母さん
ファウストは窓を開け放ち、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。ベルナルドとのあまり広くない2人部屋は実に気楽で自由だ。チェルトラという油断の許されない街の中では、この部屋こそがオアシスだ。
「君も僕を気にせず外に食べに行けばよかったのに」
「慣れない場所でひとりで食事っていうのもほら、ちょっと気が進まないというかあれでしょう。若い子たちに混ぜてもらうのもおかしいですし」
「それもそうか」
ファウストはジュース瓶の栓を開けて一気に飲み干した。背中の火傷が治っていないので湯船には入れないが、宿自慢の広い浴場の雰囲気が好みだったらしく、ファウストは上機嫌だ。外見が若々しいこともあって、風呂上がりの1杯を呷る姿は大人の真似をして背伸びをする、ませた若者のようだ。
「飲むか? このリンゴとコケモモのジュース、酸味があってなかなか美味しいんだ」
「いや、俺はいいです。どちらかというと麦酒とかの方が……パータルエールとか飲みたいな」
「飲めばいいじゃないか」
「ファウストさん酔っ払うでしょう」
「君の中で僕はどれだけ弱いことになってるんだ。窓だって開けてるんだ、君が酒を飲んだところで僕が酔うわけないだろう」
「すごく当たり前のことを胸張って言ってますけど、それさえ怪しいのがファウストさんでしょう」
「そんなことはないさ。蒸留酒ならまだしも麦酒なんだから」
「えぇ、本当ですか?」
少しばかり悩んだベルナルドは、結局ファウストと同じジュースを食堂まで買い求めに行った。ベルナルドにとって酒とは誰かと飲むものだ、わざわざひとりで飲む気にはなれなかった。
「おっ、おかえり」
「ただいま! ベルナルドさん見てこれ、アルヴィン酔っ払ってるんだ!」
「酔っ払ってないって言ってるだろ、全然、もう全然これっぽっちも酔ってないから!」
「いや顔がリンゴみたいな色になってるよ」
ちょうど戻ってきたアルヴィンとエルヴィスはやたらと陽気で、ベルナルドはてっきり2人とも酔っているのだろうかと思ったが、しかしエルヴィスはまだ酒が飲める年齢ではない。エルヴィスは素面で酔っ払いに溶け込めるのだ。
「ほらほら、騒ぐなら部屋に入ってからだ。そんでもってアルヴィンはもう寝な」
ベルナルドは自分たちの隣の部屋に2人を押し込んで、自身も部屋に戻った。だからと言って彼らの声が完全に遮られるわけでもなく、最早何に笑っているのか分からないほど延々と笑い声が漏れている。
「2人ともなんだか楽しそうだな」
「アルヴィンの方が酒を飲んだみたいですよ。笑っちゃう部類みたいですね」
「そうなのか、ちょっと突撃してくる」
「えっちょっファウストさん?」
ファウストは急に活気付いて部屋を飛び出した。普段大勢の部下の前では冷静で常に自身を律している上司のタガが外れている。ベルナルドは非常に複雑な気持ちになった。
「さあアルヴィン、初めてのお酒はどうだった!」
「めっちゃイキイキしてる……」
「それがね、アルヴィンあんまり強くないみたいなんだ」
「そうか! まあ初めてだしそんなものだろう!」
「仲間見付けて喜んじゃってる……」
「3杯で酔っ払ってるしさ。しかも2杯は半分ジュースだったのに」
「なんだ十分強いじゃないか」
「露骨に興味失せてる……」
アルヴィンは椅子に腰掛けた状態で、頭を揺らして微睡んでいる。すっかり放置されているのがなんだか哀れで、ベルナルドはとりあえず上着を脱がせてベッドに転がしてやった。
「ていうか、お酒って少しは飲めた方が良いって言うけど、実際どうなの?」
「まあそうかもしれないな。大人になると付き合いで飲むこともあるし。飲めるかどうかで人生大きく変わることもあるんだ」
「それって例えばどんな風に?」
「僕の場合は飲めていたらそもそも魔物退治をしていなかったな」
「そんなことある!?」
「いやね、うちの団長はちょっと特殊だから。そう考えると飲めなくて良かったのかもしれないですね」
世界とはまったく不可解で不思議なものだと、エルヴィスは目を丸くした。もしも目の前にいるたったひとりの男が酒に強ければ、たったそれだけで、チェルトラは壊滅していただろうしヴァプトンの強制指令も達成できていなかっただろう。
「ところでエルヴィス、念のため聞くが君は飲んでいないな?」
「うん、それは勿論。あと20日くらいで飲めるようにはなるけどね」
「なら結構。初めて飲む時は信頼できる相手と飲むようにな。アルヴィンなら大丈夫だろう」
「ええー、ファウストさん、深刻に考え過ぎでしょ。一体お酒で何があったのさ」
「まあ、いろいろ……思い出したくもないような……」
「えっ、なになに教えて」
「さてともう寝るか、戻るぞベルナルド!」
ファウストはエルヴィスの追及から逃げるように部屋を出て行った。ファウストには余程の黒歴史があるらしい。
迷惑な存在だと言われがちだが、実はエルヴィスは酔っ払いが嫌いではない。愉快なことをしてくれる者もいるし、普段と違う姿が表れれば面白い。相当に迷惑な振る舞いや嘔吐がなければ、見ている分にはむしろ好きだ。酔っ払ったアルヴィンは新鮮で実に楽しかった。そして何より、陽気なアルヴィンになら何でも言えるような気がした。
「あのさ、アルヴィン。僕は人間じゃないけど、だけどいつか君がひとりで暮らすようになったり、誰かと家庭を持ったとしても、僕らは僕らで家族でいたいな。そしたら僕は本当に、きっとこれ以上ないってくらい幸せなんだ」
「ん? んー……」
「あ、もう寝てる?」
「寝てない……」
起きているつもりで夢の世界に半歩踏み入れているアルヴィンを見て、エルヴィスも明かりを消してベッドに潜り込んだ。それで眠るつもりだったが、アルヴィンが回っていない舌で何か呟いているので、エルヴィスはいそいそと耳を立てた。
「エルヴィスがぁー、もっとでかくなってぇー、嫁さん見付けてぇー」
「なんか変に語尾伸びてる」
「そんで一人前になってぇ、そしたらいつか俺と離れて、そしたら……」
ごにょごにょとアルヴィンの言葉尻が小さくなっていくので、エルヴィスはもういいだろうと毛布を手繰り寄せた。そうして目蓋を閉じようとした瞬間、それはやけにはっきりと聞こえた。
「適当なところで死ぬから、それでいいだろ、母さん……」
僅かな眠気はいとも簡単に吹き飛んだ。エルヴィスは思わず起き上がってアルヴィンに声を掛けたが、返ってくるのは寝息のみだった。
酔っ払いの言うことは真面目に聞く必要がない、そう言われたことはあっても見過ごすわけにいかない。しかし今夜はその言葉の真意について知ることは叶わない。
なろうファンタジーと言えばギルドで常にエール飲んでるおじさんがいますが、これには出てきませんね……聖火の鏡でもお酒は出してません。社食みたいなものだから。
ちなみにファウストさんも社食欲しいなーとは思ってるんですけど、大地の盾は団員数からして必然的に食数が多くなるので、設備も面積も料理人も揃えようとしたらお金めっちゃ必要になりますし、なんなら建物の建て替え工事とか必要になるので、食事はみんな自前です。ファウストさんが福利厚生に力を入れたくても、どうにもならないことがあるのも人生ですもんね、仕方がないですね!




