない汗がじわりと滲んだ。
「いや……済まない。その、かっ……」
そうだ、どうして思い及ばなかった? これだけのルックス、髪型も服装も洗練され……なぜ素人ではないと気づかなかった?
「……勝手に撮って済まなかった」
喉に粘液が絡んでいるようで、声が出にくい。
「今さら?」
冷えた光を放つ茶の瞳を見返し、ゴクリと喉が鳴るような気がした。
が、実際は空唾を飲み込んだだけだ。
「公表はしないから……」
「当たり前でしょ」
「……ぅ……」
俺は写真しか無い人間だ。他の仕事をしたことが無い。
それだけでは無い。家族との縁が薄く身内と呼べる存在は皆無。恋人と呼べるような存在も長くいないし、仕事以外で逢う友人もいない。
他にできることなど無く、誰にも頼れない。つまり写真で食えなくなるような真似をすべきでは無い。しかし……
「ギャラ払う、だから良ければ……」
これからも。
そうだこれからも彼を撮りたい。
そんな希望を乗せた声に彼は眉を顰め一歩踏み出す。
「は? なに言ってんの?」
少し掠れた高めの声が剣呑な響きを帯び、自然に一歩後退した。
「凝り性の素人ってんならまあ、条件次第じゃ許してやっても良いかなあとか思ったけどさ、あんたプロなんだ?」
睨み付けたまま、一度下ろしていた手が再び、俺に向かって真っ直ぐ伸びる。殴られるのかと思い、無自覚に首を縮めると手のひらが上になり、誘うように指が動いた。
「データ壊す。カード寄越せ」
次は明日20時に投稿します。