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リリーはドレスに腕を通しながら、満足気に頷いた。
リリーが着ても決して浮いて見えない絶妙なラインのスカートに、上品な色彩を織り交ぜているドレスは、リリーのお気に入りだった。
張り切って支度を手伝ってくれたレイチェルにも「素敵です」と褒められ、リリーは何だか自分の手柄のような誇らしい気持ちになった。
このドレス、実はシルビアがリリーのために手作りしてくれたものである。
彼女の腕は趣味の域を超え、もはやプロフェッショナルのそれだと、リリーは思う。
自分のことのように嬉しいのは、その為だ。
もう一度、全身を改め、意味もなく頷いたリリーは、階下へと降りて行った。
「おまたせ」
声を掛けると、壁に寄りかかって待っていたサイラスがゆっくりと振り返った。
少し目を細めて、サイラスは微笑む。
「綺麗だね。よく似合っている」
手放しで褒められ、リリーは照れ隠しのように「お友だちが作ってくれたドレスなのよ」と説明した。
すると、サイラスは感心した風に頷いた。
「ということは、プロのデザイナーの作品じゃないんだね」
「ええ。でも、とっても素敵でしょう?手作りとは思えないくらい。趣味が高じて、わたしにも作ってくれたのよ」
「それは勿体ないな。こんなに才能があるのに、趣味として終わらせるなんて」
「わたしもそう思うわ」
「……もし良ければ」
サイラスは少し考えてから切り出した。
「その友人に、出資するからデザイナーにならないか聞いてみてくれないか?」
リリーは、ハッとしてサイラスを仰ぎ見た。
シルビアの夢はデザイナーになること。
サイラスがパトロンになってくれれば、それが叶う。
しかし、シルビアの性格からして、あまり目立つことは嫌いそうだ。
リリーはサイラスの顔色を伺うように聞いた。
「……その提案は、相手が誰でも変わらない?」
「うーん、さすがに犯罪者は困るが、立場的なことを言っているなら出自は関係ないよ。基本的に、老若男女問わず才能さえあれば、わたしは構わないと思っている。もし、あまり表に出たくないと言うなら、代理人を立てればいいしね」
リリーは、思わず安堵した。
少なくとも女性や貴族だからという理由で、援助を断られることはないのだと悟って。
チャンスを掴むかどうかはシルビアの決意次第だが、選択肢があるのに越したことはない。
しかも、シルビアが断ったところで、サイラスが腹を立てるとも思えない。
理由を話せば、デザイナーの詳細についても秘してくれるようだし、その方がむしろ覆面デザイナーとして話題になりそうだ。
「もしかして、君がわざわざ聞くということは、このドレスはレディー・シルビアが作ったものなのかな」
「まあ、よくわかったわね」
「以前、あの姉妹と会った時に手作りのドレスを着ていただろう?レディー・シルビアが作ったと聞いて驚いたから、よく覚えているよ」
そういえば、サイラスはあの時、随分と感心しているようだった。
援助の件は、その時から考えていたことなのかもしれない。
「あの時のドレスと今夜の君のドレスは、何となく丁寧な作りが似ているから、ピンときたんだ。どちらも着る人の良さを最大限に活かすデザインだと思う。その才能と情熱は、なかなかお目にかかれない。だからこそ、わたしはデザイナーとして大成するよう援助したいと思っているんだ。本人さえ良ければだけれど」
「あなたがそこまで評価していると知ったら、シルビアも喜ぶと思うわ。決めるのは彼女だけれど、デザイナーの件、聞いてみる。それでいい?」
「ああ、頼むよ」
微笑むサイラスを見つめながら、リリーは思った。
彼はもしかすると、こういった商談事が好きなのかもしれないと。
土壁の時だって商売が軌道に乗ったのは、結局のところ、サイラスの手腕が大きいのだ。
領地が潤っているのも、そもそもは彼の商いの才能ゆえだと考えると、何だか妙に納得してしまう自分がいる。
そんなサイラスに認められたシルビアには、やはり天賦の才があるのだろうと、リリーが考えていると。
「旦那様、奥様」
使用人の一人が困ったように近付いて来た。
どうかしたのかと尋ねれば、出発までもう少し待って欲しいと言う。
まだ時間的に余裕があったので、リリーたちはすぐに了承した。
お礼を言ってから、忙しそうに立ち去る使用人の背中を見つめながら、リリーはサイラスに尋ねた。
「今日は何だか皆バタバタしているわね」
これから、リリーたちは夜会に行く予定だった。
いつもだったら、すぐに使用人が送り出してくれるので、今夜は大変珍しい状況だと思う。
何かあったのだろうか。
「どうやらネズミ騒ぎがあったらしいんだ。倉庫にネズミが出て……」
「ネズミ!?」
リリーは思わず声を上げた。
上擦った声音に、サイラスもやや驚いている。
「リリー?どうしたんだ?顔が真っ青だよ」
「わ、わたし、ネズミが苦手なの」
親しい人しか知らないのだが、リリーは幼い頃
ネズミの死骸を見てからというもの、ネズミがとかく怖いのだ。
おそらくキツネや鷹などに襲われたのだろうが、子どもが目の当たりにするには、あの死骸はかなり刺激的な状態で、それ以来、リリーはネズミと聞くだけでビクビクしてしまうのだった。
そんなリリーに、サイラスは優しく「大丈夫だよ」と請け合った。
「エルバートによると、もう駆除は終わったらしい。だから安心して」
「え、ええ……」
「とりあえず、椅子にでも腰掛けるといい」
「そうね」と頷き、手近な椅子に座り込んだ。
冷や汗が出ていることに気付き、外したグローブでパタパタと仰ぐ。
それからしばらくして、リリーが少し落ち着きを取り戻した頃、執事のエルバートが顔を見せた。
出発時刻ピッタリだったが、エルバートは申し訳なさそうな顔で謝った。
「お待たせしてしまい申し訳ありません」
「構わないよ。古い建物だからね。例え、王や首相であったとしてもネズミには悩まされると言うじゃないか」
「全くもって遺憾な事です」
「こうなったら、猫でも雇おうか。給金はそうだなぁ、活きのいい魚でも……って、エルバート、何、真剣に悩んでいるんだよ。冗談だから真に受けるなって」
サイラスがわざと明るく言ってくれていることがわかって、リリーは微笑した。
不安な気持ちも収まってくる。
リリーがそっと立ち上がると、一番に気付いたサイラスがさりげなく肘を差し出した。
心得たようにリリーが手を添えると、サイラスも微笑む。
「さあ、行こう」
完璧なエスコートで、リリーたちは屋敷を後にした。
困ったことになったわと、リリーは思った。
夜会に着いた時、グローブを忘れて来たことに気が付いたのだ。
おそらく、椅子に座った時に外したまま置いて来てしまったのだろう。
腕を大きく晒すことに抵抗もあったが、このドレスはグローブありきでデザインされているので、せっかくのシルビアの完璧なドレスが台無しになってしまうような気がした。
それでも今から取りに戻る時間はないので諦めていたのだが、しばらくして、夜会会場の使用人の一人に、屋敷の人間が来ていると耳打ちされたリリーは驚いた。
案内されるまま、空いている客間に通されて、さらに驚く。
「レイチェル?ここで何をしているの?」
まさか、夜会会場にメイドのレイチェルが居るとは思わず、瞳を瞬かせると、レイチェルはニッコリと微笑んで言った。
「グローブを届けに参りました」
「まぁ、あなたが?それは、どうもありがとう。でも、なぜ、あなたがわざわざ?」
「当然じゃないですか。奥様の身支度を完璧にするのは、わたしにとって最大の仕事です」
グローブを腕に通すだけなので身支度も何もないのだが、レイチェルには何やらこだわりがあるらしい。
せっせとグローブの位置を調整している。
「これで完璧です」
レイチェルがそう満足気に頷いた時。
おもむろに客間の扉が開いた。
と同時に、中年の身なりの良さそうな男性が千鳥足で入ってくる。
「んん?君たち、は、いったい、誰、かね?」
呂律が回っていない。
完全に酔っ払っているようだ。
目を細め、リリーたちをジロジロと舐めるように見ながら近付いて来る。
リリーは平静を装って言った。
「ただの客人の一人ですわ。それよりも、ミスター。随分と、体調が悪いご様子ですわね。お水を持って来させますわ。さあ、レイチェル、行きましょう」
レイチェルを伴って部屋を出ようとした時、男性は何かに気付いたように言った。
「も、しかして、あの、ふしだらリリー嬢、か?」
「奥様に対して、なんて失礼な!」
間髪を入れず、リリーへの誹謗中傷は一切許しませんとばかりに、レイチェルが叫ぶ。
が、それを遮ったのは他でもない、リリーであった。
「レイチェル、いいから」
「でも!」
「とにかく行きましょう」
そう促した時、こちらににじり寄っていた男性が足をもつれさせたのが見えた。
「あ」と思う間に、男性はその場に倒れ込む。
「だ、大丈夫ですか?」
尋ねるも応えはない。
打ち所が悪かったのか、それともただ寝てしまっただけなのか、男性は全く動かなくなった。
「まあ、大変!レイチェル、誰か呼んで来てちょうだい」
「奥様、こんな奴、放っておくべきです」
「そうはいかないわ。レイチェル、お願いだから……」
「早く行って」と続けようとした刹那。
「僕が手伝います」
そう言って、室内に入ってきたのは大人しそうな、でもどこか聡明な印象を与える青年だった。
どこかで会ったような気がすると思っている間に、青年は倒れている男性に近付いた。
「見たところ、ただ寝入っているようですが、何があったんですか?」
「酔っていらっしゃったようで、転倒してしまったんです。大丈夫でしょうか?」
「怪我はしていないようですが、動かさない方がいいかもしれません。気付け薬か何かを持って来ていただけるとありがたいのですが」
「レイチェル、お願い」
「……はい」
不承不承といった体で頷いたレイチェルを見送った後、リリーは青年に声を掛けた。
「夫を呼んで来ても構いませんか?」
へべれけに酔った貴族が夜会で倒れるというのは、下手をしたら名誉に関わる事件だった。
サイラスなら、こういう時の対応は心得ているだろう。
「お願いします。サイラスなら安心だ」
「夫をご存知なんですか?」
そう問おうとして、ようやくリリーは気が付いた。
彼が、サイラスの寄宿学校時代の後輩だったジャック・コリンズだということを。
そういえば、紹介された時、サイラスは彼が医者だと言っていた。
この手際の良さは、そのためだろう。
「さあ、早く」
「は、はい」
促され、リリーはサイラスを呼びに急いだのだった。
その後は、なかなかに骨が折れた。
結局、男性は特に怪我もないということで無事家に帰った。
サイラスが完璧に対応してくれたおかげで、変な噂が立つこともなく済んだ。
そう聞くと、特に問題ないように見える。
見えるのだが、リリーが頭を悩ましているのはレイチェルのことだった。
彼女はあの件以降、酔っ払った貴族男性についてずっと腹を立てている。
リリーを思ってのことなのでありがたい気持ちもあるのだが、レイチェルはリリーに対する非礼を謝らせたいと言って聞かなかった。
もちろん、後日あの男性からは謝罪されたのだが、酔っていたためリリーに対して何を言ったのかまでは覚えていなかったらしい。
男性からは、ただ醜態を晒し迷惑をかけたことだけ謝られた。
これでも随分、良い方だとリリーは思っている。
きっと、サイラスが上手く交渉してくれたのだろう。
リリーだけなら、逆に変な噂を立てられたり、下手をすれば男性に怪我をさせたとして訴えられていたかもしれない。
だからこそ、リリーとしてはこれ以上、大事にしたくなかった。
レイチェルにも、その旨は伝えてあったのだが……。
その夜会から数日後。
リリーはレイチェルを呼び出して言った。
「あなたを解雇します」と。