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心臓の鼓動が速い。
自身が緊張していることを、リリーは痛いほど感じていた。
モリーから手紙が届いたのは、一週間ほど前のこと。
会いたいと添えられたその手紙に、嬉しく思う反面、不安を感じたのは、ここ最近のモリーがリリーを避けている風だったからだ。
仮面舞踏会で襲われて以来、モリーは屋敷に篭りがちで、見舞いは全て断られた。
最初こそ、襲われたショックで人前に出たくないのだろうかと思ったが、フレデリックとは普通に会って話をしたらしいと知って、拒絶されているのはリリーだけのように感じられた。
それが急に会いたいというのは、どういう心境の変化だろうか。
モリーの屋敷で、リリーは立ったり座ったりを繰り返しながら、ただひたすらそんなことを考えていた。
「リリー」
か細い声で呼ばれ、リリーはハッと顔を上げた。
モリーだった。
久しぶりに見た彼女は、明らかに疲弊した様子で、以前よりも一回り痩せたようだった。
リリーは悩んでいたことも忘れ、駆け寄った。
「ベッドから起き上がっても大丈夫なの?さあ、掴まって」
フラフラしているモリーを支えながら、座椅子まで連れて行く。
大人しくされるがままに、モリーは座り込んだ。
「あなた、まだ本調子じゃないみたいね。今日は会えて嬉しかったけれど、わたしはもうお暇するわ」
「待って。大丈夫だから。だから……行かないで」
縋り付くようにギュッと手を握られ、リリーは逡巡した。
モリーはこう言うけれど、明らかに無理をさせるのは良くない。
が、モリーの頼みを無下にすることもしたくなかった。
「わかったわ。ここに居る。でも、限界ならすぐに言ってね。約束よ?」
モリーが頷いたので、リリーは近くの椅子を引き寄せて腰を下ろした。
それに安心したのか、モリーは掴んだリリーの手を離し、ギュッと両手を握りしめた。
しばらく沈黙が続く。
お互いに何から切り出せば良いのかわからない。
その静寂を破ったのは、モリーだった。
「リリー、あのね、わたし……あなたに謝らなきゃいけないことがあるの。聞いてくれる?」
「ええ、もちろんよ」
請け合うと、モリーはゆっくりとだが話し始めた。
「最近のわたし、感じが悪かったわよね。せっかく見舞いに来たいと言ってくれていたのに、何度も断ってごめんなさい」
「それはいいのよ。わたしの方こそ、配慮が足りなかったわ。あなたの体調がこんなに悪いなんて思わなくて……しつこく手紙を出してごめんなさい」
「違うの。怪我の方はもう大分良くなったの。見舞いを断ったのは……あなたに会いたくなかっただけなのよ。わたし、あなたに嫉妬していたから」
「え?嫉妬?そ、それは……」
「あなたは悪くないの。悪いのは、わたし。わたしが勝手に嫉妬して、勝手にあなたのことを避けていただけ。本当にごめんなさい」
頭を下げるモリーに「それは、もういいの」と首を振りながら、でも、思い切ってリリーは尋ねた。
「理由を、訊いてもいいかしら?」
「ええ……今日はそのことも話そうと思っていたの。わたしの恋人のこと、リリーにはきちんと紹介していなかったわね」
「結構、前から付き合っていた彼のこと?その人と関係があるの?」
「そう、彼ね、あなたに気があるのよ」
「え?!」
「本当はわかっていたの。彼、あなたのことばかり聞いてくるから。出会った時からそう。最初の会話のきっかけもね、あなたの話だった」
「で、でも、あなたたちは好き合って……」
「わたしは好きだった。でも、彼は違う。最初からあなたのことが気になっていたんだと思う。わたし、バカだから、そのことに気付かない振りをしていたのよ。彼はあなたが目的で、わたしに近付いただけだって」
「本当にバカよね」と自嘲気味に笑うモリーに、リリーはどう言ってあげればいいのか、わからなかった。
下手に擁護したくなかったし、慰めのことばも何か違う気がしたのだ。
口を開けては閉める。
そんなリリーに気付いているのかいないのか、モリーは続けた。
「気付かない振りをしていたことに気付いたのはね、あの日……舞踏会があった日のことだった。わたし、彼に別れを切り出されたの。他に好きな人がいるって言われて……しばらくは呆然としていたんだけれど、どうしても別れたくなくて、その後、彼を追いかけたのよ。彼は会場の外にいた。あなたの家の馬車の近くに立っていた。多分、あなたに想いを告げるつもりだったんだと思う。彼ね、ユリの花を持っていたわ。一瞬だけ雲間から月明かりが漏れて、それで見えたの。時期外れだったから、わざわざ用意したんだってわかって……あなたの名前と同じ花を渡して告白するんだと思ったら、わたし、悲しくて……。同時にあなたに酷く嫉妬している自分に気付いたの。あなたは悪くないのに、あなたが憎くて……憎いと思う自分にも失望して。わたし、もうぐちゃぐちゃになっちゃって、その場で眼鏡を外して泣いたわ。どうして、どうしてって何度も言いながら」
モリーは顔を覆った。
きっと、あの夜もモリーはこうして泣いたのだと思うと、胸が締め付けられた。
愛する人に裏切られる悲しみは、リリーにとっても馴染み深い感情だったから。
「その後のことは、襲われたということもあって、正直よく覚えていないの。でも、彼に別れを切り出されたことと、あなたにみっともなく嫉妬したことだけは頭から離れなかった。だから、どうしても会いたくなかったの。会う勇気がなかったんだと思う。だって、わたしは愛する人に裏切られたと同時に、大切な親友を裏切ってしまったんだから」
昔の自分と同じだと、リリーは思った。
モリーもまた自身に眠る汚い感情との向き合い方を知らない。
自己嫌悪に陥って、自身を責めるだけの苦しい悪循環から抜け出せないのだ。
言わなければならないと思った。
ただ一言。それで構わないのだと。
以前、リリーがサイラスに言われて救われたように。
リリーはモリーの細い肩に手を置いて、そっと抱き寄せた。
モリーの身体はビクリと揺れ、震えているのだとわかった。
が、安心させるように優しく背を撫でると、その震えはおさまったようだった。
「モリー、あなたは悪くないわ」
傷付いた時、思わず人を憎む気持ちが生まれるのは別に悪いことではない。
もちろん、それを理由に誰かを害するのはよくないことだけれど、モリーは別にリリーを逆恨みして悪事を働こうとしている訳ではないのだから。
「で、でも、わたし、あなたのこと……」
「モリーはずっとそのことで悩んでくれていたんでしょう?だったら、それは裏切りじゃないわ。実を言うとね、わたしもフレデリックに対して同じように憎んだことがあるの」
「……あなたが?あなたでも、人を憎むことがあるの?」
「そうよ。わたしも随分とそのことで自分を責め続けてきた。でもね、それでいいんだって、そう教えてもらったの。フレデリックともちゃんと話し合った。だから、今はこれでいいんだって思っている」
「……わたしも、そう思えるようになるかしら」
「ええ。わたしは別に気にしていないもの。あとは、モリーの気持ちの問題だわ。でも、避けられていたのは、やっぱりショックだったかな」
「ごめんなさい……」
「ううん、いいのよ。そのかわり、これからは何かあったらちゃんと話し合うようにしましょう。わたし、もう嫌だわ。あなたとギクシャクしたり、会えなくなったりするのは」
「わたしも嫌だわ。会えなくて、ずっと寂しかったもの」
「良かった。じゃあ、これからはわたしたちに隠し事はなしよ。約束ね?」
「ええ、わかったわ」
お互いおでこをコツンと合わせて、手を握り合う。
子どもの頃によくしていた誓いの儀式だ。
「実はね、今日あなたに会うって決めたのは、そのフレデリックに説得されたからなのよ」
「フレデリックに?」
「ええ、リリーとちゃんと会って話した方がいいって背中を押してくれたの。気持ちの整理をつける為にも、頑張って自分の想いを伝えた方がいいって。フレデリックったら、物凄く真剣な顔で言うのよ?ビックリしちゃった。何だか、彼、ちょっと変わったみたい。わたしも……わたしもいつか変われるかしら」
大丈夫よと、リリーは思った。
簡単ではないけれど、人は変われるのだ。
変わりたいと思う、もうその気持ちが一つの変化なのだから。
その後、しばらくは時間を惜しむように、会えなかった間のことを話し合った。
モリーはほぼほぼベッドの中で過ごしていたので、主に報告するのはリリーだったけれど。
「そういえば、これを返すのを忘れていたわ」
そう言って差し出されたのは、一枚のストールだった。
仮面舞踏会で、リリーがモリーに貸したものだ。
綺麗に洗って畳んでくれていることが、何だか嬉しくて仕方がない。
「長い間、借りっぱなしになってしまってごめんなさい」
「構わないわ。気にしないでちょうだい。あなたに似合っていたし、それに……そうだ。わたしもスッカリ忘れていたわ。これ」
「なあに?ブローチ?」
「ピーターが、モリーに渡してくれって。今日も一緒に来たかったみたいだけれど、あいにく仕事で」
「まあ、そうなの。残念だけれど、嬉しいわ。どうもありがとう。ピーターにも後でお礼状を書くわね。でも、何だか悪いわ。こんな高価そうなもの」
「別に気にする必要はないわ。それね、実家の方で特産品にする話があって、最近試作品として作っているものだから」
実家のモンゴメリーの領地は、元々貴族の避暑地として有名で、あまり特産物には力を注いでいなかった。
もちろん、水が豊富なのでワインはそこそこ売れているのだが、観光地とセットで考えてはいなかった。
それをサイラスの発案で、観光地の工芸品としてブローチ等の品物をお土産のような形で売り出してはどうかということになったのだ。
「試作とは思えないくらい、細工がとても凝っているのね。素敵だわ。大切にする」
「そう言ってくれて嬉しいわ。ピーターも喜ぶと思う」
元々、領民には手先が器用で職人気質な人間が多かった。
それが生産ラインと上手くハマったという訳なのだが、それを考えつくサイラスには、やはり商才があるのだろうと、リリーは思う。
「もしかして、さっき言っていた仕事っていうのも?」
「ええ、サイラスと二人、ブローチの具体的な売値を相談しているみたい」
「ピーターも頼もしくなったわね」
「本当に」
モリーにとっても、ピーターは昔からの付き合いなので、弟のように思ってくれているのだろう。
懐かしそうに、微笑んでいる。
「ねえ、モリー。これを聞いてもいいのかどうか迷ってしまうのだけれど、さっき約束したばかりだから思い切って尋ねるわね。嫌なら答えなくてもいいから」
「なあに?」
「あなたの、その、恋人だった人って誰なの?」
ずっと気になっていて、でも、いつか話してくれるだろうと思っていたから、今まで聞かずにいた。
が、あんな話を聞いてしまった以上、どうしても気になる。
モリーが愛し、傷付けられた人の正体が。
「……そうね。あなたは知っておいた方がいいかもしれないわね。隠していた訳ではないのだけれど、その、ちょっと複雑だったから」
「そういえば、前も言っていたわね。もしかして、訳ありな人なの?」
「訳ありというか、実は、伯爵の知り合いなのよ」
「伯爵って、サイラスのこと?」
コクリと頷くモリーに、リリーは驚いた。
サイラスの知り合いが、モリーの恋人だったとは。
世間は狭いというのは、こういう場面で使うのだろうか。
以前、恋人は歳下だと言っていたので、サイラスと同年か、あるいは更に歳下だということになる訳だが。
「わたしも知っている人?」
「どうかしら。わからないわ。彼は知っていたみたいだけれど……」
「ごめんなさい、デリカシーがなかったわね」
「ううん、大丈夫よ。いつまでも引きずってばかりいちゃダメだもの。だから、あなたには知っていて欲しい。彼の名前は……」
時を同じくして。
サイラスはピーターと向かい合っていた。
仕事は順調だった。
このままいけば、モンゴメリーの領地は以前のような活気を取り戻し、財政的にも潤うだろう。
罪滅ぼしのつもりで協力してきたが、元々サイラスは商売事が得意なので、純粋に楽しかったのもある。
何より、リリーやピーターの役に立てるのが嬉しかった。
リリーと同じピーターの茶色の巻き髪を見つめながら、そんなことを考えていると「そういえば」と言って、ピーターが立ち上がった。
「姉に渡していただきたいものがあるのですが」
「リリーに?」
「ええ。昔、よく姉が煎じて飲んでいたハーブなんですけど、姉に実家の庭から持って来て欲しいと頼まれていたんです。いくつか似たものがあったので探すのに苦労しましたが、知り合いに植物学者の方がいるので、その方に教えてもらいました。今、お持ちしても?」
サイラスが頷くと、ピーターは部屋を出て行った。
使用人に頼まず、自分で行く辺り、彼の性格を表しているなと思った。
「失礼いたします。よろしければいかがですか?」
「ん?ああ、紅茶か。頼むよ」
冷めた紅茶をさげ、新しいカップに紅茶を注いでくれる使用人を何の気なしに見つめていたサイラスは、ふと何の気無しに尋ねた。
「君は、侯爵に仕えるようになって長いのか?」と。
それに対し、執事風の使用人は丁寧に頷いた。
「はい。先代の頃よりお世話になっております」
先代というのは、リリーたちの両親のことだ。
明らかに古参の使用人である。
であればと思い、サイラスはさらに質問した。
「答え辛いかもしれないが、五年前のお茶会のことを聞いてもいいだろうか?」
リリーたちの両親が亡くなる前、お茶会で取り乱していた理由を、使用人なら見聞きしていたかもしれないと思っての問いだった。
が、不審に思われたのか、使用人は黙り込んでしまった。
困ったなと思った。
助け舟が出されたのは、そんな時だ。
「僕からも頼むよ。もし、何か知っているなら教えてくれないか」
ピーターだった。
帰ってきた彼は、小包を抱えたままだったが、構わず使用人に言った。
「伯爵は別に好奇心で尋ねているわけじゃない。姉さんのためなんだ。そうですよね」
「ああ」
サイラスが頷くと「それならば」と言って、使用人は話し出した。
「あまりお話できることはないかもしれませんが、何でもお尋ねください」
「ありがとう。じゃあ、お茶会で夫人が急に取り乱し始めたと聞いたんだが、その理由に心当たりはないだろうか」
「わたくしは給仕のために、近くに控えておりましたが、夫人はお客様と戯曲についてお話になっていただけですので、よくわかりません」
「誰と話していたかわかるかな」
「地元の貴族のパーマー様でいらっしゃいます」
「え」
驚いたのは、サイラスではなくピーターだった。
「先ほど言った植物学者の方ですよ。このハーブについて教えてくれた」
中にハーブが入っているのだろう。
ピーターは、小包を差し出した。
「つまり、そのパーマー博士と戯曲について話していた時に、夫人は急に様子が変になったと」
「はい、間違いありません」
確か、以前ギブソン夫人に聞いた話では、戯曲というのは『王国の悲劇』のことで、花を渡すシーンについて二人は話し合っていたというが……。
「もう一つ、聞いてもいいかな」
「はい」
「七年前、リリーに対する脅迫文めいたものがモンゴメリーの領地の屋敷に届いていなかったかな。例えば、赤いユリの花とか」
訝しむピーターとは違い、使用人はハッとしたように肩を揺らした。
「何か心当たりがあるみたいだな」
「そうなのか?」
サイラスとピーターに尋ねられ、咄嗟に使用人は困ったように俯いた。
が、ややあって、決意したように顔を上げた。
「おっしゃる通りです。七年前から、赤いユリの花と"人殺し"と書かれた手紙が、毎年夏頃になると届くようになりました。このことは、わたくししか知りません。先代たちより他言しないよう申しつけられておりましたので、ずっと黙っていました。申し訳ありません」
つまり、使用人はジョージとアリシアに口止めされていたという訳か。
無理もない。
不気味なことに変わりないとはいえ、実害があった訳ではないのだから、世間体を考えた末の結果だろう。
リリーやピーターに怖い思いをさせたくないという親心もあったはずだ。
それはピーターも感じたらしい。
「謝る必要はないよ」と使用人の肩をそっと叩いた。
「でも、驚きました。まさか、姉さんがそんな前から脅されていたなんて。やはり、亡くなったドーソン伯爵の件でしょうか」
サイラスは頷いた。
リリーの前夫であるドーソン伯ジェイソン・キャトリーが亡くなった事件は、当時からその死因について様々な憶測が流れていた。
リリーのせいで亡くなったという噂もまことしやかにあったが……。
そもそも人の感情なんて予想不可能な部分が多い。
恨まれる要素はいくらでもあった。
ーーだが、おかげでわかったこともある。脅迫は五年前ではなく、七年前からすでに始まっていたということだ。
が、気になるのはやはり時期だろう。
なぜ、夏"頃"なのか。
ジェイソンが亡くなったのは八月だが、命日の十日に合わせた方が脅迫としては意味が立つはずだ。
ここ最近になって、急に脅しが活発になったこともよくわからない。
しかも、ただ脅すだけで実害がないというのが気になった。
いや、そもそも意味なんてないのだろうかと考え、首を振る。
今一番、大切なのはそこではなかった。
一日も早く犯人を特定し、リリーの身の安全を確保する、それがサイラスのするべき最優先事項だった。
ーーリリーを守る。彼女の幸せのために。
サイラスは決意を新たにした。




