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聖者の金杯 〜魔術師の慚愧、魔王の安息〜  作者: 雪月黒椿
4章 ボリューニャ・チェルトラ編
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腐敗

「おはよう」


かちゃん、かしゃんかしゃん、こぉん。


「朝ご飯できてるから、顔洗っておいで」


こっこっこっこっこっ………かつっ。


「おはよう。朝ご飯できてるから、顔洗っておいで」


輪郭が曖昧な黒い手が、木の枝を掴んで宙をぐるぐるとかき混ぜる。取りこぼした石が地面を転がり寂しげに横たわる。痩せて細くうねった髪が風に煽られて、そのまま何本か抜け落ちた。


「おはよう。朝ご飯できてるから、顔洗っておいで。おはよう。朝ご飯できてるから、顔洗っておいで。おはよう。朝ご飯……」


夕暮れが顔を突き刺して、そこでようやく朝の挨拶をやめたそれは、緩慢に顔を上げた。かと思えば間も無く挨拶を繰り返した。


それは腕だけでなく顔の輪郭も曖昧で、性別の判別すらつかない。それ以前に、遠目から見れば大人の人間の形をしてはいるが、近付いて見てみるとまるで人間には見えない。


「こっちだって!」


「ねえ、やっぱりやめようよ。何かいたらどうするの」


「なんだよビビリだなあ、幽霊なんて本当にいるわけないだろ」


「けど、やっぱり怖いし……」


「平気平気! なんかあったら俺が守ってやるからさ!」


得意そうに笑った青年が先頭に立ち、少女2人と気弱そうな少年が戸惑いながら着いていく。


町のはずれの大岩の辺りに『人ならざるもの』がいる。彼らはそんな噂を聞いてやってきた。この若者たちにあるのは真実を突き止めようなどという探究心ではなく、娯楽を求める野次馬根性だ。彼らは『人ならざるもの』を幽霊だと思い込んで肝試しに来たのだ。


「ま、俺くらい頼れる男になると、幽霊が2人3人出たところで余裕っつーか?」


「へえ、そうなんだ、さすが……」


「すごいね、ふーん……」


「兄ちゃん僕やっぱり嫌だよぉ」


抑揚のない少女たちの相槌の後に、少年の萎びた声が兄である青年を追い掛ける。青年はそれに構うことなく足を進めるが、後ろから強く裾を引かれて尻餅をついた。


「うわっと、なんだよ」


「ねえ、あそこ……なんかいない?」


「ん?」


所々破れて裂けた、身に付けるにはまだ少し早い厚手のローブ。風に煽られたフードの中から現れた、砂に塗れ灰色がかっている枯れた長髪。遠目からでも分かる薄汚れた風貌に、青年はつまらなそうに唇を尖らせた。


「なんだ、そういうことか」


「そういうことって?」


「幽霊の正体だよ。誰かが浮浪者をそう勘違いしたんだろ。あーあ、つまんねえの」


「けど、実際たしかに気味悪いもんね。うちの町、浮浪者なんか来てたんだね」


「仕方ねえなあ、俺が追い払ってやるよ。おーいそこの爺さん……いや婆さんか?」


青年が呼びかけても、それは反応を返さない。彼はそれが気に入らず、少女たちの戸惑いがちな静止を気にも留めずにそれに近付いた。


「聞こえてんのかよ」


「おはよう。朝ご飯できてるから、顔洗っておいで」


「はっ?」


「おはよう。朝ご飯できてるから、顔洗っておいで。おはよう。朝ご飯できてるから、顔洗っておいで。おはよう。朝ご飯できてるから、顔洗っておいで」


「なんなんだよ気持ち悪いな……おい、聞いてんのか」


「私は」


それは立ち尽くしたまま黒い靄を撒き散らした。青年は突然宙に舞った粒子に驚いて、ひゅっと喉を鳴らした。しかし少し離れたところからこちらを窺い見る3人にそれを悟られたくなくて、わざとらしい咳をして誤魔化した。


「えーと、その、埃? やべぇな……人目につかないところで水浴びでもした方が良いと思うぜ」


「死ねない」


「へっ?」


「死にたくない。あなたが」


ぶわ、と靄がざわめき立つ。まるで意思を持つように波打つ黒を見て、青年は後ずさった。そうして身体を軋ませながら振り返ったそれの顔を見て、呼吸すら忘れて目を見開いた。


指先が体温を全て奪われたように冷える感覚。得体の知れない未知に対する恐怖。本能が危険だと叫んでいるのに、爪先は凍り付いたように固まっている。青年は恐怖で上下の歯を打ち鳴らした。何故ならそれは、分かりやすく死の姿をしていた。


「傷付けるのなら、殺してでも守る」


恐怖しか感じさせないはずのそれを、青年はどこかで見たことがあった。


どこだっけ、ああそうだ、あれは6歳の時。酒癖の悪い父親が自分に向かって酒瓶を振り下ろそうとして、その時――


次の瞬間、答えを導き出すより僅かに早く、青年の視界は真っ白に染まった。





初老の男の腕の中で、淡い色の花束が優しく揺れる。客たちの上機嫌な様子を見て、花屋の娘は満足そうに頭を下げて見送った。こうやって客の注文に応えるのが彼女の仕事であり、趣味でもある。下げていた頭を上げて店内へと踵を返したが、しかし直後に呼び止められて振り向いた。


「すみません、お聞きしたいのですが、この町に宿はありますか」


「え? ええ、はい……」


勿論ありますよ。娘はそう続けようとしたが、青年の顔を見た瞬間に彼に釘付けになった。つい会話を忘れて吸い寄せられるように彼を見つめていると、青年の隣に立つ女性がわざとらしく咳払いをした。


「あっ、えっと、ちょっと待ってくださいね! 地図を用意するので」


娘ははっと我に返り、慌てて店内に戻っていった。それを見た女性は不満そうに鼻を鳴らして青年に抱き付いた。肩につくくらいのしっとりと黒い髪、男性並みの高身長、美しく伸びる長い脚に豊満な女性らしい身体。だが青年はそんな美女に密着されても、動じることなく慣れた様子であしらう。


「もうセンセェ、今の子見惚れてたわよ?」


「はは、だとしたら光栄だよね」


「センセェ酷いわぁ、あたくしというものがありながら。他の女にうつつ抜かしちゃ嫌よ?」


「ちなみに僕は公衆の面前でいきなり抱き付いてこない、分別のある女性が好みなんだけど」


「センセェったら冷たぁい」


間も無く花屋の娘が戻ってきて、青年に手描きの簡単な地図を手渡した。感謝の言葉を述べた青年の微笑みに、娘は再び見惚れてぼんやりとした表情のまま2人を見送った。


「なんだい、どうかしたの」


「あ、あのね、母さん、今すっごく綺麗な男の子が来て。宿を探してたしここの人じゃないみたいだけど」


「へえ。それは是非とも見てみたいもんだね。ここら辺の男はジャガイモばっかりだしね」


「もうね、同じ人間じゃないってくらい綺麗だったよ。特に瞳がすっごい綺麗で」


「そこまで?」


大した会話もしていないであろうに、やけに高揚して話す娘を見て、母親はその場から離れていたことを少しだけ後悔した。そんなに綺麗なのなら一目見てみたかったよ、そう返事をしてエプロンの紐を結び直した。


「大変だ! おい、誰か、誰か助けてくれ!」


仕事中のはずの体力自慢の男たちが、慌てた様子で町を駆ける。その腕には少女が抱えられている。後ろに続く男たちもそれぞれ別の人間を抱いて運んでいる。ただならぬ様子に、花屋の親子も緊張しながら駆け寄った。


「どうしたの、何かあったんだい」


「それが、その」


「俺たち外れの方で木の伐採をしてたんだけど、悲鳴が聞こえて、それで、その……」


鼻をつく強烈な不快感。それを発しているのは抱えられたまま呻く少女だ。


「何これ、腐ってるの……?」


少女の右足の肉が溶け落ちて、黄ばんだ骨が露出している。母親は辛うじて目を逸さなかったが、娘は一目見て短い悲鳴を挙げ顔を背けた。


誰か助けてくれ。そうは言っても誰がどうやって。ただ戸惑う人々のざわめきに、少女の呻き声は掻き消された。


「あの、一体何が」


「あっ、ちょっと待って見ない方が……」


割り込んだ男性が少女を見て目を見開いた。彼女は少女の父親だ。相当衝撃を受けたらしく、顔を強張らせつつも骨が剥き出しになった右足から視線を外せない。唇を震わせるだけの彼に、気遣わしげな視線を投げる者はいても、誰も声を掛けようとはしない。


ただひとりが、その場の混乱を切り裂いた。やけに存在感のある声が、皆の視線を集めて釘付けにした。


「どうかしましたか。よければ診せてください」


彫刻のように整った顔立ち、陶器のような肌、富豪の娘のドレスのように輝く金髪、晴れた日の南国の海のような透明感のある瞳。


見惚れている場合ではないと分かっているはずなのに、皆彼に集めた視線を外せなかった。単に外見が良いだけでない、不思議な廉潔さが彼の存在を常に際立たせるのだ。


「腐敗……? 何故こんなことが」


「もうセンセェ、急に走らないでったらあ。置いてくなんて酷いわぁ」


「言ってる場合じゃないよ。これは今すぐ処置しなきゃいけない。ユナ、麻酔の準備を頼むよ」


「あらセンセ……その子気絶してるみたいだけど、ちゃんと同意は貰ったの? 起きた時にはあなたの足はありませんけどいいですかーって」


センセェと呼ばれた青年は、ぐっと息を飲み込んだ。ついユナという女性を睨み付けたが、彼女はセンセェ怖ぁい、とわざとらしく頬に手を当てて身を捩るだけだ。


「お願いします」


「え?」


「足の1本や2本どうとでもなります。娘を助ける方法があるのなら、どうかお願いします」


少女の父親に縋り付かれて、青年は数秒間だけ呆気にとられて、しかしすぐに頷いた。それを見たユナも、頬に当てていた手を荷物へと伸ばして不敵に微笑んだ。


「任せてください。絶対になんとかしてみせます」


「同意があるなら、あたくしも遠慮なくやれるわぁ」


「ああ、頼むよユナ」


「センセェのお願いですもの、頑張らなきゃね」


青年が僅かに口角を上げた。美しい青の瞳が一層輝きを増して、少女の患部を捉えた。


清涼感のある涼しげな色彩の中に燃え上がる生命力。情熱。信念。全てを飲み込んでものにする意思。知識欲。


やだぁセンセェかっこいい、あたくしやっぱりセンセェのこと大好きだわぁ。


これ以上時間を無駄にするわけにはいかないのでわざわざ口に出したりはしないが、ユナは彼に心酔している。治療ひとつ行うたび、もっともっととのめり込んでいくのだ。

怒涛の新キャラ祭り


4章は長いしキャラ多いです。

個人的には4章からが本番です

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