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リリーは、跪くサイラスの後ろ姿を見つめた。
フレデリックのことをあまり良くは思っていないだろうに、それでも間を取り持とうとしてくれる。
フレデリックとの友情を大切に思っているリリーを、彼なりに尊重してくれたのだろうと思った。
それに勇気付けられ、リリーはどこかぼんやりとした風のフレデリックに視線を向けた。
諦めたくなかった。
サイラスがくれたこのチャンスを。
リリーは祈るような気持ちで言った。
「フレデリック、お願いよ。あなたとこんな形で喧嘩別れしたくないの。だから、ちゃんと話をさせて」
やや間があって。
フレデリックは呟いた。
「わかった」と。
その後、リリーたちは二人で話し合った。
何だかんだで、フレデリックとの関係も長い。
しかし、思いの丈をぶつけ合うのは、実のところ初めてだった。
フレデリックは真剣な表情で、リリーの話を聞いてくれた。
リリーも彼の話をじっくり聞いた。
フレデリックが一つ一つに頭を下げてくれるから、リリーと同じように、お互いの友情を終わらせたくないと思ってくれているのだとわかった。
信じて良かったと思った。
諦めなくて本当に良かったと。
きっかけとなったのは、間違いなくサイラスのことばだ。
リリーだけでは、こんなに早くフレデリックの改心は実現しなかっただろう。
ーーありがとう。
リリーは、遠慮して退出したサイラスに、心の中でそっと呟いた。
心を込めて。
もう一度「ありがとう」と。
結局、フレデリックとは間違った依存関係から脱却する為にも、少し距離を置こうということになった。
リリーにはリリーなりの思いがあり、フレデリックにはフレデリックなりの思いがある。
その違いを尊重しようということになったのだ。
過去を受け入れて乗り越える時間には、個人差があっていいはずだから。
「本音を言うと、少し自信がないんだ。でも、僕なりに頑張るよ」
「信じてるわ」
「君にそう言われるのが、一番嬉しいよ」
そう言いながらも、フレデリックは何かに悩む様子で呟いた。
「ねえ、リリー。君には僕を罰する権利があると思うんだ」
「え?」
「君は優しいから、謝罪した僕を受け入れてくれるけれど、同性愛は……犯罪だ。昔は、それで牢屋に入れられた人もいる。僕はきっと病気なんだ」
今の時代、同性愛は精神的な病だと言われている。
電気ショックを与えるという過激な治療法まであるほどだ。
一般的に、異性以外を愛することは異常な心理として認識されていた。
治すべき罪咎だというのが、社会的認知の大半を占めている。
でも、とリリーは思った。
「人を愛するのに、正常も異常もないわ。あなたは別にジェイソンが男性だから好きになったわけじゃない。ただ、一人の人間として愛しただけよ。それは決しておかしなことじゃないわ。だから、あなたを精神病院に入れるようなことはしたくない」
フレデリックはもしかすると、そういう意味で罰せられたいのかもしれない。
しかし、彼はずっと苦しんでいたのだ。
愛する人を愛してはいけない世界で。
不倫という以前に、性別という壁に押しつぶされていたはずだから。
「でも……」
「いいのよ。本音を言うとね、あなたたちの関係を知った時は物凄くショックだったの。腹が立つというより、ただただ悲しくて。だから、ジェイソンの死後、あなたの思い出話を聞くのは、本当に辛かった」
「ごめん……君の優しさを利用して」
「ううん、違うの。わたしもあなたの弱さを利用していたのよ」
贖罪のために、善良な人間になりたかった。
夫の過ちに耐え忍び、裏切った友人を許し慰める。
それは、善行に違いないと思い込んでいた。
「ジェイソンの死後、わたしとしての存在を保つことができていたのは、きっとあなたのおかげでもあったのよ」
優しい自分を演じることで罪悪感から逃げ、自身の情緒を保っていた。
フレデリックだけが依存していたわけではない。
リリーこそ、フレデリックに依存していたのだ。
サイラスから言われるまで気付かなかった。
裏切られて怒ることは人間として当然の反応だと。
そのことにようやく気付くことができたから。
だからこそ。
「これからは、お互いに友だちになりましょう。依存し合うんじゃない、本当の意味で支え合うの。一緒に笑って、一緒に怒り合う、そんな当たり前の関係になりたいわ」
「それが君の望みなんだね」
「あなたの望みでもあって欲しいわ」
「僕はもちろん嬉しいよ……でも、僕にとって都合が良すぎないかな」
「そんなことないわ。わたし、これからは思ったことはきちんと言うもの。わがままだっていっぱい言うわ。もしかしたら、あなたを困らせるかもしれない」
「でも、それが友だちなんだね」
リリーは満足気に頷いた。
正直に言うと、素の自分を出していくのはまだ慣れない。
どうしても抑え込もうとする自分がいる。
でも、変わりたいと思った時、誓ったのだ。
変わった自分のその先の、そこにしかない幸せを掴みたいと。
「だから、あなたに裏切られたことを許すつもりはないわ。でも、許してあげる」
矛盾していると思う。
でも、それでいいのだ。
「それは、友だちだから?」
「わたしがそうしたいからよ」
リリーが真面目に言うと、フレデリックは困ったように、でもどこか羨ましそうに言った。
「リリー、君は本当に変わったんだね」
「あなたにそう言われるのが一番嬉しいわ」
先ほど、フレデリックに言われたことばを返すと、彼はどこか吹っ切れたように笑った。
ああ、ようやくフレデリックの笑顔を見たわと、リリーは思った。
七年前、フレデリックは人懐っこく笑う人だった。
万人受けする容姿で、性格も好かれやすい。
しかし、何となく女性のことが苦手なんだと、リリーは感じていた。
女性と話す時、フレデリックが若干構えるのを知っていたからだ。
だからこそ、リリーの前で屈託なく笑う様は、リリーへの信頼でもあり好意の現れだと思っていた。
それが、とても嬉しかった。
もう一人、弟ができたようで。
本当に嬉しかったのだ。
ジェイソンの死後、もう心から笑わなくなったフレデリックを見るのが辛かったのは、そのためだ。
「ねぇ、フレデリック」
不躾だと思いながらも、リリーは問うた。
ジェイソンのことを、まだ愛しているのかと。
どうしても聞かずにはいられなかった。
これは、フレデリックにとってとてもデリケートな質問だとわかっている。
わかっていてなお、聞かなければならないと思ったのは、リリーにとっても大切なことだったからだ。
リリーの問いに、フレデリックは俯いた。
やや間があって、小さく頷く。
肯定の意だ。
「ごめんなさい、責めているわけじゃないのよ。変わって欲しいと言ったけれど、もちろんすぐに乗り越えるのは無理だってわかっている。あなたには納得して次に進んで欲しいと思っているだけなの。だから……」
「今すぐじゃなくていいのよ」と、リリーは微笑みかけた。
それは、リリーがサイラスに言われて心救われたことばだった。
信じているから待つのだと。
もし、挫けそうな時は自分が支えるのだと。
サイラスは暗に言ってくれたも同然だった。
それが、どれほど嬉しかったことか。
リリー自身が一番よく理解していた。
「今は変わることより、変わりたいと思えるようになったことが大切なの。結果はおのずと付いてくるわ。わたしも支える。だから、一緒に頑張りましょう」
リリーが手を伸ばすと、フレデリックも傚った。
お互いに手を握る。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
「いいのよ、気にしないで。それに、これは他人の受け売りだから」
「もしかして……伯爵?」
「ええ、そうよ。よくわかったわね」
「さっきの伯爵を見ていればわかるよ。彼は……いい人だね。君を心から愛している」
リリーは思わず咳き込んだ。
「大丈夫?」
「え、ええ」
頷きながらも、リリーが視線を彷徨わせたからだろうか。
フレデリックは若干考え、でも思い切ったように言った。
「君は幸せになるべき人だ。だから、言うんだけれど……君は、伯爵を愛してはいないんだね」
なんて率直なんだろうと思った。
が、同時に鋭い。
事実、リリーはまだその答えを出していなかった。
「僕に対する感情と同じで、大切に想ってはいても異性としては好いていない。根本的にジェイソンへの気持ちとは違うんだ。そうだろう?」
「……わからないわ」
リリーは正直に答えた。
ジェイソンを愛したように、サイラスを愛しているかと問われて、すぐに頷くことはできない。
ジェイソンとサイラスは違う人間だし、そもそもリリーだって七年前の自分とは価値観が変わっている。
あの頃のジェイソンに対する淡い恋心と、今のサイラスとの関係を簡単に比較することはできなかった。
「夫婦なのに変よね。でも……」
それで構わないとサイラスは言ってくれた。
夫婦だからこそ、お互いを見つめ直す時間はたっぷりあるのだと。
「すれ違ったり誤解したり、今まで間違ってばかりのわたしたちだったから。少しでも、ちゃんとした人間になりたいと思っている。これからは、二人で考えて、一緒に話し合っていこうって決めたの。だから……だから、今はこれでいいんだわ。変な夫婦だけれど、それがわたしたちなんだと思うから」
「羨ましいな」
フレデリックはどこか眩しそうに目を細めた。
そうしていると、どこかジェイソンを彷彿とさせた。
今まで似たところはないと思っていた二人なのに。
リリーは、何だか不思議な気持ちになった。
「僕も、ジェイソンともっと話し合えば良かった。向き合えば良かったと、今なら思うよ。そうすれば、彼は今でも生きていたかもしれない」
「それは、わたしも同じよ」
リリーは、ジェイソンが亡くなって初めて彼の秘密を知った。
それはリリーが彼の表面的な部分しか見ていなかったからだ。
あの頃は、どこか結婚というものに憧れがあって、無意識に理想の夫という肩書をジェイソンに期待していた。
そのことに、ジェイソンは気付いていたのだろうか。
リリーの幻想に無理して付き合ってくれていたのだろうか。
ーーわたし以外の人と関係を持ち続けたのは、ジェイソンがそこに癒しを求めていたからなのかもしれないわ。彼はわたしといて、本当は苦しかったんじゃないかしら。
もちろん、答えなどわからない。
死人に口なしとは良く言ったものだ。
今となっては、誰もジェイソンの気持ちなど知りようがない。
だからこそ。
もう二度と同じ過ちを繰り返すことだけはしたくなかった。
サイラスと今後どうなるのかは、まだわからない。
ただ、後悔だけはしたくないと、リリーは思った。




