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木枯らしが吹いた。
サイラスとライリーの間を駆け抜ける冷たい風が。
今の二人の関係そのものに思えて、サイラスは思わず顔を顰めた。
そんなサイラスに、ライリーは苦笑しながら言った。
「そんな微妙な顔をしないでよ。別に君のことをそういう意味で好きだって言った訳じゃない。もちろん、上級生の暴力から助けてくれた君には感謝はしているよ。だけど、僕が愛しているのはジェイソンだ。ただ彼一人だけだ」
「……だから、彼と結婚したリリーを恨んでいる。そう言いたいのか」
「違う。恨んでいるのは、あの女がジェイソンを殺したからだ。警察は自殺だと言っているけれど、そんなことあるはずがない。ジェイソンは絶対に自殺なんかしない。拷問を受けていた時でさえ、彼は安易な逃げ方は選ばなかった」
「拷問?」
「僕たちは昔、同じ精神科医に罹っていたんだ。君にはわからないだろう?治療という名の暴力を受ける辛さなんて。僕たちみたいな性的指向を持つ人間はね、そもそも人間じゃないんだって。だから、一晩中、水風呂に入れられたり、椅子に縛られて身体に電流を流されたりしても文句は言えないんだ。それが毎日続く。僕は正直、頭がおかしくなりそうだったよ」
何となく、ライリーの人となりが変わってしまった理由が、サイラスにはわかったような気がした。
水治療や電気刺激治療を提供する私立の病院があることは知っていた。
そういう所に、周囲に知られないようにひっそりと入院させる親族がいるということも。
だが、治療の実態がそこまで凄惨なものだったとは思わなかった。
拷問だと言ったライリーのことばには、大変真実味があった。
「入院していたのか……。学校は休学していなかったように思うが」
「僕の場合は、夏の間だけだったからね。周りには長期休暇で帰省していることになっていたんだ。でも、あんなに早く出られたのはジェイソンのおかげだよ」
「彼も患者の一人だったと言ったな」
「経緯は知らないけれどね。僕と同じように家族に無理矢理、入院させられたのかもしれない。だけど、僕と違ったのはジェイソンが甘んじて治療を受け入れなかったところだ。どうやったのかはわからないけれど、彼は医者を上手く丸め込んで治療はもう要らないと周囲に思わせてしまったんだ」
「そんなことが可能なのか」
「わからない。でも、実際に治療は終わったし退院もできた。ジェイソンは僕まで助けてくれたんだ。本当に感謝の気持ちしかないよ。彼がいてくれたから、僕は何とか死なずに済んだんだ」
それが、ライリーにとってジェイソンに恋心を抱く存在になった理由なのだろうか。
地獄から救ってくれた恩人だからこそ、ライリーはここまでジェイソンに拘るのかもしれない。
「"困ったことがあったら、いつでも訪ねておいで。"寄宿学校に帰る時、ジェイソンは僕にそう言ってくれた。それが唯一の心の支えだった。君が卒業してからも、辛い学校生活を耐えられたのは、彼のことばがあったからだ。だから……だからこそ、ジェイソンが結婚したと風の噂で聞いた時、居ても立っても居られなかった」
「七月からの夏季休暇を利用して、会いに行ったんだな」
「ああ。結構、距離があったから到着したのは八月上旬だったけれどね。領地を歩き回って、屋敷に辿り着いたのは夜中の時分だった。使用人たちは寝静まっていて、鉢合わせることなく屋敷に忍び込めたから、その時はついていると思ったよ」
「………」
「でも、あんなことになるんだったら、みんな起きてくれていた方が良かった。そうすれば、ジェイソンは助かったかもしれないのに……」
その時、ライリーは身震いした。
もしかすると、思い出したのかもしれない。
好きな人の亡骸を発見した当時の光景を。
「声も出なかった。ただただ呆然として。だから、物音がした時、酷く驚いたよ。思わず、その場に尻餅をついてしまって……近くに落ちていた詩集を見つけた時は、もっと驚いたけれど」
「自分の名前が書いてある、そう思ったからだな」
「凄いな、そこまで突きとめたんだ。そうだよ、開かれたページには"Reilly"(ライリー)と書いてあった。なぜ、自分の名前がと頭で考えている暇はなかった。足音が近付いていたからね。僕は咄嗟に、その部分を破って窓から外へ出た。急いでいたから綺麗に破れなくて、一部筆跡を残してしまったのは気がかりだったけれど。今、思うと、詩集そのものを持ち出した方が早かったのかもしれない」
焦っていて、冷静な行動はできなかったというライリーを、サイラスは複雑な思いで見つめた。
実際問題、詩集が残されていたことは大きかった。
持ち出されていたら、物取りの可能性を否定できず、詩集に残されていた文字の真意についても理解できなかったからだ。
が、当のライリーがその意味に気付いていないというのは何とも滑稽な話だと、サイラスは思った。
そう、あれは決して"Reilly"と書かれていた訳ではない。
あそこに書かれていたのは……。
「どれくらいの間、窓の下で身を潜めていたのかはよくわからない。すぐに逃げれば良かったんだろうけど、気が動転して……でも、だからこそ、わかったこともある。悲鳴が聞こえて、反射的に窓から室内を覗き込んた時に、僕は見たんだ。忘れたくても忘れられない、あの女の歪んだ笑みを」
リリーも言っていた。
ふと視線を感じて窓の方を見た、と。
その視線の正体がライリーだったという訳だ。
外が暗くて、室内のリリーにはライリーが見えなかったようだが、逆にライリーにはよく見えたのだろう。
ライリーは当時を思い出し、ギュッと拳を握った。
「視線が合ったような気がして、急いでその場を離れたけれど……殺されると思った。ジェイソンのように。僕にもっと勇気があれば、あの場ですぐに復讐ができたのに……僕はすごすごと逃げ帰ってしまった」
「リリーが犯人だと思って疑っていないようだが、流石に飛躍し過ぎだ。その場には他にも人がいただろう」
「確かにいたよ。でも、彼らが犯人じゃないのはわかってた。そもそも、殺したのが誰なのかなんて一目瞭然だった」
「……リリーが歪んだ笑みをしていたからか?」
「そうだ」
今ここに鏡があれば、ライリーに見せてやれるのにと、サイラスは思った。
今のライリーこそ、歪んだ醜い表情をしている。
リリー同様、ライリーもまた今まで負の感情というものには縁がなかったのかもしれない。
だからこそ、気付かない。
人を憎む気持ちもまた、心理的な防衛の一つであり、当然の反応なのだということを。
それを言ってあげる人がいなかった。
いや、もしジェイソンが生きていれば、彼がライリーにとってそれが普通なのだと教えてあげる存在になったのかもしれない。
「警察の捜査で自殺と判断された時は驚いたよ。さっきも言ったけれど、彼は絶対に自分から死を選ばない。どんなに苦しくても、それを乗り越える人だ。だけど、警察にはそれがわからなかった。おかげで、あの女は逃げおおせてしまった。誰も、あの女の罪に気付かないなんて……どうしても許せなかった。でも、同時に怖くもあった。次は僕の番だと思ったから。目撃した僕を、あの女が殺しに来るんじゃないかと、ずっと震えていた」
「で、どうだった?リリーはやって来たのか?」
「いいや、来なかった。でも、そのせいでまた病院送りにされた」
怯えて精神過敏になっていたのを、病んでいると思われたらしい。
また違う私立クリニックに入れられたのだと、ライリーは言った。
「二年間だ。二年間、夏の長期休暇の間はずっと入院させられていた。拷問の日々だったよ。ジェイソンのおかげで救われたのに、あの女のせいで、また僕の地獄は始まったんだ」
それは逆恨みというものだが、リリーが犯人だと勘違いしているライリーにとっては、至極当然な帰結だったようだ。
ーーそういえば、脅迫が始まった時期にズレがあったのも、もしかすると入院していたせいで身動きが取れなかったということなのかもしれないな。
それが二年というブランクの理由なのだろうか。
「どうやって退院できたんだ」
「どうにか普通を装って、医者を懐柔したんだよ。もう一人の全く違う自分を作り上げて演じたんだ」
それが今のライリーなのだろうと、サイラスは思った。
以前の臆病なライリーから乖離した、もう一人の陽気なライリーという虚像。
卒業後、久しぶりに再会した時、変わったなと思った理由はここにあったのだ。
「爵位を継ぐことになったことも大きい。僕をあんな病院に入れた父が死んで、晴れて僕は退院できたんだ。でも、その時には、もう遅かったよ。あの女は次のターゲットを見つけてしまっていた」
「次?」
「君だよ、サイラス。君には他に想う女性がいたのに、あの女は無理矢理、結婚するように仕向けてしまった。次に殺されるのは君だと思ったよ。あの女はそうやって、人殺しを楽しんでいるんだから。だから、僕は君にメッセージを送ったんだ。人殺しというメッセージをね」
「何だって?」
届いた脅迫文は、全てリリーへ向けられたものだと思っていた。
正確には、サイラスの屋敷に届いた脅迫文は飛ばされてユリの花だけが残っていた訳だが、あれはそもそもリリーへの嫌がらせというより、サイラスへの忠告だったということらしい。
「君は、ちゃんと気付いてくれた。だから、隣国へ渡ったっきり戻って来なかったんだろう?」
「あれは……」
「わかっているよ。君の気持ちは。だって、君の背中を押してやったのは僕なんだから。君がどれほど公爵夫人を愛しているか、僕は知っていた。酒場でよく話してくれただろう?だから、君にだけは幸せになって欲しかったんだ」
確かに、酒場でヴェロニカの病気の件を教えてくれたのも、後を追うように言ったのもライリーだった。
てっきり魂胆があっての言動だと思っていたが、ライリーは純粋にサイラスのことを応援してくれていたようだ。
自身の叶わなかった恋と重ね合わせて。
「もちろん、あの女の実家にも人殺しのメッセージは送り続けた。僕が入院中の間は、ゴロツキを使って。悪い噂も流して評判を落としてやったけれど、あの女は歯牙にも掛けなかった」
忠告の意味合いが強かったと、ライリーは言った。
が、引きこもっているリリーには、そもそも脅迫文の存在は知らされず、自身の評判が悪いことも、リリーが素直に受け入れてしまったので、ライリーとしては一切反応がないように見えたのであろう。
であれば、去年から急に脅迫めいたことが活発化し始めたのは……。
「わたしなのか。わたしが帰って来たから、お前は……」
「もしかして、モンゴメリー領のことを言ってる?あの女の弟の怪我や橋の工事の?それとも、晩餐会でネズミを使って脅したことかな?そうだよ、全部、僕がやった。君が帰って来て、あの女に今度こそ殺されるんじゃないかと心配だったんだ。あの女の好きにはさせない、そう思って、僕から脅してやったんだ。お前が人殺しだと知っていると、ね」
サイラスは思わず瞳を閉じた。
リリーへ償う為に帰って来たのに、逆にライリーを刺激してリリーを苦しめるきっかけを作ってしまっていたとは。
「……仮面舞踏会の件はどうなんだ」
「あれは……モリーにだけは申し訳なかったと思っているよ。彼女は優しい人だったから。騙して、あの女の情報を聞き出すのは心苦しかった。本当は、舞踏会の時も傷付けるつもりはなかったんだよ。でも、見られてしまったから……仕方がなかった」
あの夜、ライリーが何をするつもりだったのかはわからない。
が、ネズミの死骸か、またはユリの花を使って脅しの小細工をしようとしているところをモリーに見られ、犯行に及んだ。
そういうことなのだろう。
「咄嗟にモリーを殴ってしまって、思わずその場を離れた。後で、彼女の無事と事件のショックのせいで記憶があまりないと聞いた時は、ホッとしたよ。さっきも言ったけれど、彼女のことは嫌いじゃなかったから。でも、それも時間の問題だった。彼女は思い出すかもしれない。あの夜、僕が何をしていたのか」
だから、思い出す前に決着をつけようとしたのだと、ライリーは言った。
それが今日この日、リリーに対してやろうとしていたことなのだろう。
とはいえ、実際モリーが全てを見て理解していたかどうかは定かでないと、サイラスは思った。
ネズミが苦手なことは、モリーから聞き出して得た情報なのだろうが、万が一、ネズミもユリの花もモリーが目撃していたのだとして、それがリリーへの脅しだと気付いたとは思えない。
「そういえば、エイミー嬢にも悪いことをしてしまったかな。まあ、彼女の場合は、サイラスに付き纏っていたし、自業自得かもしれないけれど」
「まさか、エイミーにまで何かしたのか?」
「六年前、彼女、隣国に押しかけて来たろ?君を追って。だから、公爵夫人の見舞いを装って、毒の実を食べさせるように仕向けたんだ。ああ、そんなに怒らないでよ、サイラス。別に彼女が本当にやるとは微塵も考えていなかった。彼女にそんな度胸はないよ。ただ、君なら後で絶対に考えると思った。夫人を害そうとした人間がいること、そしてそれが誰なのか」
あの時期、それができたのはリリーかエイミーである。
とはいえ、ライリーが言ったように、エイミーにはそういうことができる程の教養も心の強さもなかった。
残されたのは、リリーだけ。
実際には、ヴェロニカの死後、隣国へとやって来たリリーに犯行は不可能なのだが、その辺りのことはあまり頓着していないらしい。
リリーの前夫は亡くなっている。
今なお、自殺に見せかけてリリーが殺したのではないかと噂が飛び交う程に、不審な死に方で、だ。
疑おうと思えばいくらでもできる。
「あの女が夫人を殺そうとしてエイミーを操った、あるいは彼女自身が殺そうとしてやった。どちらでもいい。君の周りに殺人を犯すような人間がいるとわかってくれれば。でも、君は気付かなかったね。僕としては計算が狂っちゃって残念だったけれど、今となっては、これはこれで良かったのかもしれない」
「どういうことだ。まさか、また何かやったのか」
「していないよ。僕は、ね」
「それは一体……」
「どういう意味だ」
そう詰め寄ろうとしたまさにその時。
遠くの方で、銃声が響いた。
サイラスは思わず音のした方向を仰ぎ見た。
ーースケート場の方ではないな。もう少し奥の辺りか。
「行かなくていいの、サイラス?間に合わなくなっちゃうよ」
返事はしなかった。
含み笑いをするライリーに鋭い一瞥をくれてやって、走り出す。
ライリーのことは近くに待機している警察に任せればいい。
サイラスは矢の如く駆け抜けた。
産毛が逆立つような、何かとてつもなく嫌な予感がして。
冬だというのに、サイラスは冷や汗が止まらなかった。




