7
午前中は荷をほどき部屋を整えることに費やした。
といっても、それらはすべてメイド頭のアンがやってくれたので、リリーはただ簡単な指示を出すだけだったのだが。
リリーが持ち込んだ私物は少なかったので、小一時間ほどで部屋は綺麗に片付いた。
リリーが生活しやすいように整えられた一室は、しかし、どうにも冷たい印象のままで何となく落ち着かない。
住めば都というが、この部屋でリラックスすることは一生ないように思えた。
午後からは、エルバートに頼んで屋敷の使用人たちを紹介してもらった。
仕事が忙しそうだったので迷惑かとも思ったが、エルバートは構わないと言ってくれた。
リリーとしては簡単な顔合わせでよかったのだが、エルバートが使用人全員をホールに集めて長々と紹介が始まった時には正直、驚いた。
が、彼なりの配慮だろうと思うことにした。
本来であれば、新しい妻の紹介は夫であるサイラスに頼むのが道理であったが、避けられているとわかっていたので、リリーなりに忖度してエルバートに頼んだのだ。
普通、妻は夫に代わって家を執り仕切らなければならない。
リリーは、こう見えてそういった素養が備わっていた。
あそび好きで、家のことに無頓着なジェイソンとの結婚生活で培われたスキルである。
というわけで、リリーは一日でも早くこの屋敷のこと、ひいては仕えてくれている使用人たちのことを知りたいと考えていた。
もちろん、これはリリーの一方的な思いであり、サイラスや使用人たちが同じようにリリーのことを知りたいと思っているわけではない。
その証拠に、サイラスはずっとあんな態度だし、使用人たちに至っては今リリーと対面しながらも気付かれない程度にお互い目配せし合っていた。
面倒だと、その視線がありありと語っている。
リリーは内心で苦笑しながら、使用人たちとの顔合わせを終わらせたのだった。
夕方になり、リリーは古い詩集を持ってマクファーレン家自慢の庭へと向かった。
さすがに少し気疲れしていたので、夕食までリラックスしたかったのである。
リリーはカウチに腰かけ、詩集の背表紙を撫でた。
夫婦や恋人たちの愛を綴ったものが多く載せられているこの詩集は、亡きジェイソンから貰った思い出の品だった。
あれは、まだ結婚して間もない頃。
ジェイソンが何の気なしに、リリーにこの古い詩集をくれたことがあった。
本当はあまりこういった詩は読まないのだが、リリーは素直に喜んだ。
ジェイソンからプレゼントしてもらえたことが、単純に嬉しかったのである。
「大切にするわ。どうもありがとう」
そのことば通り、リリーは大切に扱いながら擦り切れるほど、その詩集を読んだ。
古いものなので、破れないよう細心の注意を払った。
リリーが特に気に入ったのは、家族の愛を綴った短い詩だった。
"息子の声がする。陽だまりのようにあたたかい笑い声だ。リチャードと呼びかけられて、わたしは振り返る。妻の甘い声が、息子のそれと重なって、愛のハーモニーを奏でていた"
リリーは、その詩を心の中でそらんじた。
詩というより、日記のような一節である。
だが、とても心に響くあたたかい内容だと、リリーは思った。
一度、ジェイソンにその感想を伝えたことがあった。
彼はただ苦笑しただけだったけれど。
ーージェイソンは、もっと情熱的な詩が好きだったのよね。
身分や年齢差など、あらゆる障害をのり越えて愛を綴る恋人たちのことばを、ジェイソンは特に好んでいたように思う。
家族との穏やかな日常だけで満足するような人ではなかった。
やはり、わたしたちはどこまでも正反対な夫婦だったのだと、今さらながらに自覚してリリーは苦笑した。
半分ほど詩集を読み進めたところで、リリーは顔を上げた。
ここからだと、庭の様子がよく見渡せるのだが、庭師が洗濯中のメイドと談笑しているのが、ふと見えたのだ。
もしかすると、恋人同士なのかもしれない。
微笑ましい思いで見つめていたリリーは、しかし、次の瞬間、会話の中に自分の名前が登場して、かなり驚いた。
「まさか、旦那様があのレディ・リリーと結婚なさるとはなぁ。世の中、何があるかわからない。しかも、いきなりその奥様と顔合わせとは、今日は朝から緊張したよ」
「わたしたちだって忙しいのに迷惑だわ。使用人を全員呼ぶなんて時間がかかり過ぎちゃうもの。おかげで、仕事が終わらないわ。わたし、まだ休憩さえ取れていないんだから」
それは、申し訳ないことをしたなと、リリーは思った。
もうすぐ夕食時だというのに、彼女が未だに休憩できていないのは、ひどく可哀想だった。
だが、リリー本人が手伝うわけにはいかない。
かといって、他のメイドに彼女の分の仕事を割り当てることもできなかった。
ーー後で、みんなの仕事量を把握しておこう。
頭の中で、ひそかにメモを取る。
能力以上の仕事を任されているということはありえないだろうが、分量を見直す必要があるかもしれないと思ったのだ。
しかし、実を言うと、このメイドは今日に限らず、ちょくちょく休憩を取れていなかった。
お喋り好きで、手がおろそかになることが多い彼女は、任されている分の仕事が終わらないことが多々あったのである。
もちろん、そのことを知らないリリーは、ひたすら罪悪感に苛まれながら、そのメイドの様子を伺っていた。
そんなリリーの心中など構わず、メイドはさらに喋り続けた。
「それにしても、旦那様が心配だわ。奥様には、よくない噂があるし。まあ、すでに愛想つかされているみたいだけれど。ねえ、知ってる?昨夜なんて、すごかったんだから。旦那様が奥様を拒絶して、別々の部屋で過ごしたのよ」
「初夜なのにか?」
「ええ。わたし、呆れちゃったわ。奥様は相当嫌われているみたい」
「じゃあ、なんで旦那様は結婚したんだ?」
「夜会で、奥様が旦那様に無理やり迫ったのよ。それが噂になったんで、旦那様は責任を取って結婚を申し込んだの。聞いたところによると、奥様ったら、あんな顔して相当大胆なことをしたらしいわ。旦那様を押し倒して、そこにまたがった後、ズボンを……」
会話の内容がきわどいものになってきたところで、リリーは立ち上がった。
良くも悪くも、リリーは深窓の令嬢である。
一度結婚しているので、初心ではないのだが、どうもこういった下世話な話はするのも聞くのも苦手だった。
というわけで、リリーは逃げるようにその場を立ち去った。
他人からどう思われているか、十分わかってはいたものの、実際に己に対する評判の悪さを耳にして、心は傷付いていた。
しかしと、リリーは大きく首を振った。
ーーいつものことじゃない。気にしちゃだめよ。
使用人たちと関わる機会は、これから増えてくる。
その中で、リリーの人となりを知ってもらえればいい。
そうすれば、彼らの印象も変わるはずだ。
リリーは、自分の胸を押さながら呟いた。
「大丈夫。まだ大丈夫」と。
その夜、サイラスは帰ってきた。
しかし、出迎えたリリーの顔を見て、すぐにまた出かけてしまった。
遅くなるから待たなくていいと言い残して。
ーー話をする暇さえ与えてくれないのね。
リリーは、内心で落胆した。
背後で、使用人たちが眉をひそめているのを感じる。
リリーは努めて、なんでもない風を装うことしかできなかった。
その後、一人寂しく夕食の席につき、リリーは南瓜のスープを口に運びながら、考えていた。
ーー明日は、もっと早く起きてみよう。できれば、一緒に朝食を食べたいわ。
サイラスと少しでも話しがしたいという一心だった。
早起きは得意である。
苦にはならない。
というわけで、リリーは翌日、早朝に起きた。
使用人たちが、ようやく起き出すのと同時である。
メイドは呼ばず、ひとりで身支度を整えたリリーは、慎重に廊下の様子を伺った。
しばらくして、エルバートの声が聞こえてくる。
「旦那様、おはようございます。今日は、また一段とお早いお目覚めでございますね」
何となく咎めるような言い方だったので、一瞬皮肉かと思ったが、どうやら違ったらしい。
サイラスが特に反応しなかったからだ。
この主従は、リリーが思っている以上に気がおけない関係らしい。
そのことに驚きつつ、リリーは廊下に出た。
「あら、おはようございます」
たまたま早く起きてしまったように装いながら、サイラスたちに近付く。
そんなリリーに対し、サイラスは苦虫を噛み潰したような表情で、ただ「ああ……」とだけ言った。
エルバートだけは、礼儀正しく挨拶を返してくれたものの、すぐに「仕事に戻ります」と言って、その場を立ち去ってしまった。
図らずも、サイラスと二人きりである。
知らず、緊張感が増したが、リリーはそれをはねのけるようにサイラスに話しかけた。
「せっかくですから、朝食をご一緒しませんか?」
少しでも、打ち解ける機会がほしくて言ったのだが、サイラスはぞんざいに首を振った。
「仕事が忙しいんだ。もう行く」
サイラスが今にも立ち去りそうな雰囲気だったので、リリーは焦った。
せっかくのチャンスだ。
何とか約束を取り付けたい。
リリーは矢継ぎ早に提案した。
「では、帰ってきてからで構いませんのでお話しましょう。わたくし、夕食を準備して待っています」
サイラスは答えなかった。
ちらっとリリーを見て、どうでも良さそうに頷いただけだったが、リリーはそれでも満足だった。
話す機会が得られたのだから、今はそれでいい。
ーー一歩前進だわ。
リリーは、微笑みながら、サイラスの後ろ姿を見送った。
頭の中は、今夜のディナーの献立のことでいっぱいだった。
辛抱強く、リリーは待っていた。
しかし、夕方になり、夜になっても、サイラスは一向に帰ってこない。
サイラスの好みをエルバートに聞き出し、料理人に特別に用意してもらった食事は、すでに冷えきっていた。
リリーはむなしい思いで、それらを見つめた。
料理人や給仕係には、すでに休んでもらっている。
調理場は文字通り、火が消えたような静けさだった。
リリーは結局、夕食を食べていない。
これはサイラスのために用意してもらった食事だからだ。
サイラスが突然帰ってくる可能性もあるので、連絡がない限り、勝手にリリーだけで食べるわけにはいかないと思った。
というわけで、リリーはひたすら待ち続けている。
サイラス本人が帰ってくるか、何かしらの連絡があるまで、待つつもりだった。
それに、万が一ということもある。
サイラスが不慮の事故で怪我をしているかもしれないと思うと、リリーは急に不安になった。
思い出すのは、前夫のジェイソンのことだ。
ジェイソンは何の予兆もなく、リリーを一人残して逝ってしまったではないか。
それは、リリーにとってトラウマだった。
だから、待つのだ。
たとえ、サイラスがリリーとの約束を忘れていただけなのだとしても構わない。
むしろ、その方がまだマシだと思った。
そんな不安な時間が、どれほど過ぎた頃だろうか。
エルバートがやや困ったように、リリーの前に現れた。
「先ほど、旦那様は急用で帰りが遅くなるとご連絡がありました。夕食をご一緒できず、申し訳ないとのことでした」
もちろん、それが嘘であることをリリーは察していた。
連絡があったのは本当だろうが、おそらく、サイラスは申し訳ないとは思っていまい。
捨てられた仔犬のように、従順にサイラスを待ち続けるリリーを、エルバートが不憫に思って、そう付け足したのだろうと思われた。
だから、リリーは微笑んだ。
「エルバート、どうもありがとう」
エルバートは何も言わなかった。
ただ深く頭を下げただけだったが、リリーはそれでいいと思った。
リリーは、ゆっくりと立ち上がった。
すでに食欲など失せていたので、食事の片付けを頼み、そのまま部屋へと引っ込む。
扉を閉めて、リリーは大きく息を吐いた。
ディナーが無駄になってしまったので、腕によりをかけて作ってくれた料理人たちに胸中で謝罪する。
もったいないことをしてしまったと思いながらも、しかし、その表情にはどこか安堵の色があった。
サイラスが無事だったことに、胸をなでおろしていたのだ。
「生きてさえいてくれれば、それでいいわ。またやり直せる機会があるもの。そうよ、生きてさえいてくれれば……」
大丈夫。
その呟きは誰の耳にも届かず、ただ虚しく部屋に響いた。