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霊水

空っぽの腹が音を立てた。今日は昼を過ぎてからめっきり客も減り、店主はそれから長い1日をカウンターで過ごしていた。


たしか食器棚の奥にはイワシのオイル漬けがある、刻んだピクルスを乗せて蒸留酒と……いや、ライムを絞って葡萄酒と……。


すっかり閉店気分で酒のつまみのことを考えていた店主は、突然とんでもない勢いで開いたドアに驚き飛び上がった。


「い、いらっしゃい」


「ここに……ゲホッ、おえっ、ここに!」


「落ち着きなさい、ほら、そんな焦らなくても」


「ここに! 霊水はありますか!」


喉笛が鳴るほど息を切らした赤毛の少年が、目を見開いた必死の形相で迫ってくる。店主は思わず後ずさりした。


「いや、うちは茶葉の店だから……」


店主がそう告げた途端に、少年は踵を返して出て行ってしまった。少しの間呆然とした店主だったが、はっとしてドアから顔を出した。


「そこを左に曲がって真っ直ぐ行けば、ここらで一番大きい用品店があるよ! そこならあるかもしれない!」


店主の声に、少年は振り返って小さく頭を下げた。すぐさま走り去って行く後ろ姿を見届けて、店主は再び店の中に入った。


「なに、あんた。どうかしたの?」


「いや、若い男の子だったんだけども、霊水を探してたみたいでね」


「霊水? ちょっと前までならともかく、今時霊水なんて使うのかね」


「それを必死に探してるんだから余程の事態なんだろうね。さて、今日はもう店仕舞いだ。お客が全然来ない」


ハイランズの街並みに段々と明かりが灯っていく。夜が近付いて暗闇が空の縁を飲み込み始める。いくつかの店が店頭のランプを消して、入り口に鍵をかけ始めた。


アルヴィンは必死に走った。霊水を求め、片っ端から様々な店に飛び込んだ。そうして何軒目かでようやく得た情報を頼りに店に駆け込むと、ちょうど店を閉めようと鍵を持った店員と目が合った。


「うわっ、あっ、いらっしゃ――」


「霊水ありますか!」


「えっ?」


飛び込んできたアルヴィンの勢いに気圧されつつも、店員は店の奥に在庫を確認しに向かった。他の店員に戸惑いの視線を向けられていたが、アルヴィンは必死に霊水を求めていたために気付かなかった。


「あるにはあるんだけど、本当に買うの?」


「要るんです、いくらですか!」


「いや、でも」


店員はアルヴィンの服装を見て、困ったように他の店員に目線をやった。しかし同じく困惑の目線しか返ってこなかった。


アルヴィンの服装は汚いということはないがお世辞にも上等なものではない。リンガラムの住人だと分かってはいたが、店員はアルヴィンの目力に根負けした。


「54400ウィーガル」


あんなに息を切らして飛び込んできたのだ、どうしても必要に違いない、しかしハイランズの住人にとっても高価な霊水を、リンガラムの住人が買えるわけが……。


アルヴィンを気の毒に思って目線を手元にやった店員は、しかし机の上で紙が擦れ合う乾いた音と硬貨がぶつかり合う音に気付いてはっとした。


「これで丁度。ください、それ」


「確かに54400ウィーガル、だけど……本当に買うのか、これ」


「それがあれば病気が治るんでしょう」


「重いものでなければある程度は治るよ、けど本当にいいのかい」


「治るんだろ! だったらいいからくれよ!」


会計をしようとしない店員に痺れを切らして、アルヴィンは彼の手から霊水を取り上げた。そのまま店の外に飛び出していくアルヴィンを店員たちは呆然と見送った。


「本当に買ってった……」


「しかも霊薬ならともかく、霊水をこの値段で」


「霊薬なんてもうないんだから仕方ないけども……まあ、彼が納得して買っていったのなら仕方ない」


机の上に乱雑に置かれたしわくちゃの紙幣を丁寧に伸ばし、店員は今度こそ鍵をかけ売上の確認を始めた。


この店の最後の霊水がなくなってしまったが次の入荷ができるか分からない。おちおち病気もできないのだから、皆少しでも早く帰って休みたかった。


霊水を買ったアルヴィンは今度は住処へと走った。一刻も早くエルヴィスに飲ませなければ安心できない。魔法を使いこなせるようになってから酷使しなくなった脚や肺が久々の全力疾走に悲鳴をあげて痛んだ。喉が酷く渇いていたが、水を飲むと気が抜けてしまいそうだった。


アルヴィンが勢いよく扉を開けると、エルヴィスが水を飲んでいるところだった。エルヴィスは驚いて水を零し肘とシャツを濡らした。


「エルヴィス!」


「うわっ、どうしたの、おかえり」


アルヴィンは心身共に酷く疲れていた。ずっと走っていたので息は荒いままで、渇ききった喉では会話をする気が起きなかった。


肩で息をしながらエルヴィスの前に霊水の入った瓶を差し出した。エルヴィスが困惑して受け取ろうとしないので、アルヴィンは無理矢理押し付けるようにして渡した。


「飲めってこと?」


喋ると腹の中身まで出てしまいそうで、アルヴィンは小さく頷いた。エルヴィスは栓を開けて瓶の口から匂いを嗅ぎ、考え込む素振りの後に目を丸くした。


「あれ、これって……あ、ううん、何でもない。いただきます」


持っていた木のカップに霊水を注いで、エルヴィスは一気に飲み干した。アルヴィンはそれを確認して、ようやく自身も水を呷った。渇ききった身体に水が染み込んでいき、気が抜けたアルヴィンはずるずると椅子に腰掛けた。


「アルヴィン、これ何?」


「霊水って言って、薬みたいなもんだ。今日、ブラムさんに会って……ブラムさんが、赤蛇に咬まれて熱が出た奴は、5人に1人の割合で死ぬって、それで」


「わざわざ買ってきてくれたの?」


「……お前が死んだら、色々と困るんだ」


「へへ、そっか。うん、ありがとう。おかげでもう治ったよ」


「そんなわけないだろ。さっき服濡れただろ、着替えてさっさと寝てくれ、頼むから」


朝と夜は冷える、汗をかいたままではアルヴィンも体調を崩しかねない。布地が身体に貼りつく感覚をなんとかしたくて、アルヴィンは魔法を使って部屋の隅の樽に湯を入れた。公衆浴場を使えなかった日はこうやって樽の中で身体を洗っている。


「アルヴィン、ほら、見てよ」


エルヴィスは七分袖の服に着替えていた。長袖にするよう小言を言ってもエルヴィスは聞き入れる様子もなく腕を差し出してくる。アルヴィンはしぶしぶ服を脱ぐ手を止めてその腕を見た。


「本当だよ。本当にもう治っちゃった」


「……は?」


エルヴィスの左腕から赤黒く腫れた傷が消え去っていた。まさかと思って腕を裏返しても、傷はどこにも見当たらない。それだけではない、掴んだ腕は熱くなくなっている。アルヴィンは驚愕しつつエルヴィスの額に手を当てた。


「ね?」


「いや、確かに治るって聞いたけど、えっ……だってさっき飲んだばっかで、えっ?」


「これが霊水の効果ってことなのかな」


「いやいやいや……ありえないだろ、こんなの。魔法じゃあるまいし」


「アルヴィンが言っちゃ駄目でしょー」


エルヴィスの顔色はすっかり良くなっていて緩慢だった動きも軽やかになっている。アルヴィンはひとまず相棒の危機が去ったことに安堵した。


家賃1年半分を出して買っただけのことはあるな、さすが家賃1年半分の……。


金額を思い出して、今度はアルヴィンの顔から血の気が引いた。つい必死になって払ってしまったが思い返せば結構な大金だ。


「エルヴィス」


「なに?」


「……明日から、パンの厚みは半分で」


エルヴィスは目を瞬かせて、霊水の瓶とアルヴィンの顔を交互に見やった。値段について触れたエルヴィスに対して、聞かない方が良い、とアルヴィンはか細い声で言った。


アルヴィンはよろめきながら服を脱ぎ、放心状態で床に落としていった。エルヴィスはそれを拾い集め、カーテンの向こうで樽の中に体育座りをする相棒に恐る恐る声を掛けた。


「あの、なんか……ええと、僕の心配して買ってきてくれたんだよね、ありがとう、わざわざ高いものを……」


「別にそんなんじゃないし……金はまた稼げるし……」


「えっと……そうだね、明日から仕事頑張るね」


「そうだな、頑張って働くか! 生きてれば働けるもんな! あははははは!」


「えっと、アルヴィン? どうしたの、大丈夫? もしもーし」


「あっはっはっはゲホッ、うえっ」


慣れない大爆笑で咽せたアルヴィンは咳き込んだ後に再び体育座りで小さく縮こまった。そのまま動こうとしないので、エルヴィスはとりあえず着替えをカーテンの前に置いてやった。


「風邪引くよ」


返事はなかった。しかし直後にアルヴィンは火と風の魔法で熱風を起こし、身体を乾かして寝巻きに着替えた。


「……寝るか」


「うん」


アルヴィンはベッドに倒れ込んで数分後には寝息をたて始めた。疲れからかとても寝つきの良い相棒に目をやって、エルヴィスは霊水の瓶を手に取った。


一体いくらしたのかは分からないが、アルヴィンが自分のために必死になって買ってきたものだ。エルヴィスはまだ中身が半分残っている瓶を割れないよう布で大切に包んだ。


「アルヴィンは大袈裟だなあ」


死ぬ奴もいるんだ、大袈裟じゃない。アルヴィンが起きていればそんな反論をしただろうが、生憎本人は夢の中だ。


ふと、扉の向こうに何者かの気配を感じて、エルヴィスは内側から扉を叩いた。


「誰?」


「夜分遅くに失礼します、アルヴィン・ファーガスさんでしょうか?」


「ううん、一緒に住んでる冒険者なんだ」


エルヴィスが扉を開けると、そこには1人の男が立っていた。黒い短髪に緑の瞳の、それ以外にこれといった特徴のないどこにでもいそうな男だ。


「セルゲイ・サハロフと申します。アルヴィンさんに仕事を依頼したいのですが、いらっしゃらないんですか」


「いるけど、今日はもう寝ちゃったから。明日になればまた広場に行くから、仕事ならそこで受けるよ」


「分かりました。それではまた明日、お願いしに参ります」


「うん、そうして。ところでどうしてわざわざ夜に、急ぎじゃない仕事の依頼なんかしに来たの?」


セルゲイはエルヴィスの質問に応えようとはしない。一瞬だけ眉を不快そうに寄せて、すぐさまその場を立ち去ろうとした。しかしアルヴィンに自分のことを悪く言われても困る、セルゲイはこのまま帰るのは悪手だと考えた。


「すみません、私の雇い主がえらくせっかちで我儘なんです。アルヴィンさんに依頼するために、夜であろうと私を蹴り出すくらいに」


「ふうん、そっか。大変なんだね」


「ええ。とは言えさすがに非常識な真似をしました、申し訳ありません。明日広場に出直します」


「うん、アルヴィンにも伝えとくね」


深く頭を下げて去っていくセルゲイを見届けて、エルヴィスは扉に鍵をかけた。納得した振りをしたものの、エルヴィスはセルゲイという人物が不気味に思えた。


わざわざ夜に訪れてきた理由は彼の言った通りだとしても、何故扉のすぐ向こうにいながらノックのひとつもしなかったのか。敵意は感じなかったので自分たちに危害を加える気はないだろうが、自分が話し掛けなければ何かをする気だったのだろう。しかもあの男は……。


エルヴィスはそこまで考えたが、やはりセルゲイの真意は分からない。悩んでいても仕方がないのでエルヴィスもベッドに潜り込んだ。どちらにせよ明日分かることだ。


「おやすみ」


返事はないが挨拶をして、エルヴィスは目を閉じた。昼間に沢山睡眠をとったのであまり眠くはなかったが、少しでも体力を温存しておきたかった。


エルヴィスは眠りに就くまでに霊水について考えることにした。霊水が身体に染み込んで一部になっていく感覚はどこか懐かしく感じられた。左腕の傷はやはり綺麗に消えている。


しかしエルヴィスにはどうにも不可解なことがあった。


「薄いなぁ……」


「これ」が霊水と呼ばれていることを初めて知った。たしか以前は秘薬、その前は聖水と呼ばれていて……いや、そんなことはどうでもいい。とにかく自分が知っているものより薄い、効果だってこの程度のものではないはずなのに……。


エルヴィスはそんなことを考えながら浅い眠りに落ちていった。明日は何か起こる、そんな気がしていた。

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